愛しいあなたが必要だから
学校の昼休み。生徒達は各々で休息を楽しんでいた。その中で少年、誠治は、男子同級生と世間話をしていた。話も終わり近付いた時、同級生が誠治に呼び掛ける。
「証明問題は大変だよなあ、誠治」
「うん、同じく苦手だ」
「でさ、誠治誠治」
「何?」
会話する同級生が話題を変えた。同級生は、目で誠治に視線の向きを向くように訴え掛ける。
それに察した誠治も、視線でその後を追った。視線の先には談話に興じる女子グループ。――その内の、席に座っている美少女だと、少年は気付いた。
「可愛いよな~~、咲華さん」
「……そうだね」
甘い声で見とれる同級生に対し、誠治は棒読み気味で応えた。誠治の興味の無さそうな態度だが、同級生は依然として咲華少女に見惚れ続ける。
「スタイルはムチムチで抜群に良いし、頭も良くて運動神経も良い。何より男女共にフレンドリー。ついでに生徒会役員。良いよなー、お付き合いしたいぜ。あーおっぱいデケェ」
「……願望なんだ」
同級生の言い放つ、堂々とした率直で不純な感想に、誠治は呆れることしか出来ない。それでも話を打ち切らないようにと、最低限の会話を務める。
「いやさ、何でもさ。告白されまくってるそうだぜ? 咲華さんも、俺達と同じまだ1年。同年代から上の代からって広いのに、片っ端からフってるんだとか。まだそういうのは、自分には早いって。
野球部のエースも、サッカー部のイケメンも、演劇部と吹奏楽部の宝塚女子もフッてる」
「――百合ってリアルにいるんだな」
「まあそんなことはどうでも良いんだよ。いやー、俺達には高嶺の花だよな~……そういえば、咲華さんって、1人暮らしって噂だぜ? お前と一緒だな」
1人暮らし。同級生の一言に、聞いた誠治は声が強張った。
「――へぇ~、そうなんだ……」
「ってことは、家事は1人でやってるってことだ。弁当は手作りだし……――あぁ~、本当に、どんな男ならあの子と付き合えるんだよ……」
「はは……どうなんだろうね…………」
「彼女がいないお前は親が金持ちだから、それ狙った女だと思うぜ?」
「それは世知辛い……」
夕方。下校中、電車に揺られながら駅に到着した誠治は、ホームから出口へと続く階段を下り、改札口を出て自宅へと向かった。
駅から離れた、住宅街の一角にある5階建てマンション。
共同玄関の自動ドアを、鍵で開けて中へと入り、エレベーターで3階に到着した誠治は、303号室の扉の前へと向かう。
鍵穴に鍵を差し込み開錠すると、誠治は息を呑んで扉を開けた。
「――ただいま……」
「――お帰りなさーい♪」
1人暮らしでは聞こえる筈のない声。――若い女性の、嬉しさの混じった愛らしい声。誠治は靴を脱いでいると、声の主は、リビングの向こうから廊下を渡って来た。
「お帰りなさい、誠治さん」
「ただいま……咲華さん」
「もう、何言ってるんですか? 名前で言って下さい。私だって、安城さんて言ってないんですから。
うふふ、清奈って呼び捨てでも良いんですよ?」
「ああ……清奈……さん」
誠治の目の前に現れた、昼頃、同級生が願望の眼差しで見ていた相手、私服にエプロン姿の咲華清奈だった。気弱しく挨拶をする誠治に対し、清奈は笑みを浮かべ続けている。
「今日は遅かったですね。放課後は図書委員の仕事でしたよね?」
「あ、ああ。部活動や教材に使う本の納品と配備に手間取ってね。ごめんね」
「いいえ。夕飯をお待たせしなくて済みましたからね。それと、これからご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも――」
「あ……お風呂で」
「分かりました……」
清奈は、楽しそうに新妻のような振る舞いをしながら問い掛けるも、誠治は気乗りせず、静かに返答する。落ち込みながらも聞き受けた少女だったが、何かを思い出したかのように、誠治に近付く。
「……――ところで、誠治さん」
そう言った清奈は、誠治のすぐ目の前に立って少年の両手首を掴むと、自身よりも背が高い誠治の顔を見上げた。
「今日、他のクラスの女子の斎藤さんと仲良くお話ししている所を見ました。――あの女は、あなたに何を吹き込んだのですか?」
先程とは一変した、静かに、それ出ていてハリのある声で清奈は問い掛けた。誠治の手首を握る手の力も、それに合わせて一層強まる。
胸を押し付けながら見上げる清奈の瞳は、深淵の如く瞳孔を広っていた。それは今にも、誠治の首元に噛み付こうとする獣のように。
背筋を走る悪寒が脳髄に絡みつく。それでも、目を逸らしてはいけないと誠治は歯を食い縛って清奈の眼を見詰め続ける。畏縮し、今にも逃げ出したいと本能が叫ぶも、誠治は震えた声で答えた。
「いや……その、今日は、納品があるって、朝に言ったじゃん? 一緒に図書室に入る本もあったから。その中に面白い本はあるかどうかの……話……で……」
腹の底から何とか振り絞った言葉。僅かな沈黙が両者を包み込むが、誠治の言葉を聞いた清奈は、目を見開いた冷たい顔付きから、花が咲いたような笑顔に表情を変えた。
「あら、そうでしたの。ごめんなさい。仲の良い姿を見て妬いちゃいました。もうお風呂は沸かしてありますので、もう入りますか?」
「あ、ああ。着替えてから入るよ」
「直接向かっては? 鞄を受け取ります。制服は入れ物の中に入れて置いて下さい。後で片付けて着替えを入れておきます」
「そう……ありがとう……」
入浴と夕食を済ませた夜。部屋着に着替えた誠治と清奈の2人は、ベランダのガラス扉近くに置かれたソファーに座って、向かいにあるテレビゲームで対戦をしていた。液晶画面に、中央から二分して映し出される荒野の風景。その中央には、ロボットが次々と現れる敵機を倒していた。
「アハハ、誠治さん。もう100機も差が開いてますよ?」
「ちょ! 待って!!」
悠々と静かにコントローラーの操作をしている清奈に対し、誠治は焦りからか、キャラクターを操作するボタン入力の力が強った。
「もう、本当におかしいッ……! フフフッ」
「ヤバいヤバいッ」
慌てながら清奈のスコアに必死に食らい付く誠治。その最中、誠治は横目で隣に座る少女に目を向けた。屈託ない笑顔を浮かべながら、ゲームで夢中に遊ぶ清奈。
その姿は、真に気を許せた相手にのみ見せられる、心の底からの感情なのだと、誠治は考えた。横目見る誠治の視線を、清奈は感じ取って振り向いた。
「あれ? どうしました?」
誠治から目線を逸らして照れる清奈。可愛らしいその仕草に和やかさを覚える少年は、少女に低い声で問い掛けた。問い掛けられた誠治は、逆に驚き、慌てふためきながら、返事の言葉を頭の中で探し出す。
「え、あ、いや……何でもない。楽しそうで何よりだからさ。つい……見とれちゃって」
「も~恥ずかしいじゃないです~! 照れちゃいますっ。――はい、ブラストインパルスキャノン、発射」
「あっ!」
そうしている内に清奈は高威力、広範囲の武器で複数の敵を一掃し、撃墜数を増やした。その瞬間に戦闘は終了。結果は少女の勝ちに終わった。
「ふふ、勝っちゃいました♪」
「敵わないな……」
嬉しさの余りに、誠治の肩に頭を乗せて甘える清奈。一方の誠治は奮闘の反動からか、だらりと前屈みに座っていた。
少しの余韻に浸っていた両者。すると誠治が、控えめに佳那に声を掛けた。
「――その…………――こんな時にさ。言うのもアレなんだ」
「はい、どうしました?」
にこやかな笑顔で返事を待つ少女に、誠治は罪悪感を感じ、項垂れる。
「俺達……同棲生活始めて、半年だよね」
「ええ。そうなりますね」
「……やっぱり、おかしいよ。子供だけで、しかも俺と一緒に――」
言い切る誠治の口を、突如清奈は右手で口を掴んで塞ぎ、押し倒した。仰向けに顔を見上げさせられる形になった誠治が見た清奈の顔は、冷たい無表情だった。
背筋が一瞬で凍り畏縮する誠治に対し、清奈は顔を掴む右手を離して、そのまま少年の肌を優しく撫でて、人差し指を唇に当て、もう片方の手の人差し指を自身の唇に当てる。
「……しぃぃー」
呟くように、妖艶な笑みを想い人に向ける少女。しかしその目は笑っていない。少女は左手でリモコンを使ってテレビの電源を落とすと、清奈は覆い被さるように誠治の腹に腰掛ける。
静寂の中、誠治の上に、佳奈は身体を、胸を乗せて、陰を墜とした。
「……夜、ですね。――私達があったのも、夜。違うのは、冷え込んだ冬でしたね」
清奈は、カーテンの隙間から露わになったべランダのガラスを通して外を見た。その言葉を聞いて、誠治も当時の記憶がフラッシュバックする。
大企業の会長の三男として生まれた誠治は、兄達と違って賢い訳でも、身体が強い訳ではなかった。欠落している訳でもない平凡な人間だったが、優秀故に存在感のある兄達と比較される為に、劣った人間として見做された。
そんなある日、親子喧嘩をした誠治は家を飛び出した。途方に暮れながら散歩をしていた時、真夜中の公園でセーラー服姿の少女が1人、ブランコに寂しく座っているのを見掛けた。
暗くて顔は見えなかったものの、喧嘩でネガティブになっていた誠治は、何となく、近くの自販機で温かい緑茶を買って上げたのだ。それが清奈との出会いだった。
「私は、お母さんが早くに死んじゃいました。お父さんは町工場の社長で、仕事が忙しくて家に帰ってこなくて。世間なら中学生だと反抗期でお父さんを気持ち悪がるのに、私はお父さんと一緒にいたかったです。
料理も、父に褒めて欲しくて一生懸命覚えました。
だけど父は、仕事を成し遂げることと、生きる為のお金を稼ぐことしか頭になくて、私は父はとすれ違いになり、喧嘩して、家を飛び出しました」
誠治に馬乗りになる清奈は、黄昏るように夜景を見た。儚げに告げた少女の言葉に、誠治も過去の出来事を思い出す。
当時、名前を知らなかった清奈に緑茶をあげた誠治は、清奈の隣に座って、自分の分の緑茶を飲んでいた。すると清奈は、誠治に自分の境遇を話した。それを聞いた誠治も、自分が今、こうしている経緯を少女に告げた。
状況の差はあれど、両者共に、父親との望まざる不仲。互いに父親への願い、不満。
共感することもあれば、無いことも。でも互いに、相手の話をちゃんと聞いて上げていた。疲弊した心を抱く状態で、思いの内を全て吐き出せることは何よりも嬉しいことだった。
唯一無二の味方と言える存在に、2人はまた同じ時間、会う約束をした。
記憶に更ける誠治を、外を見ていた清奈が目線を戻す。その顔は、我が子をあやす母のような妖艶さを含んだ微笑みだった。
「あなたと私は、お互いに話し合って、仲良くなって。携帯電話を私は持っていなかったから、それから夜中に家を抜け出して、何度も何度も2人で会いに行きましたよね。寒い公園で、温かくした格好で世間話。家族、学校の愚痴。嬉しかったことや、面白いこと」
「……どっちかっていうと、愚痴が殆どだったよね」
「ふふっ! そうでしたねっ♪」
思わず吹き出して笑う清奈。一方の誠治も、突如垣間見た清奈の笑顔に、一瞬だけ気が解れた。
「学校に家族。納得出来ないことや嫌なこと。人に言ったら嫌われるようなこと言っても、聞いてくれましたよね」
「……俺もそうだったから……」
「会う時はいっつもお茶を買って来てくれましたよね」
「途中から、お金が勿体ないって君が水筒持って来るようになったよね。ついでに手作りお茶請け」
「あなたが洋梨のタルトが好きって言いましたから、作ってみただけですよ。
それで持って行ったら、あなたがあまりにも美味しそうに食べてくれるものですから、作るのが嬉しくて嬉しくて。
それに安いですから。500円ちょっとですもの」
「うう……」
何時の間にか、何もかも面倒を見られてしまってたことに、恥ずかしさと申し訳なさから、誠治は目線を逸らした。
「それからお互い話して気分が良くなって。余裕が出た私は、お父さんと話し合って、和解することが出来ました。誠治さんは……来なくなっちゃいましたね」
「流石にやり過ぎて怒られたからね……家から出させてくれなかったんだ」
「寂しかったんですよ?」
「うん……」
突然甘い声で言い出す佳那に、誠治は一瞬、心を奪われて狼狽えた。
「それから……嫌でしたね。それから少しして、お父さんは……自殺しました」
「…………」
清奈の声から、覇気が無くなった。誠治に馬乗りになる佳那はそのまま沈黙し、誠治も口を閉じて、記憶を思い出す。
ある日、誠治はやっとの思いで家を抜け出した。その頃は、父が社長を務める会社新商品の開発に成功した為に、父も直々に取引先へと営業に勤しんで、家にはあまりいなかった。母も兄達もいない状況が重なり、やっとの思いでの行動だった。
公園に行かない日々が長く続いた為に、彼女も公園に来ていないかもしれない。だが、それでも一縷の望みを胸に、暗い道路を走った。公園に辿り着いた誠治が見たものは、真っ暗な無人の公園だった。
彼女に会えない残念さと苛立ちが胸の内から湧き出ると、ふと、彼女が不意に自身の住所を口走ったことを思い出した。
流石に家にまで押し掛けるのは――罪悪感を感じる一方で、彼女に会いたいという思いが、本能のように語り掛けて足を進ませた。
電柱の住所や家の特徴を頼りに、街灯で照らすもまだ暗い道を進んでいく。朧気な記憶を頼りながらもの歩いて行くと、彼女の行っていた家に到着した。こじんまりとした小さい一軒家とそれよりも大きい町工場。
灯りも何もついていない家に疑惑を抱くも、彼女が不在だと思った誠治は踵を返した。
すると突如、家の方から何かが崩れる大きな音と劈く悲鳴が鳴り響いた。突如の出来事で、誠治は咄嗟に彼女の家に向かった。家の扉の鍵の掛かっていて入れなかったが、家の横にある奥へと続く道、半開きになった扉を見付けて乗り込んだ。
入ったのは町工場だった。
暗闇に慣れた目で建物の奥へ行くと、作業場と思われる場所に辿り着いた。高い場所にある窓から差し込む外の明かりの作業場で誠治が見たものは、右側にある斜めになった棚の前で、大量の金属製の小さな部品を撒き散らしながら被るように横たわる彼女だった。
誠治は彼女を抱き上げて呼び掛けるも返事はなかった。すると誠治は、自身の左側に気配を感じ取って振り返る。
目の前にあったのは、高い天井より下を走るレールに括り付けられたロープで首を吊る中年男と、足元に落ちる折り畳まれた紙だった。
その後、誠治は警察を呼んだ。その頃には、外に連れ出した彼女は目を覚ましていた。最初こそ情緒不安定だったが、傍に誠治がいると知ると何とか冷静となり、落ち着くまで誠治の身体をずっとしがみ付いてた。
それから時間をおいての取り調べで分かったのは、彼女の名前は咲華清奈という名前と、彼女の目の前で首を吊っていた男は、清奈の父親だったということだった。
誠治も彼女を抱き抱える傍ら、自身の立場と親の職業を警官に説明していると、それを聞いた清奈は目の色を変えて、縋った誠治を拒絶した。
その後、誠治は車で迎えに来た父に連れられて家に帰宅したのだった。
馬乗りになる清奈を見て、誠治は呟くように声を掛けた。
「君は……知っていたんだね? 俺の父さんのこと……」
「……父が悪い酔いして、愚痴を零したのを聞いてしまったんです」
「……俺はあの後、父さんを問い詰めたよ。紙に……書いてあったんだ。思い当たる節も、あったんだ」
佳那の家に向かう2ヶ月程前、誠治は自宅の応接室から聞こえる声を盗み聞きしていた。それは、1人の男が新しく、父の会社に入るということ。男は現在の職場の収入で苦しいので、父の会社に転職したということ。そして父は、男がこちら側に来るのを大いに喜んだということ。
それから1ヶ月後、父は部品の開発に成功して特許を取得した。
それを可能としたのは、清奈の父の死体の傍に落ちていた遺書から誠治は理解した。
遺書には、佳那の父の会社は経営不振だったとあふ。それは、特別な技術で作る特別な部品の開発の為だった。部品の開発は難航し、更には大手企業もライバルとなり、金銭面の問題もあって余裕はなかった。
清奈の父は開発に没頭した。開発の難航に会社の業績不振、給料の支払いもままらなくなって次々と離れる昔馴染みの職人達。そうしたことから募る苛立ちは、たった1人の家族である娘の清奈も蔑ろにする程だった。
しかし娘の献身的な振る舞いにより、両者は何とか和解出来た。
しかしその矢先、ライバルである大企業が先に部品の開発を成功させて特許を取得した。
噂では、給料未払いで自社を離れた技術者の1人がライバル社に迎え入れられたというのが耳に入った。だが、今となっては既に遅かった。
全ての努力が水の泡となってしまい、父は酒に溺れ、荒れ狂った。生きる気力を失い、苦しみからの解放を求め、自殺を決意した、と遺書にはあった。
遺書の最後は、こう締めくくられてた。
清奈、今までありがとう――その一文は、涙のような水滴で滲んで渇いていたのを、今でも誠治は覚えている。
遺書の書面を脳裏で思い浮かべる誠治の上に跨る清奈は、少年の肩を握る手を強めた。
「父の葬儀を行った何日か……雨の日、あなたは家を訪ねて来ましたね。入れたくなかったけど、あなたが必死に相手して欲しいというから入れたら、あなたが私に渡したのは、5億円の小切手。
あなたは言いましたよね? 5億円の示談金。これで、私の父の仕事に関わることを周りに言い触らさないように、と」
「…………ッ」
清奈の目に、光は無かった。見開いた目が放つ殺意に似た威圧は、差し掛かる影により一層圧力を強める。
その威圧に押された誠治は、蛇に似た蛙の如く畏縮してしまい、走馬灯のように過去を思い返してしまった。
小切手を持って来る前日、誠治は父を問い詰めた。父の行いで、このような惨事が起ったのかと。
しかし誠治の父親がしたことは、机の引き出しから紙の束を取り出し、そこにボールペンを走らせて書いた紙を1枚切り取って、息子に手渡しただけだった。
受け取るように指示された誠治は、困惑しながら手に取って確認した。5という字の後ろに、0が8個――5億円の小切手だった。それから父は息子に説明した。
自身の会社が部品の開発が出来たのは、給料未払いで会社を辞めた技術者をスカウトし、その技術者の知識と技術を獲得したことによるものだった。
ライバル社が町工場の技術者を得たことで、そこの工場長が自殺した。風評が広がれば、それは現在の事業に、会社の信用を与えかねない。
故に父は息子にいった。『その金は示談金だ。それで周囲に会社のことを聞かれても答えないようにしてくれ。彼女と仲が良い、お前にしか出来ないことだ』と――。
誠治は激昂した。小切手を投げ捨て、全身の力を込めて、父の左頬を右拳を殴った。勢い良く放たれた拳を、父は防御せずに受け止めた。
少年には許せなかった。金で解決することは保険でもそうだが、よくあることである。
それでも、彼女の苦しみが金でどうにか出来ると判断されたのが堪らなく許せなかった。しかも5億という大金も、今後の部品販売で元を取れる筈の額だからだ。彼女とその父を襲った悲劇は、その悲劇によって生じた金で解決されるというものだからだ。
父は息子に語り掛けた。感情で、正論でどうにもならないことも。今と明日の為にすべきことを。そして何よりも、何時も威厳とした目が、誠治に頼るように怯えたて震えたものに変わっていたことに誠治は気付いてしまった。
そして誠治は、佳那の家に訪れた。雨の日の夜、5億の示談金の小切手を持って――。
誠治がその日の夜を思い返していたのと同じタイミングで、清奈も同じことを考えたのだろう。少女の両手は誠治の首元にあった。
「あの日、私は許せなかった。お父さんが死んだことが、お金で済む扱いにされるのがッ。関係ないあなたでも! 許せなくて! 許せなくて!」
以前、小切手を受け取った時の清奈は、死を蔑ろにされた怒りで誠治に飛び掛かって殴打した。少年の両手を両膝で押え付けて馬乗りになった少女は、身動きの取れない誠治に何度も何度も、拳が痛み、血で滲み、誠治の顔が青痣と出血の赤で染まるまで殴った。
それに対し、誠治は抵抗をせず、ひたすら清奈の殺意と憎悪を一心に受け止めた。そして、その続きをするかのように、現在、清奈は誠治に馬乗りになって首を絞め始める。体重を掛けながら両腕を誠治の首に押し込み、指が側面の肉を締め付ける。
「分かってます。逆恨みです。でも、それでも! あなたが憎くて! 憎くて!!」
清奈が誠治に加える力が、より一層強まる。気道を押し潰す圧迫感が誠治を襲い、空気を押し出す。苦しみと同時に伸し掛かる痛みが誠治の意識を侵していく。やがて感覚は苦しみに満たされ、もはや痛みすらも感じなくなっていた。
朦朧とする意識が心地良く感じ始め、それに身を委ねて眠りに就きたいと少年は思ったその瞬間、圧迫感が突然無くなり、外気が一気に流れ込んだ。
急激に雪崩れ込んだ酸素に耐え切れず、誠治はむせ返って顔を逸らす。
「――ッッガファッ! グヴェッ、グヴァッ! ッカハ! ウェッ! ――ハッ、ハッ、ハッ……」
「……どうして抵抗しないんですか? あの夜と一緒ですよ?」
目線を清奈に戻せば、彼女は依然として冷たく暗い表情を、憎悪と殺意を込めた眼差しで見下ろしていた。溜まらず誠治は顔を背ける。
「……――君になら、殺されても良い。それで君の気が、紛れるのなら……――」
「〝何でもする。何でもしていい。俺が出来ることなら、俺で済むことなら何でもいい〟……それも、あの夜で言っていましたよね?」
「ッ!!」
言葉を発した清奈の声色は、何処か柔らかかった。声の変化と、瞬間に過った記憶から、誠治は目を見開いて顔を戻す。誠治の瞳に映ったのは、先程とは打って変わって、妖艶で恍惚な笑みを浮かべながら佇む清奈だった。
豹変とも言える変化に少年は畏縮して硬直する最中、少女は這いよるように身体を屈め、誠治の身体に覆い被さる。大きく柔らかい胸を通して、少女の重みが誠治の身体の奥へと浸透していく。
木の根のように、清奈は自身の脚を誠治の脚に絡ませると、左手の細い指を胸から滑らせて誠治の頬に当て撫で、自身の顔を、少年の左側に置いて、耳元で囁いた。
「あなたが何をしてもいいと言うから……私はあなたにしましたよね。――どうでしたか、あの日……私の〝初めて〟を受け取った気分は?」
「ッッッ」
蕩けるように語り掛ける清奈。しかし誠治は、彼女の言葉に顔をしかめ、歯を食い縛る。
あの日の夜。彼女に顔面を殴られ続けた誠治は、清奈にされるがままであることを受け入れた。そのまま引き続き殴られた末に殺されるのも、絞殺も、包丁で刺殺も。果てには拷問だろうと覚悟した。
父の願いに報いる為に、愛しい相手のせめてもの安楽の為に。少年は人柱になるのを決意し、出来る範囲であれば彼女に身も心も捧げることを告げた。
そうして自身の運命の終わりを覚悟した少年が見たものは、ベランダのガラスから差し込む外の灯りでぼんやりと照らされた、妖艶な笑みを浮かべていた清奈だった。
だったら、私を慰めて下さい――そう言った清奈は、自身の服を脱ぎ始めた。白地の質素な下着を身に纏う肉付きの良い身体に、木漏れ日のような淡い光と影が掛かる。灯りによって僅かに照らされた妖艶な表情は魅惑的ながらも、身体を照らすその様は神秘的であり、誠治の目には女神のように映った。
誠治は今を忘れて少女に見惚れていると、清奈は誠治の身体に覆い被さり、交わった。
あの日の光景が脳裏で過る中、清奈は下敷きにする誠治の耳元で以前として囁く。舐めるような甘い声で、少年の頭の奥に浸透するように、ひっそりと。
「私がまさか、あなたにあんなことするなんて思いもよらなかったですよね? 女ですけど、私だって〝思春期〟ですもの。特に誠治さんに会うようになってからは、段々と意識するようになりました」
清奈はそう言いながら、右手を誠治の左胸に当て、指で円を描くように撫で始める。
「考えれ考える程に、あなたと会うのが待ち遠しくて仕方がなかった。胸が高鳴って、文字通りはち切れそうで、心がざわついて。
男の子も性の話をするように、女の子も性の話をします。違うのは同性の前だけ。トイレとかで、どうしても、そういう話が耳に入るんです。
今迄、特に考え込まず、内容も覚えてないのに、途端に意識すると、途端に耳の奥に届くようになるんです。そんなことと一緒に誠治さんを想うと…………手持ち無沙汰を感じてしまうんです」
そして清奈は、誠治に返事を求めるように、今度は左指で誠治の右耳をくすぐり始める。
「どうでした? 初めてだったんですけど、上手く出来ました? 私、よく覚えてないんです。身体が奥から熱くなる位に必死だったのは覚えてるんですけど、そのせいだと思います」
「…………」
静かに語り掛けていた少女の吐息は、ゆっくりであるものの、荒く、強くなる。清奈の問い掛けにより、あの時の体験を誠治は思い返していた。身体の奥が熱く感じる一方で、羞恥の感情も同時に沸き上がる。
誠治は、羞恥の感情がそう指示するかのように、顔に力を込めて、沈黙した。沈黙を続ける誠治に、清奈はほくそ笑んで喋り続けた。
「――じゃあ。私があなたにした後、私はあなたの方からもして欲しいって頼みましたよね。覚えてます?
最後はお互い、向かい合いながら抱き合ってしてましたよね。
……――あなたの目の前にあった箪笥の上に、父の遺骨と遺影があったんです。――…………どうでしたか? 父の前で私とする気分は?」
「…………」
更に沈黙する誠治に対し、清奈は口元を、耳の穴のすぐ近くに当てた。
「(――……何でもしてくれないの?)」
小さくも響く声が鼓膜を突き抜けた。強制の言葉であるのに、甘露のような誘惑の囀りは、誠治の脊髄をくすぐった。快感にも似たその一声は、途端に誠治の身体を硬直させる。全身の力を逃すように、少年は小さく口を開いた。
「あれは……気の迷いだったんだ。俺も、君もッ」
「そうですね。気の迷いと言えますね。――でも良いじゃないですか。私は嬉しかったんですよ。
……だから知りたいんです。あなたも、嬉しかったか。どう嬉しかったか。――ね?」
甘えるように促すかの如く放つ清奈の声。それは誠治の記憶を穿り返すかのように染み込んでいく。誠治が思い出した記憶は、薄暗い部屋の中で、獣のような荒い吐息と淫らな声を上げながら、身体を揺らす半裸の清奈の姿だった。
「あれは……あれは……――ッ」
詰まるような声しか出せず、少年は動揺する。すると、清奈は誠治の口を左手で抑えた。
「――止めましょう。嫌でしたら、いいですよ。代わりに――」
清奈は身体を起こすと、誠治の服をたくし上げて胸を露わにさせた。引き締まって筋肉の輪郭がクッキリと浮かび上がる胴体を艶やかな手で撫で上げる。
「……痕を付けて良いですか? 他の女が手出し出来ないように、目印を付けて置かないと。健康の為に、私が頼んで誠治さんには身体を鍛えて貰いましたけど、逆に興味を持つ雌が現れるかもしれませんかね?」
「……いいよ」
「うふ。辛かったら、抱き締めてもいいですからね♪ ――じゃあ、いただきます♡」
清奈は糸を引きながら口を開いて歯を剥くと、誠治の左胸上部に大きく噛み付いた。
「クァッ!」
胸に突き刺さる痛みで、途端に誠治は声を漏らし、上に乗る少女の腰を両腕で強く抱き締めた。
「ぐふっっっ! ――~~~~ッッッ♡」
身体を折ってしまいそうな力で締め付けられた清奈は、空気を無理矢理押し出されて息を漏らして苦む。
痛みで溜まらず涙が溢れて眼が潤むも、それすらも喜び、もっと求めるかのように、はたまた痛みに耐えるかのように、更に歯を誠治の肉へと押し込んでいく。
食い込む歯の痛みを、自身の歯を噛み締めることで耐える誠治と、身体を締め付けられて悶絶しながらも噛み続ける清奈。2人は互いに、苦しみで声を漏らさぬように、相手に苦しみを与え続けた。強く噛み付き、抱き締めるその様子は、痛みとは裏腹に、受け止めようと、離さないように2人を繋いでいた。
最初に力を緩めたのは清奈だった。肉に沈む歯の感覚が無くなると、誠治も腕の力を緩めた。清奈は胸に吸着する唇を離して頭を起こし、空気を吸い込む。
少女の眼下で横たわる半裸の少年の左胸には、赤くこの字型の歯の跡がくっきりと刻み込まれていた。清奈は、恍惚な表情を浮かべながらマーキングを見て愉悦に浸っていると、跡の真ん中に自身の唾液が垂れているのに気付いた。
清奈は再度頭を胸に下すと、窄めた唇で唾液を吸い取る。そして舌を出して、物足りなさそうに歯型を舌でなぞるように舐めた。
痛みに耐えた誠治を慰めるように、噛み跡ではまだ足りないと更に自分の痕跡を残すように。そして執拗に胸元を味わった清奈は顔を上げて、誠治を見下ろした。
「うふふ……♡ 今度は誠治さんの番ですよ」
「……え?」
「私にも、ちゃんと目印付けて下さい。男子学生達に手を出させないように、して下さいね♪」
猫撫で声でそう告げた清奈は、自身の左手で誠治の右手を掴み上げると、自身の大きな下乳に触らせた。そのまま手を強めに胸に押し付けながら上へずらすと、襟元を掴ませて引き下ろさせる。伸びた襟の間から、胸の深い谷間とハリのある柔肌が姿を露わにした。
「お揃いが……嬉しいです……」
「――噛むと傷になる。胸はデリケートだから……キスマークで」
自身の痛みを味わって欲しくない――自身でも良く分からない妙な配慮をする誠治。すると清奈は、それが堪らなくおかしかったのかほくそ笑んだ。
「ふふ、優しい人。お願いします……」
先程のマーキングで高揚した清奈は、蕩けた声で強請り、発情した獣のような荒く早い呼吸を繰り返す。誠治は、空いた左手を佳那の左肩に回して掴んで身体を近付けると、唇を肌に当てて吸い付いた。
「あああぁぁぁぁっっっ♡」
甲高い音を鳴らされながら肌を吸われ、清奈は途端に声を漏らす。皮を引っ張られる感覚に耐え切れない清奈は、自分の側頭部を誠治のおでこに重ねて姿勢を保ち始める。
「――……良い子、良い子……頑張って♪」
少女はそう言って、右手で誠治の頭を撫で、小さな声で応援を囁くと、左人差し指を口に入れてしゃぶり始める。たっぷりと唾液を塗布した指を口から糸を引きながら出すと、それを少年の右耳に押し当て愛撫し始めた。
「――!!!!」
「駄ー目♡ さ、頑張って、誠治さん♡」
清奈は甘い声で続けるように促した。それとは裏腹に、依然として指は誠治の耳をなぞり続ける。
皮膚の表面、でっぱり、くぼみ。更に耳穴の奥まで。誠治を邪魔するように、執拗に耳に体液を塗り付け、くすぐっていく。
誠治は、清奈の肩を掴む手の力が強めると、顎を上げて、肌に顔を押し付ける。それは、肌の啜りを強める為ではなく、先程同様に、清奈のいたずらに耐えるものだった。
数分程、清奈の胸に近付けていた口を誠治は離すと、横長の赤い痣が浮かび上がっていた。清奈は身体を起こして胸元を確認すると、微笑みを浮かべて大切そうに左手を重ねる。
「ふふ……お揃い……誠治さんの付けてくれた……ふふふ♪ 誠治さん、ありがとうございます。お礼に明日は、梨のタルトを焼いて上げますね」
「……はぁ…………ありがとう…………」
至福の一時を噛み締める清奈は、息を荒げる誠治の顔を左手で撫でて労り、感謝する。息苦しさで疲れを見せていた誠治は少女に目を向けると、蛍光灯を背にしていた為に影が掛かる清奈の顔は、柔らかく優しい笑みを浮かべていた。
それに安堵を覚えた少年は無意識に、自身の頬を撫でる、清奈の柔らかい手に顔を向けて埋めた。
「……ハァ……ハァ……ハァッ……」
「――今日はもう遅いですから寝ましょう。私は明日、委員会の仕事がありますから、先に家を出ますね。朝食は事前に準備しておきます。……――それと明日、学校が終わったら、その新しい本の話、私にもして下さいね」
そう告げた清奈は誠治の左頬に口付けをすると、ソファーから起き上がってリビングを後にする。
依然としてソファーに横たわる誠治は、仰向けになりながら呼吸を整える。肺に酸素が溜まり、血液に乗って全身を巡っていくと、段々と意識と理性が鮮明になっていき、先程の交わりの記憶と感覚が呼び起こされていった。
「俺は……何が……」
清奈の言動に応え切れない自分に。なすがままの自分に。何よりも彼女のように強く思いを告げることも、それがどんなのものかハッキリしていない自身に、誠治は虚しさと悔しさを抱いて歯を噛み締めた。
◇
翌朝。白み掛かった早朝の青空の下、グランドと体育館には、朝練で先に来ていた運動部員達が声を上げて身体を動かしていた。そんな大きく響く掛け声に気にも留めず、制服姿に鞄を持った清奈は、人気のない道路を通って登校した。
誰もいない昇降口を通って自身の靴箱のある場所へ向かうと、目の前には小柄な少女が靴箱の前に立っていた。
「――あら。おはようございます」
気品さのある優しくもハッキリとした声で清奈は少女に挨拶をした。一方相手の少女は、清奈の存在に気付いていなかったのだろうか、挨拶の言葉を掛けられた途端に身体を大きく震わせて驚き、その拍子に奥へと後退りをしてよろめいた。
「ひぇあッ!!! ――お、お、お、おはようございます!!!!」
しどろみどろに早口言葉で返事を返した少女は勢い良く頭を縦に振り、そのまま腰を曲げてお辞儀をする。
「驚かせてしまってごめんなさい。良いんですよ、そんな畏まらなくて」
「は、はい……」
僅かばかりに落ち着きを取り戻した少女は上半身を起こした。それにより顔が見えたことで、微笑みを浮かべていた清奈は顔を強張らせる。
今、自身の目の前にいるのは、昨日誠治に追及する原因となった女、斎藤だった。
誠治が釈明をしたが、それでも愛しの誠治に近付き、共通の話題で言葉を交わした不届き者。心の奥底で殺意と憎悪と敵対心が募る中、清奈は自分の感情と考えを悟られまいと、表情と声色を見繕う。
「――確かあなたは、斎藤さんですよね? 合ってますか?」
「はい! 斎藤です! 会話したことないですけど、咲華さんに名前を知って貰えて嬉しいです!」
「そう。私も名前を憶えて貰って嬉しいです。――ところで斎藤さんは、私とは別のクラスの筈ですよね? だったら、どうしてここに?」
揺らぐ心を押さえて、清奈は平常な態度を保ち続けながら質問した。すると、問い掛けられた斎藤少女は、先程でないにしろ、落ち着きのない表情を浮かべ始める。
「えっと……――その……えっと……――ッ。その、靴箱ッ。靴箱を、間違えて入れてしましまして。今日は朝早く目が覚めて暇だったから、早めに登校したんですけど、駄目ですね。寝惚けてしまって、別のクラスの人の靴に入れて。
それで戻したんですけど、今度は間違えた人の靴箱を開けっ放ししちゃってたんで、扉を閉めてたんです」
「そうですか。気を付けて下さいね。寝惚けたままだと、怪我もしやすいですから」
「はい! じゃあ失礼します!」
寝惚けていると説明するも、元気のある声で斎藤はその場を駆け足で後にした。一方で清奈は、憎き斎藤の言葉に苛立ちを覚えながらその場に立っていた。誠治に昨日関わった彼女の言動が全てが、信じられなかった。
斎藤の行動に怪しさを覚えて疑う清奈は彼女の立っていた位置を確認した。その場所は、誠治の靴箱がある位置だった。
「――まさか」
直感で何かを察した清奈は、段々と並ぶ靴箱の内、誠治の靴箱の扉を開いて中を確認した。暗闇の中にひっそりと安置された上履きの上には、小さな封筒が置かれていた。それを手に取った清奈は中身を確認する。
「……――あの女。ふざけた真似を」
清奈は、冷たい瞳を宿した冷徹な表情を浮かべると、封筒の中身の噛みを握り潰し、血が流れる程に唇を噛み締めた。
昼過ぎの学校の放課後。生徒達は部活動や委員会活動、その場で残って談話に花を咲かせる学校に残る者と、帰宅の為に学校を離れる者の2種類に分かれた。
彼女――斎藤少女は後者であったが、他の生徒達が人の多い校庭近くや校舎内にいるのに対し、少女は人気がない校舎裏に佇んでいた。
学校と外界を仕切る高い塀と横並びに立つ木々。その前で校舎の壁を背にして少女は立つ。不安そうな顔を浮かべるも、期待し待ち侘びるかのような仕草をしてその場に留まった。
「……あら。斎藤さん?」
突如、名前を呼ばれた少女は驚いて飛び退いた。声の方へと顔を向けると、そこには見覚えのある人物が立っていた。
「うひぇあっっ!!? ささささささ、咲華さん!?!?」
「ああ、ごめんなさい。今朝みたいに驚かせちゃったみたね。――私は近道でここを通ってるけど、こんな所で何をしているの? 待ち合わせ? うちの学校は、人気がいない場所で何かをするような人はいない筈ですけど……」
挙動不審で呂律のままらない斎藤に、清奈は強めの口調で質問をする。しかし、斎藤は慌てふためいて言葉が詰まり、返事の言葉を出せずにいた。それを見かねた清奈は少し溜息を洩らしながらも、斎藤に目を合わせて近付いた。
「……――安城さんを待ってるの?」
「えッ!?!?」
「ごめんなさい。つい好奇心でね、あなたが今朝立っていた場所……安城さんの靴箱の中、見てしまったの。……安城さんが好きなの?」
図星を突かれた様子で、斎藤はその場で凍り付く。息も止まる程にその場で硬直するも、同時に思考も冷静さを取り戻した。
静かに、しかし胸の鼓動は依然として早いままに。だからだろうか、斎藤の目には、清奈の表情が母性に満ちた笑顔で自分を励ましてる風に見えた。その微笑みに安心感を覚えた斎藤は、思いの丈を清奈に打ち明けた。
「はい……好きです」
そう言った次の瞬間、清奈の左拳が斎藤の右頬に叩き込まれ、少女は吹き飛ばされた。宙に浮いた斎藤少女の校舎の壁に打ち付けられる。斎藤は鼻血を流し、突然の衝撃の後から続く痛みで悲痛な声を上げようとした直後、清奈は両手で斎藤の襟元を掴んで小さな身体を持ち上げながら、壁に磔にした。更に拳で下顎を押し付けるようにして口を開かせないようにして、肘で両腕を押さえ込む。
「うぐっッッ……!? ――ぅうっ」
「へぇ……好きなの。じゃあ昨日、誠治さんと喋ったのもそれが理由? 趣味で友好的な位なら誠治さんの為にもと我慢していたけれど……――泥棒猫の雌が。舐めた真似をしてくれるわ。不愉快極まりない」
清奈は斎藤を睨み付ける。斎藤を捉える冷徹で恐ろしいその瞳は、先程までに優しい笑みを向けていた人物と同一とは到底思えない程の激しい憎悪を浮かべた顔を作り出し、口を封じられている少女から言葉と気力を根こそぎ奪い去ったのだった。
すると清奈は表情を和らげると、鼻血を流しながら苦しみ悶える斎藤に問い掛けた。
「あなた……誠治さんのどこが好き? 顔? 着痩せしてるけど筋肉のある身体? いえ、同じ本の趣味を分かち合えるから親近感を感じたから、といった所かしら? そして付き合えれば趣味を想う気持ちを分かち合いたい……という具合かしら? つまり自分の欲求不満を誠治さんで解消したいんでしょ?
あなたは誠治さんの何を知っているの? 好きな本や考え方だけ?
好きな食べ物は知っている? 誠治さんは洋梨のタルトが好きなの。美味しかったら嬉しそうに食べてくれるのよ。炊事は出来るの? お腹が空いた誠治さんの為に料理が作れる? 嫌なことも嬉しいことも全部忘れて、お腹一杯美味しいものが食べれる嬉しさを与えられるような料理が出来るの? 家事も出来る? 掃除をして洗濯物も出来る?
彼の苦手な勉強は知っている? 数学の証明問題が苦手なのよ、誠治さん。伝え方や構成が苦手みたいなの。あなたは彼の勉強を見てあげることが出来る? 風邪を引いた時にずっと傍にいて看病出来るの?
ところで、こうしてあなたを押さえるてるけど、華奢な身体をしてるのね。骨と皮だけの小さくて薄い身体。彼ね、人を抱く時の力が強いのよ。潰すような、折れそうな位に力を加えるの。自分でする時だって痛くて荒くて、指が肉に食い込んで強くて。突き抜けて、そのまま崩れて吸い込まれてしまいそうな位に気持ちいのよ。
そんな貧相な身体で彼の思いを受け止められるの? 自分で彼を満足させられることが出来る?
――――分かる? あなたは好きな彼の為に、心も身体も尽くして愛して助けることが出来るの?
いえ、仮にそうだとしても許せない。私が彼に身も心も尽くしてるのに、あなたのようなものが誠治さんに近付いたら穢れてしまう。
彼の為なら私は全部出来る、してみせる。だって誠治さんのことが好きで愛してるの。好きで好きで張り裂けてしまいそうに愛しているの。
彼が笑った顔が好きなの。苦しむ顔も辛い顔も好き。不器用な所も好き。思いやりのある所が好き。優しくて可愛くて格好良くて誠実で素直で真面目で憎くて許せなくて惨めで哀れで弱くて情けなくて、それでも優しくて可愛くて格好良い誠実で彼が愛おしくて堪らないの。苦しい位に愛が溢れて止まらなくて嬉しくて愛しくて仕方がないの。
だから誰も彼もがいらないの。邪魔で目障りで不愉快で邪魔で仕方がない。誠治さんと私の邪魔するなら容赦だってしない。
だから擦り寄る女が寄って来るのが許せない。あなたもそんな蟲の1つよ。
さっきは釘を打っておいておくつもりだけど、気が変わった。やっぱり当初のやり方にするわ。出過ぎた真似をした自分を呪いなさい。これはあなたが誠治さんに近付いた罰なのだから」
そう言った清奈は、斎藤を持ち上げたまま壁から離すと、勢いよく振り返ると同時に、背後にあった花壇のレンガ目掛けて、斎藤の後頭部を叩き込んだ――。
(何て出来れば楽なのに)
心の中で考えていた清奈は、木陰の壁に寄りかかりながらそう考えていた。すると、隣の道から駆け足で誠治が出て来た。清奈に気付いた誠治は、豆鉄砲を喰らったかのような顔で立ち尽くながら混乱するも、誠治はすぐさまその場を離れた。一方の清奈は、誠治とは反対方向へ歩いて行った。誠治の後方で、鳴き声が木霊した――。
夜8時。誠治と清奈の自宅。誠治の自室の壁際に置かれたダブルサイズのベッドには、部屋着姿の誠治は、短パンにシャツの同じく部屋着姿の清奈の膝枕に横たわって耳掃除をされていた。
「ふふっ。ここが良いですかー?」
「うっ……――くぁッ……」
カリカリと擦る音が感触と共に耳の中で響き、その快感で誠治は声を漏らした。それは皮膚を、鼓膜を伝って脳髄に伝わる。それは背骨を伝って腰を揺さぶる。股関節周りの力は抜けてだらりとなり、脚がビクビクと震えて指先が伸びる。その様子を見た清奈は微笑み、囁いた。
「良いんですよ、もっと楽にしても♡ 今日は、誠治さんは私の為に頑張って下さったんですから。あの女の告白をフるようにお願いして、あなたはそうしてくれた。そして私は、あの女を励ますフリ
をして口留めをした。これで、あの女は誠治さんにフラれた腹いせの行動を起こしません。学校生活は安泰です♪」
嬉しそうに言った清奈は、依然として誠治の耳の中を愛撫するように掃除を続ける。次第に耳かきは耳の奥へと潜り、それに従って、耳を通して伝わる快感もより一層、身体の奥へと入り込んでいった。
「気持ち良いですよね~。目が蕩けてますよ? 寝ても良いんですからね。膝枕に耳掃除をしてあげられるのは、私だけですからね~。他の女にはこんなこと出来ませんし、させてあげません。
さっきみたいに洋梨のタルトも焼きますからね。誠治さんは、もっともっと私に甘えて良いんですからね。誠治さんには、他の女なんていりません」
妖艶な口調で紡がれる言葉の数々。それは耳の愛撫によって心身共に解された状態の誠治の奥底へと届いてた。
擦れそうな意識で誠治は思った。彼女はどうしてここまで自分に振る舞うのか。好きだからもありうるかもしれない。だからといってもここまでするのか。
身体を重ね、尽くし、求め、嫉妬して。本当は、負い目がある誠治自身が清奈の為に出来ることをすべき筈なのに、彼女は誠治へと出来ること自ずと進んで行っていく。
自分にそこまでの価値があるのか、このまま彼女の奉仕に甘えたままでいいのか。清奈がもたらしてれるだけでそれでいいのか。
耳掃除を終えた清奈は誠治の耳元に息を吹き掛けると、誠治の頭を愛おしそうに撫でた。
(……――昨日みたいじゃ駄目だ。ちゃんと言わないと。言い分じゃなくて、自分の気持ち)
慈愛に満ちた表情で清奈は誠治の髪を指でなぞると、少年は意を決して、少女の膝枕から起き上がった。
「っぁぅ。どうしました? 誠治さん?」
「えっと……その、うん。その、清奈さん。聞いて欲しいんだけどね……」
「はい?」
清奈は、笑顔で誠治と顔を合わせた。花のような笑みに罪悪感を感じて言葉が詰まり、優しさを感じる目に顔を背けたくなるも、歯を噛み締めて前を向いた。
「――……その、何時もありがとう。俺に良くしてくれて」
「――? どう致しまして。ちょっと、照れますね」
彼女の笑みで、誠治の胸の鼓動が高まり、それと同時に言葉が詰まった。元々、今こうして誠治が彼女に声を掛けたのは、衝動による考えなしのものだった。
清奈に言わなくては――そう考えるばかりでやってしまった。一瞬だけ考えが途切れる。それでも、もう一度言葉を紡ごうとする。
「うん。でさ、正直に言うとね……――俺、君と一緒にいれて……嬉しいんだ。周りに必要ない人間って言われててさ、うちの父に必要とされた時は……事情がソレだから嬉しい筈がないのに、嬉しく思えて、さ。
今日も今までもそうだったけど、君が俺の傍にいてくれるのは……複雑な気持ちがあった。けど、それでも……俺のことを見てくれて、必要と思ってくれてると思えて嬉しかった。だから、これから俺の傍にいて欲しい、見て欲しい……という――ッ!」
しどろもどろに言葉を紡いだ誠治。すると一通り喋り切った途端、突如清奈が誠治に飛び掛かるように押し倒した。
「嬉しいです! それはつまり! 私のことを愛してくれると!! 嬉しい!! 本当に!! ああ、誠治さん。あなたが私を見てくれている!! 私のことをお思ってくれるんですね!!
ああ、誠治さん!! 誠治さんッ!!!」
蕩けたような、それでいて血走った目で清奈は誠治を見下ろした。
(このまま普段と一緒! ――だから!)
少年は意を決し、少女を押し離して自身の身体を起こした。
「ちょ、ちょっと待って!」
「ふぇ? 何でですか?」
誠治の行動に、きょとんと呆気にとられた表情を浮かべた。熱烈な彼女の喜びを無下にした罪悪感が湧き上がるも、怯まずに話し続ける。
「まだ、言いたいことがあるんだ」
「はい……」
「……君には、何時も世話になりっぱなしだ。傍にいてくれるし、料理も家事も勉強も。本当に世話に成りっ放しというか……だから、その、お礼というか。普段だと家事や料理出来ない俺にも、出来ることがあれば…………」
誠治は弱々しく自分の気持ちを何とか打ち明けると、清奈は手を前に出して、今に飛び掛かろうと構えを取った。
「いや、そうじゃなくて! ――えっと」
自分から彼女に出来ることをしてあげたい。そう思った誠治は、清奈の身体を掴んで自身へと引き寄せると、彼女の身体を抱き締めて、右手を頭に乗せて撫でた。
「何時もありがとう。良い子、良い子」
「あ……ふぇぇえ……?」
優しく穏かな声で、誠治は清奈を労わった。我が子を愛す親のように少女を抱き締めていると、清奈は誠治の手を振り解いて少し距離を取った。
「あ!? ……嫌だった?」
「いえ、嫌という訳じゃないんですけども……その…………ちょっと、恥ずかしくて……何で、あんなことを?」
「えっと……普段、君が僕にしてることを。君がするんだから、君もされたら嬉しいかなって……」
誠治の返事を聞いて、清奈はその場で硬直した。静けさで誠治は自分の行動に羞恥心を感じて清奈から視線を逸らすと、清奈はクスリと笑った。
「ふふ、誠治さん。ふふ、ははははは! 私、誠治さんが好きだから、ああいう風にしてたんですけど、あんな感じなんなんですねっ! ふふ。……今迄、嫌でしたか?」
「いや、嫌じゃなかったけど……されっぱなしだったから……」
「仕返し?」
「そんなんじゃ!!」
誠治は誤解を晴らそうと必死な対応をするも、その姿が滑稽に見えたのか、清奈はまたしても笑った。
「ふふふっ! もう、本当に、誠治さんは……真面目で、素直で、誠実で、優しい人っ」
そう言った清奈は誠治に飛び付いて押し倒し、誠治の胸に抱き付く。
「うふふ。誠治さーんっ♡ 好きっ♡」
「うう……」
結局は清奈の主導になったことに、誠治は呆れることしか出来なかった。しかし何時もと違うのは、普段と違って負い目を感じなかったこと。誠治が己の不甲斐なさ感傷に浸っていると、胸元で清奈が語り掛けて来た。
「誠治さん、女の子を抱き締めて頭を撫でるのは、私には良いですけど普通はしない方がいいですからね」
「ごめん……」
「あ、だからといって許しても他の女にしないでくださいね? 許せなくて、その女を殺してあなたの両手を切り落としてしまいそう」
「ッ!?」
「ふふ、冗談ですよね。でも……出来るのならしないで下さいね?」
和やかに言う彼女の言葉は、誠治には冗談には思えず、肝に銘じることにした。すると清奈は、先程とは打って変わって静かな声で話し掛けて来た。
「誠治さん……私は、邪魔ですか?」
「邪魔な訳が……!」
「私は、不安でした。誠治さんの役に立ててるかどうか」
清奈は、震えるような声で喋り出す。誠治の服を掴むその手は、小さく震えていた。
「私、今迄、誠治さんと一緒にいるべき人間ではないと思ってました、あんなことをしておいて、その上あなたと一緒にいたいと思ってしまった。だから、私はあなたの傍にいられるように出来る限りで頑張りました」
誠治は口を積むんだ。何時もは明るく元気に、慈愛に満ちた表情と出で立ちで振る舞っていた少女は、内心では不安を胸に募らせていたのだ。誠治はまたしても自身の情けなさに歯を噛み締めていると、清奈は依然として喋り続ける。
「夢を……見るんです。していないのに……お父さんを、殺す夢を見るんです」
「…………」
「お父さんが死んだことが許せなかった筈なのに、私は父の死を歪めて、あなたと一緒にいたい為にと思い込んでしまったんです。
頭おかしいですよね。だって、今更大切な人の死を、許してはいけない死を、自作自演と記憶を変えようとしようとしてるんですから」
少女の声は、段々と引き攣った声に変貌していく。それはまるで、先程の自分自身を彷彿とさせる言動だった。
「誠治さん……誠治さん!」
すると清奈は、誠治に馬乗りになると、少年の手首を掴むようににして指と指を絡めた。
「好き、好き。大好きです。心の底から大好きです。誠治さんがいないかったら私は生きていけませんでした。誠治さんのおかげで今迄生きていこうと思えたんです。
もっと私を見て下さい。私の傍にいて下さい。あなた以外に何もいらない、あなただけを見ていたいの。
邪魔なもの全部消して消して消してあなただけが欲しいです。あなたに見て貰って、求められて、必要とされて尽くしたい。あなたの為にもっともっと頑張りたいんです。
あなたには私以外に何もいらない。誠治さんは監禁してでも傍にいて欲しいです。隣にいて欲しいんです。強くあなたを感じたいの! だから、だから……――聞いても、良いですか?」
「……何?」
「私には、愛しいあなたが必要だから。誠治さんの傍に、いても良いですか? 誠治さんを愛しても、良いですか?」
自分への思いの言葉を熱烈に向けてから問い掛ける清奈に、誠治は狡さを感じた。こんなにの思ってくれてるのを知ってしまったら、断われる筈がないからだ。
だが、昨日の様子とは真逆の態度を示していることが、誠治には引っ掛かっていた。しかし、その原因は分かっていた。今日の一件――同級生の斎藤少女の政治への恋文。
誠治は直感で理解した。清奈は誠治が自分を拒絶して離れるのでは危機感を抱いているのだと。負い目ぬ付け込み一方的に迫り、人に堂々と言えない関係を持つ女と、共通の趣味で笑い合える女との繋がり。
有無をいわさず、後者の方が良いだろう。自分は見捨てられてしまうのか――そんな焦りを、彼女から誠治は感じ取った。彼女は、誠治と同じように、不安な毎日を過ごしていたのだと。
そして誠治は、自身の身体を起こしながら、清奈を横に押し倒して上に覆い被さり、自身の足の指を、少女の足の指と絡まる。
「……もっと、愛してくれ」
「誠治さん……」
◇
翌朝、カーテンの隙間から差し込む朝日に目元を照らされて、誠治は目を覚ました。身体を起こそうと手を使おうとすると、違和感を感じて手元を確認した。
――両手首が、タオルで縛られていたのだ。しかもよくよく確認すれば、足首も縛られている。
「あ、起きました。誠治さん♡」
そう言って部屋に入って来たのは、エプロン姿で満開の花のような笑顔をした清奈だった。
「清奈さん、これって……」
「――ああ! 昨日言った通り、監禁したい位に誠治さんと一緒にいたいのですることにしました♪」
「え!?」
「大丈夫ですよ、今日と明日の土日の休みの間だけです。お世話が私が全部するので、安心して下さいね!」
声高らかに言い放った少女の言葉に、誠治は只々絶句した。彼女の行動への異様さもそうだが、今、誠治の脳内で思考したのは、この状況の打開策だった。
何を言ってもしても彼女の機嫌を損ねる未来しか見えない最中、本能に任せて誠治は叫ぶ。
「デ、デ、デートに行こう!! 手繋いで、いっぱい出掛けて楽しい思い出作って愛し合おう!!!」
「もう、誠治さんったら! はい! 誠治さんがそういうのでしたら、監禁は今度にしましょうね!」
彼女との付き合いは前途多難だと実感した誠治だった。