五、
《あのねシオン。欲しいもの、見つけちゃった》
―――なんだレイチェル、またかよ。そうやってこないだだってムーラの店の焼き菓子強請ったろうが。
《ちょ。なによそれー。濡れ衣もいいトコだわ。あれは強請ったんじゃないわよ?ちょっと「食べたいかなぁ」って言ったらシオンが買って来てくれたんじゃない。》
―――・・・そうだったか?
くすくすとレイチェルが笑う。
《やーだ、シオンたら。本当は良く覚えてないんでしょう?うっかりさんね》
―――それで、何が欲しいんだって?
《そうそう。あのね、昨日からお祭りやってるでしょう。広場の出店に綺麗なリボンがあるの!早く行かないと誰かに買われちゃうかもしれないわ》
―――リボンか。・・・いいぜ。
《うわー、ありがとう、シオン!早く。早く行きましょう》
レイチェルはシオンの手を取り、いかにも嬉しそうに笑った。
《シオン!早く、シオン!》
―――レイチェル―――。
「ぐ・・・う・・・。」
一瞬だったのか、それとも。
うめき声と共に意識を取り戻したシオンは、わずかに目を開けた。
昨年の祭りの日の夢を見ていた。そう、あれは確か、レイチェルにあのリボンを買ってあげた日の朝のことだったか。
ぼうっと辺りを見るともなしに見ていたが、はっと目を見開く。
そうだ。自分は魔物に蹴られて、それから。一体どうなったのだろう。
思い出そうとしても蹴られてから後の事がぽっかりと記憶から抜け落ちたようになっていて、全く分からなかった。
わずかに動く首を精一杯動かして周りを見回すと、先ほどとは景色が変わっているのが見て取れる。
・・・先刻樹の上から見えた段差まで飛ばされて、どうやら転がり落ちてしまったようだ。
凄まじい力で蹴られ、尚且つ高い所から落ちたみたいだが、命があるのは不幸中の幸いというものだろう。
今現在で、見える範囲にあの魔物は居ない。
蹴り飛ばしたシオンの事よりも、馬の死体の方に興味があったのか。・・・恐らく後に忍び寄った時も、シオンの気配には気が付いて居たはずだ。
目の前に自分の食べかけの獲物があったので、そちらを優先したのかもしれない。だが、あの馬の屍骸を片付け終わってしまったら。きっと再び新しい獲物を探して狩りをするに違いないのだ。
やはりあいつを何とかしなければならない事には変わりなかったが、まずは自分自身の身の安全が早急の問題だった。
シオンは身体を起こそうとしてみたが、こわばったように固まっていてすぐには動けそうも無かった。それで目を精一杯動かして辺りを探る。
今居る場所は、やや斜面になっている崖の途中に出来た小さな窪地で、自分はそこに仰向けに寝転がっていた。
足側には落ちたと思しき崖がある。頭の方、小さな窪地の向こうは、うっそうと木の茂った、やや急な斜面がまだ下に向かって続いているようだ。
よほどひどい落ち方をしたのだろう。身体中が痛かった。大きく息を吸ってみる。かなり痛むが、どうやら肺も肋骨も大丈夫なようだ。
首をめぐらせて周りを見、次に手を動かしてみたが、自分の意思で動くのは片方だけだった。
「う・・・。」
シオンは低くうめきながら、再び身体を起こそうと身じろいだ。
だが。落ちる途中で何度もぶつけたのだろう。身体の左側の感覚が無い。
「やべえ、受身もへったくれも無かったか。今魔物がこっちへ来たら本当にお陀仏だぜ。」
見上げると、今落ちてきた崖の高さはほぼ20M、垂直ではないので、普段であればシオンにも簡単に登り降りが出来る高さだ。魔物なら一飛びだろう。
兎も角、左半身は痺れたようになっていて動かなかったが、なんとかこの場所から離れなければならない。仕切り直しが必要だった。
あの魔物がこちらに来る様子は無いようだが安心など出来はしない。
今まともに動けない状況でいる中、こんな場所でやつとやりあう事になろうものなら、それこそ間違いなくあの馬の二の舞になるだけだ。
辛うじて右手と右足を地に付けて身体を起こそうとしたが、全身が左側に引っ張られるような形でどうと地面に崩れ落ちた。
「畜生!動け、動け、うごけぇぇぇ!」
手を、足を、しゃにむに動かしてそのままの姿勢で崖の方へにじり寄ろうとしたが、その意に反して地の上でのたうつのが精一杯だった。
唐突に。
その時本当に唐突に、苦し紛れに伸ばした右手から銀色の揺らめきが伸びた。
「なん・・・だ。これは?俺の・・・手・・・?」
驚いて動きを止めたシオンの右手からは銀色の揺らめきが細く、長く伸びて、その手を延ばした先にあるガケへゆらゆらと風に吹かれる様にして向かっていく。
その時急に、細く伸びていたゆらめきの一部が何かに絡まった。いや、絡めとられたのか。
いきなり脳内に響く音なき声。
―――幼きものよ、何ゆえおまえはそこにいる―――
「だっ。誰だ? どこに居る!? 姿を見せろ!!」
先ほどの妖魔では無いのはあきらかだった。高等と言われる類の妖魔であっても片言の人語しか操れはしない。
加えてこんなに流暢に人の言葉を話す妖魔が居ると言う噂など、いまだかつて聞いた事が無い。
人間か?誰かが近くに身を潜めているのか?
いや。人も、誰も近付いて来てはいなかったはずだ。気配すら感じていない。
右を、左を、続けさまに見るが、生き物はおろか動く影さえもなかった。
―――幼きものよ、意思強き生き物との混じりあいが斯くもこの様に能力を貶め意識乱るるものとは―――
突然自分以外の何かと意識が繋がった気がした。
その瞬間。
電流にも似た何かが、延ばされた銀色の揺らめきを伝って一気に身体を突き抜けた。
「うあ? うわぁぁぁぁぁっ!!」
身体の中を走る衝撃に、肉体も精神も悲鳴を上げる。
と。とたんにふっと身体が軽くなった。
「あ・・・れ?身体が・・・動く?」
電撃が収まった時、シオンの身中の痛みは無くなっていた。痺れも感じない。シオンは決まり悪げに周りを見回し、そして立ち上がった。
「くそっ。 なんだ?一体俺に何が起こってるんだ!?」
―――幼きものよ、本来はお前自身でするべきことなのだ。おまえの身体にあった滞りは全て我が均した。本当のおまえは未だ殻に閉ざされているのだな。―――
「だから意味がわからねぇ! それから俺は幼くなんかねぇ! ・・・あと、俺に話し掛けてるあんたは一体誰なんだよ!」
―――その器はお前には小さくもろい。まこと我等と手を携えるには弱すぎる―――
「頼むからわかるように話してくれ!」
―――幼きものよ、お前は我等であり、我等はお前である―――
「・・・・・・わるい。」
シオンは途方にくれた。
「もっとわからねぇ。」