四、
いつにも増して晴れ渡った空には、雲ひとつ浮いていない。
半時ほどで森の入り口付近へ到着したシオンだったが、真っ直ぐとは森へ入らず、東に向かって迂回をするような形で進む。
やがて小さな川へと辿り着いた。
川の上流は森の中に続いていた。シオンはその川に沿って森の中へと入っていった。
川を暫く登っていくと、ごつごつとした岩が続く沢となり、やがて沢が大きく蛇行した両側に突き出すような、岩の崖に挟まれた場所へと出た。
見通しは悪かったが、頭上には枝が張り出してはおらず、ぽっかりとまるく青い空が見えていた。
昼には早く、まだ朝といって良い時間だったが、シオンは早めに弁当を片付けることにした。
「・・・・うっわー・・・・。」
パンとチーズは良い。
だがマッシュしたじゃが芋で作られた小さな猫と小ぶりのソーセージのカニに、一瞬固まる。
「帰ったら感想を求められるんだろうぜ・・・。」
シオンは空を見上げてため息をつきつつ、ソーセージを口に放り込んだ。
大抵の魔物は闇を好むので、昼間に出合うことはまず無い。
だが食べ物の痕跡は無い方がいい。
急いで中身を平らげたバスケットは、周りに転がっている石を積み上げて、その中に隠した。
常に水しぶきが風に流されているような場所だ。
万一魔物や獣が通りかかっても、恐らくバスケットには気が付かないに違いない。
何より、壊してしまうような事があったら、レイチェルががっかりするだろう。
だがこうしておけば、仕事を片付けるのが少しくらい長引いたとしても、無事に家に持ち帰ることが出来るはずだ。
シオンは少し離れた場所からバスケットの痕跡が完全にわからないのを確認すると、行商人が襲われたという、森の中を通る道へと足を向けた。
沢から森の中の道へと向かう途中で、シオンは急に立ち止まった。
僅かだが、この辺りにはすえた様な匂いが漂っている。
シオンは足音を立てないように、ゆっくりと1歩ずつその匂いの方向へと歩いて行った。
シオンの靴の裏は、柔らかくなめした鹿皮で覆ってあった。
この鹿皮は何枚か重ねる事で、まるで猫のように足音を立てずに歩く事が出来るのだ。
いよいよ匂いが強くなり、風下から用心をしつつ覗いてみる。
少し行った薮の向こうに小さく空間があり、そこに黒い塊が見えた。恐らく馬だろう。
恐らくと言うのは、肉の部分が殆ど喰われ、骨と皮だけになっているので、何の動物か判別が難しいからだった。
その骨もかなり細かく折れてそこここに散らばっていた。
身を低くして風下から屍骸に近付いていく。魔物が居る気配は無かったが、用心に越したことは無い。
死体のすぐ傍に足を踏み出したとき、突然低く唸りを上げて、足元から黒い影が舞い上った。
一瞬身構えたが、すぐに剣を下ろす。
黒い靄さながらに視界を遮っているのは、蝿の大群だった。
暑さのせいだろう。腐敗が早く、大量の蝿が馬の死体に群がっているのだ。
風下にいるので仕方が無いのだが、それにしても吐き気を催すようなひどい匂いがする。
それでも口元を手で覆い、まわりを見回す。
すぐ傍の土の上には、大小の足跡がいくつか確認できる。多分魔物のものに違いない。
手のひらサイズの小さいものが2つと50センチくらいのものが複数。
恐らく前足と後ろ足だろう。あまり大きな魔物では無さそうだ。それに形状からして樹には登らないと思えた。だったら樹上で待ち伏せするのが都合良い。
屍骸の状態から、魔物が再びやって来る可能性があまり高いとは思えなかったが、今のところ手がかりはここだけだ。仕方なく、少し離れた樹の上から様子を見ることにした。
あまり低いと嗅ぎつかれる可能性があるので、出来るだけ高く登る。
辺りを見回してみると、木々の隙間から道が見えた。あまり道から離れていないという事は、道を行く人々が再び襲われる可能性があるということだ。
なんとしても早めに狩らねばならない。
道と馬の屍骸のある場所の間辺りに、まだ何かがあった。目を凝らして見てみると、どうやら馬車の残骸のようだ。
「あれは恐らく、馬車に繋がれたままの馬を銜えて引きずってったな・・・。」
途中で馬が馬車から外れて、馬車だけそこに置き去りになったのだろう。・・・足跡はあまり大きなものではなかった。すると怪力の魔物か。
反対側に目をやると、さほど離れていない所に森が一部途切れている場所があった。
崖か段差があるのかもしれない。
少し離れた所の馬の死体を眺めつつ。神経を研ぎ澄ますも、魔物の気配など全く感じられない。
「あっちいな。」
風は吹いていたがぬるく、影が多い樹の下と、陽を遮る枝が少ない樹の上とでは気温が全く違っていた。
左手を額にかざし、恨めしそうに真っ青な雲ひとつ無い空を見上げる。
「夜まで待たなきゃダメかもな。」
シオンは樹の枝に腰掛けながら、脳内で魔物と対峙した時の手順をひたすら繰り返す。
今まで請け負った魔物退治は全てこなしてきた。中には熊ほどの大きさのものもいたが、シオンの敵ではなかった。
「今度も絶対に仕留めてやるぜ。」
そのためには初撃を有利に行う必要がある。最初が一番肝心なのだ。
―――何時間たっただろう。
少し涼やかな、夕方の風が吹いてきた。風向きが少し変わる。
「やばいな。風下がずれちまった。少し場所を移動しておくか。」
樹を降りようとしたシオンだったが、何かがこすれるようなかすかな音を聞いて動きを止めた。
「どこからだ?」
すぐ真下にある薮が僅かに動いていた。
あそこか。鹿か?いや。あれは。
「来やがったな。」
薮から姿を見せたのは、獣形の初めて見る魔物だ。
思っていたより幾分小さかったが、長い耳と短めの尻尾に、身体は粗い鱗で覆われている。
前足が小さく後ろ足が大きいので、まるで兎のようだったが、顔はドラゴンに似ている。そんなに可愛らしい生き物ではないだろう。
何より馬を喰らったのだから絶対に肉食だ。上から見ても長い牙があるのがわかる。
魔物は何の警戒もせず、真っ直ぐに馬の屍骸に向かっていった。そしてすぐに骨を齧り始める。
シオンは出来るだけ音を立てずに樹から降りた。
長い耳を持っているにもかかわらず、魔物が気が付く気配は無い。
ガリゴリと音を立てて馬の骨を咀嚼している真後から忍び寄る。魔物からは風下だが、あの長い耳が飾りで無かったら、きっと音に敏感に違いない。
音を立てないよう足を運ぶのに、あの鹿皮の靴底が役に立った。
この種類の魔物を見るのは初めてだったが、大抵の獣型の魔物は尻尾の上辺りが弱点だった。確証は無かったが、初撃はそこが一番妥当だろう。
シオンはゆらゆらと揺れている魔物の短い尾の少し上、背骨と腰骨の間辺りに狙いを定めた。
すっと剣を抜き、上段からやや斜め下に剣先を向け、渾身の力で狙った場所に突き立てる。
キイン。
「なにっ!」
金属的な音と共に、とてつもなく硬いものを叩いた感触がして剣が跳ね返された。剣を握る両手に鈍い痺れが走る。魔物の身体を覆っている鱗に阻まれたのだ。
魔物がゆっくりと振り返る。シオンの攻撃はまるで通じていないようだった。
猫の目のように縦に割れた瞳孔が、シオンを捉える。
「ギィィィヤァァァァァァァァァッ」
いきなり大音量の悲鳴のような声で魔物が吼え、びりびりと辺りの空気が震えた。
「!!」
急いで耳をふさぐ。が、まだ鼓膜が細かく振動しているようだ。魔物は銜えていた骨をぽとりと落とすと、ずらりと並んだ歯をカチカチと鳴らしてシオンに向き直る。
「ギィィィヤァァァァァァァァァッ」
「くそっ!」
慌てて剣を握りなおすが、耳をつんざく悲鳴のような咆哮と共に、鋭利な牙が唸りを上げて迫ってくる。
ぼんやりした魔物かと思っていたが、かなりの素早さだった。
剣を盾に牙を避けるが、凄まじい速さで繰り出されるその牙は、シオンの動体視力をもってしても殆ど見えない。
凄まじい速さで繰り出される牙が空を噛む。
次第にシオンは押されていった。
こんな筈ではない。とシオンは思っていた。
自分は中堅クラスのハンターや冒険者にも引けは取らないはずだ。それがどうだ。驢馬より少し大きいくらいの魔物に翻弄されている。
「ギィィィヤァァァァァァァァァッ」
ガキッという音と共に、シオンの動きが止まった。魔物が剣に噛み付いたのだ。ぐいと引っ張られ、堪えきれずにたたらを踏んだ。
「くそがああっ!」
裂帛の気合と共に、がっちりと合わさった歯の隙間から力任せに剣を引き抜くと、その力そのままに斬りつけた。
ガチイン。
剣が跳ね返された、と思う間もなく、魔物の大きな後ろ足が、凄まじい勢いでシオンを蹴りつける。
「ぐっ!」
蹴られたシオンは飛ばされ、受身も取れないまま地面に叩きつけられた。
「ぐあぁぁぁっ。」
なおもごろごろと地を転がり、次の瞬間。―――唐突に、地面の感触が消えた。
「!?」
空中に放り出されたと認識する間すらなく、シオンの身体は崖下へと落ち、そして。
思考が停止した。