序、
深い山奥のとある静かな谷。今その片隅で静寂を破るかのように、びょうと風が吹いた。
山を抜け旅をする者でも居れば、恐らく、この風には意思があるに違いない、と言っただろう。
それほどまでに、その風は強く、まるで生き物のように谷間の一角を駆け抜けた。
だがこの谷は深く、旅人など通りかかる事もない。
思念体があった。
それは明らかに意思を持っていた。
それは意思のみならず、深い知性に彩られてもいた。
それらの力に触れた者によっては、その力は恵みとなり、またある時には仇なすものとなり、そしてまたある時にはあまりにも強大すぎるその力に、神と崇められもした。
彼らはそれぞれが独自に意識を持ち、まるで賢者のように知恵をめぐらせる事が出来たが、自分自身の肉体を持たなかった。
それゆえ他と同化する事によって悠久の時を生き、人間の思いもよらない太古から、その種を繋いできた。
大自然と共に存在する彼らは、あるものは樹に、あるものは大地に、あるものは岩に同化し、長くそれらと共にあった。
ほぼ百年に一度、彼らは新しい思念体の基となるものを、大気の中に送り出した。
空中へと吐き出された思念体の基は、風に乗り、そしてやがて辿り着きしがみついた物と同化する。
そうやって新しい思念体がまた生れるのだった。
同化したものと命を共にする為、樹よりも山や岩として存在するものの方が、その命は長く、また力も強かった。
彼らは一度同化してしまうと、もう二度と自力で移動する事は出来なかったが、その代わりに沢山の不可視な思念の触手を空中に漂わせていた。
それらはまるで、植物が地中に根を張り巡らすかのように広がり、やがて触手同士が絡み合い複雑な思念の網を張りめぐらせて、精神の世界とでも言うべきものを作り上げていた。
それにより、彼らは個でもあったが、同様に全てでもあった。
ある年、その地方には長いあいだ雨が降らず大干ばつが襲った。自然は無慈悲にもその牙を剥き、あらゆる厄災が猛威を振るった。
ある村では多くの村人が飢えと乾きに苦しみ、そしてまるで枯れた草が地に倒れるようにして、死んでいった。
村はずれにあったその大岩は、誰にも知られてはいなかったが古い思念体のひとつだった。
岩は、長きにわたって育んでいた思念体の能力で、自身である岩の割れ目から懇々と水を湧き出させた。
岩が水を生み出したのは、程近い場所にあった思念体である樫の樹が、渇きにより命尽きかけたからだったが、村人は「奇跡の泉」と呼び、その大岩を神の岩と崇めた。
そうして人々は、その岩に命を救われた。
ある森は、その奥深くに数体の思念体の樹を抱えていた。思念体は自分達の住まう森に人間が足を踏み入れ、木を伐り獣を狩るのを良しとはしなかった。
その森深く入り込んだ者は、思念体達が出した力ある霧に惑わされ、二度と家族の元に戻る事はなかった。
人々はその森を「魔の森」と呼び怖れた。
彼ら思念体は、人の世の善悪と言う概念を持ち合わせてはいなかった。
力は力だった。
力でしかなかった。
彼らは人間にその姿を見られる事など無かったので、人々は思念を持つ種族が存在する事すら知らなかったが、その力を知らないものは居なかった。
その不可思議な力に触れた者達は、それらを「神の御技」あるいは「魔の所業」と呼び、ときに敬い、あるいは畏れ、またあるいは嫌悪した。
力あるものは、ときに力の持ち主の都合や思惑とは関係なく、良くも悪くも信仰の対象になるのだった。
そして確かに、さきほどこの谷を吹き抜けた一陣の風には、誰も及びもつかないような意思が宿っていた。