青空に消えたラストボール
テレビをつけると一面に坊主の集団がいた。坊主と言ってもお寺の坊さんではない(そちらの坊主ならびっくりだ)。この場合の坊主は、炎天下の中、通気性の悪そうな衣を全身に身に纏い、一途に白球を追いかける殊勝でMな――高校球児達のことである。
もうそんな時期なのか、とソファーに寝転がりながら佐藤は窓の外に目をやった。雲ひとつ無い空が延々と広がっている。今日が休みで良かったとつくづく思う。こんな殺人的な炎天下の中、営業の外回りなど堪ったものじゃない。
佐藤はソファー付近に転がっていた冷房のリモコンを手に取り、温度をピッピッピと下げた。エコだ節電だと世間が声高らかに叫ぶ中、暑がりの佐藤は「俺には関係無いね」と言わんばかりに地球温暖化に拍車をかけていた。倹約家の妻がこの場にいようものならさぞ咎められていたことだろう。しかし、妻は小学二年生の息子を連れて買い物に行っている最中。鬼のいぬ間に何とやら。非常に快適だ。
気持ちが良くてつい欠伸が出る。欠伸につられてだらしなく上下するお腹。
……最近ちょっと肥えてきたかな。そういえばここ数ヶ月妻が夜の相手をしてくれなくなったなぁ、と軽い危機感を覚えつつも佐藤は手元のコーラで喉を潤した。温い。
小さな箱の中では、球児達がマウンドを囲むようにして集まっていた。輪の中心にいる細長の少年は、頻りに額の汗を拭いながらキャッチャーの言葉に頷いていた。チームメイトが笑顔で背中をぽんと叩くも、のっぽ君の表情は硬いままだった。
「さぁ、最終回ツーアウトながらも土壇場の攻撃で満塁。点差は僅か一点差! しかも次のバッターは先制タイムリーヒットを放っているS高の主砲、益田君です!」
なるほど、そりゃ表情も硬くなるわけだ。
いつしか佐藤はソファーから起き上がり、身を乗り出すようにして野球中継に見入っていた。高校野球はプロ野球と違って一回限りのトーナメント。敗者に明日はない。だからこそ、少年達の戦う姿はひたむきで輝いて見える。飛び散る汗は太陽に煌めき、土にまみれるほど彼らは美しい。佐藤はいち野球ファンというより、いち高校野球ファンであった。
守備側のA校の選手達が「おう!」と力強い声が上げた。
「A高校の選手が各定位置に戻っていきます。ピッチャーの村田君は依然として表情が硬いままです」
そりゃ、そうだろう。自分の一球にチームの命運が掛かっているんだ。緊張しないわけがない。いくらでかいなりをしていようと、何万人もの観衆に一挙一動を注目されながら投げている少年は、まだ十七、十八の子供なのだから。
「益田君は今日当たっていますからね。甘い球は一発で仕留めてくるでしょう。村田君には是非とも落ち着いて本来の投球をして貰いたいものです」
言っている事は正しいが、無責任な解説だ。それが出来たら苦労はない。グラウンドの選手達の緊張や不安は、当事者達にしか分からないものなのだ。解説席からじゃ程遠い。そんな所からマウンドに立つ者の孤独が分かるわけがない。
佐藤は息をするのも忘れて白い孤島に足を置く村田を見守った。
村田はキャッチャーのサインに一度で頷いた。こんな些細なワンシーンでこのバッテリーが過ごしてきた日々を垣間見た気がした。このバッテリーは、お互いを信頼し合ったいいバッテリーだ。
山本リンダの「狙いうち」が球場の熱気を高める中、村田は一つ息を入れ、セットポジションから真っ直ぐ足を上げた。真っ直ぐ上げた足がバッターの方へ向かっていく。大きく胸を反らせ、左腕を鞭のようにしならせ――指先から白球を放った。彼の背中が不自然に揺れた。それは刹那の出来事であった。
放たれた白球は次の瞬間、甲高い金属音を残し、青空へ吸い込まれるようにして舞い上がっていた。カメラがすぐさまセンターの選手を移す。センターの選手が懸命に背走で追いかける。センターの選手は目いっぱい打球を追いかけ、全身を使って飛び込んだ。
しかし、飛び込んだ彼を嘲笑うかのように、白球は彼の遥か後方に落ちた。
ワンバウンド、ツーバウンド、スリーバウンド……。打球が止まるよりも先に甲子園球場は歓声に包まれた。
試合が終わると、目を背けたくなるような光景がモニター越しに映っていた。劇的な勝利を収めたS校の選手達が笑顔を爆発させながらアルプススタンドへと駆けて行く中、ベンチに座り込んだまま動けずにいるA校の選手達。皆、肩が震えていた。
逆転サヨナラヒットを放ったS校の主砲は、チームメイトから手荒い祝福を受けていた。途中「やり過ぎだ!」と言わんばかりにチームメイトを振り払っていたが、勝った悦びと実感はしっかり体に刻みつけたようだった。
「益田君嬉しそうですね」
「そうですね。しかしまぁ、よくあの緊張する場面で決めてくれました。見事としか言いようがありません! 初球から狙い球を絞って思い切りいき……」
劇的な幕切れにアドレナリンが大量分泌されたのか、解説者の口がよく回っていた。時折専門用語を交えながら、いかにあの一打が素晴らしかったか若手のアナウンサーに熱く語っていた。
若手アナの返す言葉がそろそろ苦しくなってきた頃に、カメラのカットが益田から村田に変わった。「あ、映像が村田君に変わりましたね」若手アナの声はどこかほっとしていた。
村田はチームメイトが俯きながら涙を零す中、一人だけ顔を上げてグラウンドを見つめていた。虚ろな瞳だった。まるでほんの数分前まで戦っていた自分の姿を探すかのように。
二十年前の自分を見ているようだった。
何だか居た堪れなくなって、佐藤はテレビを消した。そして、ほんの少し残っていたコーラを手に取り一気に飲み干した。静けさに包まれた部屋にゲップの音がよく聞こえた。
勝ち負けのある世界はつくづく残酷だ。いくら努力しようと負ければそれで終わりなのだから。
自分もかつてはそういった世界で戦っていた。何度も悔し涙を流しながら、何度も歯を食い縛りながら。栄光に向かって、甲子園という聖地でプレイする自分の姿を夢見て。
けれど、残念な事に甲子園まで残り一勝が届かなかった。地方大会の決勝戦、佐藤の指先から離れたボールは青空へと打ち返された。泣き崩れるチームメイト達。天を仰いだ監督。
自分だけでなく多くの人間の三年間を終わらせてしまったあの一球を、佐藤は二十年経った今でも忘れられなかった。当時のチームメイトは「俺達惜しかったよな」と笑顔で試合を振り返る。佐藤も場の空気に合わせて笑うには笑うが、心の中ではいつも「ごめんな」と頭を下げていた。
もう二十年以上も昔の話だ。とっくに時効だよな、頭では分かっていても夏が来るたびに佐藤は思い出してしまう。許されない過去を。許してはいけない過去を。
テレビの中にいた村田という少年も、いつかこうして自分と同じように過去を思い返すようになるのだろうか。階段の上り下りだけで息があがるようになろうと、頭の毛が薄くなろうと、夏が来るたびに、あの日、青空に消えたラストボールを。
明日より始まる選抜大会。
一体どんなドラマが待っているのか楽しみです。