第七話
「ほら、こっちも美味いぞ。少し食べてみろ」
「──っん、ホントに! リアムさんも味見どうぞ」
「うん……魚も悪くないな」
約束を交わした日の時間ぴったりに現れたリアムさんは、拍子抜けしてしまうほど簡単に私をあの大神殿から連れ出してくれた。聖女が暮らす区画の奥、私に宛てがわれた物置部屋の前に平然と立っているのを見つけた時は、流石にこの人は何者なんだと顔が引きつってしまったけれども。
一緒に旅を始めてからは、驚くほどに快適で楽しいことばかりだ。異性と二人で長時間馬車に乗っているにも関わらず、気まずい思いも恐怖を感じることもなく過ごせているのは相手がリアムさんだからこそなのだろう。
最初は少し堅い印象があったけれども、数日もすれば気安い会話も交わせるようになり。今では私を太らせようとしているのか、やたらと食事や甘いものを勧めてくるようになってしまった。まあ実際リアムさんのおすすめは本当に美味しいものばかりだし、滅多に食べられなかったこともあって甘いものは大好きだ。別々のメニューを選んで一口ずつ交換するのも色んな味付けが試せて嬉しいし、日持ちするお菓子を買って馬車内で話をしながらつまむのもなかなかに楽しい。
十四歳で神官たちに押し込まれた馬車では、地獄へ向かうような気持ちのする一ヶ月だったのに。
「あと、何日くらいで着きそうですか?」
「そうだな……天気が崩れなければ、だいたいあと半月くらいか」
「プレリエを経由するよりもこの道の方がだいぶ近いんですね」
「ああ、そうだ。早くご家族に会わせてやりたいのは山々だが、あちらの準備もあるだろう。再会は帝国に着いてからになるが、もうしばらく待って欲しい」
「もちろんです。ご尽力を感謝します」
早く家族に会いたいのは本当なのに、なんでだろう。もう少しだけ、この旅が長く続いてくれたらいいのにと思ってしまう自分がいた。
「あっ、リアムさんあの店! すっごい良い雰囲気じゃないですか?!」
「お、確かに。シャルロットもなかなかいい嗅覚をしているじゃないか」
「ふふっ、美味しいお店の選び方はもうばっちりリアムさんに仕込まれましたからね。私だっていつまでも物知らずの田舎娘ではないのですよ? さあ早く行ってみましょう!」
自然を装い、ゆったりと歩くリアムさんの大きな手を取ってぐいぐいと引っ張る。優しく目元を和らげた彼は指先にきゅっと力を入れて、握り返してくれた。
「ほら、そんなに急ぐと転ぶから。菓子は逃げない、慌てるな」
「もうっ、子供じゃないんだし転んだりしません! 今日の宿に着く時間が遅くなったら大変かなと思っただけです!」
「おう、そうかそうか。そりゃ悪かったな。じゃ、さっさと買って出発しましょう、レディ」
雨は、降らなかった。
順調に旅路は進み、私は十七年間生まれ育った母国をあっさりと後にしたのだった。
◇
「それじゃ、仕事行ってくるね!」
「気を付けてね、シャル」
「父さんも途中まで一緒に行こう」
「姉ちゃん、頑張ってね~!」
リアムさんによって帝国まで連れて来てもらった私は今、あの日の提案通りに診療所で仕事をしている。とはいえ基本的には薬師見習いとして薬草を調合したり、包帯を巻いたり、空いた時間は怪我や病気の知識を得るべく勉強をしたりといった毎日だ。私が聖女として治癒の力を持っていることは基本的に内緒にしており、ここで知っているのは所長であり医者のエズラさんだけ。どうしても私の力が必要だと判断した時にのみその力を使うようにと厳命されている。
この国に来て最初に、皇帝陛下との謁見があると言われた時には驚きすぎて固まってしまったけれど。考えてみれば、他国の神殿に囲われていた筆頭聖女を攫ってきたのだから下手をすれば戦争ものだ。リアムさんにそっくりの顔をした皇帝陛下は気にすることはないと鷹揚に笑い、いざという時には力になってくれと言って私の移住を認めてくれた。
そう、なんと、リアムさんは皇帝陛下の弟だったのである……! それを知った衝撃のおかげ? で、謁見自体はなんだか訳の分からないうちに終わっていたのはある意味良かった……のかもしれない。
家族たちはみな、私との再会を心から喜んでくれた。薄々予想はしていたものの、やはり私の仕送りは届いていなかったようだ。着服していたどこかの神官は天罰でもくらえばいいと思う。
プレリエに家があり、長年続けて来た生活や仕事があるから、もしかすると再び一緒に生活をするのは無理かもしれないと思っていた。けれど両親も弟妹たちも即決で帝国への移住を快諾し、リアムさんが寄越してくれた使者が驚くほどの速さで荷造りをしたそうだ。
記憶の中よりほんの少しだけ痩せたお母さんと、何かを堪えるように唇を噛み締めたお父さんに抱きしめられて、私はあの日以来初めて声を上げて泣いた。ヤンチャばかりしていた弟は随分と背が伸びて、心なしか精悍な顔つきに変わっている。プレリエではお父さんの仕事の手伝いも始めていたようで、ナイフを持つ手の平には硬いタコも出来ている。妹は髪の毛が伸びてとても女性らしくなった。顔つきもお母さんに似て可愛い系だから、都会に出てきたら余計な虫が付かないよう気をつけた方がいいだろう。と、思ったのは一瞬のこと。手早く髪の毛をひとつに纏めた後、動きやすそうな服に着替えた彼女はあの頃と変わらぬ悪戯っぽい笑顔を浮かべつつくるりと回ってみせた。
「ね、お姉ちゃん見て! これが私の狩り用の服でー、得物はこれ!」
自慢げに差し出した手に握られた無骨な弓を見て、この子は大丈夫だわと笑いが漏れてしまった。そういえば、うちの双子たちはいつだって一緒なのだ。弟が狩りに出ていたならば、妹も同じに決まっている。身体を動かすのが大好きだった二人は、順調な成長を遂げているようだった。
「エズラさん、おはようございます」
「おはよう、シャルロット。今日は傷薬の補充を頼むなぁ」
「はいっ、分かりました。早く他の薬も調合できるように頑張りますね!」
「ほっほ。まあ焦らずやりなぁ」
私の祖父くらいの年齢であろうエズラさんは、いつだってのんびりゆったりしている。ふさふさの眉毛と顎髭は今や真っ白だけれど、若い頃はリアムさんと同様艶々の黒髪だったそうだ。患者さんへの優しい対応や私への休憩の指示にも気遣いが溢れ、昔はたいそう女性にモテたらしいという噂には信憑性がある。
夜間には夜間担当のお医者さんがいるので残業もほとんどないし、突発的な重症患者でも現れない限りは毎日時間通りの働きやすい勤務形態だ。そしてそんな重症患者であれば、本人も気付かない程度にほんの少しだけ私が力を使うこともある。完全に治癒してしまうのではなく、人間本来が持っている『闘う力』に活力を与えるようなイメージだ。早く元気になってねと心から祈ることができる今の環境が楽しくて、嬉しい。
「よう、シャルロット。変わりはないか?」
「あっ、リアムさん、お帰りなさい! お仕事終わって戻られたんですね」
「今回は短かったからな。ほら、これ土産。あっちの国で今人気の菓子だそうだ」
「わ、すごい綺麗な飴細工……って、あれ? リアムさん、またどこか怪我してません?」
「ん? ああ、いや大したことないから問題ない。休暇の間に塞がるさ」
「もうっ、駄目ですよ、菌が入ったらどうするんですか。さあ早く先生に診て貰って! 傷薬は私が作ったものがあるんです。リアムさん用に特別なのもありますよ」
初めて会った時ほどの傷ではないけれども、この人は現れる度にどこかしら怪我を負っている。見えるところも見えないところも、感覚で分かってしまうのだからいい加減誤魔化そうとするのはやめて欲しいのに。ちゃんと尋ねたことはないけれど、多分他国の情報を調べに行ったりする諜報的なことをしているのだろう。危険なこともしているのかと思うとなんだか胸の奥がざわついてしまう。またあんなふうに、命が流れ出すような大怪我を負うことがあったら……。その時、その場に私はいないのだ。だからこそ私の力を知っている彼だけのために、力を込めた傷薬を作った。エズラさんも、リアムさんに渡す物だけならと許可を出してくれた。その本人が一番あっけらかんとしているのだから、こちらの気持ちも考えて欲しいのだけれど。
「ははっ、相変わらず心配性だな。分かった分かった、ちゃんと診てもらうさ。それに聖女様特製の傷薬だなんて、ありがたすぎる品物だな」
「もう……そもそも私が聖女だから、治癒の力の為にスカウトしたんじゃないんですか? それなのに当人であるリアムさんがその力を使わないなんて、なんだかおかしい気がしますけど」
「うーん……まあ確かに、最初はそのつもりだったんだけどなぁ」
僅かに肩をすくめて困ったように笑ったリアムさんは、ひとつ息を吐くと真っすぐに私を見つめて口を開いた。
「あの日君は驚くほどあっさりと提案に同意して付いて来てくれたけれど、もしそうでなかったら力ずくで排除する未来もあったかもしれない。他国の手中にあるくらいなら、どこにも存在しない方がマシだというほどの素晴らしい力を君は持っているから」
「──排除……」
それがきっと、彼の本来の仕事でもあるのだろう。己の指先が小さく震えた。
「だけど、そうはならなかった。旅の間は、本当に楽しくて。身分も仕事も忘れて君と過ごす時間がこのままずっと続けばいいと思ってしまうくらいには」
「──っ、私も……そう、思っていました」
いつの間にか家族と再会するという夢を塗り替えてしまうほどに、リアムさんの存在が大きくなっていたのだ。
「帝国に来てからは、憂いが晴れたからか表情も明るくなったよな。身体つきも健康になってきたし、肌も髪の毛も手入れして一層美しく魅力的になってしまって。真面目に仕事をする姿も、俺がここへ来るとお帰りなさいって笑ってくれるその顔も。もっとずっと、見ていたいと思うようになっていた」
「それ、は……」
「俺だって一応それなりの権力を持っている。だけど、それは裏を返せばいつだって足元を掬われかねない危うい立場ということだ。一方君は本来であれば、それこそ救国の聖女として皆に傅かれ崇められる存在にもなれる力を持っている。俺なんかが、触れてはいけないような……そういう神聖な存在なのではないかとも」
「そんなことっ、望んでいません……っ!」
「ああ、分かっている。怖気付いた男の、ただの言い訳さ。けれどもう、いい加減認めよう。シャルロット──君が例え聖女じゃなくても。特別な力がなくても、君のことが好きなんだ」
大好きな家族たちの怪我や病気を治してあげられるのは、単純に嬉しかった。神殿に連れ去られてからは、こんな力なければよかったのにと思ったこともある。だけどどちらにしてもこの力はずっと、私と共にあったものだ。
リアムさんもその素晴らしい力を帝国で使って欲しいと言い、私はそれに応えてこの国にやって来た。家族とも再会することができ、働く環境だってあの神殿での生活に比べたら天と地ほどに大きな違いがある。リアムさんが望むのならば、いくらだって役に立ちたいと思っているのに──その彼自身が、私を聖女でなくてもいいと言う。
それは、なんて──。
「嬉しい……」
涙が一粒、頬を伝い流れて落ちた。
伸ばされた大きな手が一度強く握られ、ふるりと震える。
「──俺は……君に、触れてもいいか……?」
いつだって怪我をして帰って来るリアムさん。彼が何と戦い、何を思っているのか私は知らない。
けれど私が本当に聖女だというのならば、その心の中の傷まで治せたらいいのにと思う。
「触れてください、いくらでも」
「シャルロット……ありがとう」
涙の痕を優しく拭い、そのまま私の頬を包んだ彼の手は温かい。瞼を閉じてその大きな手に頬をすり寄せると、吐息のような笑い声と共に柔らかな口付けが落とされた。




