第3話/巻き起こる赤い嵐
朝の柔らかな光が工房の窓から差し込む。
俺は机の前に座る岸本春男を見つめ、深く息を吐いた。
「先生……融合案、お願いできませんか……」
岸本は煙草の煙をゆらしながら、ゆっくりとノートを開く。
「桐谷君、まるで刀と筆を同時に振るうようなものじゃのう……」
眉間に皺を寄せ、煙をくゆらせながらペンを走らせる姿は、まるで剣士が紙の上で斬撃を放っているかのようだ。
俺はノートに目を落とす。融合案は、昼は町娘に優しい浪人、夜は悪を斬る剣士という二重生活を描き、恋と正義の葛藤を両立させるもの。さらに、悪役のバックボーンや差別表現修正、成年同士の恋愛設定など、現代のコンプライアンスに合わせた修正も加える必要があった。
岸本は煙草の灰を指先で払いつつ、ページをめくる。
「ふむ……町娘との昼のやり取り、夜の剣戟、悪役の過去、恋愛設定……よし、やってみるか」
その声には、どこか楽しげな響きがあった。
俺は小さく頭をかき、ため息をつく。
――血と剣の熱さ、恋の甘酸っぱさ、悪役の複雑な過去……これらを融合させ、赤ペン地獄を生き延びる原稿にするのは、文字通り頭の体操どころではない。
「先生……これ、赤ペン部隊に見せたら、間違いなく切り刻まれますよ」
俺はノートを差し出し、緊張気味に付け加える。
岸本はニヤリと笑い、ペンを持ち直した。
「ふふふ……桐谷君、それもまた楽しみじゃ。鬼どもの赤ペンの前で、わしの筆がどう戦うか」
二人で原稿を抱え、局への道を歩く。
工房の古い床板が軋む音に合わせて、俺の心拍も早まる。
原稿の重みは物理的にも精神的にも肩にのしかかる。
道すがら、岸本がポツリと言った。
「桐谷君、この原稿、書き直しは覚悟せよ。赤ペンの嵐は、熱さを試す試練じゃ」
俺は握り拳を作り、少し笑いながら答える。
「わかってます……でも、局長や鬼どもに折れない熱を見せなきゃ、生き残れません」
途中、若手局員に呼び止められる。
「おや、朝から大作を抱えて……どうしたんですか?」
俺は苦笑しながら原稿をぎゅっと抱える。
「コンプライアンス部の鬼たちに挑むところです」
岸本は肩をすくめ、煙草をふかしながら軽く笑った。
「ふむ……鬼どもに勝つのも悪くない。桐谷君、心せよ。原稿はこれから真の試練に晒される」
局のロビーに着くと、俺は深く息を吸った。
――あの扉の向こうに待つのは、赤ペンの嵐。
熱と恋、剣戟、悪役の複雑な背景……すべてを抱えた原稿が、地獄の門をくぐる瞬間だ。
岸本は俺の肩を軽く叩き、にやりと笑う。
「桐谷君、準備はいいか? 我らの融合案、赤ペン地獄に生き残らねばならぬぞ」
俺は握り拳をさらに強くし、目を見開いた。
――ああ、やるしかない。テレビ業界の時代劇制作は、熱と涙、そして赤ペンの三重苦の連続だ……。
そして、重いドアを押し開けた瞬間、俺は覚悟を決めた。
赤ペンの嵐が、すぐそこに待っている。
融合案の初稿を手に、俺は会議室のドアを押した瞬間、冷たい空気が全身を包んだ。
コンプライアンス部の面々はすでに席についており、その目には炎が宿っていた。手に握られた赤ペンは、まるで原稿の魂を裁く剣のように光る。
一人が低く声を発した。
「まず、『必殺』という言葉は使用できません」
俺は机を握りしめる。
――え? いや、タイトルの半分が消える!?
続けて別の鬼――もといコンプライアンス担当が指摘する。
「主人公が町娘を夜に連れ出す描写も不適切です」
「未成年保護の観点から、恋愛関係は成年同士に修正してください」
「‘百姓’という言葉は差別的に受け取られる可能性があります。‘農民’に変更すべきです」
俺は額に冷や汗を浮かべ、頭を抱えた。
机の上の原稿が、まるで地雷原に置かれた爆弾のように次々と指摘されていく。
さらに別の声が響いた。
「悪役のバックボーンが描かれていません。現代では、なぜ悪に染まったのか明確に示す必要があります」
「単純に悪いことをしているだけでは視聴者に共感されません」
岸本春男は煙草の煙をゆらしながら、眉をひそめた。
「……なるほど、わしの熱い剣戟と恋の描写も、現代の若者には危険と見なされるか……」
俺は必死に原稿を擁護する。
「先生、このシーンの剣戟は必要です! 主人公の葛藤と町娘との関係を描くために、昼の優しさと夜の正義が対比される重要な場面です!」
しかし赤ペンは容赦なく、ページの端から端まで走る。
「ここも年齢設定が不明確です」「セリフが暴力を助長する表現になっています」「背景説明が不足していて、悪役が理解されません」
俺は頭の中で計算する。
――この原稿を放送可能にするには、恋の設定を成年同士に変更、タイトルは変更、町娘の夜の行動削除、悪役の背景追加、差別的表現の修正……。
文字通り、赤ペンの刃が原稿を削り、脚本を骨だけにしていく。
岸本は苦笑しつつも、ペンを持ち直した。
「……ふむ、これは時代劇というより、赤ペン地獄の指南書じゃのう」
俺の胸は張り裂けそうだった。
しかし目の前の赤ペンの嵐を避けることはできない。
机の上の原稿は、線と丸と修正指示で文字通り赤く染まった。
――俺は思った。
テレビ業界で時代劇を作るということは、熱と恋と剣戟だけでなく、無数の制約と戦う覚悟が必要なのだ、と。
会議室の蛍光灯はぎらつき、赤ペンの光は原稿をまるで裁きの炎のように照らす。
桐谷雅彦、テレビ局の端っこで小さな頭脳をフル回転させながら、赤ペン地獄の波に必死で抗っていた。
そして岸本春男は、微笑みながら言った。
「ふむ……わしは何度でも書き直すぞ、赤ペンの鬼どもに負けぬためにな」
俺は深く息を吸い、赤ペンの波をかいくぐる覚悟を決めた。
――ここからが、真の戦いの始まりだった。
会議室から撤退した俺と岸本春男は、肩を落としつつも工房に戻った。
机の上には、無数の赤ペンの跡が痛々しく残る原稿が散乱している。
俺は深く息を吸い、頭を抱えた。
「先生……これ、どうやって生き残らせるんですか?」
岸本は煙草の煙を漂わせながら、肩をすくめた。
「ふむ……赤ペンの嵐に耐えつつ、熱と恋を残す方法か。なるほど、頭を使わねばならんな」
俺はノートを手に取り、赤ペンで削られた箇所を眺める。
刀の振り方、夜の行動、町娘の未成年問題、悪役のバックボーン……。
すべてを修正しつつ、物語の熱量を損なわずに放送可能にする――まさにパズルだ。
岸本はペンを持ち、ページに向かって小声でつぶやいた。
「桐谷君、このシーンは昼と夜を入れ替えることで、赤ペンをかわしつつ物語を壊さずに済む……」
俺は目を輝かせ、ノートにメモを取りながら考えた。
「なるほど……昼は町娘への優しさ、夜は悪を斬る正義の顔を残す。悪役の過去は回想で描写すれば、赤ペンも避けられるかもしれません」
二人で原稿を広げ、指でページをなぞる。
「ここをこう変えて……ここを削って……セリフも少し丸く」
「悪役の心理は、一言二言のモノローグで十分伝わるはず」
岸本は楽しげに笑いながら煙草をくゆらせた。
「ふむ……赤ペンを逆手に取る技じゃな。桐谷君、これぞ現代時代劇の戦略」
俺は苦笑しつつも、赤ペンとの格闘の計算を続ける。
机の上には、赤ペン跡の原稿と修正案が山のように積まれている。
――赤ペンの嵐を避けつつ、物語の熱を残すためには、論理と戦略とユーモアの三つが必要だ。
岸本はページをめくりながら言った。
「桐谷君、この戦いは、単なる修正作業ではない。赤ペンの鬼どもに笑わせつつ、納得させるのじゃ」
俺はうなずき、作戦をまとめた。
1.剣戟と恋の二面性は昼夜の入れ替えで残す
2.悪役の心理は短い回想とモノローグで明確化
3.町娘は成年設定に変更
4.差別表現や時代考証の指摘は言い換え・修正
5.不適切な夜の行動は、別のドタバタ展開に差し替え
岸本は笑いながら、ペンを握る。
「ふむ……赤ペンの波を避けつつ、物語を生かす策……まるで忍者の戦法じゃな」
俺も笑い返す。
「先生……まさか時代劇で忍者の戦法を使うとは思いませんでした」
二人は笑いながら、赤ペン修正と戦う作戦を固め、夜遅くまで原稿と格闘した。
時に岸本は奇抜なアイデアを出し、俺はそれを現実的に修正。
時に俺は焦り、岸本は煙草をふかして余裕を見せる。
その繰り返しで、融合案は少しずつ、しかし確実に形になっていった。
赤ペンの嵐をくぐり抜けるための作戦――
それは、妥協と創意、そして笑いを武器にする戦いだった。
俺はノートにペンを走らせながら、心の中でつぶやいた。
――これなら、赤ペンの鬼どもも、少しは笑って許してくれるかもしれない。
テレビ業界で時代劇を作るというのは、熱と涙、恋と剣戟、そして赤ペンの嵐を生き抜くことなのだ、と。
工房の蛍光灯がちらつき、煙草の煙がゆらめく中、俺たちは原稿を抱え、次の戦場――コンプライアンス会議への準備を進めていった。
赤ペンとの戦いは、まだ終わらない。
しかし、俺は笑いと戦略で、少しずつ勝機を見出し始めていた。