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第1話/やれるのか?おい!!

 新宿の裏通りにある雑居ビル三階。くたびれた階段を上がるたび、何ともいえないカビ臭さとタバコの染み付いたにおいが鼻についた。

 そこに「岸本脚本工房」と書かれた色あせた看板が掲げられている。


 俺は緊張で喉を鳴らし、ノックをした。

 しばしの沈黙。やがて「入れ」という低い声。


 扉を開けると、煙がもわっと顔にぶつかった。灰皿には吸い殻が山のように積まれている。壁には色褪せた映画ポスターがぎっしり貼られていた。

『江戸炎上』『剣豪無頼伝』『斬!忠義の嵐』『血桜の剣客』……どれも血しぶきと剣戟の音が紙面から飛び出してきそうな代物だ。


 その奥に、でんと構えて座っているのが伝説の脚本家、岸本春男だった。

 背筋は曲がっているが、目の光は猛禽のように鋭い。シワだらけの顔は、長年の徹夜とタバコで刻まれた戦歴そのものだった。


「ほう……テレビ局の人間がわしを訪ねてくるとは、十年ぶりじゃの」

 低く唸るような声が響いた。


 俺は慌てて背筋を正し、名刺を差し出す。

「テレビ〇〇の桐谷と申します。この度、我が局で“時代劇復活プロジェクト”を立ち上げまして……ぜひ先生に脚本をお願いしたく――」


「よかろう」


 俺の言葉を遮って、岸本はあっさりと答えた。


「えっ、そんな簡単に……?」


「わしはな、この時を待っとったんじゃ」

 ギラリと光る眼差しが、俺を射抜く。

「時代劇はもう古い、誰も見ん……若造どもはそう言ってきた。だがの、刀を抜いた武士の覚悟、悪を断つ勧善懲悪の痛快さ、それが日本人の血に刻まれとる魂なんじゃ! 誰が何と言おうと、わしは信じとる!」


 そう叫ぶと、岸本は机の引き出しをごそごそと探り、分厚いノートをドンと叩きつけた。

 茶色く変色した紙の束。表紙には墨で力強く書かれている。


――『必殺・闇の仕置人』


 俺の目が思わず丸くなる。

 ……よりによって「必殺」!?


「ほれ、すでに書き溜めとったんじゃ。いつ呼ばれてもいいようにな」

 自慢げに胸を張る岸本。


 恐る恐るページをめくると、そこにはびっしりと書き込まれた物語が広がっていた。


 主人公は浪人・影十郎。昼間は裏長屋で子供たちに読み書きを教える心優しき男。だが夜になると“仕置人”としての顔を見せ、悪徳商人をバッタバッタと斬り伏せる。

 金に溺れた旗本、民を苦しめる悪代官、将軍家にすら迫る黒い陰謀――。血煙の中、影十郎はひとり刀を振るい、最後は己の潔さを示すために切腹する……。


「どうじゃ! これぞ時代劇、これぞ勧善懲悪!」

 岸本は目を輝かせ、拳を机に叩きつけた。

「今のぬるま湯みたいなドラマとは訳が違う! 視聴者は血が騒ぎ、涙を流し、明日を生きる力を得る! わしはそう信じとるんじゃ!」


 ……いや、熱い。熱すぎる。

 たしかに胸に迫る迫力がある。紙の上なのに血しぶきが飛んでくるようで、俺は思わず喉を鳴らした。


 だが同時に、俺の脳裏にはコンプライアンス部の顔が浮かんだ。


 ――「“必殺”という言葉は殺人を連想させるので不適切です」

 ――「悪代官? 職業や身分へのレッテル貼りにあたります」

 ――「悪徳商人? 特定の属性を否定的に描写するのはアウトです」

 ――「斬り捨てるシーン? 暴力的すぎます」

 ――「切腹? 自死を助長するので全面禁止です」


 ……ああ、これ一本で社内が火の海になる未来しか見えない。


 それでも岸本は胸を張って言った。

「どうじゃ桐谷君! これで視聴率30%は固い。いや、40%を叩き出すかもしれんぞ!」


 俺は愛想笑いを浮かべながら、心の中で悲鳴を上げた。

 ――頼むから、その“必殺”という二文字だけでも、何とか変えてくれ……!

 あの“必殺・闇の仕置人”原稿を前にして、俺は机の下で小さく震えていた。

 いや、震えている場合じゃない。これをそのまま提出したら、コンプライアンス部の赤ペンで紙の束が粉々になる未来しか見えない。


 そこで俺は、意を決して岸本春男に懇願することにした。


「先生……その、もう少し“現代の視聴者に配慮した”脚本を書いていただけないでしょうか……」


 岸本は煙草の煙をゆっくり吐き出し、怪訝そうに眉をひそめる。

「ほう……おぬし、わしの血と涙の作品を“現代風”にせよとな……?」


 俺は深呼吸をし、言葉を選びながら説明する。

「その、あの“必殺”の原稿……熱量はすごいのですが、現代のコンプライアンス部に通るかどうかが心配で……」

 さらに、咄嗟に閃いた案を口にした。

「例えば……主人公は浪人の剣士ですが、町娘との恋愛を軸にした物語にして、悪を成敗する剣士としての顔と、恋人に見せる優しい顔の間で葛藤するような、ドラマチックなラブロマンスにする……とか!」


 岸本は目を細め、煙草をくゆらせながら考え込む。

「……ふむ……恋と剣……なるほどの。確かに武士道だけでは現代の若者には響くまい」


 俺はすかさず追い打ちをかける。

「町娘との関係性を丁寧に描けば、視聴者も共感できます! 恋と義、どちらを優先するか葛藤する主人公……悪を斬る姿と人間らしい一面のギャップで、共感と胸キュンを同時に提供できます!」


 岸本はしばらく黙ったまま、原稿用紙の束を手に取ったり置いたりする。

 やがて、重々しくうなずいた。

「……よかろう。おぬしの言う通り、もう少し“柔らかさ”を入れてみるかの」


 俺の胸は一気に高鳴った。

 ――やった、代替案を受け入れてもらえた!


 岸本は筆を手に取り、目を閉じて集中する。

「主人公・影十郎は、昼間は町娘の世話を焼く優しい浪人。しかし夜は“影の仕置人”、悪を斬る剣士。その二つの顔に葛藤し、悩み、苦しむ……なるほど。これぞドラマじゃな」


 俺は紙に残された一行一行に目を凝らした。

 文字の勢いはそのままに、熱い剣戟と切ない恋心が交錯している。

 読んでいるだけで、胸がじんと熱くなる――しかし、コンプライアンス部の顔がちらつく。


 とにかく、この代替案なら、赤ペン祭りを多少は避けられるだろう。

 俺は岸本の背中を見ながら、心の中で小さく祈った。

 ――どうか、これで“何とか放送できる形”になってくれ……!


 こうして、伝説の大御所は“恋と剣の葛藤ラブロマンス時代劇”の初稿に取りかかることになった。

 しかし、この原稿もまた、テレビ業界特有の規制の荒波に揉まれる運命を避けられないことは、まだ誰も知らなかった……。

 岸本春男から二つの原稿を受け取り、俺は書類の束を抱えたまま、重い足取りで局長室へ向かった。

 廊下の蛍光灯は妙にチカチカと瞬き、まるでこの先の不穏を暗示しているかのようだった。


 ノックの音が響く。

「どうぞ」


 局長室に入ると、局長はデスクに深く腰かけ、書類の山を前に腕を組んで待っていた。表情は穏やかで、まるで自分の部屋でお茶をすする老人のようだが、その目は鋭く光っていた。


「桐谷君、進捗はどうだ?」

 にこやかな声。だが俺には、その期待が重く圧し掛かる。


 俺は書類を両手で差し出す。

「はい。岸本先生から二つの原稿をいただきました。こちらが『必殺・闇の仕置人』、そしてこちらが『剣士と町娘のラブロマンス案』です」


 局長は受け取ると、興奮した様子でページをめくり始めた。

 「おお……これはすごいな。どちらも熱量が半端じゃない!」

 顔に笑みが広がり、両手で原稿を抱え込む仕草はまるで孫の作文を読む老人のようだ。


 俺は微笑み返す。

「ありがとうございます……」

 表情は抑えているつもりでも、肩の奥で微かに震えが走る。


 ――しかし、心の奥底では戦慄が走っていた。


 “必殺・闇の仕置人”。悪代官、汚職商人、裏社会の黒幕を斬り伏せる影十郎。血煙、切腹、そして徹底した勧善懲悪。


 “剣士と町娘のラブロマンス案”。昼間は町娘に優しい浪人、夜は影の仕置人。恋心と義務の間で揺れ動く葛藤。情熱的な恋、緊迫した剣戟……。


 どちらも、熱い。熱すぎる。

 だが、俺の頭に浮かぶのはコンプライアンス部の顔。


 ――「必殺」の二文字は殺人助長でNG。

 ――悪代官の描写は差別的表現でNG。

 ――剣士が悪を斬るシーンは暴力的でNG。

 ――切腹? 自死助長でNG。

 ――町娘との恋の描写も、夜の接触は未成年保護でNG。


 ……考えただけで胃が痛くなる。


 局長は原稿を読み進めながら、表情を輝かせていた。

「いやあ、桐谷君! これなら視聴率は間違いなしだ! それに岸本先生の名は全国区。期待値も抜群だ!」

 机を叩き、身を乗り出す仕草は、まるで少年のような喜びだ。


 俺は口元に薄く笑みを浮かべる。

 「はい……期待に応えられるよう尽力します」


 しかし胸中は、全く喜びの余裕などない。

 肩の奥、心臓の辺りがぎゅっと締め付けられる。

 ――これから俺は、この二つの原稿をコンプライアンス部に持ち込まなければならない。

 赤ペンが飛び交い、熱血の剣戟と恋の葛藤が紙の上で粉々にされる……その地獄の光景が、鮮明に思い浮かぶ。


 机越しに見える局長の笑顔は、まるで陽光に照らされた暖かい庭のようだ。

 だが俺の胸中には、火口が煮えたぎる地獄の釜が待っているのを感じていた。


 ――喜ぶ局長と裏腹に、俺の中では戦慄の未来予想図が渦巻いていた。


 机の上の二つの原稿。

 どちらも宝物のように重い。だが同時に、俺の肩にのしかかる責任と恐怖の重さも、これまでで最重量級だった。


 俺は深く息を吸った。

 ――さあ、行くか。地獄の蓋が開く前に、心の準備をしておかねばならない。


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