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第九章『名前を呼ぶ風のなかで』

――風が、吹いていた。


ゆるやかに傾きかけた陽の光が、 田んぼの稲を揺らしていた。


緑と金が混ざったような穂が、 まるで波のように風に応えていた。


泥にまみれた足元。 濡れた手のひら。 ふと見上げた空は、 まだ完全には晴れきっていなかった、 けれど、雲の切れ間から差す光が、 誰かの言葉のように降り注いでいた。


「ねぇ――もしこのお米に名前を つけるとしたら……どうする?」


元教師、雪野百香里の声は、 遠くから風に乗って届いてきたようだった。


ばしゃめは、手を止める。 小さく息を呑みながら、顔を伏せた。 麦わら帽子のつばの影で、 まつ毛が微かに揺れていた。


「……お米に、名前……?」


陽菜が笑う。


「つけるよ、普通。 “こしひかり”とか、“ひとめぼれ”とか……ね?」


ばしゃめは、自分の名前を思い浮かべた。 人からからかわれたこともある、その響き。 小さくて、誰の記憶にも残らないと思っていた名前。


そんな名前が、いま――


「“ばしゃめ米”って、どうかしら?」


百香里のその声は、やわらかくて、 でも、どこか遠くの“過去”と 繋がっているような、切なさがにじんでいた。


風が止んだ気がした。 世界が、ひと瞬きだけ、 息を止めたように感じた。


ばしゃめの胸に、ひびく。


「ばしゃめ米……」


たった五文字のその名前に、 今までの涙や、泥にまみれた日々、 諦めかけた時間、誰にも届かなかった祈り、 そして、あの日出会った“光”のこと――


全部、詰まっている気がした。


「そんな……そんな……私に、そんな名前……」


声が震えた。 次の言葉が続かなかった。 でも、その頬には、気づけば涙が伝っていた。


それはきっと、“命名”されたからじゃない。 “見つけてもらえた”から、だ。


ずっと、自分でも気づかなかった気持ちに、 やっと名前がついたような気がしていた。


陽菜がそっと、手を握った。


「だいじょうぶ。 あなたの時間も、名前も、ここにちゃんとあるよ」


ばしゃめは、何も言えなかった。 でも、手だけは、しっかりと握り返していた。


風が、また吹いた。 


今度は、田んぼを優しくなでるような風だった。


雪野が、空を見上げて小さく呟く。


“ばしゃめ米”と名づけられたその田んぼは、


晴れた空の下、 


水面に光を映して輝く。


百香里が、そっと口を開く。


その声は、


永遠の別れを告げる覚悟に震えている。


雪野「陽菜……私、遠くへ行くことに決めていたの


新しい場所で、


自分をもう一度見つめ直したくて。  


教師として、


陽菜と出会ってこんなに頑張ってる姿を見てたら、


私も、前に進まなきゃって思ったの。


陽菜と出会ってこんなに頑張ってる姿を見てたら、

 

また…先生に戻ろうと思ったの…


戻れるかどうかわからないけど…


……ありがとう。


陽菜も…また高校生に戻るの、 応援してるから……」


天野陽菜 「……忘れないよ……ずっと…。」


空が、少しずつ晴れていく。 光が、ゆっくりと“ばしゃめ米”と 名づけられたその田んぼを照らしていき



数ヶ月の時が過ぎた

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