第七章 言の葉の陽菜
〜数ヶ月前〜
ゆるやかに降り続く雨は、 空と大地を分かつ境界を、 少しずつ曖昧にしていた。
傘を打つ雨粒の音だけが、 世界の輪郭をそっとなぞる ように響いている。
並んで歩くふたりの影。 ひとつは、 藍色の布傘。 もうひとつは、透明なビニール傘。
彼女たちの歩幅は、わずかにずれていた。 でも、すぐにまた、重なる。 「……少しは、落ち着いた?」
元教師――雪野百香里の声は、 柔らかく、
遠慮がちで。 それでいて、 どこか深くを見透かしているような 響きを持っていた。
「まだ……少しだけ、胸が痛い」
陽菜の返事は、小さくて。 けれど、
それだけで世界に波紋を起こすくらい、
確かな本音だった。
母親を失ったあの日、
陽菜は高校をやめ。
マクドナルドのバイトを始めた
朝のラッシュとかけ持ちの夜シフト、
カウンターとドライブスルーを走り回る。
笑顔を並べるたび、
母親のいない世界が、
心のどこかを締め付ける。
「無理しなくていいのよ。
陽菜がこうやって頑張ってるだけで、すごいわ。」
百香里の言葉に、陽菜は頷く。
ほんの少し、だけれど。
「お母さんが……天国で、笑っててほしい。
ちゃんと、生きなきゃって……思うの。」
その声は、雨に滲む。
でも、濡れた空気のように、
百香里の心に染み込んで、
いつまでも消えない。
(陽菜……あなたを支えることで、私も、
生きる意味を見つけたい。)
百香里の心が、そっと呟く。
教師をやめた後、
彼女の世界は色を失った。
生徒たちの笑顔、
教室のざわめき――
あの活気は、
今は遠い記憶。
ひとりアパートで、
雨音だけが響く夜、
自分がまだ生きている理由を、
見失いそうになる。
でも、陽菜の小さな一歩を、
こうして見守ることで、
心に小さな灯りがともる。
(お母さん……私、ちゃんと笑えてるかな?)
心の声は、雨に滲んでいた。 でも、 空気のように肌に染み込んで、 いつまでも消えなかった。
「……受け入れられないのね、まだ」 「うん。 あの日も、こんな雨だった。 もし晴れてたら……もっと、 綺麗な空を見せてあげられたのかなって。 最後に、何か……できたのかなって」
小道の端に咲いていた紫陽花が、 雨に濡れて静かに色を濃くしていた。 その花を、誰が見ているわけでもない。
けれど、それでも咲いている。 そういう強さを、陽菜は今、 思い出そうとしていた。 沈黙が、 ふたりのあいだに落ちた。
けれどそれは、 気まずさではなく、 互いが互いの“揺れ” に寄り添おうとするための、 静かな合図のようだった。
「彗星の降る夜空が好きな三葉のように… ……雨の日が、 好きな人もいるのかも しれない… この世界…には…きっと…」
唐突に落ちた雪野百香里という名の 『言葉』は、まるで詩のようだった。 曖昧で、優しくて、
けれど――まっすぐだった。 「……え?」 陽菜が顔を少しだけ向ける。 「涙が、バレないから。今の陽菜みたいに」 言葉は続かない。 続けなくても、 十分すぎるほど伝わっていたから。
陽菜は、何も言えなかった。 ただ、 口元にうっすらと影を落としたまま、 目を伏せる。 それでも、 心の奥で―― 何かが少し、 ほどけていく音がした。
「あなたのすぐそばに、 そんな人がいるかもしれないよ。 ー雨の日が好きな人ー」
雨の中、その想像は優しく、 あたたかかった。 陽菜はまだ 何も答えなかった。 けれど、言葉よりも先に、 彼女の “歩幅”が――先生の傘に、 そっと寄り添っていた。 静けさは、 まだ続いていた。