ep36 追走
8月22日 火曜日 AM7:00 医務室
薄く閉じたまぶたの上に、柔らかな光が触れた。
暖かい陽射しがカーテン越しに差し込み、その眩しさに神々廻は目を覚ます。
小さく開いた窓の隙間からは、かすかに鳥のさえずりが聞こえていた。
ひとつ、ふたつと続き、高く澄んだその声が、静かな朝の空気を優しく満たしていく。
神々廻が最初に感じたのは、昨日の夜の出来事は夢だったのだろうかという疑問だった。
けれどすぐに夢じゃないと気が付く。痛みや苦しみはないし、身体には活力が満ちている。よく見てみれば、自らに刻まれた黒い茨の紋様が消え去っていた。
ならばそもそも呪われたことすら夢だったのか? 第五守護獣を倒したことすら夢だったのか? 答えは否だ。
大きく乱れたシーツに残された赤黒い血の痕が、昨夜の出来事が全て現実であったことを示している。
「本当に、助けられた……」
死を受け入れているつもりだった。
夢ではないことを望み、二度と目覚めなければいいと思っていたはずだった。
けれどこうしてまた朝を迎え、呪いに縛られない自由を取り戻したことを自覚した途端、ポロポロと大粒の涙が溢れだした。
「う……、うぅ……ぐ、ぅぅ……!」
それは安堵であり、歓喜であり、そして感謝の涙だった。
死にたくないに決まっていた。
最後の守護獣を倒したこの現実で、もう一度目覚めたいに決まっていた。
ようやくこれまで歩いて来た道のりが未来へ繋がった。
今までの戦いは決して無駄ではなかった、泡沫に消えることはなかった。
彼女は何度も自分を救ってくれた。
それなのにまた、今度は彼女自身の可能性を賭してまで救ってくれた。
(ありがとう……、ありがとう……!)
嗚咽の止まらない口ではその言葉を発することが出来ず、神々廻は何度も何度も、繰り返し心の中でそう唱えた。
長い戦いの果てに、擦り切れてしまったのかと思われていた人間らしい感情が、再び少しずつ芽生え始めていた。
戦いが終わったのなら、神々廻はもう冷酷で合理的な予知者でも、命がけの覚悟を持つ戦士でもない。ただの17歳の少年だ。
「……探さなきゃ」
そうして涙を流しきった神々廻は、碌に身支度もせず医務室を後にした。
探さなければならない。報いなければならない。
もしも彼女が帰れなくなってしまったのなら、困っているのなら、今度は自分が彼女を救う番だから。
そして伝えたい。胸を焦がすこの感情を。
・ ・ ・
AM7:30 寮
「おー! 神々廻先輩ほんとに呪いが解けたんですね! 心配したんですからねこのこのー!」
「うん、心配かけてごめんね、遊斗」
朝目が覚めてとりあえず自室に帰ったというのが一番可能性としては高い、というか自然な行動のはずであり、神々廻は真っ先にパイロット寮にある彼女の部屋を訪ねてみた。
しかしノックをしても返事はなく、どうやら留守にしているようだった。そしてどこか別の場所を探しに行こうとしたところで、偶然部屋から出て来た神室と遭遇したのだった。
神室は勢いよく神々廻と肩を組み、空いてる方の手でツンツンと脇腹をつつきながら反省を促している。
「そういや先輩って俺のこと遊斗って呼びますけど、予知夢だと名前で呼び合う仲だったんすか?」
「そういう時もあったよ。その時の感覚で呼んでるけど、慣れ慣れしかった?」
「俺は全然良いっすけど、神谷のことも憂斗って呼びますよね? どっちが呼ばれたのかわからなくなんなかったんすか?」
「ニュアンスの違いで、何となくはわかってくれたよ」
「へー、マジで仲良かったんすねー。じゃあこれからは現実でもヨロシクやりましょう!」
「うん、ありがとう遊斗」
予知夢の中でも、神室は自ら積極的に神々廻に関わってくれるため、神々廻が極端な単独行動を取らない限りはすぐに仲良くなってくれた。
相変わらずだなと、神々廻は可笑しそうに少しだけ笑って礼を伝える。
「ところで、ほんとに呪いが解けたって言ってたけど、誰かに聞いてたの?」
「勇ちゃんですよ。1時間前くらいにドアをガンガンノックされて、神々廻先輩の呪いが解けたって教えてくれたんです。やっぱ勇ちゃんがなんかしたんすか?」
「そうだよ。僕を助けてくれた。お礼が言いたいんだけど、今はどこにいるか知ってる?」
「飯食いに行くって言ってたんで食堂っすかね」
「ありがとう遊斗! 話はまた後で!」
彼女の行先を知った神々廻は話を早々に切り上げて、食堂へ走り出した。
・ ・ ・
食堂 AM8:00
「神々廻先輩おはようございます! 呪いが解けて良かったですね! これでやっと勝利を喜べます! やったー!! 僕たちの勝ちです!」
神々廻が食堂に到着すると、ちょうど食事の受け取りを終えて食べ始めようとしている神楽坂と目が合い、ブンブンと大きく手を振りながら話しかけられた。
「おはよう、日向。心配かけてごめんね。でもそれはそれとして――」
「まあまあ! 立話もなんですし神々廻先輩も何か食べて行きましょうよ! ここのモーニングセットは美味しいですよ! いつも起きるの遅い先輩は知らないんじゃないですか?」
「そういえば、食べたことないかも」
この基地が創設された時から居ると言うのに、予知夢の影響で睡眠時間が長い神々廻は朝限定の食事など食べたことがなかった。
よく考えれば昨日は呪いの影響で食事もほとんど取れていなかったことに気が付き、気づいた途端腹の虫が鳴き出して強烈な空腹を感じるようになる。
「あはは! めちゃくちゃお腹鳴ってるじゃないですか! 一緒にご飯です!」
「うん、流石に何か食べないと倒れるかも。日向のおすすめにしてみるね」
「じゃあ待ってますから早く買って来て下さい!」
朝に来たことがないとはいえ食堂自体は何度も利用している神々廻である。
手早く食券を購入し、料理を受け取って神楽坂のもとに戻れば、宣言通り食べ始めず待っていた神楽坂が手を合わせた。
「いただきます!」
「いただきます」
「いやー、それにしても勇くんはどうやって呪いを解除したんですか? 方法を聞いても教えてくれないんですよ」
「それは、僕も言えないかな」
「えー!? 二人だけの秘密ですかー!? ズルいですズルいです! 気になりますー!」
まさか医務室であんなことをしたなどと人に話せるはずもない。
仮に場所が医務室でなくても、人に話すような内容じゃない。
そしてそこまで考えて、そういえば医務室をそのままにして来たのマズかったかもと思い至る神々廻だが、パイロットはともかく鏑木たちには事情の説明が必要かと思い直した。もちろん、彼女の承諾を得られればの話だが。
「日向はその話、いつ聞いたの?」
「僕が食堂に来た時入れ替わりで勇くんが出てったのでその時ですね」
「次はどこに行くとか、言ってた?」
「うーん、食後の運動がどうとか言ってたのでトレーニングルームじゃないですか?」
「そっか。ありがとう」
「あー! 駄目です駄目です! そんな急いで詰め込んだら喉に詰まりますよ! もっとよく噛んで味わって食べてください! ところで折角夏休みですしみんなで――」
早く彼女を追いかけたい神々廻は大急ぎで食事を終えようとしたが、同席していた神楽坂が次から次へと話を続け、それに相槌をうったり言葉を返していると中々食事は終わらず、結局食堂を出られたのは30分ほどが経過してからだった。
神楽坂が話好きなのは神々廻も知っており、予知夢の中では神室と並んで親しくなりやすいパイロットのトップツーだった。それがまさかこんな形で行く手を阻むことになるとは、思ってもみなかった神々廻である。
・ ・ ・
トレーニングルーム AM8:30
「おはようございます、神々廻先輩。呪いが解けたって聞きましたけど、本当みたいですね。身体の調子はどうですか?」
「おはよう、憂斗。もうすっかり元気になったよ。その話はやっぱり、」
「桜台に聞きました」
「……そう。今はいないみたいだけど、どこに行ったの?」
入れ違いになるのはこれで3回目だ。
何か変な気がすると違和感を覚えつつ、神々廻は次の行先を尋ねた。
「さっきまで一緒にトレーニングしてたんですけど、汗掻いたからって大浴場に行きましたよ。今日は朝から随分慌ただしくしてるみたいです。昨日の夜、何があったんですか?」
「本人が言ってないなら、僕からは言えない」
「ああいや、言いづらいことなら無理には聞きませんから。不躾にすみません」
「ううん。こっちこそ心配かけてごめん」
先に話をした神室や神楽坂に比べると、神谷は落ち着いていて押しの強さもない。幼馴染の神室を相手にする時だけはフランクに挑発したりすることもあるが、普段は不要な衝突を招くような言動もしない。予知夢の中では不確定要素が少なく、安心して役割を任せられる仲間だった。
自分から積極的に交流を広げようとするタイプではないが、話をしてみれば親しみやすさもあり、神室や神楽坂と同じように親しい友になれた時もあった。
「それじゃあ、もう行くね」
「……ちょっと待って下さい。一戦、やっていきませんか?」
「え?」
神谷がそう言って指差していたのは、仮想訓練シミュレーターだった。
「先輩には言うまでもないと思いますけど、あれは対人モードもあるじゃないですか。一度で良いから、先輩と本気で手合わせしてみたかったんです」
「もう、戦いは」
「はい、だからお遊びみたいなものです」
神谷が自らそんな誘いを持ちかけるのは意外だった。
親しくなった時ならばそういうこともなくはなかったが、少なくともこの現実では親しいと呼べるほどの関係にはない。それに予知夢の中で手合わせの誘いがあったのは、あくまで実力を高めるため。実戦に向けた訓練の一環としてだ。お遊びで手合わせをしたいと言い出すほど、神谷は戦いに飢えた性格ではなかった。
第五の守護獣を倒したことが影響しているのか、それとも何か別の理由があるのか、神々廻にはわからなかった。
「それは、今じゃなきゃ駄目?」
「そうですね。もう女神に乗る機会もなくなるでしょうし、感覚はどんどん錆びついて行くと思います。だから今が良いです」
「……そう、わかった。一回だけなら」
「ありがとうございます」
なんとなく、急ぐ必要はない気がした。
尤もらしい理由を付けているのが、神谷らしさを強調しているように感じられた。
神々廻の予想通りなら、どちらにせよ次でわかる。
・ ・ ・
AM9:00 大浴場
「あ、き、奇遇だね神々廻くん。のの、呪いはもう大丈夫?」
「おはよう、命。誰に聞いたの」
「え、えっと桜台くんとね、さっき偶然すれ違って。えと、次は屋上に行くって言ってたよ」
「……僕、まだ次の行先なんて聞いてないけど」
「あっ! えと、あの、違くて……。せ、折角だし一緒にお風呂に入らない!?」
あまりにも強引な軌道修正だった。
なぜか火神が大浴場の中ではなく廊下に立っていた時点で半ば確信していたが、うっかり口を滑らせたことで確信は100%に変わった。
そもそも無事の報せを聞いた神室や神楽坂、神谷、火神が医務室に駆け付けもせず自分の予定を優先している時点でおかしかったのだ。普段の神々廻であればその違和感にすぐ気づいたことだろう。彼らがそんな薄情者ではないということくらい。
「ほんとに命がそうしたいなら付き合うけど、どうする?」
「……友達になりたいって言ったのは嘘じゃないよ。でもいきなりお風呂はハードルが高いよぉ!」
「うん、じゃあ少し話をしようか。口裏は合わせておいてあげるよ」
「うぅ、バレてるぅ……。やっぱり神々廻くんに隠し事するなんて僕には無理だったんだぁ……」
火神はパイロットたちの中でも特に人付き合いが苦手であり、また腹芸も大の苦手だ。隠し事や嘘を意識すると挙動不審になって怪しさが増し、うっかり口を滑らせる始末である。だから神々廻は、どちらにせよ次でわかると判断したのだ。
そんな火神とも仲良くなれた時はある。その時の記憶を頼りに趣味の話などで会話を広げ、15分ほどが経ったところで火神と別れ、神々廻は本当に風呂に入ることにした。
パイロットたちに捕まって、食事をとり、運動をして、身を清めることで随分気分も落ち着いた。
彼女への感謝の気持ちに変わりはないが、早く見つけ出さないと彼女がいなくなってしまうというような、焦燥感にも近い感情に背中を押されることはなくなった。
どうやら自分が呪いから解き放たれたことは対策室中に知れ渡っているらしいこともわかった。
彼女を探して基地を歩いている間、パイロットたちだけではなく、職員たちからも口々に声をかけられた。そして皆、神々廻の無事を知っている口ぶりだった。
であれば当然責任者である鏑木も知っているのは間違いない。そのうえですぐに聴取や検査を始めるのではなく自由に動き回れているということは、それを黙認されているのだろうと予想もついた。
ならばとことん付き合おうと神々廻は決めた。
この追いかけっこは屋上が終着点なのか、それともまだ続くのか。それはわからないけれど、焦る必要はなさそうだと感じていた。