ep35 夜
夜は深く、静かだった。
照明を落とした医務室は暗闇に包まれていて、カーテンの隙間から差し込む月明かりだけがほんの僅かに室内を照らしている。
清潔な白いシーツの上で、神々廻は身じろぎもせずただ天井を見つめていた。その身には酸素マスクも点滴も繋がれていない。神威による呪いを受けた神々廻にとって、それは無意味な飾りにしかならないから。
呪いは時間の経過と共に確実に神々廻の命を蝕み、もう長くはないだろうと神々廻自身も理解していた。
しかし不思議と、今は辛くも苦しくもなかった。刻まれた茨の紋様は消えていない。呪いが解けたわけではない。『虚無』による除去も、『怠惰』による抑制も効果はなかった。それなのに、今この時だけは呪いなんてなかったかのように安らかだった。体を動かすほどの力は残っていないが、夜空を見上げて綺麗だと思えるくらいには余裕がある。
灯滅せんとして光を増す。
消えかけの蝋燭が最後の一瞬に強く光り輝くように、自身に残された神威や生命力が、最後の輝きを放っているのではないかと神々廻には思えた。
「みんなには、悪いことをしたかな……」
最期の時をこれほど穏やかに迎えられるのなら、悪くはないと神々廻は感じていた。
昼間、お見舞いに来てくれた仲間たちに死ぬ気はないと言ったが、あれは半分本気で半分嘘だった。
当然生きられるのなら生きていたい。死にたいなんて思っていない。けれど、もう十分だという気持ちがあるのも確かだった。
倒せなかったはずの第四守護獣を倒し、一切の情報がなかった第五守護獣すら撃破した。それも、誰一人仲間を死なせずに。あまりにも出来過ぎていて、それこそ夢じゃないかと疑ってしまうほどの戦果だ。けれど、夢じゃない。ここには桜台勇がいるからわかる。だからもう、神々廻には十分なのだ。
「もう、いいですよね。先生」
予知夢の中で自分を導いてくれた未来のパイロット。
守護獣を倒し未来を変えれば、彼はこの世に生を受けないかもしれない。
それでも先生は、たとえ自分の存在が消滅してしまうのだとしても守護獣を倒してくれと願っていた。
その覚悟は、神々廻にも大きな影響を与えていた。
最初は自分が生き残るためだった。わけもわからず殺されて、その運命から逃れるため。逃げるだけでは解決しないと知って、生き残るために様々な道を模索した。そして女神の存在にたどり着き、戦うことが出来ると知った。自らの手で抗えることを知った。
そこに至るまで、そしてそこに至ってからも、多くの人が神々廻に協力してくれた。最初は誰にも信じて貰えず孤独だった神々廻にも仲間ができた。予知夢の中で様々な人と知り合い友好を深めた。その中には今、現実では関わりのない人も大勢いる。守護獣を撃破するための最適解を選び続けるために、関わる時間を捻出できなかった人が何人も。予知夢の中では救えなかった仲間や友人、恩人が、何十、何百も。
いつしか、神々廻が戦う理由は自分の命のためではなくなっていた。明確な切っ掛けや決意があったわけではない。予知夢を重ねて助けたい人が増える度、先生の覚悟に触れる度少しずつ、この世界を守らなければならないと、あんな悲惨な未来を大切な人たちに見せるわけにはいかないと、そう思うようになっていた。
「おやすみなさい……」
死は恐ろしい。
けれどもっと恐ろしいのは、夢から覚めること。
このできすぎた結末が夢でないことを祈って、神々廻は静かに瞼を閉じた。
どうか二度と目覚めることがないように。
――しかし、意識が眠りへと落ちていく寸前、微睡の中で神々廻は何かの気配を感じた。
誰かがひっそりと医務室に入ってくる音がしたのだ。
(……誰?)
眠りかけていた神々廻はぼんやりとした頭で思考しながら、重い瞼を少しだけ開いて真夜中の来訪者の姿を確認する。
(桜台、勇……?)
ベッドの横に立ち神々廻を見下ろしていたのは、寝間着姿の桜台勇だった。
消灯時間はとっくに過ぎているにもかかわらず、なにやら神妙な表情でじっと神々廻を見つめている。
「……失礼します」
何をするつもりなのか、勇は神々廻にかけられている薄い夏用毛布をめくって足元に移動させ、靴を脱いでベッドの上に上がり込んだ。
「何、してるの」
当初は、自身の死期を察して最後の話でもしに来たのかと考えていた神々廻も、流石にこの行動には驚いて思わず疑問を投げかけた。
「あぁ、起きてたんですか」
「ちょうど今、寝ようと思ってた」
「マジすか。邪魔しちゃってすいません。ていうか、呪いは大丈夫なんですか?」
「……うん、今は元気だよ」
ベッドに乗ったまま当然のように会話を始めた勇に違和感を抱きつつ、神々廻は誤魔化すように言葉を濁した。
勇の様子は、神々廻が死の淵に立っていることを理解しているようには見えなかった。明日になれば嫌でもわかることなのだから、あえてこの場で言う必要もないと神々廻は考えた。
「でも、消えたわけじゃない」
月明かりに照らされた神々廻の顔に、相変わらず黒い茨の紋様が刻まれていることを確認した勇が深刻そうに呟いた。
「こんな時間に何しに来たの」
「聞いてください先輩。実は、その呪いを消す方法がわかったかもしれないんです」
「えっ……、本当……?」
消灯を迎えているため大声で話すわけにはいかず、耳元で囁くようにヒソヒソ声で喋る勇。
最初は少しこそばゆさを感じた神々廻だったが、呪いを消せるかもという言葉を聞いてくすぐったいという気持ちなど吹き飛んだ。
「かも、です。確証はないんです。でも、ミカサの呪いは消せたので可能性はあると思います」
「凄い、どうやったの?」
『茨』の呪いを受け、『虚無』でも無効化出来ないことが判明してからまだ一日も経っていない。この短時間で呪いを解く方法を見つけられるなんて神々廻は全く期待していなかった。だから思わず口をついた凄いという言葉は心からの称賛だった。
「その前に一個聞きたいんですけど、もしかして先輩動けないんですか?」
「……そうだよ。もう苦しくはないけど、動けない」
「やっぱりそうですか。間に合って良かった」
ただ死を待つだけであれば、余計な心配をかけないようにするつもりだった。
けれどこの呪いを解ける可能性があるというのなら、正直に今の状況を話すべきだと神々廻は考えた。虚偽を述べて解呪が失敗しては目も当てられない。
生きられるなら生きたいという気持ちに嘘偽りはない。
「じゃあ、改めて失礼します」
それまではベッドの端の方に座って話をしていた勇が、恐る恐るという形容が似合うくらい緊張した様子で移動を始める。
もし、月明かりだけでなくこの医務室の電気がついていれば、勇の顔が真っ赤に染まっていることが見て取れただろう。
静かな夜の医務室にギシギシとベッドが軋む音を響かせながら、勇は仰向けに寝ている神々廻の腰のあたりに馬乗りになった。
「待って、何してるの」
「陰陽和合です」
「……え?」
「呪いを打ち消す方法は、『虚無』の神威を相手の神威と混ぜ合わせること。ミカサとは共鳴の出来損ないでそれが出来ました。でも人間同士は共鳴出来ません。だから、男女の気を交わらせるんです」
「なにを、言ってるの……?」
共鳴の下りは神々廻にも理解できた。
勇が他の女神と共鳴出来ず、神威が混ざるような特異な現象が起こるというのは以前報告書に目を通して知っていた。
だがそれが男女の気を交わらせるという話に繋がるのが理解出来なかった。陰陽和合という言葉はどこから出て来たのか。あまりにも発想が飛躍していると神々廻には感じられた。
陰陽和合という言葉に隠された意味を神々廻は知らなかったが、勇の体勢と男女の気を交わらせるという言葉で、何をしようとしているのかは何となく察している。
そしてそれが、勇にとって致命的な結末をもたらす可能性があることも。
「すみません先輩。俺みたいな偽物の女子に初めてを捧げるのは嫌かもしんないですけど、先輩を助けるためなんです。我慢してください。俺も覚悟を決めましたから」
勇にとってもそれは苦渋の決断であることが伺えた。
今は女子の体とは言っても、元は男子で心も男のままだというなら、当然|男子(神々廻)相手にそのような行為をするのは抵抗感があって当たり前だ。
震え声のその言葉は、神々廻に言い含めるのと同時に、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
神々廻のズボンにかけられた細くしなやかな指先も、緊張を現すように震えている。
「駄目だっ! 嫌とか、嫌じゃないとか、そんな問題じゃないっ! 帰れなくなるかもしれないんだ!」
力の入らない体に鞭を打ち、神々廻はどうにか勇から逃れようと藻掻く。
しかし抜け出せない。精々、声を荒げて最悪の未来を突きつけることしか出来ない。
本来なら華奢な細腕の勇に力負けするはずがないのに、呪いによって衰弱した体では簡単に組み伏せられてしまう。
「女神と共鳴出来るのは穢れのない男子だけなんだ! 君だって知ってるはず!」
「はい、知ってますよ」
穢れのないというのはオブラートに包んだ表現であり、包み隠さず言うのなら純潔であること。それが女神と共鳴するためのもう一つの条件。
最後の守護獣を倒した今、他のパイロットたちは最悪女神に乗ることが出来なくなっても問題はない。
だが勇だけは事情が違う。勇はこれから帰らなければならない。『渡河』を使い、元の世界に。そのためには、ムメイに乗って共鳴しなければならない。
「解呪できる確証もないのにっ、こんなことで帰れなくなってもいいの!?」
「先輩。そういうことはここに来て、こういうことをするって決めるまでにちゃんと考えました」
勇とて馬鹿ではない。当然、神々廻の指摘した可能性は理解している。
「そもそも俺は男子って条件すら満たしてないんです。だからもしかしたら、この後も共鳴出来るかもしれない」
たしかに桜台勇は特別だ。他のパイロットとは明らかに違う。勇の言う通り、純潔を失っても案外何の影響もなく共鳴出来るということもあり得る。
「出来なくなったらっ!?」
「その時は、こっちの世界で生きていきますよ」
「馬鹿げてる……」
投げやりにも思える勇の答えに、神々廻は呆れたように呟いた。
「君は元の世界に帰るために戦ってはずだよ。家族や友達を安心させてあげるために、元の世界が無事かどうか確かめるために。それなのに、こんなことで帰れなくなるなんてありえない。考え直して」
「約束したじゃないですか。あと一回、俺に助けられてくださいって」
「それは【神風】の――」
「違います。あの約束は、先輩を死なせないって約束です」
神々廻を真っすぐに見つめる勇の瞳には、固い意思が宿っている。
最早何を言っても勇が引き下がることはないだろう。
それを理解して、神々廻は観念したように力を抜いた。
「後悔しても知らないよ」
「その時は、先輩が励ましてください」
カーテンがわずかに揺れ、月光の角度が変わる。
その淡い光が、床に映る二人の影を少しずつ近づけていく。
指先が触れ、視線が絡む。
無言のまま引き寄せられるように互いの距離が縮まり、影もまた、静かに重なっていった。