8.精霊が知る感情
アミと別れたリリが店内へ戻ると、ラヴィルはちょうど、テーブルの席で接客対応をしているところだった。
その横を軽く会釈をしながら通る。
「――おかげで、少しだけ眠れるようになってきました」
その声で、廊下に入りかけた足を止めた。
「効果が現れているようで私も一安心です。名付けておいてあれですけれども、『ネムリヨクナール』なんて胡散臭いですよね……」
振り返ればラヴィルの肩越しに客の姿が見え、リリは咄嗟に近くの棚の影に身を隠した。
が、その姿は客――フロリにすぐに気付かれてしまう。
「あら、あなた……」
リリの姿を見て瞳を瞬かせるフロリに身を硬くする。
夢は夢である。夢はあまり記憶に残るものでもないし、リリは暗示も施しているのだ。
だから、フロリはリリらのことを覚えてはいないはずだれけども。どきどきしているのは緊張なのか。それとも、彼女の気持ちに寄り添えなかった罪悪感なのか。
アミと話をして何かを掴みかけている気はするが、それはまだ気がしているだけで。
ぎゅっ、と肩からさげるバッグの紐を掴んだ。
「――リリ」
ラヴィルが振り向く。リリが顔を上げれば、彼の若草色の瞳がにこりと柔く笑った。
「店前のお掃除ありがとうございました」
「あ、うん。……その、何か他にもお手伝いある?」
紅の瞳を彷徨わせながら問うリリに、ラヴィルは一瞬小さく眉をひそめたが、とくに触れることなく「そうですね――」としばし思案する。
ラヴィルの返答を待つ間も、リリはフロリと目を合わせることはできなかった。
焦れるような、焦燥混じる気持ちを、バッグの肩紐を握ることで誤魔化す。
「では、リリ。奥の部屋に店用の薬がありますから、在庫補充として棚に並べてもらえますか?」
「……うんっ! やるっ! それならリリにもできるっ! と思う」
薬瓶の扱いも丁寧に教えてもらっているし、在庫補充も棚に並べるのも、ラヴィルを手伝って何度もやっている。
一人でやるのは初めてだが、大丈夫だと思う。
紅の瞳にやる気を宿らせると、ラヴィルがほっとしたように息をついた。
「ヒツジさんも一緒ですから大丈夫ですよ」
ちらりとラヴィルの視線がバッグのぬいぐるみへ向けられる。
リリは「うんっ!」と元気に返事をし、バッグからぬいぐるみを取り出して抱きしめた。
「ヒツジさんとがんばるっ!」
抱きしめたぬいぐるみが面倒げに息をもらした気がしたが、気分が浮き上がったリリは気にならなかった。
そのままの気分で、るんるんと鼻歌混じりに踵を軸にして、くるりと身体を反転させる。
「頑張ってくださいね」とのラヴィル応援を背にしながら、リリは廊下の奥へ進んでいく。
が、そんなリリの耳に、ふふっ、と優しく笑い声をもらすフロリの声がした。
「……お父さんのお手伝いができて、娘さんも嬉しいのでしょうね」
優しい声音。でも、どこか沈んだ色をはらんでいる気がして、リリはまた足を止めた。
影になって、今度はきっと店内からリリの姿は見えないだろう。
腕の中から訝しげに名を呼ばれた気がしたが、リリの意識は店内の方に向けられたまま。
「……ん? お父さんとは誰のことです……? いや、流れ的にまさかとは思いますが――」
困惑したラヴィルの声。彼の姿は見えないけれども、その様子はリリには簡単に想像ができる。
それだけ、リリとラヴィルも同じ時を過ごしてきたのだから。
一呼吸おいてから、ラヴィルがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「――私と、リリ?」
「え、違うんですか? 私てっきり……あ、いえ。というより、噂を信じてしまった私がいけませんね……」
「……ちょっと待ってください。噂……?」
「あ、はい。最近女の子がラヴィルさんのところで暮らすようになったのは、遠くにいらっしゃる奥さんと娘さんを呼び寄せたんだろうって――」
フロリの声に戸惑いが滲む。
ラヴィルはきっと、眉間を抑えているのだろう。
「……私に妻子はいません」
「あ、あの……」
「……え、なんでそんな噂が広まってるのです?」
そろそろ軽く頭を抱え始めているかもしれない。
そう思ったら、口元が少しだけ緩んだ。
リリの腕の中で「行かねぇの?」と、つんつんと腕をつつかれる。
それに「うん、行く」と応えて足を踏み出した時をだった。
「――リリは娘ではないですよ」
ラヴィルの否定する声が聞こえた。
踏み出したままに、リリは動きを止める。紅の瞳を大きく見開き、揺れ動く。
咄嗟に胸を抑えた。すーすーと風通りのよくなったような。そんな感覚に、戸惑う。
「リリ……?」
訝った声が腕の中から上がって、リリは反射的にぬいぐるみを抱きしめた。
「ヒツジさん、なんか……」
ヒツジがリリを見上げようとしたとき、ぽとりとあたたかいものが彼の上に降ってきた。
「泣きそう……」
紡がれたリリの声は、揺れていた。
*
その後はヒツジに手伝ってもらいながら、なんとか棚並べの手伝いを終わらせた。
そして今、リリの姿はコシュールの膝の上にあった。
リビングでなく、その奥へと通じる寝室。今はリリの寝床になっているソファに腰掛け、コシュールはリリをあやす。
「何がそんな悲しかったんだ?」
コシュールの声が常よりも柔らかい。
腰に手を回され、頭を撫でる手も優しい。
沁みるあたたかさに、リリはまた垂れそうになったそれを、ずびびと勢いよくすすった。
ずびずびと鼻をすすりながらも、リリはコシュールの胸へ頭をあずけた。湿った目元を乱暴に手で拭う。
鼻水付けんなよ、のコシュールの声に、少しだけ沁みたあたたかさが冷めたが、構うことなくしがみついてやった。
「……ラヴィが」
コシュールの服に声が吸い込まれ、くぐもった声がリリからもれる。
「ラヴィルがどーしたよ?」
「……言った」
「何を?」
「……リリは、娘じゃないって」
しがみつく手に、ぎゅっと力が入った。
リリの頭を撫でていたコシュールの手が背に滑り、とんとんと穏やかな拍を刻み始める。その振動がまた優しい。
「でもそれ、間違ってねぇだろ? お前だって、アミに言ってたじゃねぇか」
「うん、言った。ラヴィはリリの父さんじゃないって。言ったんだけどさぁ――なんか、違うの」
うりうりと顔を擦り付けるリリに、だから鼻水、とコシュールから文句が落ちる。
それをコシュールの背に流れる髪を引っ張って黙らせつつも、リリは言葉を続けた。
彼から悲鳴が上がった気もしたが、それは聞こえなかった。
「リリが自分で言うのと、ラヴィに言われたのとは、なんか違ったの」
「いつつ……んで? 何がどう違ったんだよ」
「……すーすーするの。胸の風通りがよくなったみたいに」
あずけていた身を起こし、リリは胸を抑える。
うつむけば、はらりと横髪が落ちてきた。視界の端を白に覆わられながら、胸元に視線を落とす。
何かが足りないような、そんな感覚が近い気もした。足りないから、そこに何かが欲しい。
――そこまで考えて、リリは瞳を瞬かせた。
瞬いた紅の瞳から、はたり、と涙が溢れ落ちる。
すごく最近、そんな会話をした覚えがあった。
足りないから欲しい。足りないから寒い。足りないから――満たされたい。あたたまりたい。
「……そっか。リリ、寒かったんだ」
ゆっくりと顔を上げる。
コシュールと目が合った。彼の紅の瞳が、ふっ、と息を吐くように笑った。
「ラヴィルのやつに違うっ言われて、さみしかったんだな」
――さみしい。
あ、そうか。その言葉がすとんと腑に落ちた、気がした。
「……リリ、さみしかったんだ」
くしゃりとリリの顔が歪み、彼女はまたコシュールの胸元へ頭をあずけた。
コシュールはリリの背を撫で、とんとんと穏やかな泊を刻むようにあやす。
「俺は傍に居てやってんぞ?」
「…………ヒツジさんは、リリの一部を喰らってるんだもん。ヒツジさんはリリみたいなものだもん」
ぎゅうとしがみつくリリに、コシュールは「さいですか」と苦笑した。
リリにとってコシュールは、傍に居て当たり前の存在だということだ。
それは確かに、ラヴィル相手でないと『さみしい』なんて感情は抱かないのかもしれない。




