14.これは見習い精霊の成長譚
夜の気配に包まれ始めた寝室。
駄々をこねるような薄い橙の色が、カーテンを淡く照らしている。その色は間もなく夜に寝かしつけられるのだろう。
うっすらとまぶたが持ち上げられ、紅の瞳が覗く。数度瞬いたのちに、リリはのっそりと身を起こした。
リリに掛けられていた掛布がソファにずり落ちる。とろんとしたままの瞳で寝室を見渡した。
ベッドは空だった。シーツのしわはぴしりと伸ばされおり、枕の位置もズレはなく、掛布もきれいに折り畳まれている。
ラヴィルは毎朝きれいに寝具を整えることをリリは知っている。ということは、まだラヴィルが就寝する時間帯ではないということだ。
「でも、外はもう暗いよ……?」
目元をこすり、ソファから下りた。
身体はもう軽い。どのくらい回復のために時間を費していたのか、日付感覚はとうに失せていた。
だが、そこまで深く考えるのはやめ、寝室の扉まで行き、そのノブをひねる。
きぃ、と扉が開き、ダイニングへ顔を覗かせた。
「ラヴィ……? ヒツジさん……?」
ダイニングには誰の姿もなかった。
しんとした夜の静けさに、すんとした夜の空気。そして、明かりのない室内。
ひんやりとした何かがリリに迫ってくるようで、彼女は知らず扉縁を掴んでいた手に力が入った。
――一人だ。そう思うと、すーすーと胸の風通しがよくなったようなあの感覚。
「……あ。今のリリ、さみしいって思ってる」
自分の気持ちを言葉にできた――感情を一つ、知った。
そのことが嬉しくて、小さく口元を緩める。
と。
「――……あのよぉ、普通、ぬいぐるみに物を運ばせるかよ」
文句たれる声が廊下の方から聞こえた。
リリの紅の瞳が瞬く。
「いいじゃないですか。また手足が取れたら私が縫いますから」
「そーいう問題じゃねぇだろ。てか、前は文句言ってきたクセによぉ」
「この場合、私が原因で取れたのですから、文句は言いませんよ」
すまし顔で言ってのけるラヴィルに、彼の肩に乗っていたヒツジは据わった目を向けた――気がした。ヒツジの目は釦のために、それはリリの気のせいかもしれないが。
廊下からダイニングに入ったラヴィルが、戸口に立つリリに気付く。眼鏡の奥で若草色の瞳が張り、そして安堵で緩まる。その表情が柔くなった。
「……リリ、目が覚めたのですね」
ラヴィルを見上げる紅の瞳が揺れる。
ヒツジが、ふっ、と息を吐いて軽く肩を落とすような動作をすると、ラヴィルの肩から飛び降りた。
床に着す時にはコシュールとしての姿になっており、ラヴィルの横を通り、ダイニングのランプに明かりを灯す。
和らいだ夜の気配に、リリはほっと緩んだ息を吐いた。リリがまたラヴィルを見上げる。
「……ラヴィ」
あのね、と小さな声をもらすリリに、ラヴィルは腰を下ろした。
「まだ言っていませんでしたね。――リリ、おかえりなさい」
両腕を広げたラヴィルに、リリは口を引き結ぶ。そして、一つ吐息をこぼしたのちにその腕へと飛び込んだ。
「うんっ! ただいま、ラヴィっ!」
ラヴィルの首に思いっきり絞める勢いで腕を回す。
ぐえっと潰れたような声もしたが、今のリリは然程気にならなかった。
ぎゅうと抱きつき、頬を擦り寄せ、すーすーと風通しのよい胸を満たす。
自身に抱きつくリリの腕を緩めさせながら、ラヴィルは小さく問かける。
「さみしかったのですか……?」
「……うん」
ラヴィルの肩口に顔を埋めたリリの声がくぐもった。
その頭を優しく撫でながら、ラヴィルは「それはすみませんでした」とささやく。
しばしそうしていたのち、リリの鼻先に優しく甘い匂いが触れた。匂いに釣られたように顔を上げる。
その目の前にマグカップが差し出された。湯気立つ向こうで、コシュールがにやりと笑う。
「飲むか?」
リリの顔にぱっと喜色が広がっていく。
「うんっ!」
元気に返事をしてラヴィルから身体を離すと、とたたとテーブルの方へ駆けていく。
ゆっくりと立ち上がりながら「走ると危ないですよ」とラヴィルが注意を口にし、リリが、はぁい、と空返事をして席についた。
苦笑したラヴィルもテーブルの席につく。
「ほいよ」
席についたリリとラヴィルの前にコシュールがマグカップを置いた。マグカップから立つ湯気が、ふわりとあの優しくて甘い匂いを運ぶ。
すぅーとたっぷりにその匂いを吸い込み、はわぁと表情を緩ませたリリは、両の手で包み込むようにマグカップを持った。そして、それを煽る勢いで飲む。ぷはぁと見せた顔は、口周りに白ひげだ。
「酒飲みじゃねぇんだから」
テーブルに浅く腰かけたコシュールが、小馬鹿にするように笑った。手にしたマグカップをちびりと飲む。
「コシュールは行儀が悪いですよ。リリが真似をしてしまいます」
「へいへい」
眼鏡を湯気で曇らせながら小言をもらすラヴィルに、コシュールはこちらも気のない浅い返事をして席に座り直した。
ラヴィルは眼鏡を横に置き、マグカップに口を付ける。
「うん、おいしい」
ほぉうと満足げな息をもらし、表情を緩めた。
「俺得性のホットミルクだからな」
コシュールはふふんと得意げに鼻を鳴らす。
その様子を眺めながら、リリは嬉しそうに笑った。
あたたかい雰囲気。そして、彩るように香り立つホットミルク。
ああ、満たされるなあ、と。リリは、ぬふふ、と少しだけだらしなく笑った。
「――ああ。そういえば、リリ」
ラヴィルの声に慌てて顔を元に戻して振り向く。
顔がだらしなくなっていたのを見られていたのか、ラヴィルの頬が、少しだけ緩んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
うん、きっと気のせいだ。だが、コシュールの顔がにやにやと面白げに、からかうみたいに笑っているのは、きっと気のせいではない。
コシュールへ向けて、べっ、と舌を出してから、ラヴィルへ向き直って言葉を返す。
「なぁに、ラヴィ?」
ラヴィルがくすくすと苦笑をもらしながら口を開いた。
「フロリさんがですね――」
わいわいと賑わう声と空気が、夜のダイニングを包み込む――。
◇ ◆ ◇
これは見習い精霊の成長譚、その一頁。
お気に入りな羊のぬいぐるみと薬師の青年とで紡ぐ、見習い精霊の日常と夢渡りの記録である。




