12.あたたかな夢を
くらりとしたような気がして、リリは頭を振った。
“夢治し”を行使した影響は少しだけ和らいできたが、気を抜くと、すぐにでも消耗回復のための眠りに入ってしまいそうだ。
肌に走った裂傷もある。傷は浅いが、数が少し多い。
これは戻ったら、またラヴィルに悲鳴を上げさせてしまうかもしれない。そう思うと、心がぽわぽわする。
「……あと、もう一つだけ頑張って」
自分に言い聞かせ、よしっと拳をつくって気合を入れた。
フロリの前に立っても、彼女がリリの存在に気付く様子はない。
膝を抱えて顔を埋めたままであり、きらめく夢の素を、霧状の陰の気をはらむそれに変質させ続けている。
それらを手で払い除けながら、リリはフロリの前にしゃがみ込む。
後ろに追いついたコシュールが立った。彼が不可視の力をまとって払えば、霧はすぐに霧散した。入れ替わるようにきらめきが周囲に集まる。
「……フロリさん」
リリが遠慮がちに呼びかけた。ぴくりと彼女の肩が小さく跳ねる。
よかった、声は届く。リリはそっと安堵の息を落とした。
「フロリさん」
今度はしっかりとした声で呼びかけると、フロリがゆっくりと顔を上げる。
上げられた顔は、ひどくやつれていた。髪は乱れ、目元も泣き腫らしたのかどこか腫れぼったい。
リリを見やる瞳が揺れた。
「……あなた、ホットミルクの……」
「うん、ホットミルクのだよ。すっかり覚えられちゃったね」
てへへと、リリは少しの照れをはらませて笑う。一方でフロリは顔を逸らした。
「……私、もう疲れたの」
膝を抱えるフロリの手に力がこもる。
「ずっと耳元で声がしたわ。『あんたはずっと一人』『取り柄もないあんたは、誰も気に留めてくれない』って――本当にその通りだと思ったわ」
フロリの瞳が大きく揺れ動く。
「――もう、頑張れない。頑張ったって無駄だもの」
その瞳がくしゃりと歪む。
彼女の周りで舞い踊っていたきらめきが、ぱり、と小さな音をたてて霧に変質した。
「……夢喰らいの魔族の言うことなんて、気にしなくていいよ」
リリが手を伸ばす。が、ぱりっと小さな音をたてて弾かれた。
ぱり、ぱり、ぱり、と。フロリに靄がかかったように、姿が煙って霞む。
ぎゅっと己を掻き抱くように、フロリの腕に力が入る。
「……もう、疲れたの」
瞬く彼女の瞳から、零れ落ちた透明な雫。その雫は下に落ちて砕けた――瞬、不可視だった底に木目の床を広げた。
「――え」
フロリが瞳を見開く。涙は引っ込んだ。
のろのろとフロリがリリを見やる。
「びっくりした?」
むふふぅと得意げに笑うリリに、フロリは「うん」と呆然と頷いた。
「じゃあ、もっと驚いていいよ!」
ぴょんっと跳ねる勢いでリリが立ち上がる。
そして、リリが両の手を広げた先の光景に、フロリはまた瞳を見開く。
あたたかな色合いの木目の床に、テーブルと椅子が並べられ、その奥には小さいながらにキッチンがあった。まるで、どこかの家のダイニングみたいで。
フロリは気が付くと、そのダイニングの片隅で膝を抱えて座り込んでいた。
あれ、と首を傾げる。いつの間に部屋に入ったのだったか。
呆然とした気持ちで途方に暮れていると、リリに手を取られた。
「フロリさん、こっち!」
うずうずした様子でフロリの手を引っ張るリリに、彼女は困惑したままゆっくりと立ち上がる。
戸惑いを隠せない足取りで、リリに手を引かれるままにテーブルに案内され、席につく。そして、その目の前にことりと置かれた――湯気立つマグカップ。ふわりと香るのは、優しくて甘いミルクの匂い。
いつの間に鍋にかけていたのか。困惑と戸惑い、ないまぜになったその気持ちで、湯気の立つマグカップを見つめた。
立ち上る甘いミルクの匂いが、フロリの心に沁みて痛みを疼かせる。
「ホットミルク、あったまるよ」
紡がれたリリの言葉に、口を引き結んだ。
席についているのは、自分一人だけ――一人が際立つ。まるで思い知らされたようだ。フロリはいつも一人なのだ、と。
フロリは顔を俯かせ、唇を小さく噛む。そして、もう嫌だ、と口から気持ちが溢れ落ちそうになった。が。
かたり、と。テーブルの席に誰かが座る音が響く。
フロリは反射的に顔を上げる――も。
「え……?」
対面の席に座った見知らぬ顔に、身体が思わず硬まる。
誰を期待していたのか、フロリは知らず落胆する。
「あ、ヒツジさんは違う! そこに座らないで!」
フロリの隣に座ったリリが、しっしっと手を使ってコシュールを追いやる。コシュールの眉間にしわが寄る。
「なんだよ、どこに座ったっていいじゃねぇか」
「ダメなものはダメなのっ! そこにはラヴィが座るんだから」
「は? あいつはここに居ね――って、映すのか」
「うん! “夢映し”でラヴィを用意しますっ!」
えっへんと胸を張るリリと、用意、の言葉にコシュールが、くっ、と一瞬だけ笑って反応した。
コシュールが隣の席に移動したのを確認し、リリは部屋に舞っていたきらめき――夢の素に触れる。瞬く間もなくラヴィルがそこに顕現した。
フロリが驚いていると、顕現したラヴィルがフロリを見て表情を和らげた。
「一緒に飲みましょうか」
「一緒にって……?」
怪訝そうなフロリに、ラヴィルが視線を手元に落とす。
その動きに合わせ、リリは指先できらめきに触れて楽しげに描く。それぞれの手元に指先を振り、マグカップを落としていく。
皆の元に湯気立つマグカップが現れると、場を包む甘いミルクの香りが強まった。
リリはさらに指先を振った。きらめきに指先を走らせると、キッチンではことことと鍋が穏やかに煮え、窓からはがやがやと人々の喧騒が聞こえ始める。
「なんでい、俺には鍋の番をしろと?」
湯気で顔をぼやかせつつ、マグカップに口を付けていたコシュールが不満げに席を立った。
「え? そんなつもりないよ? ここでは火の番なんて必要ないじゃん」
「いーや、駄目だね。そこはきっちんとしなきゃなんねぇよ、キッチンだけに」
洒落を混ぜながら笑い、マグカップ片手にコシュールがキッチンに立つ。
ことことと煮えるミルクを確認しながら、マグカップを横に置き、調味料棚から砂糖の瓶を手に取った。
匙を取り出しながら頃合いを見計らうべく、じぃと鍋をを見つめる。
その後ろ姿を眺めながら、リリは口の端を緩めて小さく笑った。
リリはフロリを振り向く。
「おかわりもあるからね!」
「は、はい……」
きらきらとした笑顔を向けられ、フロリは反射的に頷く。
だが、この状況に未だついていけていない彼女は、先程からずっと困惑したままだ。それはやがて、緊張へと移ろいでいく。
すがるような視線をラヴィルへ向ける。彼女と視線が合った彼は、促すようにマグカップを手にした。湯気の向こうで微笑む。
「言ったでしょう? 一緒に飲みましょうかと」
そして、ラヴィルはマグカップに口を付けた。
ほおと息をついて、ほら、とフロリにも進める。
促されたフロリは、おずおずとマグカップへ手を伸ばし、両の手で遠慮がちに持ち上げる。手の平で感ずる温度に、緊張が少しだけほぐれた。
そっとそれを口に運ぶ。最初は熱さを警戒して慎重に。
けれども、警戒するほど熱くないことがわかれば、思い切って口に含んだ。
じんわり舌に広がる優しい味わいに、甘さが絡みつく。ほおと息をついて、自然と頬が緩んだ。
「ね? あったまるでしょ?」
隣では、口周りに白ひげをつくったリリが、にまぁと満足げでいて、自慢げに笑う。
足をばたばたとさせているのも微笑ましくて、フロリはさらに顔を緩めて「そうね」と仄かに笑った。
ラヴィルからは「お行儀がわるいですよ」と叱る声が飛ぶ。
けれども、その声も表情も叱るというよりは、注意をするような響きで、仕方のない子ですねと穏やかなものだった。
コシュールは先程からずっと、匙を手にしたまま鍋を見つめ続けている。砂糖を入れる頃合いに、並々ならぬこだわりがあるらしい。フロリは小さく笑った。
ことことと鍋を火にかける音。がやがやと窓から聞こえる人々の喧騒。そして、他愛ない会話をする風景。
フロリはまた一口、ホットミルクを口に含んだ。
誰かと時間を共にする――その嬉しさが、じんわりと身に沁みる感覚は久しぶりで、少しだけ目頭に熱を持った。込み上げる何かを堪えるため、口を小さく引き結ぶ。
「いいんですよ、我慢などしなくとも」
ラヴィルの声に顔を上げる。穏やかな笑みがそこに在った。
「疲れた時は弱音だって吐いていいですし、休んだっていいのです」
「そうだよっ! ここなら何を言っても、何をしても問題ないっ! 無問題っ!」
リリも大きく頷き、なぜか胸を張る。
得意げに笑う彼女の紅の瞳が、薄ら光を帯びたような気がした。
「――ここは夢だから」
夢だから――その言葉が、フロリの中でぐるぐる回って反響する。そして、凪いだ水面に一滴が落ちるが如くに波紋を呼び、すぅーと内に溶けいった。
「……そう、ね。夢なら、何をしてもいいものね」
「うんっ!」
一つ元気にリリは頷くと、最後の一飲みとばかりにマグカップを呷る。残りのホットミルクを一気に飲み干し、ぷはぁっと息をつく。
「おかわりっ!」
空になったマグカップを突き出した。
キッチンに立つコシュールが、呆れた視線をリリに向けて嘆息を落とす。
「お前さんは親父か。つか、白ひげつくったままだし」
彼は肩をすくめるのだった。
フロリはその様を眺めてくすくすと笑いながら、気持ちを吐き出してしまおうと口をゆっくり開いた。




