11.お気に入りのぬいぐるみ
コシュールが強く踏み込む。
巻き上がる風が彼の背を押し、その切っ先を切り込んだ――そして、一閃。
切断されたのは、闇と化した霧。ぱっくりと上下に割れ、驚愕に目を見開いた夢喰らいの魔族を見つけた。
僅かに口の端を持ち上げたコシュールは、だんっ、と強く足を踏み抜き、跳躍。宙空で一捻りした。
そのすぐ下を、きらめきをはらんだ風が駆け抜け――全てを吹き飛ばす。霧は晴れ、闇すら解く。
「――へぇ、これが本来の“夢治し”か。この夢も綺麗になったじゃん」
腰を落として着したコシュールが立ち上がる。感心するような息をもらした。
暗がりだった周囲が光で溢れ、きらきらとした何かが目の前を過ぎていく。
後ろを振り向けば、リリが肩で息をしてコシュールを見やっていた。その瞳が弱々しく笑う。
「……そうだよ。夢って、本当は綺麗なんだよ」
弾む呼吸を抑えながら、リリがコシュールの方へと足を踏み出す。
彼女が通ったところにきらめきが踊る。先程までリリから溢れていたきらめきとは、また異なった輝きを放つ。
暗がりでよく見えなかった夢。今では見通せるようになったその先は、果てない。
夢はどこまでも続く。夢は無限だから。
リリは次の一歩を踏み出す。が、途端に足から力が抜け、身体が傾ぐ。
さっきので、そんなに消耗したのか。どこか朧気に、ぼんやりと遠くのことを思うような感覚だった。
傾ぐリリの身体を受け留めたのは、伸びてきたコシュールの腕だ。
すごかったじゃん、と労いの声と共に、コシュールはリリをいつものように抱き上げようとする。けれども、それをやんわりと押し退けてリリは拒んだ。
「リリ……?」
「……大丈夫。リリ、立てるよ。だから、まだ頼んない」
そう。やることがある。
だから、まだ頼るわけにはいかない。
リリの視線がフロリに向けられる。コシュールもその視線を追った。
フロリは膝を抱え、そこに頭を埋めたまま。彼女の周囲を舞うきらめき――夢の素が、少しずつだが暗い色を帯びた霧状になる。未だ彼女は囚われたままということだ。
「そっか」
一言こぼしたコシュールは、伸ばした腕を戻してリリから一歩離れる。
リリはふぅと息を一つ落としてから、コシュールを見上げて「ありがと」と言葉を紡ぐ。リリはまた、フロリのもとへと向かうために足を踏み出した。
そして、その様子を眺める者がいた。腰を抜かしたように尻もちを付いたまま、呆然とした面持ちで眺めやる。
「あ、あんた……」
わなわなと口を戦かせながら、震える指先でゆっくりとコシュールを指差す。コシュールが「んあ?」と振り返った。
「その、黒髪に……」
「あ? 黒髪はお前もじゃんかよ」
背で束ねた髪を一房掴みながら、コシュールは男の方へゆっくり歩み寄っていく。
「その、血濡れの瞳……まさか、あんた……」
先程よりも指先を震わせながら、男は近寄るコシュールを見上げる。
男の目の前まで来たコシュールは、足を開いて深くしゃがみ込むと、男を見下ろし、口の端を持ち上げた。
「そーだよ。お前さんと同じ夢喰らいの魔族だ」
「……違う。同族に、そんな……血濡れの瞳は、いない……」
震える声で男――夢喰らいの魔族は言葉を紡いだ。
魔族の男はコシュールと同じ黒の髪をしながらも、その瞳は彼とは異なる金の色。
長い耳と口から見え隠れする鋭い犬歯は同じなのに、瞳の色だけが異なった。それが異質に映る。
コシュールは紅の瞳に怪しげな光を帯びさせながら、男の顔を覗き込む。
「血濡れ、だなんて物騒な例えだなぁ」
「……そ、そうだろ。同族を狩る、夢喰らい狩りの色だ……」
己を指差す男の手をコシュールが掴んだ。
「――へぇ。俺も有名になったもんだねぇ、こんな弱っちそうにも知られてんとはね」
男は慌てて手を引っ込めた。それはまるで、熱いものに触れてしまい、反射的に手を引くが如くの勢い。
身を護るように身体を縮こまらせ、怯えた瞳を向ける男に、コシュールは一気に冷めて肩をすくめる。
「なぁーんか興味失せた。びびった奴痛めつけても愉しくねぇし、さっさと失せろ」
しっしっと手で追い払うしぐさをするコシュールに、フロリに呼びかけようとしていたリリが振り向く。
「あ、ヒツジさーん! 痛めつけるっていうのには賛成できないけど、おイタはダメって少しは言ってくれないと!」
「別にいいじゃねぇの? こんだけ濃い夢喰っとけば、しばらくは夢喰いなんて必要ねぇよ」
「でもそれじゃ、リリの夢渡りの精霊としてのお役目が! フロリさんを見てよ、これは夢喰いが過ぎるよ!」
立ち上がったリリが、コシュールを思いっきり睨みあげて頬を膨らませる。
フロリは相変わらず膝を抱え、顔を埋めたままに夢の素を霧状に変質させていた。
コシュールが男に背を向け、リリの方へと向き直る。
「んじゃあ、リリがすればいいんじゃん。そのおイタはダメってやつ」
くっくっと喉奥で笑う様は、明らかにリリの反応を楽しんでいた。紅の瞳の奥に、不穏な翳を燻らせている。
「それができないから、ヒツジさんに頼んでるんじゃんっ!」
「あれ? まだ俺には頼んないんじゃなかったか?」
先程の自分の言葉を取られ、リリは思いっきり顔をしかめた。一気に膨れた激情にまかせ、足を強く踏み鳴らす。
その要因をつくったのは誰だと叫びたかった――が、叫ぶ前に動いた。動作の軌跡を描くように、夢の素がきらめく。
コシュールの鋭く伸びた爪が貫いていた。男の胸を。
え、と戸惑いに吐いた男の息が震える。言い合う二者に、今が好機かと機を窺って飛び出したはずだった。弱い方――幼い精霊を狙って。
だがしかし、現実はどうだろうか。狙いに飛びかかる前に、いや、さらにその前に貫かれていた。同族の手によって。
震える瞳で同族を見上げる。紅の瞳が愉しげな色を湛えて己を見下ろしていた。
そこで男は唐突に思い出す。夢に入った己では、干渉はできても害を与えることはできないと。
それならば、なぜ精霊に飛びかかろうとしてしまったのか。
己を見下ろす紅の瞳が嗤うように細められて、男は理解した――ああ、嵌められた。
こふっ、と衝撃で息を吐く。実体でない己が、息を吐くはずもないのに。
「――安心しろや。思想体のお前なら、しばらく動けなくなるだけさ」
貫かれた爪で、ぐりぐりと強く抉られる。実体のない男に痛みは生じない。だが、何とも言えぬ不快感は広がった。
そして、もう一度同族を見上げる前に、男の姿は溶けるようにして消滅した。舞う夢の素が、痕跡を隠すようにきらめいて。
コシュールの紅の瞳から、愉しげに嗤っていた温度が急速になくなった。
興味が失せた瞳で男が存在していた場を見下ろし、瞬き一つの間で爪は常の状態へと戻る。
「……そのやり方、リリはあんまり好きじゃないな」
少しだけ嫌そうな声をもらしながら、リリがコシュールの隣に並んだ。
「リリを煽る言い方したのも、わざとだったんだよね?」
「何のために?」
問いに問いで返され、リリは横目でむっとした様子でコシュールを小さく睨む。コシュールは楽しげな様子でその視線を受け止めた。
「隙をつくって、リリの方に狙いを定めさせた――違う?」
「さあ? どーだろうな。だが、夢に入った奴は俺らには害を与えられない」
コシュールは肩をすくめ、くつくつと喉奥で笑う。それは、愉しげに。
「リリも解ってたんだろ? だから、焦る素振りも慌てた様子もなかった――違ぇか?」
「……そう思う前に、ヒツジさんが動いてたじゃん」
「いいじゃねぇか。俺は愉しめて、お前は夢渡りの精霊としておイタはダメができた。な? お互いに満足だろ?」
リリを見下ろすコシュールの紅の瞳が、彼の高揚に呼応したのか、ぎらぎらとした嫌な色を宿す。
こういった時、彼はやはり魔族なのだなとリリは思い知る。同時に、こういった面は好きじゃないなとも思うのだ。
だが、ふっと短な息を一つ落とし、まあ仕方ないかと思考を切り替える。
だって、コシュールは魔族で、リリは精霊なのだ。物事の考え方、捉え方に違いはどうしたって出てくるものだ。
リリは踵を軸にしてくるりと回ると、踵を返す。
「フロリさんをこれ以上は放おっておけないから、あっち行ってるね」
背を向けて離れていくリリを見やり、コシュールはふむと息を落とした。
その瞳にはもう先程までのぎらつきはなく、いつもの温度が戻っていた。
浅い頷きを落としながら、なるほど、と一つ頷きを落とす。あれは己の行動に気付いていないのだろうな。
それはリリが“夢治し”をコシュールから借り、濃い闇と化していた霧を風で吹き飛ばした時だ。
彼女は無意識下で選別していた。夢の素である霧と、その夢喰らいの魔族と。その選別が出来なければ、そもそも夢の主などはあの一風でおさらばしている。
あの一風で、夢喰らいの魔族諸共吹き飛ばせばよかったのだ。
リリがそれをしなかったのは――。
「――魔族へのご褒美、てとこか? 飼い犬にたまに与える、特別なおやつ」
コシュールだって魔族だ。時折このような魔族的な愉しみを欲してしまうのは、ある意味仕方のないことだ。本能的に求めてしまうものだから。
どこかで発散しなければ、どこかで衝動的な行動を起こしてしまうかもしれない。それはコシュール自身にもわからない。
「俺は確かに、リリに飼われてんだよなあ。だってあいつ、その気になれば俺なんて大したことないもんなあ」
コシュールが身に宿す、リリを喰らったことで得た“夢治し”の力は、彼女にとってはいつでも奪い返せるものだ。
喰らった時はほんの小さな幼精霊だったのに、今や見習い精霊だ。
――ヒツジさんと一緒は、いっつも楽しーからいいんだけどっ。
それはいつかの夢渡りでリリが語った言葉。
「……本当に恐ろしいのはどいつか」
諦めたような、疲れたような笑みを浮かべ、コシュールはリリのもとへ向かうために足を踏み出した。
コシュールはリリの気に入りの羊のぬいぐるみ――ヒツジさん、なのだ。




