10.秘める強さ
とっ、と。コシュールが舞い降りた。軌跡を描くように背へ流した髪が揺れる。
着した彼は、後ろを振り向くと虚空へ手を差し出した。
その手を取って舞い降りたのは、リリ。
とたっ、と軽やかに着すと、彼女は軽く眉をひそめた。
辺りは闇に覆われ、先は見通せない。それに。
「……匂い、やっぱり濃い」
袖口を鼻にあて、思わず後ろへ一歩足を引いてしまう。
同時に、ばりっ、と鋭い音が迸り、リリの足に痛みが走った。
「……っ」
顔をしかめて足を見やれば、赤の線が幾本か走っていた。
そこから滴る赤に、驚きで足が動く。その度にぱりぱりと音が鳴った。
「気を付けてって、ラヴィに言われてたのに……」
早速怪我を負ってしまった。
しょんもり落としたリリの肩を、コシュールがすぐに掴む。
「下がれ」
リリを後ろへ下がらせると、コシュールは伸びた爪を一閃させ、辺りのそれを斬り裂いた。
が。晴れたはずの闇色をした霧が、たちどころにまた広がる。
ちっ、とコシュールから舌打ちがもれた。
「今のであっちに気付かれちまったな」
「あ、やっぱ居るんだ、夢喰らいの魔族さん」
「おぅよ。さっきから肌に同族の気配感じてんからな」
「ということは、ヒツジさんの作戦うまくいったんだね」
にこにこと笑うリリに、コシュールはがしがしと頭を掻く。
リリの言う作戦とは、連夜においてコシュールが行っていたことを指す。
霧――陰の気を含んだ夢の素を、コシュールが一閃することで薄くし、違和を抱いた夢喰らいの魔族が様子見のために姿を現さないだろうか、という内容の作戦だった。
そして、それが見事に嵌ってお出ましした、というわけなのだが――。
「だが、こんだけ濃いと、俺らだって先に進めねぇぞ」
言ったそばから、コシュールとリリを包み込もうとする勢いで霧が迫っている。
先程コシュールが晴らしたあの一閃は、もう既にその痕跡すら窺えない。
ぴりっ、とコシュールの耳元で音が跳ねた。
反射的にリリを己の方へ引き寄せ、コシュールは爪を振るう。晴れたのは一瞬。すぐに霧が立ち込めた。
くそっ、とコシュールから悪態をつく声がもれた。
だが、リリはそんな彼の前へ一歩踏み出した。ぱり、ぱり、とリリの足元で音が鳴る。
コシュールがリリを引き止めるために手を伸ばす。が、リリはその彼の手を掴んだ。
「借りるね」
口の端に笑みを乗せてコシュールを振り返る。
リリの横髪がふわりと浮く。リリが前を見据えれば、彼女の紅の瞳が光を帯びた。
そして、一陣の風が吹くか如くに、不可視のそれがリリを起点に巻き上がる。
周囲の霧を一気に吹き飛ばし、視界が晴れた瞬に。
「――ヒツジさん」
言葉を交わさなくとも、リリの意図はコシュールに伝わる。
リリの呼びかけに呼応して、コシュールが彼女を抱き上げて一気に駆け出した。
コシュールが駆ける間も、その行先をリリが晴らしていく。コシュールは「あんがと」と礼を口にすると、駆る足に力を入れた。
*
それが見えたのは、コシュールが駆け出してしばらくしてからだった。
遠く、一層濃い闇をつくる霧が立ち込めている。そう、夢の主――フロリが居る場所だ。
コシュールの紅の瞳に険が宿り、凝らすように細められた。濃い闇をつくる霧の奥、揺れる影が落とすそれは、同族の気配をまとっている。
「……息を潜めてやがるな」
苛立たしげなコシュールの声。
リリから迸った風が走る――が、闇に弾かれた。
「うへぇ!?」
彼女の口から驚きの声が上がる。
はっとしたコシュールが、リリを抱えて咄嗟に横へ跳ぶ。
ぶわり、と。もはや闇と化した霧が広がった。
ばちばちと音を爆ぜさせながら、先程までコシュールらが居た場所まで勢いよく迫る。
爆ぜた欠片がコシュールの頬をかすめ、赤が走り、そこから赤を滴らせる。それを指先で拭い、舌先で舐め取った。
「欠片の威力じゃねぇな、おい。それなりの強さの奴だ」
舌に鉄の味を広げながら、コシュールは面倒くさそうに息を落とす。
だが、にやりと口の端に笑みを乗せる。それは笑うというより、嗤うに近い。
「――俺の方が、もっと強えけどな」
そんなコシュールの腕の中で、リリはじっと闇を見つめていた。
先程の霧の広がり。まるで何かに呼応したような動きだった。
「……匂いが、濃い」
服の袖ごと鼻を覆い、ぎゅっと抑える。
「濃い? やっぱ俺にはわかんねぇな」
「ううん、リリにはわかるよ。……ものすごく、心が寒くなる匂い」
くらりと酔ってしまいそうになるくらい。
背後からじりじりとにじり寄るような、仄暗い感情。
胸にすーすーと風通りがよくなるような感覚。
寒い。ぎゅっと目をつむり、リリは衝動を堪える。己を保とうとコシュールの服を掴んだ。
と、耳奥で声が灯った。その声が、リリをじわりとあたためる。
――いってらっしゃい、と。ラヴィルの声が灯る。
自然とリリの口元が緩んでいた。そう、彼が待ってくれているのだ。だから、リリも『ただいま』を言うのだ。
「……リリ」
リリを気遣うコシュールの声に、リリはにへへと笑って頷いた。
「大丈夫。ラヴィが待ってるって知ってるもん。リリは引きづられないよ」
コシュールの瞳が一度瞬く。そして、ふっと緩んで面白げな色を宿すと、彼は「そうだな」と頷き返した。
「そんで、リリさんや。どーすんだ?」
そんなやり取りをしてる間も、霧はコシュールらへ迫る勢いを落とさない。
ばちばちと爆ぜる音に、コシュールは跳び退いて衝撃を避ける。爆ぜ迫る欠片は、爪を振るって弾く。
少しずつだが、中心部から遠ざけられていることには気付いている。
何度目かの跳躍をしたところで、リリが口を開いた。
「――ねぇ、ヒツジさん。知ってる?」
「んあ?」
抱えているリリを抱え直す。
「何がだ?」
「ヒツジさんって、強いじゃん?」
リリが笑んだ顔でコシュールを見やる。
「おぅさ。それは知ってる」
当たり前だという顔で頷くコシュールに、リリも大きく頷くことで応えた。
「うん、だよね。そんでさ、リリもまだ全力出してないの」
先程は弾かれてしまったが、リリだってまだ全力は出していないのだ。
だから、と。リリはにやりと口の端を持ち上げて笑う――思い付いた悪戯の、共犯を誘うみたいに。
「強いヒツジさんとリリの全力が合わさったらさ、もっと強いと思わない?」
コシュールの瞳がきょとんと瞬く。
そして、ゆっくりとその瞳に愉しげな光を宿して、にたりと笑った。
「いいねぇ、それ。ここで試してみっか?」
「試しちゃおうか、ここで」
リリもコシュールに応えて笑みを深めた。
それは彼女の見かけ通りな無邪気さを帯びて。または、見かけにそぐわない、大胆さをはらんで不敵に。
コシュールが軽く手を上げる。そこへ手を持ち上げたリリが、ばしんっ、と小気味よい音を響かせて叩いた。
「“夢治し”借りるね」
コシュールがリリを下ろす。その着したリリの足下から、ふわり、燐光が舞う。
リリを起点にした力の奔流が渦を描き、紅の燐光を一気に舞い上げた。彼女の横髪も、服の裾も激しくなびかせる。
一度瞑目し、一つの呼吸ののちにまぶたを開く。覗く紅の瞳が光を帯びた。
その瞳が見据えるは、濃い闇と化した霧。ばりばりと音を轟かせながら、こちらの隙を狙ってうごめく。
「あちゃあ、さっきよりも濃くなってんぞ」
「うん。でも、大丈夫だよ。リリは強いし――」
にやり、光を帯びる紅の瞳が笑んだ。
「――ヒツジさんも強いから」
リリが一歩を踏み出す度に、ふわりと紅の燐光が舞う。
彼女のなびく髪に光が通り始める。白の髪を透かせ、さながら白銀のように。
そこから漏れ出るきらめきが。足下から舞う燐光が。白銀になびく髪が――思わず魅入ってしまうほどに、幻想的に映る。
コシュールはそのことに気付き、引きつり笑いに似たそれを口の端にのせた。
「……リリって、すげぇんだな」
まさにリリは精霊だ。
その彼女がコシュールを振り返る。
「ヒツジさん」
おう、と軽く手を上げて応えると、コシュールは彼女の前に出る。
手を前にかざして指先を据えると、爪先が鋭く伸びる。
「俺はいつでもイケんぞ」
口の端を愉しげに持ち上げ、リリを肩越しに振り返る。彼の紅の瞳も光を帯びていた。
リリから巻き上がる風がきらめきを伴い、勢いを増す。コシュールの背に流した黒の髪をも激しくなびかせて。
ふふっ、と小さく笑ったリリは、手を前へと持ち上げ――それを合図にコシュールが底を蹴り付けた。
駆けるコシュールの背を、リリから巻き起こった風が押し上げ、彼をさらに加速させる。




