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殻の杖造りミュアナ  作者: 機水 鴨
序章 当主ミュアナ
3/5

第3話 10年の結果

 人間よりも太い胴の配管、その薄汚れた分厚い金属蓋の取っ手に細い指が掛かる。


「ふっ」


 ミュアナが鋭く息を吐いて体全体を後ろに倒すと、金属の蓋がようやく持ち上がって、垂直まで立って、今度は反対に下ろされていくと、ギイイと金属の擦れる音が反響して、反響が重なって、空間中に響き続ける。

 最後に、ほんの少しの開きを残してミュアナが手を離し、瞬間、ガシャンと金属がぶつかる音がつんざく。反響が止むまで、ミュアナは目の前の太い配管を手で撫でるのだった。

 しばらくして反響が止むと、時々ガタガタと鳴る窓の音だけが残って、するとミュアナは振り向いて歩き出したのである。

 そこはミュアナが工房と呼ぶ場所である。床には土が敷かれていて、ミュアナが歩くたびにザ、ザ、と、靴と土の擦れる音が鳴る。ミュアナが横切る木造の壁は傷や変色で年季を表現している。窓の奥はほとんど終わっている夕焼けを映していて、いまはもう工房内の方がよほど明るい。

 そしてミュアナが足を止めると、目の前には、大人が転がれるほどに広い石机が鎮座している。ミュアナが寝転んでも余るほどである。

 石机の表面は滑らかさこそないものの凹凸はなく、机上には、長いヤットコをはじめとした道具が無造作に並んでいる。杖造りに使われる道具が休んでいるのであり、いつも通りの様子である。

 だが、いまだけは違う。一つだけ毛色の異なる物が乗っている。ミュアナはそれを、まるで重量があるかのように持ち上げて、のち、ぎゅっと胸に抱きしめた。

 

「おじいちゃん……」


 淡々とした語り掛けは静けさに散る。

 ミュアナが抱くそれは灰壺と呼ばれる陶器壺であり、滑らかな白い表面には〝シェキナ・サナガミ〟と刻まれている。

 ミュアナはその灰壺を赤子のように抱いて、〝シェキナ〟の刻印を指でなぞると、刻印がミュアナの指を引っ掛けるのだった。

 その間、ミュアナに表情は無かった。


「……小さくなったね」


 掠れた声に、変わらない顔色。〝シェキナ〟を覗き込むミュアナの目も同様で、上下の瞼に灼けた跡が生々しく残っているその目も、内側の灰色の瞳すら無表情である。

 だがミュアナは強く灰壺を抱き込んだ。顔まで腕に埋めて。


「……頑張って拾ったんだからね」


 くぐもった声は、辺りに散って反響せず、土ばかりが聞くのであった。

 しばらくして、ミュアナはのろのろと顔を上げると、工房の門の方を見やった。工房の門は壁と同じく年季を表現している木門であり、いまは閂が掛かっている。それを見て、灰壺を包むミュアナの指に力が入った。


「もうそろそろみたい」


 言って、門とは反対の方に首を回す。

 ミュアナの視線の先には何もないのだ。ただ壁があるだけで、そこには何も掛かっていないのにもかかわらず、それでもミュアナは、灰色の瞳で真っ直ぐに壁を見つめている。

 すると直後、ミュアナの瞳に変化が生じたのである。

 灰色だった瞳に、青が足され始めたのだ。瞳孔は灰色のままだが、しかし虹彩だけ徐々に青みがかっていくのである。水に色を垂らしたようにゆらゆらと、薄い青が虹彩に被さって、やがて完全に染まると、灰色の島が薄い青に囲まれるのであった。

 そこでミュアナは灰壺に視線を戻したものの、しかし、目の色は戻らない。

 長く息を吐いた。

 

「フーーーーー」


 のち、灰壺を顔前まで持ち上げると〝シェキナ〟と自分の額をコツンと合わせて、そして目を閉じる。

 灰壺を包む手は微かに震えていた。


「おじいちゃん……外は怖い……、外になんて一生出たくない……」


 平坦な声音が語りかける。窓の外はより暗さを増している。

 ミュアナはそして、灰壺の〝シェキナ〟にスリスリと額を撫でずって、続ける。 


「だけど、今日だけはどうしても行かなくちゃ……、ううん、行きたい」


 目を閉じたまま、赤くなった額をさらに強く〝シェキナ〟に押し付けて、そして音にならない声で言う。


「おじいちゃん、勇気を頂戴——」


 直後のこと、ドン、ドンと、門が規則的にノックされて、ガタガタと揺らぐ音がミュアナの耳に届いて、すぐあと、外から声が入ってくるのだった。


「お嬢様」


 その声は、ミュアナがよく知っている声であった。それこそ10年以上前から。

 ミュアナは、それを聞くと、灰壺をそっと石机に置いて、次に、自らの腰に巻いてある幅広の革ベルトに手を向けると、腰に差していた杖を勢いよく引き抜いたのだった。

 その杖は、ミュアナが球槌の杖と呼んでいる杖である。球槌の杖は木製だが、全長は80センチを超えていて、かつ太いために、ミュアナも指で握るというよりは手で掴んでいる。掴んだ柄のすぐ下に、呼称の由来である大きな半球が目立っていた。 

 ミュアナは抜いたそれを、門に向けると、軽く振るのであった。

 その途端、閂がカタカタとひとりでに浮き始めて、すぐに外れると、その次には、門がギギギと軋みながら、ひとりでに開いていく。途端、外の新鮮な空気が流入してくる。

 するとそこには、メイド服の女性が、暗くなった空を背にして、立っていたのだった。

 だが、ミュアナはそちらに顔を向けない。顔を背けたまま、呼ぶ。


「アリリヤ」

「……お嬢様、本日の操業は終わりましたでしょうか」

 

 アリリヤの声は硬い。その声に10年前のような明るさは微塵もない。前髪から覗く目が、ミュアナを静かに見つめているが、その目も暗く、微笑みの欠片もない。


「うん……すぐ行くよ」


 ミュアナは目を合わせようともしなかった。杖を腰に納めると、灰壺を抱きあげて、俯いてアリリヤの方へ歩いていく。ザ、ザと土が鳴って、入ってきた外の空気がミュアナの頬に触れていく。

 その間、二人の間に会話は一切ない。16歳になったミュアナと、22歳になったアリリヤの身長はほとんど同じであるが、しかし、ミュアナが俯いているために視線も合わない。

 やがて、ミュアナはアリリヤの前で足を止めて、二人は対面するが、しかし工房の外と内に別たれた二人の距離は遠い。二人の間は、手を伸ばしても届かないほど開いている。

 すると、アリリヤが無表情で言う。


「……お嬢様、シェキナ様の葬儀は深夜です。まだ時間がございますので、先に食事を摂ってください、そのあと支度させていただきます」

「……うん、わかった」


 俯いたままで頷くミュアナ。そこで会話は終わる。


「…………」 


 次の会話は始まらない。

 すると、アリリヤが、


「では、門をお願いします」


 そう言うと、後ろに下がったのだった。


「うん……」


 続いてミュアナも外に出ると、開けっ放しの門に向き直り、今度は腰に吊り下げているいくつかの杖鞘から一本の杖を抜くのだった。全長50センチほどの、黒ずみの目立つ白布が柄に巻かれた杖であった。

 その杖を門に向けると、言うのである。


「変換」


 途端、杖の先端に、二段の淡白い光が生まれるのだ。それは杖門と呼ばれるものであり、一般的な魔法の行使に際して起きる光である。

 ミュアナはその光を認めて、杖を振ったのだった。するとすぐに門が閉じ始めて、ガタガタと鳴りながら工房とミュアナたちを別ち続け、ついにバタンと閉まると、しかしミュアナはそこでもう一度杖を振ったのだった。

 やや間があいて、ガコンという音が工房の内側から鳴る。閂がはまったのである。そして最後に、ミュアナが杖で扉を軽く叩くと、工房の窓から漏れていた光も消えるのであった。

 それを認めてミュアナは杖を納めると、振り返り、しかし再び俯いて、アリリヤと対面するのだった。


「…………」

「…………」

 

 二人の間に再びの沈黙が降りる。灰壺を抱えて俯くミュアナと、俯くミュアナを見つめるアリリヤ、もう外と内に分たれているわけではないが、二人とも口を開かないのだ。

 その時、二人の間を風が通りすぎた。昼間よりはやや涼しくなった風が、アリリヤの白いメイド服と黒い長髪を吹き流して、同じくミュアナの薄黒の髪も揺らして、通り過ぎていく。もう夜は始まりかけていた。

 しばらくして口を開いたのは、またもアリリヤの方であった。


「……戻りましょう」


 一言だけ、ミュアナを促すような声音ののち、アリリヤはすぐに踵を返すと、歩き始める。そしてミュアナも間を置いて歩き出して、結果二人の間は、ちょうど大人一人分の余裕が開いたが、その余裕にはいまそよ風ばかりが通り過ぎるのであった。

 ミュアナたちの住まう家は工房と隣接しているので目の前にあるが、出迎える人間は誰もいない。家の窓の中は暗さばかりが満たしている。いまではミュアナとアリリヤしか住んでいないのだ。

 しかし、だからといって何もないわけではない。工房から家に帰る時、ここサナガミ家では花が迎えるのである。

 いまもミュアナを迎えた。ミュアナの左右、夜暗さに紛れて輪郭の乏しくなった花壇がそれでも姿を主張していて、色も形も様々な花が姿を見せているのだった。その小さな花畑は、工房と家を毎日行き来するミュアナとシェキナにとって、密かな楽しみとなっていて、それゆえに、ミュアナとシェキナはアリリヤに見つからないようにいつも話したのである。今年はどんな花畑にしてくれるのだろうかと。

 夜、現在、まだ月が出ていない今であっても、左右に広がる花は俯くミュアナの視界に映った。そしてミュアナは顔を上げたのだった。


「……」


 ミュアナの視界に、先を行くアリリヤの背が映る。ミュアナにとっては見慣れた背であり、まさしく普段と同じように家を背景にしているアリリヤの背だ。しかし、ミュアナの特別な眼には、いつもと違う様子が見えたのだった。


「ふふ……」


 ミュアナが小さく笑みを零す。薄い唇をやんわりと伸ばしながら。だが、アリリヤには気付かれない。

 のち、手を動かした。それを捕まえようとするように。しかし、アリリヤから放たれるそれは、手では捕まえられない。

 ミュアナの眼には、アリリヤが工房に来るまでの間も、ずっとそれが見えていて、近くになるとそれは、一際強くミュアナの眼に映っていたのだった。


「いつぶりかな……」


 殺した声はアリリヤには聞こえておらず、それを確認したミュアナはそして、自身のてのひらに視線を落とした。アリリヤのそれがてのひらで反射しているのだ。反射は手のひらだけに留まらず、ミュアナの視界の中、全身がそれを反射している。

 ミュアナはそれを視線で辿って、一際強いそれをアリリヤの胸に見るのだった。

 それは光だ。青白い光だった。アリリヤの胸の中に青白い光が存在しているのだ。それは、エーテルと呼ばれるもの、目に見えないエネルギー、魔法の源、そういうもの。人々の理解はそうである。

 だがミュアナには違う。ミュアナの眼には明確に光として、それは映るのである。 


「綺麗……」


 殺した声でなお感慨深く呟きながら、目を見開いて瞼の灼け跡を縮ませて、アリリヤのエーテルに見入っている。

 アリリヤの胸に存在するエーテルは、深い青の輝きに白い煌めきが浮かんでいて、そのうえ、ゆらゆらと海面のように揺らいでいた。ミュアナがかつて海と表現して、大好きだと言ったアリリヤのエーテルそのままであった。

 だがミュアナが見ていた光は、胸だけではない。ミュアナの視界は、アリリヤの全身から放たれている光すら捉えていたのである。

 海と同じ色、すなわち深い青と明るい白、その色光がアリリヤの全身から放たれていて、アリリヤの光は周囲さえも照らしているのだった。

 ミュアナが自分の体を見下ろす。自身のてのひらも服も青白い光を反射していて、てのひらを握って開くものの、やはり捕まえられない。てのひらの下に見える小さな花畑も、もはや青みがかっている。

 今度は上を見る。夜闇を光が取り払っている。暗さに光が被さってミュアナの眼には空が暗くない。

 そしてミュアナは嬉しそうな微笑みを空に見せて、のち、楽しそうにくるりくるりと辺りを見回して、すると、二人の周辺がほとんど光に包まれている光景を見るのであった。

 そしてアリリヤの背中に視線を戻す。

 するとすぐに、ミュアナの瞳がアリリヤと同じ青に染まり始めたのである。

 工房で変化した時よりもさらに強く、急速に、今度は瞳孔も虹彩も、瞳全てが染まっていく。ゆらりと虹彩が染まった後、瞳孔まで染まっていって、ついには、白い煌めきまで生まれ始める。結果、ミュアナの瞳も、海のように揺らぎ続けるようになった。

 そしてミュアナは足を止めた。のち、先程と同じ布柄の杖を抜く。


「……変換」


 小さく言って、その途端、杖門の淡白い光が杖の先端に起こり、すぐに魔法が起こる。ミュアナの前、何もない空中に、白く発光する球がいくつか生まれて、同時に、ミュアナが抱えていた灰壺までもが浮いて漂い始めた。

 すると、球の光はアリリヤの足元まで届いて、照らされた土や花がアリリヤに光を届ける。光に気付いたアリリヤは、足を止めてミュアナへ振り返ったのだった。


「お嬢様?」


 杖を構えたミュアナを見て、アリリヤの硬い声音に怪訝さが乗って、だがミュアナは構わず、さらに杖を振ったのだった。

 その瞬間、光球がぶわっと辺りに散る。ぐるぐると飛行し、光を撒いて、最後には佇むと、結果、ミュアナもアリリヤも花畑も、夜に浮き出る。

 そして二人は顔を合わせたのだ。その直後、ミュアナの瞳を見たアリリヤは目を見開いた。しかし反対に、ミュアナは微笑んで言うのである。


「アリリヤ、そんなに平気そうな顔しないで……」


 その時、風が二人を吹く。ヒュウウと吹いた風が二人の足元で花畑を揺らすと同時に、二人の前髪もさらって、ミュアナの海のように揺らめく瞳が、はっきりと露わになるのであった。

 その瞬間——、


「お嬢様‼」


 半ば叫ぶように言って、ミュアナに詰め寄る。瞬く間にミュアナの眼前まで迫り、ミュアナの頬を包んで、瞳を覗き込んで、すると、ミュアナの海のような瞳にアリリヤの剣呑な表情が映るのだった。


「そんな‼ その眼どこで——、いや私ですか⁉」

「そうだよ、これはアリリヤの悲しみ」 

 

 悲痛な声に対して、ミュアナは目を合わせて平坦な声で答えて、すると途端に、アリリヤの表情がきつく歪められる。


「どうして……! どうしておっしゃってくれなかったんですか! 私が自分の感情をコントロールできてないってわかってれば、すぐに離れたのに……‼」


 アリリヤが悲痛に叫ぶ間、ミュアナの眼には、光が変化していく様子が映っていた。

 アリリヤの全身から放たれて夜闇を払う青い光に、どんどん赤い光が混ざり始めたのだ。やがて、光は混じりあって紫へと変わっていき、アリリヤの向こうで空に向かって広がる紫の光がミュアナの眼に映る。するとミュアナは、アリリヤの胸に手を当ててアリリヤの目を見つめるのだった。


「自分に怒ってるの?」


 その時、ミュアナの瞳はすでに紫の海へと変わり、激しく揺らいでいた。

 途端、アリリヤがほとんど叫ぶように言う。


「お嬢様‼ もう見ないでください‼」


 アリリヤはミュアナの背に一瞬で回り込むと、すぐさまミュアナの目を塞いだのだった。

 しかし、ミュアナはなおも淡々と言う。


「……強い光だった。心が裂けそうなくらい、強い悲しみだった。今は自分への怒りも足されたけど、でも——」

「お嬢様お願いです……! もう見ないで……」


 手で塞がれたミュアナの眼には、未だ光が映り続けている。空は見えていない。アリリヤの手は正しくミュアナの目を塞いでいるのだ。けれども、アリリヤの手の向こうに広がる紫の光だけはしっかりとミュアナの眼に映っている。ミュアナの眼は、約十年前、七歳で事故にあってから、常にそうであった。


「無理だよアリリヤ。手で塞いだって、見えてるよ。この眼は工房からでも街の人たちの感情が見えるんだから」

「お嬢様…………。お願いだから……私の感情を感じないで……、貴方に負担をかけるのは……」


 消え入りそうなアリリヤの声は最後まで続かない。ミュアナの眼が届かない背後で、肩を震わせて、後悔の混じった表情を俯かせる。

 するとミュアナが手を持ち上げて、自身の目を覆うアリリヤの手に重ねて、言うのだ。


「ダメ。いつも感情を殺してるアリリヤがやっと見せてくれたものだから……、共有させて?」


 そう言って、ミュアナはアリリヤの手を導く。抵抗はほとんどなく、重なった手はすぐにミュアナの目から外れて、そして二人の手指は絡み合うのだった。

 ミュアナが、振り返る。

 夜の空、光球に照らされて、そよ風に吹かれながら、アリリヤは涙を流していて、それでもなお笑んでいるような表情をしていて、涙が微笑みを伝っていた。

 その時、強い風がアリリヤの髪をさらって、決壊した目を露わにして、その涙で揺らいでいる黒い瞳をミュアナは見たのだった。同時、アリリヤの胸の光が純粋な海へと戻っていく、同じく放たれる光も青へと戻っていき、ミュアナの眼もまた同じ海に染まるのであった。


「……いつ見ても綺麗」

 

 呟いたのはミュアナである。酔いしれたように、アリリヤの胸の中を凝視していて、すると自らの手をアリリヤの胸にあてた。


「悲しいよね……。アリリヤにとってもおじいちゃんは大事な人だったんだもんね」

「辛くはありません……」

「また嘘ばっかり……」


 ミュアナの眼が、一瞬激しく揺れ動いたアリリヤの胸のエーテルを捉える。


「エーテルが揺れてるよ? 今日は素直だね」

「お嬢様……」


 アリリヤが涙を流しつつも、笑って、諦めたような声音を返すと、ミュアナも少しだけ笑って、胸に当てた手を持ち上げて、アリリヤの頬を伝う涙を拭うのだった。


「こういう時はこのエテル眼があってよかったなって思うよ」


 のち、自分の目にも触れるのである。

 エテル眼、それは、ミュアナが発現するまでただの伝説として語り継がれてきた眼だ。いくつもの文献に登場しながら、一切報告例がなかったために、学者の間では存在が疑問視されていた眼である。

 曰く、エテル眼は、エーテルを通して人の感情を捉えることができ、なおかつ、人と感情を分け合うことができるのだという。

 そしてその文献は確かに真実であると、ミュアナは知っていたのだった。

 

「お嬢様……!」


 アリリヤの悲痛な声がミュアナに向く。ミュアナが前触れもなく、涙を流したのである。


「アリリヤはこんなの……よく耐えてたね」


 涙はとめどなく溢れ続けて、すぐに大粒の涙に変わって、下瞼の灼け跡、頬、顎と順に流れていく。

 その涙こそエテル眼によって分け合ったもの、すなわち共有された感情である。ミュアナはその眼を得た時から、エーテルに表現された人の感情を、自らに転写、写してしまうようになったのだ。

 いまも、大きく揺らぐ海のような瞳から、写った涙があとからあとから溢れ続けて、滴り落ちて、地面が受け止めていて、その間アリリヤは手を出したり引っ込めたりと、忙しなく右往左往していただけだった。

 その後、ミュアナが涙を手で拭おうとして、しかしアリリヤがついにミュアナの手を止めるのだった。


「それでは目を傷めます。貴方のは柔らかいのですから」


 アリリヤはエプロンのポケットからハンカチを取り出すと、ミュアナの顔を片方の手で包んで、もう片方のハンカチで目を拭うのだった。優しく丁寧に、ミュアナの目の周りに気を遣いながら、すなわち灼け跡の生皮を傷つけないように。

 しかしミュアナの涙は止まらない、ハンカチが涙を吸収し続けて、アリリヤは水分を含んでいくハンカチを見ながら訊く。


「いつから……、いつから見えていたんですか?」

「……最初から。こっちに向かってくる時もそうだった」

「そうですか……」


 途端にきつく眉根を寄せるアリリヤ。唇さえ引き結ぶ。だがそののち、アリリヤはもう一度口を開いて、ぽつりぽつりと、小さく話し出すのだった。


「だから……、嫌だったのです。だから、見ないでほしかった。自分でも感情を管理できていないことは薄々わかっていました。シェキナ様を失って、悲しみを負ったばかりの貴方に、さらに私の感情を感じさせるなんて、負担以外の何物でもないことです。だから……嫌だったのです」


 静かに話すアリリヤの声は時々掠れて消え入ってしまう。一方でミュアナの涙は、次第に減っていく。


「私は嬉しかったよ。……この眼はさ、人の感情を写したら、ちゃんと感じるんだ。だから、アリリヤがおじいちゃんを亡くしてどれだけ悲しいのか、それを知ることができた。この眼のおかげで」

「それは…………」


 アリリヤはさらに沈痛な面持ちへと変えて、その時ちょうどミュアナの涙も途切れて、アリリヤはハンカチを持ったままの手をだらりと降ろすとぎゅっとハンカチを握り込んだ。

 するとその時、ミュアナが突然動く。アリリヤとの距離を一息に詰めたのである。二人の距離が消えて、アリリヤの背中に腕が回って、体がくっついて、ミュアナがアリリヤを抱きしめたのだ。

 直後、アリリヤは全身で狼狽を表現した。


「えっ、お、お、お嬢様⁉︎」

「動かないでアリリヤ」

「や……やめ——、は、離れてくださいお嬢様‼」

「いやだ」


 抵抗して抜け出そうとするアリリヤだったが、しかしミュアナも負けじとさらに腕の力を強めつつ、アリリヤの肩に顔まで埋めるのである。

 そして静かに呟くのだ。


「今日はずっと、こうしたかった」

「お嬢様……」


 アリリヤの抵抗がすぐに弱くなる。むしろ、アリリヤもためらいがちに腕を持ち上げた。そしてミュアナを包もうとして、しかしやめて、腕が下がってこぶしが握られて、ついには、ただ抱きしめられるままになるのだった。

 すると、ミュアナがおもむろに話し出したのである。


「……夢を……見た気がするんだ」

「……夢、ですか?」

「うん、たぶん昔の夢。子どもの頃の……」


 アリリヤの肩でくぐもったミュアナの声が、何かを思い出すように切られて、そして続く。


「6歳くらいの時の……、記憶をそのまま見たような夢だった……、ような気がするんだけど……、もうよく覚えてなくて。昔、暖炉の前でアリリヤとさ——」


 途端アリリヤも驚いた声を重ねた。


「わ、私も見ました。お嬢様と一緒にシェキナ様に抱きしめてもらった日のこと……」

「え、アリリヤも……?」


 思わず顔を上げたミュアナとアリリヤの視線が間近で合う。鼻と鼻が触れ合いそうなほど近い距離で、視線の間には何も挟まる余地はない。するとアリリヤの方が、ふいと顔を背けたが、反対にミュアナは微笑むのだった。


「そっか……、ふふ、そんなことあるんだ」


 ミュアナがアリリヤの耳元でそう呟くと、のちアリリヤをさらに抱きしめる。

 

「おじいちゃん、昔言ってたよね、『行動で愛を示せ』って」

「はい……」

「だからだと思う。私、今日、アリリヤを抱きしめたくて仕方なかった。それに、またアリリヤを『お姉ちゃん』って呼びたくて仕方なかった」

「お嬢様……」

「その呼び方も。昔みたいにまたミュアナって呼んでほしくて仕方なかった」

「…………」


 しかしアリリヤはなおも立ち尽くす。より強く空を握ることで力の入った拳が、体の側面にぴたりと張り付いて、それと同時に、アリリヤの放つ光が再び紫へと変じていく。

 それを眼で捉えて、ミュアナが掠れた声で言う。


「……できないのはわかってる。だけど今日だけ、昔みたいにミュアナって呼んでほしい」

「……」

 

 のち、ミュアナはもう一度、アリリヤの肩に顔を埋めるのであった。

 すると、抱きしめられるままだったアリリヤが、再び腕を持ち上げたのである。その動きはとても鈍い。重石でも載っているかのようにゆっくりと持ち上げられる。表情は硬く、そして暗いが、しかし腕は着実にミュアナを包む。

 そしてアリリヤは、ついにミュアナを腕におさめたのだった。


「……ミュアナ」

「……お姉ちゃん」


 そして、お互いの肩を濡らし始めるのである。


「ごめんねミュアナ……いつもごめんね」

「ううん、お姉ちゃん……」


 アリリヤが頬擦りさえしながら抱きしめて、抱き込んだミュアナの頭を撫でて、その手付きはとても丁寧な手付きであった。


「私も、ミュアナを抱きしめたかった……」

「うん……」

「ミュアナはいまどれだけ辛いんだろうって思って……だから……今日だけ……」


 そう言ってアリリヤはミュアナをさらに強く抱きしめて、ミュアナも負けじと力を返すと、お互いの耳すら触れるほどに密着するのだった。その時、ミュアナの眼が一層強い紫へと変ずる。

 するとミュアナが訊くのだった。


「また昔みたいに戻れない?」


 しかし、アリリヤは身を硬くする。


「……ダメ。ミュアナの人生を台無しにした私にはできない」

「お姉ちゃんのせいじゃない」


 きっぱりと言うミュアナだったが、アリリヤは顔を起こしてミュアナを見ると、片方の手をミュアナの目、灼け跡の柔らかい生皮に添えて、やはり苦い表情をするのであった。

 

「……ミュアナの目をこんなにした私にはできない。……ごめんね」

「……わかった」


 そして声はなくなって、二人は再び抱きしめ合う。夜闇の下、光球がぼんやりと二人を照らして、小さな花畑はそよ風で流れる。

 その時、遠くの空の方で、月が頭の先を露わにし始めて、夜に明るさをもたらそうとしていた。

 すると同時、ミュアナがふいに腕の力を強めたのである。


「ミュアナ……?」


 アリリヤが、抱き込んだミュアナの頭に声を向けると、ミュアナが弱弱しく言う。


「……お姉ちゃんに訊きたいことがあるの」

「なあに?」


 アリリヤが柔らかい声で答えるものの、ミュアナの力は弱まることはなく、するとアリリヤはミュアナの薄黒の髪を撫でる。


「そんなに言いにくいこと?」

「まあね……」


 アリリヤに撫でられながら肩に顔を埋めるミュアナだったが、少しすると、意を決したように顔を跳ね上げて、アリリヤと顔を合わせて、そして海のような瞳でアリリヤを見据えて言うのだった。


「私はこれからサナガミ家の一人当主になる」

「うん」

「だからたぶん、すごく大変になる。特に私は10年くらい外に出てないから」

「うん」

「そ、それでも……、その……、う、うちで働いてくれる?」

 

 相槌だけを返すアリリヤの表情はずっと柔らかいが、反対に、ミュアナの表情はどんどんと窮状極まるような表情へと変わっていったのだった。

 直後、またも風が強く吹いた。少し冷たくなってきた風だ。風のなか、光球に照らされて、アリリヤは柔らかい微笑みを、ミュアナは焦燥の見える表情を互いに見せ合っている。

 その後少しの間そのままだったために、ミュアナは次第に表情を落ち込ませたが、しかし、その一方でミュアナの眼に浮き出ている白い煌めきに、少しずつほんの少しずつ黄色が混ざるのであった。

 やがて——、


「お、お姉ちゃん!」


 アリリヤは、ミュアナを抱きしめたのだった。強く、ぎゅっと、ミュアナの頭まで抱き込んで。

 そして言うのである。


「当たり前だよ」

「えっ」

「ずっといるよ。ミュアナの側にずっといる」

「……本当に?」

「本当」


 そう言って、アリリヤは顔を起こして、ミュアナと額を合わせる。コツンと振動が相手に伝わって、その時、二人の目と目の距離はさっきよりも遠くない。


「いいの……?」

「うん。ミュアナが行くところに私も行く。どこにでも行くから」

「そっか……、ありがとう」


 ミュアナが明るく笑って、するとアリリヤも笑うのであった。しかし次には、ふと、アリリヤが心配そうな顔をするのである。


「でももう決めたの? 家を継ぐかどうかは葬儀が終わってから決めても……」

「ううん、もう決めたから」


 ミュアナはそしてアリリヤから顔を背けて、家とは反対の方、つまり街の方を見たのだった。


「街の人たちがね、悲しそうなんだ」

「え……? あ、ちょっと」


 唐突にミュアナはアリリヤの手を握って歩き出す。家とは反対の方、そっちは敷地の境界である。二人の足並みは最初こそ引っ張るミュアナが先に進んだが、しかしすぐに揃って土を踏んで進み、そして敷地の境界に近づけばそこには境界線があり、土から金属へとがらっと様子を変えた地面を踏んで、カンカンと甲高い音を鳴らすのである。

 そうして二人は、境界に立つ。安全柵で区切られている敷地の境界。向こうは空中、こちらは敷地。

 二人を迎えるのは、眼下に広がる街と、空を遮る純エーテル網であった。


「見て、お姉ちゃん。地平線まで街が広がってる」

「うん」

「いつもはいろんな人がいるんだよ。楽しかったり、怒ってたり、悲しんでたり、でも今日は全然違う。悲しんでる人がいつもよりたっくさんいる。ちょっと信じられないくらい」


 ミュアナの眼に、近くの街中、まさに眼下の街から揺らめきたつ光が映る。しかし今日は青、青、青、青、青、青の光ばかりが街を支配していた。


「悲しむ……、まさか……」


 アリリヤははっとして、ミュアナの眼を見る。ミュアナの眼にはすでに街の光が写って、瞳孔は海のままに、虹彩だけが薄い青を滲ませていた。


「そう、この街で今日あったことはおじいちゃんの訃報が流れたくらいで、だからこそ——」


 ミュアナはそこで一度言葉を切って、そしてまだ握っていた布柄の杖を、振るうのだった。途端、宙に浮いていた灰壺が寄ってきて、ミュアナに掴まれ胸に抱かれる。光球も寄ってきてミュアナたちを照らして、同じく照らされた"シェキナ"が街と顔を合わせるのだ。

 そして青ばかりの街を見て、ミュアナは言うのである。

 

「この街全てがおじいちゃんの足跡で、おじいちゃんの生きた証で、おじいちゃんが積み重ねたことの結果。そして……私が継ぐべきもの」

「ミュアナ……」


 ミュアナが布柄の杖をギュッと力強く握り直す。


「おじいちゃんはすごいよ、お姉ちゃん。まるで海に沈んだみたい。みんなおじいちゃんの死を悲しんでくれてる。これは気のせいじゃないんだ。自惚れでも思い上がりでも無くて、間違いでも無いんだ」

「わかるの?」


 アリリヤが尋ねるようにミュアナの横顔を見ると、街を見ているミュアナの眼の虹彩が一瞬ごとに変化する様子が見えた。しかしそのほとんどは、青の色調が若干変わる程度の変化ばかりであった。

 そして街を見たままミュアナは答えるのだ。


「わかるよ、見ればね」


 のち、ミュアナがアリリヤに振り向いて、ミュアナの薄い青の虹彩、白青の瞳孔、その瞳がアリリヤを見るのであった。そして真剣に言うのである。


「卑怯で傲慢かもしれない。人の感情を盗み見て、わかったつもりになって、それでおじいちゃんはすごいなんて考えるのは。でも私はこの眼でずっと見てきたんだ。おじいちゃんがしてきたことも、街の人たちのことも。ここで、この眼で、10年間、ずっと見てきたんだ」


 息を継いで、再び街を見て、布柄の杖を掲げて、さらに続ける。


「だから分かる。おじいちゃんはすごい。杖造りとしてこの街を支えたからこそ、いま街が悲しみに沈んでる。それはおじいちゃんに対する信頼の裏返しで、その信頼こそおじいちゃんが積み重ねてきたことの結果なんだよ」


 するとアリリヤは若干眉を寄せるのだ。


「じゃあそれは……」


 言いかけた言葉は続かない。しかし、ミュアナは分かっているように言うのである。


「そう……、この信頼はそのままサナガミ家や次期当主に向くものじゃない。私がサナガミ家を継いだだけで引き継げるようなものじゃない。全ては次の当主が何を積み重ねるのか次第なんだ」


 そしてミュアナは布柄の杖を顔の前まで持ってきて、トン、と額に合わせて、すると杖門の光がミュアナの強い眼差しを携えた表情を照らし出した。


「だから私はサナガミ家を継ぐ。おじいちゃんが積み重ねたもの、私が見てきた全て、それを守っていくために」


 それを聞いてアリリヤが、しかしすぐに心配そうな顔になって、ミュアナを見つめる。


「怖くない?」


 すると、ミュアナはアリリヤを見つめ返して、頼りなげな表情を見せる。


「怖いよ……、本来あり得ない一人当主だし、十年間杖しか造ってこなかったから、わからないことばっかりだし、当主になれば街に降りることも多くなるだろうし……。この眼になってすぐの頃、何回か街中に降りたけど、毎回ひどいことになってたし。あの時の感覚は今でも思い出せる」


 言いながら、ギュッと灰壺を強く抱いて、そして弱弱しい声で言う。


「外には出たくない。外は地獄みたいだから」


 しかしすぐに、強い眼差しを街に向けて、


「だけどもうそろそろ……、外に出ないと」


 そう言い切った。がしかし、その顔はやはりどこか不安そうな表情をしていた。

 すると、ミュアナの横顔を見たアリリヤが、ぱちんと自分の頬を叩くのであった。


「お、お姉ちゃん?」

「なら、私がずっとミュアナを支える」


 アリリヤの真剣な声音と真剣な眼差しがミュアナを貫く。


「ミュアナの専属使用人として、憂いは払う。お姉ちゃんだから」


 そう言って笑うアリリヤを見て、するとミュアナも少し笑うのだった。


「ありがとうお姉ちゃん。正直、十年間ずっとここに引きこもって杖しか造ってこなかった私にはできないことばっかりだから……、お姉ちゃんに居てくれると助かる」

「そうだね確かに——、いや、確かに……。……ミュアナって……一人で買い物できるの?」

「お姉ちゃん‼」

「ふふ」


 焦った声を出すミュアナに、アリリヤは少しおどけた笑顔を見せて、のち、促すのである。


「遅くなったけど、まだ時間はあるから先にご飯を食べよう? そのあと支度するから」

「うん、わかった」


 そしてアリリヤが先に家へ帰っていき、その時、ミュアナは自身の掌を見つめて、すると、シェキナが死亡して以降消えてしまっていた自分の光が、再び全身から放たれているのを見るのだった。


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