第2話 揺れる世界
〔我々は、我々自身が閉じこもるこの世界について、殻と呼称することにした。いつの日か、ここを出て、再び世界を巡ることができるよう、いまはこの世界を人類の揺卵として、我々は引きこもるのである。
したがって、これは皮肉だ。我々はやがて、孵るのである。〕
——殻の創生記、扉より。
シェキナ・サナガミが亡くなったその日の深夜のこと、神の座す都、神地ゼンヨウキにて。
第三ムゲン城に勤める一人の上級執務官は、城に入ったとある連絡を聞いて、即座に神への謁見を願ったのだった。
「……」
執務官は無言で歩く。革靴が石材の廊下を打って、そのたびにカツカツと硬い音が響く。反響を繰り返す。反響した靴音が、さらに重なり続ける。
歩を進めるたび、窓から差し込む月明かりが執務官の横顔を照らして、消えて、照らして、消えて、と繰り返す。壁の装飾に散りばめられた神族の紋章が、月の光をよく反射していた。
そこは廊下である。第三ムゲン城に存在する神族の私的な領域、その廊下。
しかし、執務官は神族の紋章を気にも留めない。彼にとっては、何度も見たものだ。
彼、上級執務官ナーグライは、謁見を許された。そしていつも通り、神の下へ向かうところであった。
「…………」
ぶつぶつと、誰にも聞こえないくらいの音量で独り言を延々と話している。紙の束を抱えて、猫背になって、伏し目で歩き続ける。その城ではよく見られる光景であった。
ナーグライは考えに耽ると、すぐに猫背になって、伏し目で歩くのだ。「猫背のナーグライには近づくな」という警句は、城内では有名である。
いまも廊下だけがナーグライの視線を受け止めていた。しかし、廊下に重なる足音は、普段のナーグライよりも幾分か、急いでいた。
やがてナーグライは、その場所へ着く。すると足を止めて、扉と相対したのだった。
その扉はナーグライよりもよほど大きいものである。そのうえ年季も入っている。汚くはない。むしろ磨き上げられたそれは廊下よりもよほど目立っている。そして最も特徴的な部分は、深く刻まれた紋章。廊下のそれより、よほど大きく刻まれた、神族の紋章であった。
それを見て、ナーグライは背筋を伸ばし、視線を上げると、願うのだった。
「大いなる神、ハバラノミギ10世の御前へお目通り願う」
はっきりした声でそう言う。
そうすると、扉の側に陣取った甲冑の騎士が、ナーグライの方にぐぐっと顔を向けて、重い声を響かせた。
「名を……」
「上級執務官ナーグライ・ヨルノル」
「……伺っています、お入りください」
騎士はそう答えると、腰に吊るしていた杖鞘から一本の杖を抜き放った。そして言う。
「変換」
同時に杖が振るわれて、その瞬間杖の先端に光が生まれて、直後、扉が鈍重な音を伴って独りでに開いていくのだった。
やがて扉が開ききると、騎士はもう興味を失くしたかのように、正面に向き直り、それを見たナーグライも部屋に入ろうとしたが、けれども一瞬立ち止まると、甲冑の騎士に向かって訊いた。
「ロクブ、今日の大神様に何か変わったところはあったか?」
「……変わりなかったように思いまする」
「そうか……、ありがとう」
言って、のち、ナーグライが部屋に入る。すると再び鈍重な音が鳴って、扉が閉まるのであった。
そしてナーグライは、顔を上げた。
部屋は薄暗い。明かりは付いていない。だが暗くはない。物の輪郭や色は見える。しかし光源は部屋にない。部屋を照らすのは、大きな窓から差し込む月明かりだけ。
しかし、月明かりは一部遮られている。窓の縁に腰掛けた男が遮っているのである。
男は月光を浴びながら、足に本を載せて、読んでいる。逆光で、横顔が影に塗装されている。窓の奥は高所であることを表している。
その時。男は、ページを一枚、パラと捲る。すると男の白い長髪も一緒にさらりと落ちて、男はそれを耳にかけなおすのだった。
そんな男の様子を見て、ナーグライは即座に歩み出る。同時に腰の杖鞘から杖を抜いた。男の前まで来て、膝を折って、杖を掲げて頭を垂れる。そして、許しを請うのであった。
「大いなる神、ハバラノミギ10世よ。執務官ナーグライが、御身の前に存在することをお許しください」
静かであった。夜が見ている。男の影がナーグライを覆っている。
男の影が動く。ゆるやかに顔を上げている。男の視線が逆光と揃って、ナーグライに届く。そして、許すのだった。
「ナーグライか。よい、私の前での全てを許す」
中性的な声であるにも関わらず、威厳のある話し方だ。その声は聞く者を委縮させるものである。多くの者はそれを聞いて、ただひれ伏すばかりになるのである。
だが、ナーグライはいつも意に介さない。
「は、ありがたく。では大神様こちらをご覧ください」
許されたナーグライはさっさと立ち上がって、抱えていた紙束から一枚の紙を抜いて大神に差し出す。
すると、大神の方が柔らかく苦笑するのだった。
「貴様、なぜ私自身には訊かぬのだ」
言いつつ、バタンと本を閉じる。笑っているような苦笑であった。
しかし、ナーグライはまるで何のことかわからないような顔をして、首を傾けるのである。
「……何のことでしょうか」
「ロクブには訊いただろう、私のことを。私の目の前で」
ナーグライの落ち着いた声に、大神が顎をクイッと扉の方へやると、ナーグライは「ああ」と漏らして、それから何か悟ったような顔になる。
「大神様がご自身について何か語ったことがございましたでしょうか。貴方様が語るのはいつも世界のことばかりですので、殊に貴方様のことであれば、ロクブに訊いた方がよほど正確だと愚考した次第です」
大神を見るナーグライの目は鋭い。
すると、大神は盛大なため息を吐くのだった。
「全く……変わらんな貴様は」
大神はそれ以上何も言わない。結局大神は、ナーグライが未だに差し出し続けている紙に、視線をやるのだった。
それは報告書の様式である。タイトルは、〝サナガミ家からの式守派遣依頼について〟。
大神はそれを一瞥して、手を持ち上げた。
「変換」
途端、大神の指に嵌まった指輪に光が生まれる。そして指がくいっと動いて、すると同時に報告書が浮き上がった。
紙は、ひらひらと空気を漂って、大神に寄る。大神の面前まで来ると、ヒラリと立ちあがった。
月の明かりが報告書を照らして、大神は視線を走らせる。
「シェキナが死んだからな、それでだろう」
「その通りです。すでにご存知でしたか」
「神は全てを知っているものだ。…………教会は動きたいか……、まあ鏡皇が止めるだろうな」
大神は言い終わる前に指を動かして、報告書をナーグライの方へ戻す。ナーグライが報告書を掴む頃には、大神はすでに窓から月を眺めていた。
そこで、ナーグライが切り出した。
「……私としては大神様のお考えをお聞かせ願いたく。貴方様は例の娘の処遇をすでに決めているのでは?」
言いつつ、報告書の〝ミュアナ・サナガミ〟の文字をつつうとなぞる。
だが、大神は月から視線を離さないまま言う。
「普通に考えれば保護だろうな」
「そうでしょうね。ミュアナ嬢が持つ眼の希少性を考えれば当然の措置かと」
「保護とはつまりこの城で匿うということだ」
「理解しております」
「それはできん」
きっぱりと言った大神の目は未だ月を映している。しかし大神の視界には、月の光を遮る網目も映っている。
「見ろ」
促すような声。するとナーグライが大神に歩み寄って、ともに月を見る。満月であった。だが月の姿は全て見えない。網目で遮られている。
「我ら人間があの殻に引きこもってから、すでに二千年近く経った」
そう言って、大神は月を指差す。正確には、月の姿を隠すように被さる網目を。
それこそは人間が殻と呼ぶ網、正式な名称を『純エーテル網』という配管である。
「約二千年間、我ら人間は、常に殻越しに太陽と月を見ていた」
「……貴方様は神でしょう」
「この世界ではな」
大神の言葉に、ナーグライの目が大神を憐れむ。すると、大神が嫌そうな顔をナーグライに向ける。
「その目はやめろ。不敬だぞ」
言って、大神はまた月を見る。
「……空と我らが別たれてもうずいぶん経つ。時間は無慈悲だ。この中にあるのはすでに、落胆した継続ばかりだろう」
「……」
「ならば、この世界がいま、生きているのかどうかすら怪しい。……刹那の先では世界が終わっているかもしれん」
「……そうですね」
ナーグライの声が淀む。しかし大神は、強く言葉を繋ぐ。
「ゆえに、希望は外だ」
大神の視線が、月から外れて、地平線をなぞっていく。その眼光は鋭いものへと変わっていた。
「南大門前を主地域とする杖造りのサナガミ家。そこに生まれついたミュアナという娘。そしてこの世界において、ミュアナのみが持つこととなった眼。神話、伝説、創世記、あらゆる文献に登場する眼」
言いつつ、足に載せていた本を撫でる。表紙には〝殻の創世記〟と記されていた。
「これほどまでに揃った。その連続を断ち切って城に匿うというのは、この世界の終わりを自ら導くことと同義だ」
「つまり、ミュアナ・サナガミには今のまま、南大門前で活動してもらうということですか」
ナーグライが大神の横顔を見る。大神の白い長髪は、月の光をよく反射していた。
「そうだ。外界と繋がる大門前に生まれたのだ。それが宿命だろう」
「しかし、反神勢力がミュアナ・サナガミを必ず狙います」
「そうだな。ゆえに神命を下す」
途端、ナーグライが一歩引いて、再び大神の前に跪き、大神を見上げた。
「お聞きします」
そして大神は、許しを与えた時と同じように、月の逆光とともにナーグライを見下ろすのである。
「見えざる騎士団を動かせ。ミュアナを守護せよ」
「神命、賜りました。大いなる神よ」
そうして、大神は裁定を下したのだった。
のち、ナーグライが執務室を去ってからしばらく、変わらず月を見ていた大神は独り言ちる。
「まったく……、シェキナめ、タイミングが良いのか悪いのかわからんな」
そうして一人懐かしむように、笑うのだった。




