5 巷で噂の女
――人がまばらに出ていき、大分密度の減った放課後の教室の中を覗く一つの影がある。
アルカディア王国の第一王女、シンシアだ。
まだ教室に残っていたペトラを見つけたシンシアは、絶好の機会を逃さぬように素早く話しかける。
「エラフィ様、少しよろしいかしら?」
「は、はいっ!」
いきなり自国の第一王女に呼び止められたペトラは、緊張に震えた声で返答する。
自分は何か粗相をしてしまっただろうか、と己を省みるも思い当たる出来事はなく……ならば何故、自分は引き止められたのか。
ペトラには全く持って見当がつかなかった。リンクスとシンシアは日中人目のあるところで接触がなかった為、ペトラの中では彼女たちがあまり結びついていなかったのだ。
頼みの綱のロギアは、先ほどまでの授業が男女別であったため居らずペトラ一人。
対抗戦の結果発表の際に会話をしたのを最後に、一切の接触をしていなかったシンシアに名指しで呼ばれるという恐怖の展開に、すっかり怯えきって小刻みに震えている。
「どっ! どどどの、ようなっ……ご、ごごごっご用件でっ、しょうかっ……!」
瞳を潤ませぷるぷるしているペトラを前にして、自分は悪役令嬢になってしまったのでは……と、シンシアは思考の海に陥りそうになった。
まるでロマンス小説のワンシーンにある、悪役令嬢があえかなヒロインをいじめているかのような光景だからだ。
この異様な雰囲気をどこかから感知したのか、ペトラの婚約者であるロギアが校則ギリギリの競歩で廊下から駆けつけてきた。
「王女殿下、私の婚約者が何か粗相をしてしまったのでしょうか!? 彼女は昔から気が弱く、悪どいことをするような者では決してありません! もし、例の件のことならば咎は私に!」
「分かっている、分かっているわ! 落ち着いて、モノケロス様。それに私は彼女を苛めていたわけではないわ」
「……申し訳ありません。取り乱しました」
ロギアの取り乱しように、シンシアは逆に余裕を取り戻せた。あと少しで、尊敬するイオリーティス先生に心の中で情けなく助けを求めていたところだった。
そしてどうやら彼の方は、なぜシンシアがやって来たのか見当がついているようだ。それならば話は早い。
「お二方……少し、時間を頂戴しても?」
* * *
その頃リンクスはというと、シンシアと決めた集合場所に一人で向かっていた。
すれ違う貴族出身の女性陣からの強い非難の眼差しを受けながら。そして、言葉でも非難されながら。
「ほら、見て。あの子が新聞の……よくもまあ堂々と歩いていられるわ」
「平民が王弟殿下や貴族の殿方達を取っ替え引っ替えと、だなんて正気を疑いますわっ厚かましい!」
「いくら祭り期間であったとしても、あそこまでふしだらな行いをこの学園で行うなんて下賤の身は違いますわね」
「「「本当にありえないわよね〜!」」」
貴賤の意識の強い女性の嫌味は手や扇でコソコソとしつつも、リンクスにも聞こえるように絶妙に調整されている。
(あはは、小説で出てくるその他大勢の端役っぽいこと言ってる〜こんな奴が実際にいたよって姫様に教えてあげよ〜)
クスクスと笑う女性達に批判されているリンクスはどこ吹く風。
むしろ新聞を読んだ者達の、リンクスへの非難の声を楽しんでいる有様だ。
(姫様の小説ではああいう端役は嫉妬とかで悪口言うんだよね。他人を貶しても、自分の評価が上がるわけじゃないと思うんだけどな〜)
(そもそも市井ではデートぐらい普通だし〜ほんとお堅いよね、お貴族様は)
貴族の価値観に合わせると、リンクスは今頃スキャンダルの申し子と呼ばれているだろう。
祭りへのお出かけ一つで大袈裟だと、リンクスは内心笑っていた。
(あっそれとも私の気を引こうとしてるのかな? こんな安い挑発に乗るわけないのに)
リンクスはその他大勢の人間に興味はない。だからそれらの発する言葉もどうでもいい。
そもそも王からの命令でなければ、学園などに態々来ていなかった。
だからこそ、そんな場所に居る有象無象達の糾弾ではリンクスを傷つけられないし、彼女の関心すら得られないのだ。
廊下の端にいる集団に抗弁する気もないリンクスだが、もし嘲笑がペトラ達に向いていた場合は相応の報復行為をしていただろう。
例え校則で私闘を禁じられていたとしても、お構いなく決行するようなリンクスの性格を知らずに非難する者達。
彼女らは果たして、噂の終結まで非難の的を変えずにいられるのだろうか。
「あんまり歯応え無さそうな子達だったから、遊んでもつまらなそう……あっ! お菓子でも買っていこうかな〜ペトラちゃんクッキー好きって言ってたし」
――そんな興味すら、リンクスからは一瞬で失せてしまった。
リンクスが集合場所について暫く、シンシア達が到着した。
小さな談話室のような内装の部屋の中央。足を組み、実に呑気な姿でソファに腰掛けていたリンクスは、やってきた三人に緩く手を振りながら歓迎する。
「やあやあ、お三方〜いらっしゃ〜い」
「メルクーリが来ているということは……やはり、新聞のことでしたか」
「ええ、秘密裏にそして速やかに話し合いの場を設けたくて。いきなりでごめんなさいね」
「い、いえっ」
ペトラはここに着くまで縮こまっていたようだが、リンクスの顔を見て少しは安心したようだ。
上位の貴族や教師に囲まれる想像でもしていたのかもしれない。ペトラは悪い方へと考える癖があった。
全員が着席すると、リンクスは魔術で器用にポットを操り紅茶を淹れ、用意していた菓子類を皿に並べる。
そんなリンクスなりのおもてなしをしてから話を切り出した。
「それじゃあ本題の話をしようか……二人とも、ごめんね。まさか新聞に載るなんて思わなかったんだ。そもそも、新聞クラブの存在を知らなかったし、私がそんなに注目されてるとも思ってなかった」
リンクスとしては、これでも大人しくしているのだ。
珍しく声音に元気がないことを察したロギアが、リンクスを庇うように発言する。
「いや、俺も迂闊だった。お前と別れてすぐペトラと合流していたしな。茶会の時以外は共に過ごしていたからペトラに変な誤解はされていない。だから気にするな。お前が悪いわけではない」
恋人達の祭りとしての側面もある収穫祭において、婚約関係にある男女としてシンシアの理想の過ごし方をしていたようだ。
相変わらず仲がいい。そして過保護だ。
言葉には出さないが――婚約者に誤解されなければそれでいい、という想いにリンクスは愛を感じた。
「ロギア様が不誠実なことをするわけがないです! それにリンさんが、男性を誑かすような人じゃないって分かってますっ……ま、まだほんの少しの付き合いですが……! なので、大丈夫ですっ」
「それよりもお前の方が良くない状況だろう。このまま不名誉な噂が立ったままだと将来に響くかもしれん。貴族は体面を重視する。俺達は最悪家の名前を出して新聞クラブに抗議できるが、平民の抗議では袖にされてまた標的にされるぞ」
ロギアの発言に、ペトラが首を何回も縦に振って頷き不安げな顔をする。
一体何故か? ――表だった功績が分からないリンクスは、師団の者であっても下に見られているからだ。
それはリンクスも薄々感じていた。だからと言って、八法士兼魔術師団第四部隊長リンクス・アーストロであることを公表するつもりは無いが。
「そもそもメルクーリのことを何も理解出来てないあんな記事など、自らが愚かだと宣伝しているようなものだ! 心底馬鹿らしい!」
「そっそうです……っリンさんは、こんな悪女じみた人じゃありませんっ」
リンクスよりもこの二人の方が記事に対して怒りをあらわにしている。
そしていつも丁寧な仕草をするペトラが、手に持っていた新聞記事をぐしゃりと苛立たしげに握った。
二人とも貴族の割に感情が素直に出るタイプではあるが、ここまで怒りを発露している瞬間は初めてだ。
「二人とも……」
ロギアは自分の行動を反省しているだけでリンクスを責めず、ペトラはリンクスの人格を信じた。それに加えてリンクスの心配までしている優しい心の持ち主達だ。
短い付き合いではあるが、リンクスはペトラとロギアのことを気に入っていた。
手紙の魔術士には該当しないだろうと安心できる互いを一番大事に想う思考、リンクスが好むような魔力の持ち主であること――そして、友達だから。
「二人が分かってくれてるなら、新聞なんて別にどうでもいいや〜」
「どうでもよくはありません! リンさんにこのまま悪い噂が付きまとうのは好ましくないわ。師団に在籍していたって油断できない。貴族から退団への圧力をかけられる可能性もあるのよ!」
貴族の中にはより高位の貴族に圧力をかけられ、泣く泣く従うことになる事例があるらしい。
リンクスはその辺のことは物理的に蹴散らしてきたか関わらないで来たせいで、いまいち実感が湧いていないようだ。
シンシアの訴えも軽くいなす。そもそも――
「退団は絶対ないから安心して〜そもそも第四の任命権は陛下にも、団長にすらも無いし、ただの貴族如きに出来ることなんて何もないよ。まさか第四が屈すると思ってる?」
「陛下や団長にすらない、だと? それはもしかして……第四部隊隊長リンクス・アーストロ卿にしか、第四の人員は決められないということか?」
「そうだよ〜第四の隊員任命権の全権譲渡は<華燭>の八法士続投の条件の一つだからね」
「「「えっっ……!!」」」
三者とも驚愕の顔でリンクスを見つめる。
王からではなく臣下から条件を出すなど、普通に考えてあり得ない。
ましてや形式上、魔術師団は魔術師団長の管轄だ。その団長兼八法士である<雷帝>ヴロンディ・サザンクロスもこの破格の条件に許可をしたことになる。
この国でも有数の権力の持ち主にまで横暴が許された存在が居ることに、驚きを隠せないようだった。
「本当に謎の多いお方ね……」
「ま、まぁ隊長のことは今どうでもいいじゃん! 今は私の悪評をどうにかすることが重要なんでしょ? 私は別に気にしてないけど」
「お願いだから気にしてちょうだい。私の名前を出して強制的に問題解決すれば禍根を残すことになりそうだし、かといってこのままエスカレートしてしまうのも困るわね……」
「放っておいても大丈夫だとは思うけどね〜」
恐らくシンシアが困るのは、あの作戦に支障をきたすかもしれないからだろう。シンシアは「リン・メルクーリ」という存在を悪女にしたいのではなく、恋のキューピットにしたいのだから。
異性関係で悪い噂はお呼びではないのだ。リンクスが悪女の役なんて務めてもいずれボロを出すに決まっている。
そんなことをぼんやりと考えていたリンクスに、苛立ちが隠しきれていない声が飛んでくる。
「勝手な憶測を悪意で広められている友人を、放っておけるわけないじゃない! やっぱり私が直接話すわっ新聞クラブの方達だって王族に圧を掛けられれば、訂正文の一つや二つ出すはずよ!」
「……ふふっ、姫様が誰かを脅すなんて似合わないね〜」
自分のことに必死になるシンシアを嬉しそうに見るリンクスに叱責が飛ぶ。
「笑っている場合か!」
「うぅ……解決策、解決策ぅ」
ペトラが案を出そうとして、頭を抱えてうねっている。
話に熱が入り途中から飲むことを忘れられた紅茶はもちろん冷めていた。
(もうしょうがないよね。こんなの見ちゃったらさ)
リンクスを除く三人が真剣に意見を交わす様をリンクスは俯瞰して見る。
親しくない人間のいる場では深窓の姫仕様になり口数が減るシンシアが饒舌なまま。人見知りなペトラもそう。ロギアは眉間に皺が寄っている。
そんな友たちの姿を見て――リンクスは心を決めた。
「じゃあ、こういうのはどう?」