1・1 口をすべらせるな
鳥のさえずりが聞こえる。
鼻をくすぐる焼き立てのブリオッシュの香り。
ああ、腹が減った。
そういえば何時だ?
瞼の裏が明るい。
まさか寝過ごしたか!
慌てて飛び起きる。
目に入る光景に一瞬混乱する。豪華すぎる調度品の数々。自分の僧房じゃない。
――ここは王宮だ。
「大丈夫ですか、先輩?」
カロンの声。驚き、見れば、ベッドの傍らの椅子にカロンがすわっていた。
「先輩は昨晩、聖なる力の使いすぎで倒れたらしいですよ。覚えてますか?」
不安げな顔のカロン。
そうだった。魔物が大量に出現して騎士たちが大勢怪我をした。死んだヤツも――。
目をつむり、息を吐く。
深く考えるな。
お前の信条はラクに生きるだろうが。
というか。
目を開き、カロンを見る。
「なんでカロンがここにいるんだ」
「ダンテ神官が誘ってくれたんです」
「ダンテ?」
「はい。長が昨晩のことで王宮で会議があって、ダンテ神官はお供をしてます。で、先輩のことの連絡も来てたみたいで、私に声をかけてくれて。ここへの入室もちゃんと王宮の許可もとっていますよ。それより体調は大丈夫ですか?」
「平気みたいだ。腹は減った」
首を巡らせるとサイドボードの上にブリオッシュとオレンジジュースがあった。
「先輩の好きなものを用意してもらいましたよ!」
「ありがとう、ちょうど食べたいと思っていたんだ――いや、待て」窓の外を見る。「今は何時だ? 結界を張らないと」
「大丈夫です。ディディエ殿下と公爵令息がやってます」
「ふたりが? できるようになったのか?」
「みたいですよ。だから先輩のことは起こさなくていいって、事務官さんが言ってました」
そうか。
俺ひとりじゃなくなったか。
良かった。
ようやく肩の荷がおりた。
「ジュースを飲みます? その前にお水がいいですか?」とカロンが立ち上がる。
その横顔が青白い。
「カロン。顔色が悪いぞ」
「寝不足で」と彼女はぎこちない笑みを浮かべた。「体調が悪いわけじゃないですよ」
「すわっていなさい。食事くらい自分でできる」
「倒れたひとがなにを言っているんですか」
水差しからグラスにそそぐカロン。
「ほんと、ただの寝不足なんです。このところよく眠れなくて」
はい、と水を渡される。急にのどが乾いていることに気づいて一気に飲み干す。
「怖い夢を見ているみたいなんですよ。覚えてはいないんですけど、目を覚ましたときにすごく疲れてて。でもそれだけです」
「よくないじゃないか」
あいたグラスを受け取るカロンの指に俺の指がかする。驚くほどひんやりしている。
「きっと魔物とか魔王とか、そういうのが怖いんです」困ったような表情のカロン。
「安心しろ。なにがあってもヤツらを森から出さない。だからカロンは神殿ですべてが終わるのを待っていなさい」
「はい。……でも先輩、絶対にケガをしないでくださいね」
「しない。エルネストを盾にすると言っただろ?」
うなずくカロン。
「私、正巫女になったら先輩にお祝いしてもらいたいです」
「もちろんだ。私の唯一の世話係だからな。カロンのほしいものをなんでも贈るぞ」
「いえ、誰よりも先に昇段の祝福をしてもらえれば十分です。――でも、『なんでも』か」にへらっと顔がゆるむ。いつもの彼女の笑顔だ。「私がほしいものを知ったら、先輩は驚きますよ」
「へえ。なんだろう」
「秘密です!」
グラスを置き、カロンは朝食ののったトレイに手を伸ばす。
「カロン。そこにすわりなさい」
「はい?」と言いつつ素直にすわるカロン。
「カロン・スピーナに神の祝福を。悪しき夢蝕む不安から彼女をお守りください」
それと魔の者たちと死からも。
彼女を祝福し、祈りの印を切る。
「……ありがとうございます。本当は今日、先輩に祝福を頼むか迷っていたんです」
そう言う彼女の目にうっすら涙が浮かんでいる。そんなにも不安だったのか。可哀想に。
「でも図々しいかな、って。先輩は昨日、ものすごく大変だったみたいだから」
「そんなことよりカロンのほうが――」するりと出そうになった『大事だ』という言葉を飲みこむ。「――大変だろう。不眠は心身に影響が出る。肌が荒れるぞ」
「私程度の顔が荒れても誰も気づきませんよ」
「私は気づくが?」
「美容にうるさいですもんね」
笑いながらカロンは立ち上がり、朝食のトレイを取る。
「見てくださいよ。さすが王宮。同じブリオッシュでも神殿のものとは全然違う。美味しそう」
「ひとつ食べなさい」
「や、そんなつもりじゃ!」
「私は頼めば昼にも食べられるから構わない」
「これじゃ私がくいしんぼうみたいじゃないですか!」
顔を赤くして慌てているカロン。
可愛い。
脳裏にちらつく、横たわる騎士。あれは明日の俺かもしれない。
引き出しの奥、鍵付きの箱に押し込み隠した感情が鎌首をもたげる。
「でも先輩」目元まで赤くしたカロン。「ご飯が美味しいからって王宮にいつかないでくださいね。全部終わったら神殿に帰って来なくちゃダメですよ。先輩は神官ですからね!」
『神官』との言葉に、自分の奥底に滲み出していた感情が一瞬にして消えた。
「当然だ」
それだけを答える。
カロンは敬虔な巫女で神官の俺を尊敬している。プライベートの所業は、神官の実績があるから看過されているだけのこと。本来は男の上着を借りるのもイヤ、馬に乗るためでも男に掴まりたくない、そんな清廉な子なんだ。
もし、俺が欲望まみれの目で彼女を見ているなんて知ったら――。
恐ろしい感情を急いで捨てる。
失いたくないなら、欲しいと望んではダメだ。
神官の俺を求められているのだから、それに徹していればいい。好きだなんてつまらない気持ちは無視をしろ。
それにしてもなんで俺はよりによってカロンに惚れたんだ。
ほかの女ならよりどりみどりなのに。
でもムリだろ? 純粋な顔して先輩先輩と慕ってくれて、損得なしにそばにいてくれるんだ。これでオチないはずがないじゃないか。
ブリオッシュを両手で持って、カロンはリスみたいに可愛く食べている。
「長の会議はいつまでだ?」
「終わるまでって聞いてます」
「ならば、それを食べ終えたら長の近くに控えていなさい」
今はそこが最も厳重な警備体制だろうから。
「せ――」
カロンがなにか言いかけたとき、ノック音がした。許可したあとに入ってきたのは疲れた顔をしたバルトロだった。
「申し訳ありませんジスラン。結界張りをお願いします」
「殿下たちもできるようになったのではないのですか?」
バルトロはうなずいた。
「でも三十分が限度なんです」
三十分!? 俺なら半日近くもつ。
「交代で張り続けていたんですが、おふたりの力が尽きそうです」
「わかりました」
ベッドから降りて、自分が寝巻きを着ていることに気づいた。昨晩、誰かが血を拭き着替えをさせてくれたらしい。俺はそれがわからないほど深く気を失っていたようだ。
「先輩」
同じく立ち上がったカロンが俺のすぐそばに寄る。
おいおい近すぎる。頼むから距離を取ってくれ。目の前にいるのはキスしたい気持ちを必死に隠している、嘘つき男なんだぞ。
「やっぱり言います。お祝いでほしいもの」
「ん? なんだ?」
彼女の顔がうっすら赤くなる。
「私への詩が、ほしいです。もちろん!愛を捧げるものじゃなくていいんです。その、先輩の詩は素敵だから」
「……わかった。いつも手助けしてくれるカロンに最高傑作を贈ろう」
へにゃら、と嬉しそうに顔をゆるめるカロン。
カロンへの詩、か。
愛を捧げるものならば、一年も前に書いている。惚れていると自覚したときに。
思いの丈を赤裸々に詠み、それから鍵付きの箱に封印した。
誰にも見られたくない。
誰かに見られるわけにもいかない。
俺が唯一本心で書いた詩。
カロンを失わないために二度と取り出さないと決めた、俺の秘密だ。




