第02話 悪運
……。
…………。
………………?
……あれ?
……私、生きてる?
「……うぅ……あぅ……ひっく……」
……そこにいるのは……誰?
……その背中……見覚えがあるわ。
「……うわぁん、うぅ……」
……ディーテ? ディーテなの?
……なぜ、泣いているの?
「ひっく、うぇん、お、お姉様……」
そんな目を腫らして、みっともない。
王族なら、私の妹なら、他人の前で涙を見せてはダメよ。
「だっで、わ、わたし……なく、しちゃって……ひっく」
なくした? なにを?
……あっ、違う。
これは、この景色は……あの時の……。
「■■■■――を、な、なくしてしまいました……」
そうだ、あの日、妹は……。
そうだ、あの日、私は……。
……そこで目が覚めた。
「…………」
目に飛び込んできたのは古ぼけた天井。……天井がそこにあるということは、私は寝ているのか? 少なくとも、死んではいない……?
「…………」
ゆっくりと上体を起こす。身体が硬い。痛みはないが、まるで油が切れてしまったように重たく感じる。
「…………」
どうやら寝台に寝かされていたようだ……誰に? いや、その前にここは……?
と、その時だ。視界の端に、なにか動くものが映った。
「うんしょっと……おいしょっと……ほいしょっと……」
子供だ。少女がひとり、背を向けて床を拭いていた。身なりからして下民に違いないだろう。実際、私がいるこの部屋も、寝台も、そしていつの間にか着ている衣服も、酷い物だった。
「…………」
少女は私の視線に気づかず、熱心に床を拭いていた。気は進まないが、状況を把握するためにも、この少女には話を聞く必要がある。
「……ディーテ」
言って、私は困惑した。なぜ、妹の名を呼んだのだろう。まだ寝ぼけているのか。
ただ、
「……うん?」
それで少女は振り返って、
「……あっ」
目をまん丸にして固まった。
「お、お、お、」
……お?
「お、お、お、」
少女はわなわなと震え、
「女の人が生き返った! お兄ちゃあああああああああああああん!」
そう叫んで部屋を出て行ってしまった。
「……ガキはすぐ騒ぐ」
舌打ちをしながら、今一度、状況を確認する。
私は〝吊り落としの刑〟によって海に落とされた。が、なぜか生きている。
嵐の影響もあって海は荒れていた。あれに飛び込み、救助することは難しいだろう。もっとも、私を助けようとする人間がいるとは思えないが。
ならやはり、奇跡的に荒波によってどこかへ運ばれた?
もしそうなら、奇跡としか言いようがない。
「……でも」
命は辛うじて繋がったが、ここから先はわからない。なにせ、ここがどこかも、誰にこうして介抱されたのかも不明なのだ。予想すら付かない。
この様子も宰相の一派に監視されていて、九死に一生を得て歓喜する私を、再びどん底へたたき落とす前振りかもしれない。希望を見せた後で絶望に染め上げる、私が好んでよくやった手法だ。
「…………」
なら下手に動けない。そう考えていると、
「――目が覚めたか」
見知らぬ男が部屋に入ってきた。二十代半ばほどの青年。先の少女と同じくブラウンの髪。前髪がやや長いので表情は掴みにくいが、優男の雰囲気はない。
「痛むところはあるか? 酷い怪我だった。助からないと思っていた」
私を見つけたのはこの青年か。さて、どう答えるか。
「……言葉がわからないのか?」
「い、いえ……」
宰相の手の者ではない、か?
「名前は?」
「私はスイ――」
氾濫する思考のせいで名乗りそうになったが、なんとか堪えた。
馬鹿か私は。正直に名乗ってどうするよ。
「スイ?」
「あっ、その……」
……どう答えるのが、私にとって一番都合がいい?
「……前のことが……その、思い出せないの……」
「記憶喪失か?」
「え、えぇ、そうみたい。物の使い方とかは……覚えているけど……」
……いけるか? 苦しいか?
「……そうか」
青年はそれ以上聞いてこなかった。
とりあえずはやり過ごせた?
「あの怪我では……記憶のひとつやふたつ、飛んでもおかしくはない」
どうやら納得してくれたようだ。
しかし、そんなに私の怪我は酷かったんだろうか。今は特に痛みもないが。
すると青年は私に近づいてきた。後ろにはあの少女の姿もある。私が怖いのか、青年に隠れるようにこちらの様子を覗っている。
「……痛みは?」
「今のところは……」
「その目もか?」
「……目?」
「左目だ」
青年の視線が私の左目に……って、あれ? なにか……おかしい? やけに視界が狭い……え? これは……。
私は左手でゆっくりと顔に触れ、
「……は?」
思わず声を出してしまった。
左のまぶたが閉じている? でも、開けられない。それに、固い? まぶた越しに触る左目がなんでこんなに固いの?
「空っぽだと顔が崩れるらしい。だから、中に入れてある」
……義眼。
つまり……左目はダメだった。
とはいえ、本来なら確実に死ぬところを片目で済んで五体満足なら……ん?
「…………」
違和感を覚え、シーツをめくった。
右足の、足首より下が――なかった。
「……大きな欠損も、戻すことはできなかった」
右足も……なくしてしまったのね……。
足……足……片足は使い物にならない……。
これはかなり不味い。歩行が難しいとなると、今後するべき行動の選択肢が一気に狭まってしまう。これなら、まだ腕がなくなった方がマシだ。
「……ボロボロね、私」
部屋が薄暗いのでわからなかったが、よく見ると身体中が傷だらけだった。右足のような欠損こそないが、美しさの欠片もない身体になってしまった。
海水に浸かって擦り回ったせいか、腰まであった髪も肩ほどで切れてというか、千切れている。手間と金を掛けた、誰もが触れたくなるような黄金の髪は、見る影もない。
命が助かっただけ儲けもの。
頭ではそうわかっていても、簡単には割り切れない。
「……さぞ醜い有様だったでしょう? 貴方が治したの? 貴方は治癒の魔法使いかしら?」
私が治癒魔法によって一命を取り留めたのは明白。
左目や右足はもちろん、全身の傷自体は既に塞がっていて痛みはない。
これは薬草や自然治癒では不可能な回復力だ。治癒魔法は使い手が限られる希有な魔法だが、私にも魔の才はそこそこある。それくらいは見て判別できる。
「いや、俺ではない。君を治療したのは、村で治癒師をやっているノゲシだ」
「……この村の名は?」
「ムーサ村。三十人ほどの、小さな村だ」
もちろん聞き覚えはない。
「……この村はどの辺りに?」
「馬車で半日のところに、フロラリアの街がある。聞き覚えは?」
「……わからないわ」
と、口では言ったが、フロラリアは知っている。実際に行ったことはないが、〝とある物〟の仕入れ先のひとつとして利用していた街だ。
しかしそうなると、私は相当の距離を流されたことになる。
さすがに王都からここまで離れている辺鄙な村ならば、宰相に気づかれることもないだろう。それ以前に、私がこうして生き残っていたなんて、思いも寄らないだろうが。
「この部屋は好きに使っていい。わからないことがあったら聞いてくれ」
言われるまでもなく、そのつもりだ。衣食住については言いたいことが山ほどあるが、ここは耐える。まずは情報を手に入れるのが急務。そのためにも、この男は上手く利用しなければならない。
「俺はニアス・コリウス。こいつは妹のアメイだ」
名乗りながら、ニアスは自分の後ろに隠れていた少女を引っ張り出した。
「あっ、その、えっと……アメイ、です」
ニアスの妹。歳は十才くらい。小汚い衣服を纏った子供と話すことなどないが、ニアスを利用するならこちらを籠絡するのが得策か。
「私は……そうね、スイとでも呼べばいいわ」
「スイ……お姉ちゃん……」
赤の他人に『お姉ちゃん』と呼ばれる筋合いはないが、ここは我慢だ。
私はいつもの仮面を被った微笑みを作る。するとアメイは最初こそ戸惑っていたが、すぐに嬉しそうに笑った。子供は扱いやすくて楽ね。
「ニアス、村のことがもっと知りたいわ。教えてもらえる?」
「あぁ、だがその前に、」
「その前に?」
その疑問に答えるように、ぐぅという音が鳴った。
私から出た音だ。
「その前に、昼食にしよう」