月下の魔術師
ロック・プルヴェが現れない理由は、ミリアンと踊りたくないから、というわけではない。
長寿だった母方の曽祖父が亡くなり、弔いを優先したいという詫び状が届いていた。
デビューの夜会で婚約者以外と無理に踊ることもなかろうと、見学&味見コースが許可され、ミリアンはホッとした。
ただ、今回の夜会に呼んでくださった王妃殿下には、貴女のその姿をご披露しなくてはね、とソフィに言われた。
パートナーが来ていれば末席とはいえ、初お目見えということで王族への挨拶の列に加わるはずだったのだ。
夜会が開かれる広間への通り道に面した部屋で、ミリアンは王妃殿下を待った。
その部屋の前で一行は歩む速さを緩め、殿下は開け放たれた扉の奥に視線を向ける。
ソフィの合図でクルリと回り、全身の装いを披露したミリアンは、最後に優雅なカーテシーを決めた。
殿下は扇子の陰で微笑み小さく頷いた。そして何事もなかったように一行は廊下を進んだのであった。
夜会の会場に入ると、ミリアンは初めて目にするキラキラとした雰囲気に酔いそうになった。
これでもか、というような豪華なドレスを競い合う令嬢やご婦人方。
中には、女性に負けないような美しい礼装の男性もいる。
田舎者には、ただ目の毒だなあ、と思っただけのミリアンは、味見に回ることにした。
あの料理長とミリアンの仲である。
事前に、何を食べるべきか予習はバッチリ。
なにせ、素敵でお洒落なドレスを着ているのだ。
普段より胃腸周りの締め付けが厳しいのは仕方のないこと。
効率よく美食を堪能しなければならない。
お菓子のテーブルにはシャルロットが置かれていた。
最近、王家の茶菓子として評判がいいから、是非食べろと言われている。
美しく飾られたケーキは、流石に王宮の夜会ならでは。
一口食べて、ミリアンは目を丸くする。
味の決め手は、あのクローブ風味のママレードだ。
『第二王子殿下がお好きで、何度もリクエストされるんだ』
料理長は、そう言っていた。
「あら、美味しいわね、このシャルロット」
一緒に食べていたソフィも気に入ったようだ。
「前にミリアンにもらったママレードを思い出すわ。
あれも、美味しかったわ~」
うふふ、と女同士、ケーキを食べながら微笑みあう至福の時間だった。
一通り見て回った後、そろそろ寮に戻ろうという時になって、ソフィを見つけた知人が話しかけてきた。
ミリアンは気を利かせて、一人で戻ることにする。
まだ時間も早い。少しだけ寄り道しようと、ミリアンは警備の騎士がいることを確認してから庭園に出てみた。
今夜は満月。
植え込みの影たちも踊りだしそうに軽快な曲が、広間から聞こえていた。
ダンスもワルツなら大丈夫。でも、こんなに速い曲は、あまり自信がない。
そんなことを考えていると
「ミリアン?」
と呼ぶ声がする。
近づいてきたのは金髪で緑の目の、美しい礼装の若い男性だった。
「リシャール第二王子殿下」
小さく名を呼んで、ミリアンは礼をとった。
「やっぱり、バレてる」
シャールと同じ顔の王子は、苦笑いした。
ミリアンにしてみれば、第二王子にしろ、ガエルにしろ、隠す気があったとは思えない。
最初に気付いたが、ここではそういう設定なんだと思い、合わせていただけだ。
夜会会場では遠目に王妃殿下の隣に立っている姿を見た。
今、目の前にいる人と同じとは思えないような、無表情ではあったけれど。
「婚約者は、どうしたの?」
「曽祖父様が亡くなられたので、そちらを優先されると連絡がありました」
「ああ、それは仕方ないね。…それにしても」
第二王子はミリアンの姿をじっくり眺めた。
「彼は間が悪いな。ミリアンの晴れ姿を見逃すなんて」
ミリアンはボッと音を立てて頬が赤くなったような気がした。
急になんだか、暑い?
その時、風もないのに近くの植え込みが揺れた。
第二王子は、そちらをちらっと見ると、ミリアンに腕を差し出す。
「月明かりの温室へ行ってみないか?」
魅惑的なお誘いだ。
「夜会は、もうよろしいのですか?」
「ああ、母上には許可をもらってある。行こう」
優しく微笑まれて、ミリアンは素直に彼の腕に手をかけた。
もうしばらくすれば、夜の庭園にありがちな大人の舞踏会が始まりそうだった。
王子は足早に、ミリアンをエスコートする。
王宮内を知り尽くした彼は、庭園を横切り、回廊を突っ切ってミリアンを誘う。
見慣れない夜の王宮は、まるで魔法の宮殿のようだ。
わずかな段差でミリアンが転ばないよう、時々ふわりとリフトして進み続ける彼は、きっと魔術師に違いない。
温室さえも、いつもと違い、月光を浴びたガラスが淡く光る。
リシャールが扉のベルを鳴らせば、不機嫌そうなガエルが顔を見せた。
「殿下~、夜会の最中にこんなところに来ていいんですか?
……って、ミリアン? おやまあ、なんという別嬪さんって、そうじゃなくて!」
「大丈夫、ミリアンは知ってる」
二人に顔を覗き込まれて、ミリアンは大きく頷いた。
「ここにいる時は植物に癒されたいというので、身分のことも忘れていたいのかなあ、と」
「その通りだ。ミリアンはわかってる。
だから、ここではシャールと呼んで。さん付けも無しだ!」
「はい、シャール」
シャールは満面の笑顔になった。
「ところで、ガエルさんは、いつも夜じゅう温室に?」
ミリアンにはガエルがこの時間にいたことが不思議だった。
「いや、普段もたまに見回りはするけど、夜会の時は特に不心得者が入り込む心配があるからね。
夜にした方がいい作業は、こういう日に取っておくんだ」
「何か、お手伝いしますか?」
「いやいや、そのドレスを汚させるわけにはいかないよ」
ミリアンは、そう言われるまで自分の姿を忘れていた。
「それに、もう作業は終わったよ。
後で鍵を掛けに来るから、月下の温室を楽しんで」
「ありがとうございます。
満月の光で、神聖な温室が、ますます神聖に見えますものね」
眼をきらきらと輝かせ、真顔でそう言うミリアンに、ガエルは驚いた。
そして、リシャールとすれ違う時に
「殿下、神聖な温室ですからね」と念を押したのだった。
一旦離れたミリアンの手を取って、当たり前のように繋ぐと、シャールは温室の中を歩きだした。
完璧な道案内で、ここまでエスコートしてくれた魔術師に、ミリアンは大人しくついて行く。
「ガエルは、以前は僕付きの護衛騎士だった」
「まあ、そうなんですか」
「年齢的に騎士を引退すると言うので、ここを任せた」
「植物には詳しかったんですか?」
「いや、前にいた園丁に一から教わって勉強したんだ。
苦労をかけたけど、僕はここでいろいろ吐き出せる。
僕が王宮にいられるのは、ガエルのお陰だ」
温室の中央辺りまで進むと、シャールはミリアンと向かい合った。
ここは通路が交差している場所で、一番広くなっている。
「さてと、君の婚約者には悪いけど、せっかくダンスを練習したんだろ?
一曲、踊ろう」
「ここで、ですか?」
「嫌でなければ」
一通り習って、先輩方に合格と言われたが、あくまで初心者として、だ。
それに、婚約者が現れずダンスが免除になった喜びで緊張感が吹き飛び、覚えたことが少しおぼろげになった気がする。
「嫌ではないですが、あまり自信がないです…」
「そうか。うーん、何が心配?」
「…足を踏むかも」
シャールは笑った。
「じゃあ、ゆっくりしたワルツなら?」
「大丈夫、かも?」
俯き気味のミリアンの耳に、シャールの声で歌われるメロディーが聴こえてきた。
「麻紐の花束…」
「これ三拍子だから、音無しレッスンの時に便利なんだ」
『麻紐の花束』は古い民謡で、この国の民なら誰でも知っている。
戦地に向かう兵士が、大切な人の幸せを願いながら別れを告げるという内容だが、相手が家族なのか恋人なのかは特定されていない。
メロディーが明るく易しいのと、子供でも分かりやすい言葉が使われているので広く浸透し、お祭りの最後に皆で歌うことが多い。
酒場で看板ですと言われ、追い出される間際の酔っ払いが大合唱することでも知られていた。
シャールに促され、腕を組む。
目を閉じて息を整えると、ミリアムは再び目を開いた。
それをじっと見ていたシャールは、ゆっくりと歌いだす。
見つめ合った二人の呼吸がひとつになり、ダンスが始まった。
月の光の下で、温室の植物たちに見守られる二人は、少しずつ大胆なステップで踊り始める。
気付けば、ミリアンも一緒に声を合わせて歌っていた。
動きを止めた時、シャールが何か言おうとしたような気がした。
しかし、その疑問は大きな拍手でかき消されてしまう。
「お見事でした、お二人とも。観客が私だけなんてもったいない。
素敵でしたよ」
ガエルの声に、シャールはミリアンの背に回した腕を外した。
軽く片手だけを繋いで、二人で礼をすると、その片手さえ離れていく。
まだ、月は煌々と輝いているのに、魔法はすっかり解けてしまった。
無理に作った笑顔と、激しい動悸を感付かれませんように…
ミリアンはそう祈った。