温室の出会い
ソフィがミリアンに王妃殿下の許可を伝えると、その喜びようと言ったらかなりのものだった。
「王妃殿下の温室ですから、予定外に殿下が来られることもあります。
常に気を配って、何かあったら控え、必要に応じてすぐに退出するように」
「畏まりました」
「植物については…貴女は私よりずっと詳しいのね。
でも、管理している園丁に、しっかり確認してね」
「はい勿論です!……あの」
「いいわ、早速行ってらっしゃい」
「ありがとうございます!」
ミリアンの子供のような素直な態度に、ソフィは自然と笑顔になった。
出来る限りの早足で廊下と庭園を抜けたミリアンは、温室の扉を開け、そっと中に入る。
ああ、落ち着く、この緑の香り!…いや、落ち着いている場合じゃない、園丁さんに挨拶しないと、と人がいないかキョロキョロと探してみる。
そして、やっと一人の若い男性を見つけた。
彼は柑橘の実を一つずつ確認して、熟したものを収穫しているようだった。
「あの、温室の園丁さんですか?」
使い古した作業着姿の彼が振り向くと、思いのほか顔が整っていて、ミリアンは驚いた。
「いや、僕は手伝わせてもらってるだけで。
園丁は、もうすぐ来ると思う」
「手伝わせてもらってる? どういう意味ですか?」
ミリアンは訊いてみた。
素直に尋ねてくる彼女に、彼も驚いたようだった。
「…普段は執…文官をしてるんだけど、植物を触ると落ち着くから、時間のある時は触らせてもらうんだ」
「すっごく、わかります!」
「え?」
「私も領地を離れて、植物にぜんぜん触れてなくて。
今日、温室に入る許可を頂いたので、飛んできちゃいました!
落ち着きますよねえ、緑の香り!」
勢いよく言い切ると、スハーと深呼吸するミリアンに、彼は呆気にとられた。
「でん……ッ!」
声がして振り向くと、作業着姿の中年男性が立っている。
ミリアンに気付くと目を瞠って言葉を濁した。
「…えーと、貴女はどなたかな?」
「すみません、勝手に入ってしまって。
私は行儀見習いでこちらに上がらせていただいているミリアンと申します。
王妃殿下から温室に入る許可を頂いたのですが…」
「ああ、ミリアンさん。先ほど連絡を受けたよ。
私は、温室の管理を任されているガエルです。
植物に触れたり、もいだりしなければ、後は好きに過ごして構わないから」
「ありがとうございます! 素敵な温室ですね。
少し見せていただきますね!」
ミリアンは少し奥の方にある、気になった樹に早足で向かっていった。
「元気のいい、お嬢さんですねえ」
「彼女、植物が本当に好きみたいだな。いい友達になってくれるかな?」
ここに来ている時は黙々と植物に触れるだけの彼が、珍しいことを言う。
ガエルはおやおや、と口元を綻ばせた。
意外にも、ミリアンはすぐに戻って来た。
「おや、もういいのかい?」
見れば、彼女は握った両こぶしを震わせている。
「も、もったいなくて! ちょっとずつ、ゆっくり見せていただきます。
あまり夢中になると、時間を忘れそうで」
「なるほどなあ。本当に好きなんだね。
行儀見習いは、休日というのはないのかい?」
「指導役の侍女の方の休日は、特にお手伝いを頼まれることはありませんが…」
「じゃあ、そういう日に、ゆっくり見に来るといいよ」
「ありがとうございます!」
「ガエル…さん。彼女に、これを分けてもいいかな?」
「で、じゃなかった。えーと、構いませんよ…」
青年は籠に入れていた柑橘を見せた。
「僕のことはシャールと呼んで。
これ、いくつか持って行かないか?」
「この柑橘は…お茶にも合いますね。ありがとうございます。
五個くらいいただいてもいいですか?」
ガエルが貸してくれた袋が大きめだったせいか、シャールは十個ほど入れてくれた。
それに気づいて嬉しそうにするミリアンの笑顔につられ、彼はもう十個追加しそうになる。
ガエルに肩をつつかれ、シャールは我に返って手を止めた。
またおいで、と送り出され、元気に戻っていくミリアン。
見送ったシャールにガエルが話しかけた。
「身分は明かさない方向ですか?」
「彼女とは出来れば、なるべく普通に話してみたくて」
「了解しました」
その後も黙々と収穫を続けるシャールは、ガエルから見て、いつになく機嫌が良さそうだった。
翌日、ソフィに数時間自由にしていいと言われたミリアンは、厨房に向かった。
調理場を覗くと、顔見知りの料理長が休憩中だ。
「料理長、こんにちは!」
「おお、ミリアン。この前はありがとうな」
料理人と言うよりは山でイノシシでも掴まえて来そうな、がっしりした身体つきの彼は笑顔で迎えてくれた。
ミリアンの地元、レスピナス子爵領のハーブは王城の厨房でも使われていた。
少し前に、城で迎えた賓客が特別な料理をリクエストしたことがあった。
ところが、その料理に必要なスパイスが手に入らない。
厨房で困っているという話を、たまたまミリアンが耳にした。
すぐに子爵家のタウンハウスにある温室から、そのスパイスの代わりになるものを届けさせたことで事なきを得たのだ。
ミリアンにしてみれば、お得意様の王城厨房である。
ごく、当たり前のことをしただけだった。
「あの、温室で柑橘をもらったので、ママレードを作りたいんですけど」
「どれ、見せてくれるか?」
料理長は袋を覗き込むと、すぐに小鍋を出してくれた。
「この鍋で間に合うだろう。砂糖はこれを使うといい。
それから…よかったらクローブ、少し使ってみるか?」
「いいんですか? ありがとうございます」
もらった柑橘は、煮ると少し風味が足りない品種なので、スパイスがあると嬉しい。
「作る間、ちょっと相談に乗ってくれるか?」
「私でいいなら、喜んで」
「お前、いい子だなあ。ご令嬢じゃなけりゃ、厨房に欲しいくらいだわ」
「それは、残念です!」
「まあ、冗談はともかく」
「冗談なんですか?」
「話が進まんから、ちょっと置いといてだな…」
洗った柑橘をナイフで切ると、爽やかな香りが立ち上る。
皮を刻むミリアンは、いつもより饒舌になっていた。
「この前、代用のハーブで助かっただろう。
他のスパイスやハーブの代用品も、教えてもらえればありがたいんだが」
「ああ、そうですね。今度、一覧を書いてきます」
「そりゃ助かるわ。よし、お礼にこれ持って行きな」
「わあ、美味しそうなビスキュイ。いいんですか?」
「ああ、予備に作ったやつだから大丈夫だ。ママレードに合う」
「ありがとうございます!」
ソフィのもとに戻ったミリアンは、ママレードとビスキュイをおすそ分けした。
「ありがとう。でも、これ、どうしたの?」
「ママレードは温室で柑橘を分けてもらったので、厨房で作りました。
ビスキュイは料理長が分けてくれて…」
ソフィの反応は、もう驚きを通り越していた。
そんな行儀見習い、いるかしら? 園丁にも料理長にも可愛がられて…いえ、可愛がられるというか、既に顔が利くレベル?
しかも、ミリアンの行儀見習い期間は、まだ続く。
いったい、どこまで到達するやら。
楽しみなような、心配なような。指導役として、複雑なソフィだった。