レスピナス子爵領
子爵領に戻ったミリアンは、真っ先にお婆に会いに行った。
ハーブに関わる全般で領内の顔役になっている彼女は、子爵家の敷地内に小さな一軒家を与えられている。
「おや、一年見ない間に、なかなかいい面構えになったじゃないか」
「…お婆、会いたかった」
ミリアンはお婆に抱き着いた。
口調のキツイお婆も、本当は可愛がっているミリアンの頭を撫でてやる。
ああ、落ち着くなぁ。
ミリアンはお婆のエプロンに染み付いた、ハーブの香りを吸い込んだ。
「私も、お婆みたいにハーブな加齢臭の女になりたい…」
さすがにパコンと叩かれた。
「痛い…」
「誰が加齢臭があるって?」
「冗談です。ごめんなさい」
ハーブのエキスパートであるお婆は、加齢臭問題も華麗にクリアしていた。
「風邪をひいて、王宮から早めに出てきたって?」
「うん。ちゃんと挨拶もしてなくて、申し訳なかったけど…」
「居座るのもナンだからね。仕方なかろうさ。
今夜は、アタシがとっときの薬膳を用意してやるから、しっかり食べるんだよ」
「ありがとう。お婆大好き!」
「もう十六になったっていうのに、子供みたいだねえ」
そういうお婆は、優しい目をしていた。
お婆と呼ばれている女性は、年齢不詳。
若くは見えないが肌艶はよく、少しふくよかな美人である。
彼女はミリアンが小さい時に、この地に来た。
それ以前は流しの踊り子だったとか、亡国の女王だったとか、眉唾物の話がたくさんある。
それは全てミリアンのせいだ。
ハーブを商品に整えるための作業をする小屋で、手伝いに来るミリアンにせがまれて、いろいろな話をしたのだ。
ほとんどは、昔からのおとぎ話によく似た話だった。
何かの事情で家族を全て亡くして、ここにたどり着いたという以外は何もわからない。
ひょっとしたら、ミリアンのような娘もいたのかもしれない。
「後から部屋に届けてやるから、戻って休みな」
「うん」
母屋に戻るとき、どこかから子供の歌声が聞こえてきた。
このメロディーは『麻紐の花束』だ。
相手の幸せを祈りながら別れを告げる歌は、今の自分にはふさわしい。
今、鏡を見たら、私はどんな顔をしてるんだろう。
笑ってる? それとも困ってる?
そんなことを思いながら、気付けばミリアンも歌を口ずさんでいた。
お婆の薬膳効果か領地に戻った安心感か。
翌朝、ミリアンの目覚めはスッキリ爽やかだった。
風邪も、もう治ったような気がする。
本当に久しぶりの領地だ。
天気もいいので、領内を見回ろうか…
そう考えていたが、朝食を用意してくれたお婆に怒られた。
「まだ完治じゃないよ。ゆっくりしてな!」
そう言いながら、前の冬にまとめておいたというハーブの冬越しについての資料をくれた。
「よく読み込んで、不足があれば後で訊いてくれ」と言われ、大人しく、それを読んで過ごすことにした。
午後になって、執事がミリアンの部屋に来た。
「お嬢様、王都から使者の方がみえております」
「使者? お父様かしら?」
「まずは、こちらをお読みくださいとのことです」
手渡されたのは、父からの手紙だった。
ミリアンはすぐに開封して読み始める。
「…あら大変。私、婚約者に振られてしまったようよ」
「はい?」
父からの手紙は、ロック・プルヴェから婚約解消の打診があったことを報せるものだった。
直接、両親と会って話したと言うロック。
返事は保留にしたと書いてあるが、その場で話し合う余地がなかったのならば確定だろう。
何の感慨もなく、ミリアンは婚約解消について事務的に受け入れた。
また、お見合いするのは億劫だ。誰か、あの時の見合い相手は売れ残っていないだろうか?
「手紙をお持ちになった使者の方が、お嬢様にお会いしたいとのことですが、どうなさいますか?」
「遠くから来ていただいたのですもの、もちろん会うわ」
「では、応接室へご案内いたします」
応接室まで行くと、使者は先に部屋に入っていた。
椅子には座らず、軽く頭を下げたままミリアンの入室を迎える。
「まあ、王都からいらして、お疲れでしょう?
とりあえず、お座りください」
「ありがとうございます」
部屋の奥に進もうとしていたミリアンの足は、その声を聞くと動かなくなった。
視線を使者に向けると、金髪の使者はゆっくり顔を上げる。
美しい緑の目が、優しく微笑んだ。
「王都より使者として参りました、シャールと申します」
「…どう…して?」
「君に会いたくて」
シャールは呆然としているミリアンに歩み寄ると、そっと手を取り、ソファまでエスコートした。
そして、そのまま隣に座る。
黙って見守っていた執事は「お茶をお持ちいたします」と言って、部屋を出た。
しばらくしてメイドがお茶を持ってきたが、準備が終わると退出してしまう。
部屋には二人きり。
シャールはミリアンが落ち着くのを、辛抱強く待った。
「シャール…」
「うん」
「私も…会いたかったの」
シャールはなぜか、泣きそうな笑顔になった。
「…君の母上が、君の心が傷ついていると仰っていた。
僕に、何か、出来ることはあるかな?」
「話を聞いてくれる?
私、婚約者に振られてしまったわ」
「うん、知ってる。
ねえ、僕がプロポーズしてもいい?」
「…私はただの子爵家の娘よ。
なぜかたまたま、家が陞爵されて伯爵家になるみたいだけど。
王子様のお嫁さんになれるような身分じゃないわ」
「君は既に歴戦の戦士だ。王家に認められてる。
僕なんか、ただの温室育ちだよ…」
シャールにしてみれば、真面目にしんみりと言った台詞だったのに…
なぜかミリアンは盛大に噴き出してしまった。
「ひどいな。今、笑うところだった?」
「だって、温室…温室育ちって!
…ガエルさんが苦虫を嚙み潰してるのが、見えるんだもの」
大笑いするミリアンを、ムッとしたシャールが少し乱暴に掴まえた。
「笑い止まないと、キスする」
「え、まだ返事していないわ」
「構わないよ。キスしたいからする」
さすがに、笑いが引っ込んだ。
「笑ってないけど、キスする」
「え、ちょっと、待って…」
唇に触れるだけの優しいキスの後、二人は肩を寄せ合い、黙ってそっと触れ合っていた。
「大好きよ」
ミリアンが一言ポツリと告げた、それがプロポーズの返事だった。
気付けば、すっかり薄暗くなっている。
執事がランプを持って入ってきた。
「失礼いたします。
使者の方々にお泊り頂けるよう、離れを用意してございます」
「…ありがとう、ご案内して差し上げて」
「畏まりました」
子爵から執事あてに届けられた手紙には、使者が王子であることも書かれていた。
ただし、丁寧に対応することは必要だが、表向きは王子扱いするな、とのこと。
なかなか難しい注文だ。
加えて、目に見えない護衛がいるので、うまく対処してくれとあった。
目に見えない護衛が暗部であると察した執事は、客間ではなく離れを用意した。
目に見えるほうの護衛は二人だ。
「遠くからお出でになったので、さぞや空腹かと存じます。
お食事は、二人前ぐらいは召し上がられるのでは?」
と訊いてみた。
すると目を丸くした護衛だったが
「…その倍くらいはいけそうです」と答えた。
ならばと「大皿料理でも構わないでしょうか?」と訊いた。
「心遣い感謝します」と笑顔が返って来た。
王子の護衛として、王都からやって来た者たちは丁寧にもてなされた。
普段は神経をすり減らすだけの暗部も、交代で温かい食事を摂り、ベッドで仮眠も出来た。
一方、執事は万一の時、護衛たちを手助けできるよう、秘密裏に自警団の見回りを増やすよう頼んだ。
商売が順調な子爵家は気前がいい。
自警団をまとめる顔役は酒代を期待して、二つ返事で引き受けた。




