子爵家の跡取り娘
高原を吹き抜ける風が、夏の終わりを感じさせた。
標高が高いこの土地は秋の訪れが早い。
朝晩はすっかり涼しくなった。
ここ、レスピナス子爵家の領地ではハーブ栽培が盛んだ。
数代前の先祖が外国から渡って来たハーブを少しずつ改良し、今では食用、薬用として王都まで出荷するほどになっていた。
子爵家の一人娘ミリアンも、家業といえる土いじりが大好きだった。
幼い頃より、領地の農民に混じってハーブの栽培を手伝おうとするほどで、貴族と平民の垣根を作らない子爵家の家風と相まって、領民たちから可愛がられていた。
伯爵家から嫁いできたミリアンの母親は、物心ついてからの娘のお転婆ぶりに最初は渋い顔をしていた。
しかし、家でも書物をよく読んでハーブについて真摯に学ぶ姿勢に折れて、淑女教育は最低限で勘弁してくれた…はずだった。
ところが、ここ最近、その淑女教育が厳しいのだ。
「ミリアン、私はあなたを甘やかしすぎました。
時間が許す限り徹底的に叩き直しますよ! 覚悟なさい」
「えー」
「返事は、はい、と一言だけ!」
「…はい」
土いじりが出来ずにミリアンはストレスを溜めていた。
しかし、真剣な母親に逆らうほどの気力はない。
実は、この冬、両親と共に王都で過ごすことになっているのだ。
王都に友人が多い母親は、久しぶりに社交が出来ることを楽しみにしていた。
当然、茶会などにミリアンを連れていくこともある。
そこでマナーが出来ていないと、ミリアン本人が困る。
さすがにそれは理解できるので大人しく頑張った。
「付け焼刃だけれど、これで何とかしのぎましょう」
母親がミリアンの仕上がりに諦めがついたのは、王都への出発間際のことだった。
ミリアンの予定ではこの秋、領地で一番ハーブに詳しいお婆に、冬支度を詳しく教わるつもりだったのだ。
秋の季節は厳しいお稽古でつぶれ、大切なチャンスを逃してしまった。
うっかり、そのことを口に出してしまい、母親に呆れられた。
「ミリアン、大切なチャンスは王都にあるんですよ!」
王都にチャンス? 石畳ばかりだと聞く王都に、どんなハーブの情報があるというのかしら? ミリアンには全くわからなかった。
やがて、十五歳のミリアンの、疑問と疑念と不安と不満を詰め込んで、馬車は王都へ出発した。
レスピナス子爵家は王都にそれなりなタウンハウスを構えていた。
子爵は先行して、ハーブの商談を兼ねた社交であちらこちらへと出向いている。
タウンハウスの庭には温室もあり、サンプル用のハーブもたくさん植えられていた。
『温室で深呼吸すれば、なんとかここでもやっていけそう』ミリアンは母の目を盗んで、一日一度は温室に逃げ込んだ。
王都に着いてからミリアンが最初に連れていかれたお茶会は、プルヴェ伯爵家主催だった。
ミリアンは緊張してマナーの心配ばかりしていた。
お陰で周囲の様子など、まったく覚えていない。
屋敷に帰ってから母親に「ロック様のこと、どう思う?」と訊かれた。
様と言うからには人なんだろう、とは思ったが、さっぱり覚えていない。
「誰?」
と答えれば、母親は深いため息をついた。
ロック・プルヴェは伯爵家の次男だった。
つまり、お茶会はちょっとしたお見合いだったのだが、ミリアンには通じていなかった。
次のお茶会では、別の伯爵家の三男と顔合わせした。
少しだけマナーに慣れたミリアンは周囲を見る余裕があった。
しかし、帰ってから母親に告げたのは「庭土の色が素晴らしかった!」という言葉だけだった。
更に次のお茶会。今度は某子爵家の次男との顔合わせ。
帰ってからのミリアンの言葉はこれだ。
「談話室の鉢植えの花は、舶来かしら?
お母様、機会があったら子爵家に訊いてみていただけないかしら?」
そんなわけで、これ以上ミリアンにお見合いさせても無駄、と思った母親は夫と相談の上、最初の見合い相手であるロック・プルヴェ伯爵家令息を娘の婚約者に決めた。
子爵領を一緒に盛り立てる、という条件で両親が探してくれた相手ということで、ミリアンも嫌とは言わなかった。
さて、婚約者問題もあっさり片付いたところで、今日のミリアンは母親に連れられ王宮に来ていた。
数回の見合いでマナーもなんとか合格ライン突破とみなされたミリアンは、母親にきつく言いわたされた。
「ミリアン、珍しい植物を見ても、走って側に寄るなんて、絶対だめですからね!」
「わかりましたわ、お母様」
と殊勝気に答えたミリアンは、じゃあそっと忍び足で近寄りましょうと考えていた。
王宮に入り、案内された場所は、なんと温室だった。
目を瞠るミリアンを迎えたのは、王妃殿下。
「お久しぶり、クローデッド。そちらはお嬢さん?
可愛らしい方ね」
「王妃殿下におかれましては…」
「堅苦しい挨拶はやめましょう。楽にしてちょうだい」
「ありがとうございます」
にっこりと笑う王妃殿下に、ミリアンは母に合わせて礼をとった。
席に着いてお茶とお菓子を頂いたが、素晴らしく美味しいにもかかわらず、ミリアンは気もそぞろ。
温室内の植物が気になって仕方なかった。
母はすっかり王妃殿下と盛り上がり、水を差すのもはばかられる。
ミリアンの母クローデッドは、行儀見習いとして結婚前の一年間、王宮に上がっていた。
その当時、王太子妃だった王妃殿下と馬が合い、話し相手として呼んでいただくことが多かったのだという。
「そういえば、ミリアンは婚約が決まったのね、おめでとう」
「ありがとうございます」
「婿取りだったら、婚家での行儀見習い期間はないわね。
よければ、王宮に一年間いらっしゃいな」
「まあ、何て素敵なお誘いなんでしょう」
喜ぶ母に対して、ミリアンは絶句した。そんなことをしたら、お婆に教わる時間が、ますます足りなくなってしまう。
だが、断れるはずもない。
母が、さっさと返事しなさいと無言の圧をかけてくる。
「ありがたき幸せです。是非、お願いいたします」
出来れば、温室の世話係がいいんだけどな…
ミリアンは、小さな希望を心の中で呟いた。