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最高司祭の合図で、聖職者二人が神殿の正面玄関の分厚い扉を左右に開く。無数の灯火の光が射し込んでくる。
今宵はひときわ大勢の参拝客が参っており、彼らが掲げるろうそくの明かりで、玄関前はまるで地上に星空が出現したようなまばゆさだ。
新月中の新月の晩である今夜の祈祷は、聖なる天上神とルカ王の加護を求め、亡者の軍勢が復活せぬよう祈る、いわば総仕上げの祈祷だ。この神殿に限らず、今宵は国内のあちこちで多くの人々が自主的に神殿に集まり、聖職者達と共に一晩中、祈るのだろう。
むろん、ルカ王の妃であるオランジュも、墓所で徹夜の祈りを捧げることになっている。
きつい役目だが、今夜を無事に終えることができれば、民の不安も伝説への不安も、最大の山場は越えることができるだろう。
オランジュは気合を入れて儀式に臨む。
「天の神もルカ王も、みなの信心を嘉したもう…………」
灯火の海の前で、最高司祭がいつもの挨拶と説教を述べる。
基本的に話が長めの最高司祭だが、夜の説教は昼間に比べるとやや短い。
最高司祭が話を終えて下がると、ヴィクトリア王女の出番だった。
オランジュは最高司祭が立っていた位置に進み出て、集まった人々を見回す(といっても、灯火の光で逆に人々の顔は見えないのだけれど)。
「みなさま。このような遅い時間にも関わらず、よく集まってくださいました。天上の神も我が夫、ルカ陛下も、みなさまの真心を喜んでおられるでしょう」
何度も練習した演説をはじめようとした。
しかし。
「ヴィクトリア王女…………」
「ヴィクトリア王女だ…………」
低い、呻くような声が聞こえた。それもあちこちから。
「王女…………」
「ちょっと、なに?」
「おい、押すな!」
信者達の中から戸惑いと苛立ちの声があがる。
「なんだ?」
ヴィクトリア王女の背後に控えていた司祭達も異常に気づいた。
制止していた無数の灯火があちこちでゆれ、いくつかの人影がオランジュのほうへと進み出る。
「さがれ! それ以上は近づいてはならん!!」
扉のそばにいた聖職者はむろん、警備の兵達も声をあげた。
が、人影に止まる様子はない。
「さがれと…………!」
兵士が槍をかまえようとした、その時だった。
「ヴィクトリア王女…………!」
信者達の群れから抜け出し、オランジュの前に進み出た人影の一つが、黒いベールをかぶった黒衣のヴィクトリア王女の姿を目にした瞬間、歓喜の表情を浮かべる。
「ヴィクトリア王女…………! オレの…………モノだ…………!!」
人影(男だった)は叫び、オランジュや人々の前で姿を変えた。
髪が抜け、肌が見る間に乾燥して老人のようになり、灰色の霧を吐き出して全身にまとう。
オランジュはむろん、集まっていた信者や聖職者達も驚愕にかたまる。
男の落ちくぼんだ眼窩で赤い瞳がらんらんと輝き、その赤を見て司祭が叫んだ。
「ままさか…………『生きたまま死に憑りつかれた者』…………亡者!!」
「亡者だ! 生きた人間が悪霊に憑りつかれた!!」
その場に雷のように緊張と恐怖が駆け巡る。
進み出ていた他の人影も、いっせいに同じような赤い瞳の亡者へと変化し、そこかしこで悲鳴があがった。信者達は我先に逃げ出し、何人かが転んで子供の泣き声が響き、妻や子、夫の名を呼ぶ声がくりかえされる。篝火が倒され、ろうそくがころがる。
「ヴィクトリア王女…………」
「ヴィクトリア王女…………!」
亡者達はそろってオランジュへ手を伸ばしてくる。
「殿下!!」
そばにいた兵士が槍を突き出して、オランジュに触れようとした亡者の脇を刺したが、亡者が槍の柄をつかんで一振りすると、兵士はたやすく投げられて地面を転がった。
「殿下! お逃げください!!」
離れて儀式を見守っていた侍女の一人が、オランジュを守ろうと、両腕をひろげて亡者の前に立ちふさがる。亡者はその華奢な少女をふりはらおうと、大きく腕をあげる。
「やめなさい!」
オランジュは叫び、とっさに、すぐそばに転がっていた火がついたままの松明を一本、つかむと、亡者へと投げつけた。
運良く、火は亡者の服に燃え移り、亡者は「おおお」と苦痛の声をあげる。
あげながらも、オランジュへと手を伸ばし、近づいてくる。
「ヴィクトリア王女…………ヴィクトリア王女…………」
(亡者達の狙いは、わたし…………!?)
オランジュは新たな松明を拾い、それを掲げて声をはりあげた。
「わたしは、ヴィクトリアはここよ! 追いかけてきなさい!!」
「殿下!」
侍女や司祭達の制止を無視し、黒いドレスの裾をたくしあげて、オランジュは松明を大きく振りながら走り出す。かぶっていたベールがふわりと落ち、それを踏みつけて亡者達がオランジュを追う。
「こっちよ!!」
オランジュはふりかえりながら、亡者が追ってくるのを確認する。
亡者は存外動きが鈍いようで、十六歳の少女の足にさえ、なかなか追いつけない。
オランジュは心臓が止まりそうな恐怖と戦いながら、必死に頭を働かせて右へ、左へと駆け抜け、人々から亡者達を引き離すと、頃合いをみて、掲げていた松明を大きく投げる。
亡者は数秒、松明の光を追いかけ、その隙にオランジュはそばの建物の影にすばやく身を隠した。亡者達は獲物を見失って、右往左往しはじめる。
そのまま身を低くし、できるだけ足音を殺して、オランジュは建物の正面にまわり込んだ。
木の厚く重い扉を細く開き、内部へと体をすべり込ませて、内側から扉を閉じる。
オランジュは一気に足から力が抜けた。叫びたかったが、必死にこらえた。
まだ亡者達は自分をさがしているはずだ。
(朝まで、ここに隠れているしかない…………)
オランジュが逃げ込んだのは、ルカ王の墓所だった。
なにしろ亡者の軍勢を倒した英雄と、その仲間達が眠る場所である。
神殿の敷地内といえど、これほど加護が集まる場所はあるまい。
そうでなくとも、墓所は重い石の壁とぶ厚い扉に守られており、内側から鍵をかけてしまえば、軍隊でも手こずる造りだ。
伝説によれば、亡者が活動できるのは太陽の光の失われた夜のみ。
ならば、朝までここでしのぐことができれば、生き延びることができるだろう。
走りながら必死に考え抜いた末の結論だった。
オランジュは真っ暗な墓所の中を、手探りで奥へと進む。
深い理由はなく、危険から身を隠したい心理によるものだ。
が、下半身が重くかたい物にぶつかって、オランジュは前進をはばまれた。
「いたた…………」
片手で膝をさすりながらも、もう一方の手でぶつかったものをさぐる。
正体はすぐに知れた。
棺だ。
広くない墓所の中。すぐに奥にたどりついてしまったのだ。
しかも手触りを信じるならば、今、ぶつかった拍子に棺のふたがずれてしまったらしい。
棺の、おそらく頭のほうが細く開いたのが、指先の感覚から察せられる。
オランジュはとっさに手を引っ込めた。
古の英雄とはいえ、何百年も経た亡骸に触れる勇気はない。
が、故人の棺を開きっぱなしにしていいのか、という罪悪感と、ただでさえ亡骸の並ぶ墓所で、さらに棺がわずかとはいえ開いているという状況に不安と恐怖も覚える。
「今、元通りにしますので…………お怒りをお納めください、ルカ王陛下…………」
呟きながら、闇の中、手探りでふたを閉じようとした。
が、ふたはびくともしない。
(変ね、さっきぶつかった時は簡単に動いた気がするのに…………)
一時、状況を忘れて棺に集中し、あれこれ持ち方を試しているうちに、片手の指を棺の内側に大きく突っ込んでしまう。
「いたっ!」
指先に鋭い痛みを感じて、思わず手を引っ込める。
見えないが、濡れる感触が伝わってくる。
おそらく指を切って血が出たのだ。
「どうして…………」
切れるような物など持っていないのに、と不思議に思って、思い出した。
ルカ王の棺には本人の亡骸の他、愛用していた防具や剣、その他様々な副葬品が共に収められた。武勇でならした英雄らしく、武器の数が多いと語られている。
その副葬品のどれかに指が触れてしまったのだ。
オランジュはため息をつき、膝をつき、手をふたに置く。見えないが、おそらくふたの隙間周辺にはオランジュの血が塗りたくられてしまったに違いない。
(染みなければいいけれど…………)
そんな、どうでもいいことを疲れたように考えると、外から声が聞こえた。
「ヴィクトリア王女…………王女…………」
「ドコ、ニ…………イル…………?」
しわがれたような低い声だった。
オランジュは一気に現実に引き戻された。
壁と棺の隙間にすべり込んで、自分の姿を隠す。
(お願い…………見つからないで…………夜明けまでしのいで…………! ここはルカ王と、その仲間の亡骸が眠る場所よ? 死人にとっては、もっとも忌避したい場所のはず…………!!)
しかしオランジュの祈りも虚しく、亡者は墓所に入り込んできた。
ぶ厚い木の扉を打ち破ったのだ。砕かれた扉の破片が墓所の床に無残に散らばる。
「ヴィクトリア…………王女…………!」
「きゃああああ!!」
亡者はあっさりオランジュを発見し、棺の裏から引きずり出した。
「放して!」
亡者の手がオランジュの首をつかみ、オランジュは狩りの獲物のように掲げられて、足が床から離れる。
「ヴィクトリア王女……オレノ……モノ…………!!」
オランジュの首をつかんだ亡者の手に力が入り、オランジュは顔に血が集まっていく。力いっぱい足をふって亡者を蹴るが、亡者はびくともしない。
オランジュは気が遠くなってきた。
(こんな…………こんな所で死ぬの…………? わたしが死んだら、お養父さんとお養母さんはどうなるの? このまま亡者達が…………亡者の軍勢が復活したら…………お養父さんとお養母さんは…………村の友達は…………この国全体が…………)
薄れゆく意識の中で、オランジュはただ一つを願う。
(神よ…………どうか父を…………母を…………故郷の村を…………みなを、お守りください…………)
どうか、人々が生きるこの地に神の加護を。祝福を。
(みなが助かるなら…………私は一生、独りのまま、神殿で暮らしてもかまわない――――…………)
だから、どうか。
(ルカ王――――!!)
死人の手を外そうともがいていたオランジュの腕がだらりと垂れた。
白い光が暗い墓所内を照らす。