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黄昏の東の空に、欠けた月が浮いている。
この世界の月は本来、欠けない。太陽が失われる夜の間、太陽の代わりに人々を守護する存在として、聖なる天上神から与えられたのが月だから。
しかし今、月は一年前から少しずつその端を削り落とし、三分の一ほどの大きさにまで変化している。
伝説では、月が完全に欠けた時、地下から死者の王率いる冥府の軍勢が復活するという。
十四歳のオランジュは帰路をいそいだ。
「ただいま母さん、父さん。遅くなってごめんなさい。薬草売りのお婆さんの話が長くて。すぐ薬草を煎じるから…………」
飛び込むように帰宅すると、居間に知らない男がいた。
色合いはおさえているが上等の身なりをした中年の男で、こんな田舎の村では明らかに浮いている。男のむかいには母と、家を出た時には床についていたはずの父が座っていた。
「ごめんなさい、お客さま?」
どうやら邪魔だったらしいと、雰囲気で察したオランジュがいったん引っ込もうとすると、客は立ちあがってなれなれしく話しかけてくる。
「これは、これは。こちらが例のご令嬢ですな?」
「あ、その…………」
母の戸惑いを無視して、男は貴族流の礼をした。
「お初にお目にかかる、オランジュ嬢。一目でわかりました。金茶色の髪に、青灰色の瞳。なによりそのお顔立ちは、母君のグレース様に生き写しです」
「え? 『グレース』? 誰?」
青ざめながらこちらを見る母の名は『アンナ』だ。
「お迎えにあがりました、オランジュ嬢。貴女のまことの母君、グレース・ル・ブラン・オトテール夫人がお待ちです」
父と母がそろって悲しみに顔をゆがめた。
実は、自分はこの家の子ではなくて、本当の親はお金持ちの高貴な身分で、ある日自分を迎えにきて、自分は名家の子として社交界に出て出世して良縁にも恵まれて幸せな一生を送る――――
誰でも一度は、そんな夢想をするものではないか。
だがそれは、必ずしも親が嫌いとか離れたいというわけではなく、ただそういう時期だ、というだけの夢だろう(時には、本当に離れたい場合もあるだろうが)。
オランジュも夢としては想像したことがある。
しかし現実に起きてほしいと願った夢ではなかった。
「なんと、お気の毒な。どうやらあなた方は、令嬢に真実を明かさぬまま育ててきたらしい。よろしい。この私めが、責任もって真実をお話ししましょう」
「待って…………!」
母が腰を浮かす。だが男はもったいぶった様子で、尊大に両親を見おろす。
「待てませんな。説明したように、これは夫人のみならず、オトテール卿やル・ブラン伯爵のご意向であらせられます」
泣きそうな母の手を父が大きな手で包み、首をふってやんわり止める。母は黙って悔しそうに座りなおす。その反応に、オランジュもこれが冗談でもなんでもない、本当の話なのだとじわじわ実感してくる。
男は説明した。
十四年間オランジュが両親と信じてきた二人は、実の両親ではない。
オランジュの母親は、ル・ブラン伯爵令嬢グレース。
オランジュが父と思っていた養父エルネストはル・ブラン伯爵の遠縁で、オランジュは誕生後すぐに、子供ができなかったエルネストとアンナ夫妻に引きとられたのだ。そして十四年間、二人を両親と信じて成長した。
だが最近、状況が変わり、グレース嬢はオランジュを引きとることができるようになった。
そこでル・ブラン伯爵家に仕える使者の男が、オランジュを迎えにきたのである。
すべてが初耳の情報だった。
オランジュは自分が夢を見ているのではないかと思った。それも、どちらかというと悪夢の類だ。
激しい動揺に心臓を鳴らしながらも、なんとか頭を働かせようと努力する。
これが事実というなら、いくつも疑問が生じた。
「なぜ…………そのグレースさまという方は、わたしを養子に…………?」
実の子ではないとわかった人間の、これがもっともまっさきに知りたい事柄であろう。
男は重々しく答えた。
「事情がおありでした。いずれ、夫人の口からお話しされるでしょう」
「じゃあ、わたしの本当の父親は? グレースという方が母親として、本当の父親は? どんな名で、どこにいるのですか?」
「それも母君がお話になります」
「なら、どうして急にわたしを引きとると言い出したんですか?」
「母君に直接、お訊きください」
「じゃあ…………」
男はオランジュの質問をさえぎるように咳払いした。
「これ以上は母君に直接、お訊きください。私はなにも聞いておりませんので」
「…………結婚前の火遊びだったからよ!!」
母が耐えかねたように口を開いた。
「令嬢がオランジュを身ごもった時、十五歳で未婚で、婚約者のある身だった。けれど腹の子の父親が婚約者でないのは、明らかだった。だからひそかに出産して、生まれたらすぐに私達に預けたのよ。そう聞いているわ!!」
母は叫ぶように言うと、父の胸に顔をうずめた。押し殺した嗚咽が聞こえる。
オランジュは使者の男を見た。
「…………本当ですか?」
「私の口からなんとも。使用人ごときが口を出せる事柄ではありません」
男はしれっと言った。そのごまかしようが、かえって母の言葉に信憑性を持たせた。
「とにかく、オランジュ嬢はル・ブラン伯爵家に引きとります。これはグレース様のみならず、ル・ブラン伯爵様のご意向です。三日後に正式な迎えを寄越しますので、そのつもりで準備を。夫妻にはこれまでの養育費として、充分な額をお支払いします」
「金の問題じゃない!」
温和な父が、オランジュの知る限りはじめてテーブルを叩き、他人をにらみつける。
伯爵家の威光を背負う男は、表面的にはとりすました尊大な態度をくずさず、一礼するとオランジュ達の家を出て行った。
居間に母の押し殺した泣き声が響く。