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一月

作者: 翡翠



 とかく病院というものは退屈である。別段眠くないというのに、ベッドの上に身を委ねなければならない。枕は硬くあった。私は枕の硬さに耐えかねて首を右に転がす。すると、右腕の二の腕に点滴の針が刺さっていて、そこから管が伸びているのが目に映る。容器の中の溶液が一粒一粒、それも規則正しく落ちる様を眺めているのは別段私の興をそそるようなものでは決してないが、何もしないでいるよりは大分ましである。だが、それも一分程眺めていると飽きてしまって、私の視線は窓へと移った。ベッドの上から見る限りでは晴天で、積りに積もった雪を溶かしてくれていることが窺える。私は現在肺炎で入院を果たしてしまっているが、肺炎を患った理由に心当たりがあるとすれば、一週間と少し前に行った雪かきであろう。大分厚着をして二時間ほど行ったところ、結構な汗をかいてしまって、それを放置していたら、次の日には微熱があった。それは年末のことであって、元旦を過ぎる頃には四六時中咳が出るようになってしまっており、検診先でレントゲンを撮ったところ、案の定肺に曇りがあったのである。「肺炎だね」そう五円禿のような頭をした医師に告げられたときの私と言ったら、胸中で医師の五円禿を侮蔑が導くままに嘲笑っていたことが、突飛に胸が委縮してしまったというか、心臓の鼓動が一時の間止まってしまったというか――とにかく気持ち悪かった。といっても嘔吐してしまうような、そういった類の気持ち悪さではない。いくらか経って私は自身の瞳孔が開ききっていることに気が付いた。冷や汗をかいていることにも気づいた。

 私はそれから親の車に揺さぶられながら近くの厚生病院へと移った。検診先の病院は地元の小さなものだったので、入院できるような設備が整っていなかったからである。てっきり私は初め市民病院か県病に行くものだと思っていたが、違うらしい。県病には昔左足を骨折したときにお世話になっている。小学二年生の五月十五日のことであって、給食の献立表に載ってあった牛乳のマークを今でもどうしてか鮮明に覚えている。

 私は花を摘みにいきたくなって、起き上がると、そのまま大きく欠伸をした。平生であるのならば口元を手で隠すのであるが、今この場には誰一人いないのであって、それは勿論この四人部屋である病室に私以外いないということである。私が普段身を委ねているベッドは南向きの窓のすぐ西側であるが、本来であるのならば東側にも住民はいた。お爺さんである。退院したわけではないし、ましてや亡くなったわけでもない。ただ偏に部屋が変わっただけである。こう言ってしまえばつまらない――何事もなかったかのように思えるが、一昨日の夜の出来事は大変私の興をそそったものであった。かといって、それは笑みを誘うようなものでは決してなくて、今でこそ興をそそったと言うことが可能ではあるが、昨日まではどちらかというと不快な出来事であった。周囲から聞こえる音が気になって、ベッドの周りを囲んでいるカーテンを開けたら病室が血だらけだったのである。これには流石に私も驚いた。肺炎を患っているというのに、咳をするのも忘れていた。

 私は別段女の子らしい悲鳴を上げた覚えはないし、かといってナースコールをした覚えもない。それだというのに、いつの間にか病室には医師が一人と看護婦が二人いた。そこに至るまでの過程の中で私自信何もしていないというわけではないが、したことと言えば、私のベッドの後方の柵に朱色の手形が付いているのを見て「げっ」と言葉を漏らして、顔を濁した程度である。お爺さんは看護婦に怒られながら病室を後にしていった。私は変わらずベッドの上にぽつんと座っていて、病室に残った医師ともう一人の看護婦が床に斑点状に散らばった血痕を雑巾か何かで拭いているのを眺めていた。思ったより鉄のような血の臭いがしなかったことを覚えている。そのときの私はもしかしたら鼻が詰まっていたのかもしれない。薬品の匂いで中和されてしまっていたのかもしれない。だが、そんなことはどうでもよいのだ。血痕を拭き終わった後で医師が私に「部屋を移動するかい?」と尋ねてきて、それに私はこんなことの直後だったので、大分曖昧に、それでも肯定した覚えが鮮明にあるというのに、あれから二日経つというのに何の音沙汰もない。かといって憤っているわけではないのだ。約束のようなものが果たされたことに胸の内側にしこりのようなものを感じ取っているだけなのである。折角病院にいるのだから、医学的に言ってしまえば、このしこりは大分危ういものであるのかもしれない。癌のように時を経て大きくなっていくのかもしれない。だが、それがどうしたというのだ。少なくとも現時点で私は医師に対して別段負の感情を抱いているわけではないのだから、幾日か日を跨げば笑い種となっているかもしれない。いや、確実にそうなっていることであろう。五月十五日の出来事でさえ、もう既に笑い話となってしまっている。


        2


 久しぶりに他人に頭を洗ってもらってはいるが、実に三日ぶりのことなので、存外気持ちよかった。小さな頃は親と一緒に入浴もしていて、我が身を親に委ねたりしていたが、それはやはり小さな頃のことであって、具体的に言えば年齢が二桁に届くかどうかのときであるのだから、誰かに頭を洗ってもらうという感覚を久しく忘れていた。退院を果たしたら弟の頭を洗ってやろうか、と私は夢想する。流石に私と弟の年齢が近くあったのならば、女であることと、思春期であるということの二重の羞恥心をもって、もしかしたら顔すらも赤らめて、それ以前に弟との入浴など考えたりもしないであろうが、おそらく暴力も踏まえて全力で拒絶の意を示すはずである。だが、弟は小学生でしかも四年生であるのだから、ようやく年齢も二桁にいったところなので、私の女としての、そして思春期としての羞恥心は一切の反応を示さないのだ。そういえば先日両親が見舞いにやってきたとき、その場に弟はいなくて、両親に失礼ではあるが、そのことに私は多少の落胆を見せた。だが、そのとき弟は祖父母の家に泊まっていたのだから仕方がない。話によると弟は今日の夜には帰ってくるらしくて、明日には私の見舞いにやってくるそうなのだから、実に楽しみである。今思えば昨日今日に弟が見舞いにやってこなくて大変良かった。先ほど頭を洗ってもらって頭部は清潔となったが、三日も入浴をしていない、垢だらけの体をもって、弟と面会を果たすなど、どうしても嫌なのである。「お姉ちゃん、臭い」など言われでもしたら、私は布団の中に引きこもるといった、妙な自信を持ち合わせている。弟程度の年頃の子供は何を言い出すか、私にはさっぱり想像がつかないのだ。私もおそらく弟と同じ年齢の頃に両親に何か言ったはずであるが、まったく覚えていない。だが、その頃から一人で入浴をするようになったことだけは覚えている。

「神田さん。CT検査の時間ですよ」

 看護婦が多少伸びのある声でベッドの上の私に呼びかける。どうしてCTで撮るのか。レントゲンではいけないのか。私にはその辺りの区別など一切つきはしないが、私の治療のためには必要不可欠なことなのであろう。でなければ両親は――正確な数値はわかりはしないが、十数万円の治療費を私のために払ったりはしない。この十数万円の中にはCTを撮るための費用もきちんと含まれているのは明白である。だが、十数万円の中においてCT検査がどれだけの比重を擁しているのか。私は気になって仕方がない。だが、それほど高い比重を占めているとは到底思えないのだ。同じような比重を占めそうな検査でMRIがあるが、私は三年前の中学三年生だった頃、どこの精神病院だったかは覚えてはいないが、その病院で比較的簡易にMRIを受けた覚えがある。受けた理由は大分屈辱的で、当時あまりにも授業中に眠るものだから、母親が心配してしまって、それが過剰にまで至った結果、脳内に何か異常はないか調べる、といった暴挙に至ったのだ。結局異常はなくて、だがそれは当然のことである。私自身ただの寝不足であるとわかりきっているのだから、それでもMRIを受けてしまったのは、母親の強引さのせいでもあって、それに加え個人的な興味があったことも否めない。小学二年生のとき、救急車に乗ったことでさえも、後に何かしらの感想文のようなもので、救急車に乗ったことを、まるで初めて飛行機に乗ったかのような高揚でもって、私は取り上げていた。

 私の二の腕にはもう点滴の針は刺さっていない。CTの数十分前には終わっていて、そのとき私は晴れて自由の身となったわけだが、かといって特に何をしたわけでもなくて、しいて言うのならば花を摘みに行くのが楽になった程度である。

 CT検査には、車椅子で向かうそうであった。だが、私にはどうして車椅子で向かうことになったのか、さっぱりわからないのである。別段昔のように骨折をしているわけではないし、私が入院しているのは病室棟の四階ではあるが、検査室は別棟の一階にあるのであって、そこまではエレベーターと徒歩でいける。入院三日目であるのだから、極端に体力を失っているわけでもない。私はただの病院側の体裁によるものだと結論付けた。それしか思いつかないのである。私は病人ではあるが、決して歩けないわけではないので、歩けない扱いされるのは非常に不愉快ではあるのだが、病院側の体裁であるのならば仕方がない。私はそう思うことにして、車椅子に嬉々として乗り込んだ。滅多に乗ることがかなわない車椅子に合法的に乗ることのできる機会なのだから、先ほどまでの不愉快さは滅法消えてしまって、存外私は興奮していた。小学二年生のときは初めこそ車椅子であったが、足の痛みに耐えかねて、平生ではベッドの上であったし、痛みが治まりかけた頃になると、リハビリと称して松葉杖の使用が始まっていたのであるから、私は病院のお世話になったことは多々あるが、それ程までに車椅子というものに触れたことがないのである。だが、実際に久しぶりに車椅子に搭乗して、看護婦に車椅子を押してもらっていると、先ほどまでの高揚感が車椅子の車輪が一回転する度に、静まっていくように感じられた。何故かは私にはわからない。想像していたものより興をそそらなかったからかもしれない。しかし、私の胸の内に燻っていた子供心が、次第に鎮火の様子を見せ始めていたことだけは確かなことであった。

 病室棟の一階にエレベーターを使って辿り着くと、私は看護婦に連れられて検査室のある別棟へと向かった。途中には棟と棟とを繋ぐ渡り廊下があり、それは若干段の少ない階段のせいもあって、しかも車椅子が通れるように板も敷いてあることから、まるで振子時計が描く軌跡のような形をしている。開閉式の扉が両棟に備え付けられていることもあって、渡り廊下はどこか両棟から独立しているような雰囲気すらあった。廊下の両脇からは外の景色が見えることもあって、それが更にその雰囲気を増徴させていた。

 渡り廊下を抜けると手前にはラーメン屋があった。何故そう判断したのかは、ラーメンと書かれた旗状の看板である。美味しいのであるのだろうか。私はそれが気になった。いや、美味しくなくとも――流石に不味いのは勘弁ではあるが、今となっては病院食以外のものを食べたいのである。病院食である以上体に良いものであるということは私自身頭では理解していて、それを食べることが快癒への近道であることもわかってはいるのだが、どうも舌が受け付けないのだ。栄養という面だけで見るのならばカロリーメイトを只管食べている方が遥かにましである。そういえばCTが終われば昼食の時間帯である。私は鬱屈とした思いを抱かずにはいられなかった。

 CT検査は大分すぐに終わった。大分、というのには私の前に一人検査を受けていた人がいたからである。私は来たときとまったく同じ道を看護婦に連れられて自身の病室へと向かう。相変わらず病室は伽藍としていた。床のタイルは白くて、ベッドも白く、カーテンも白い。だが、私はその白がつい一昨日に赤く染まったことを知っている。カーテンは取り換えられたのであろう。だが、床にベッドは人の手によって拭かれた程度である。そう思ってしまえば、現在私の(まなこ)映っているこの伽藍とした白い病室が、段々と赤く染まっていくのだ。病室がお爺さんによって浸食されていく……。私はその辺りで思考を止めた。これ以上思考を進めてしまえば、この病室にもはや住むことがかなわなくってしまうと思えたのだ。進んでしまえばあのときの医師を思いださなければならぬ。もしかしたら、私の主治医であるのかもしれないが、少なくとも現時点では私は医師のことは全く覚えていない。思い出すのは酷く面倒臭くある。私が未だにこの病室にいるのは偏に面倒臭いからであって、たった今一昨日の出来事が、実は私が生み出した幻想のようなものではなかったのか、といったそんな逃避が私の脳内に巣くった。しかし、そんなことはありえない。あの日あのとき、私のベッドの後方の柵に付着してあった、お爺さんの朱色の手形が、私の脳内に酷くこびり付いている。



 食事になると毎度ほうじ茶が出ることが、せめてもの救いであった。ご飯の代わりに出るお粥にほうじ茶をかけて、それを啜るのだ。こうでもしなければ私はこの病院で出されるお粥を食べることがかなわないのである。口に入った途端、ドロドロとしたお粥が私の舌の上で踊って……。私は入院して初めてお粥が不味いものであるという認識を植え付けられた。私が小さい頃、風邪をひいてしまったときに母に作ってもらったお粥は梅の味をしていて、それはいつも美味しかったというのに、ここのお粥は何も味付けをされていなくて、過剰なまでにドロドロとしていて、なるほど病人用のしかも老人用のお粥というわけだ。私は確かに病人ではあるが、患っているのは肺臓である。病院側は何を勘違いしているのか。もう一度言う。私が患っているのは肺臓である。消化器官ではないのだ。かといって、文句を言ったとしても、何も変わりはしない。ただ、後四日もすれば、ご飯がお粥でなくなることだけは知っている。昨日看護婦に直接訊いたのだ。しかし、その四日という日数が存外長いのである。あまりの不味さに私は今日の朝食を食べることを布団に巻かれながら拒絶した。当然眠いという欲求が先走っていることは否めない。だが、あんな不味いお粥を食べるぐらいであるのならば、朝食を持ってきた看護婦にかかるであろう迷惑の度合いと、私の高校三年生としての尊厳を、たとえ溝に捨てたとしても、私は私自身の欲求に従っているのだから、全く惜しくはなかったのである。

 入院患者である私はただベッドの上で身を委ねていることだけが唯一の仕事である。勉強はしない。私の退院予定日はセンター試験の日付をとうに通り越してしまっている。だが、親は私が退院した後で確実に追試験を受けなさい、と言うであろう。冗談じゃない。どうして好き好んでより難しい追試試験を受けなければならないのか。私は進学こそ希望しているが、点数は国立大学に合格する瀬戸際であって、それも本試験に準じたものであるのだから、追試験など以ての外である。それに私はレントゲンを撮ったときに、殊に深い絶望を知ったのだ。瞳孔が開ききったときに、知らず知らずのうちに私は深淵を覗き込んでいた。

 夕食も同じように私にはお粥が用意された。私はそのときの、夕食を運んできた看護婦の顔を見てはおらぬ。下手をすると朝食のときと同じ人であって、そうであったならば、おそらくその看護婦が私を見る目は軽蔑だったりするはずだ。だが、そんなことは些末なことである。目下の問題は夕食をどう処理するかであって、ああ、そういえば先日両親が見舞いに来てくれたとき、序でに私におかずを持ってきてくれていた。冷蔵庫に入れたままでいて、中身は確か刺身であった。しかし、醤油がどこにも見当たらないのである。私は刺身を生のまま食べるような、そんな高尚な趣味は持ち合わせてはいないし、唯一事例があるとすれば、あれは中学校の修学旅行のときのことで、泊まり先のホテルにおいて行われたマナー講座である。サーモンの刺身の上にパプリカが塗せられていて、それをフォークとナイフで食べるのである。そのとき、思わず醤油を探した苦々しい思い出が私にはあった。

 結局醤油は他に入院していたお婆さんに借りた。しかし、私が直接借りたわけではなくて、ナースセンターに醤油はありませんかと直談判した結果であって、私とお婆さんの間に看護婦が仲介人として立っている構図である。私は途端に面倒臭さを感じた。二重に感謝しなければならないからだ。看護婦とお婆さんに。とりあえず私は醤油を渡してくれた看護婦にお礼を言った。顔をきちんと見てお礼を言った。お婆さん宛には醤油を看護婦に返したとき、お礼を言っておいてくださいと看護婦に私は頼んだ。


         4


 日が新たに昇った。今日も晴れであるらしい。一月の第二木曜日である。

 私は今日は朝食を食べた。朝食を持ってきた看護婦は、昨日私がお礼を言った看護婦ではなかった。お盆の上にはお粥が鎮座している。お粥にはいつも通りほうじ茶をかけて、それで多少は味はましになれど、それでも眉間に皺を寄せながらすすった。口直しにはお粥にかけ切れなかった、ほんの少しだけ残っているほうじ茶を飲む。それから私は不味い、とそう一言だけ呟いた。

 弟がいつ私の見舞いに来てくれるのか、私は知らぬ。弟個人の都合によるものではないのだ。両親の都合と、そこに限りなく小さな弟の都合が入り混じって、純色に近い混合色が私を包み込むのである。

 弟と両親は私が昼食――お粥をすすり始める三十分程前に来た。ノックがあったのだ。私はそのノックに合わせて、上半身を起こす。今日の分の点滴は終わっていたのだ。入院当初こそ、注射の痛みにまるで幼子のように身構えていたが、今日の辺りから注射の痛みには慣れてしまった。

 四日ぶりに見た弟は何も変わってはいなかった。むしろ、変わる方が可笑しいであろう。諺などこういう場面では何の効力も発揮しない。

 弟の他愛のない話に私は適当に相槌を打ち、ときどき口元に手を当てて笑う。私が危惧しているような言動は弟の口から洩れはしなかった。だが、そんなときにである。弟がそろそろ冬休みが終わって嫌だ、といったそんな話を口元から滑らせた。

 冬休み。特にこれといった思い出は思い当たらないし、冬休みという言葉が真っ当な意味のまま冬休みとして使われたのは、中学三年生の頃までである。私の在籍しているコースには夏期講習もあれば、冬期講習もあるのだから、今頃同級生は最後の追い込みを、仕上げを行っている頃であろう。本来なら私も席を並べて、センター嫌だなあ、とかそんな愚痴を友人に零しながら、それでも必死に答えを模索していたはずである。

 私は唐突に、しかし必然的に初めにレントゲンを撮った病院の医師の五円禿を思い出した。私もあのような未来を辿るのか。私が侮蔑が導くままに、五円禿を嘲笑っていたように。しかし、そのことに対する報いはもう既に受けたはずだ。あのとき、あの場にて呼吸する間もなく私は報いを受けた。深淵を覗いたのだ――。

 弟が口を滑らせた。これから弟と両親はラーメンを食べに行く予定らしい。母が弟の後ろで苦笑いを零している。私はこれからあのお粥を食べる予定である。私は自身の胸の内に何かしらの塊を、しこりのようなものを発見した。燻っていた。胎動していた。

 私は今明らかに弟に対して嫉妬や妬みといったものを覚えていた。昨日のあのとき、弟の頭を洗ってやろうと、それを基準とした愛情を弟に対して抱いていたというのに、その愛情は私を、弟を、容易く裏切ったのである。賄賂を受け取ったのだ。何の。それは私の欲求だけが知っている。

 先ほど、弟と両親が帰って行った。私の手の中には缶コーラが握られていて、これはさっき父が買ってきてくれたものだ。何か飲みたいものはあるか、と訊いてきて、しかしその問いかけの間の悪さは大分最悪なものであった。

 途端に私はこの缶コーラを気が済むままに振りたくなってくる。八つ当たりではない。私は父が私の機嫌をとるためだけに買ってきたこのコーラを振ることで、罪を贖わせようとしてるのだ。缶の中で膨張を果たした炭酸が、一体どれくらいの期限まで、その膨張を継続させれるのか。私は気が済むまでに振った缶コーラを備え付けの冷蔵庫にそっとしまった。これは彼らの贖罪であったが、同時に私の罪でもあるのだ。私はこの罪を贖わなければならない。

 病室にノックの音が響いた。看護婦である。私は今からあれをほうじ茶をかけずに食べるのだ。一口食べる。

 不味い、そう私は呟いた……。

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