06:本稿における結論
コレットは相変わらずエドワードを狙っていたが、それとは別に、アリスに対しても親しくなろうという姿勢を見せた。
はっきり言って、こんな娯楽の少ない田舎では、いがみ合うよりも、互いに楽しくやった方が得というものだ。
アリスとコレットは撮影の合間に、近くの村のマーケットに行ったり、ティールームでお茶をしたりするようになった。
エドワードがついてくる時も、そうでない時もあったが、女二人は気にしなくなっていた。むしろ、いない方が楽しいくらいだ。
フォルクナーはあの夜の一件から、すっかり不機嫌になって、『夕凪邸』の客室に籠ってしまった。
何をしているのかは分からないが、バーサが若いメイドたちに聞くと、「スーツケースから何か瓶のようなものを出して、眺めている」らしい。そして一様に「あの人の部屋の担当を外して下さい」と訴える。
バーサは「なにを言うの」と叱ったが、それを聞いたエドワードは「誰か適当な男の使用人に替えよう」とメイドたちを庇った。おかげで、エドワードの評判は、『夕凪邸』で抜群に良くなった。
シュミットは相変わらず、図書室に籠ったり、『夕凪邸』の周辺を散歩したりして過ごしていた。
たまにアリスが窓から手を振ると、にっこり笑って振り返してくれる。それだけだったが、アリスは、それだけでも十分、心が満ち足りるのだ、と言うことを知って、驚いた。
「そりゃあ、そうよ。
肉体的接触だけが愛情じゃないのよ。それよりも、精神的な繋がりの方が尊いわ」
コレットが物知り顔で言った。
その日、二人はまた近くの村に行くところだった。そこのパン屋のペイストリー類がとても美味しく、すっかり虜になったのだ。今日は映画スタッフの差し入れ分を買いにいく。
歩くことで、コレットは自分に、パイなりタルトなりを食べる許可を与えることが出来た。
しかし、コレットは村までの道を、一人で行くことになった。
なぜならば、途中で、アリスのブーツの靴ひもが切れてしまったのだ。結び直そうとしたら、繊細なレースの手袋を引っ掛けしてしまう。
「あなたって、どうしてそう粗忽者なの? 大体、なんで、村に出掛けるだけなのに、そんな手袋なんてしているの? 日焼け対策なら、もっとしっかりとした長い手袋をすべきじゃない?」
かつてはコレットを嫌う理由だった口調だが、アリスは、すっかり慣れてしまった。
それよりも、手袋と靴だ。靴がこれでは田舎道を歩けないし、以前は煩わしかったはずの手袋も、今はつけていないと不安な気持ちになってしまうのだ。
「急いで、新しいのに替えてくる。
先に行っててくれる?」
「好きなの選んでいていいのなら」
「いいわよ……でも、私の好きなのも選んでよ」
「どーしようかな~」
楽しそうに日傘を回しながら、コレットは行ってしまった。
ここで待っている、とか、一緒に戻りましょう、とか言わないところが彼女らしい。
「早く来ないと、本当に、好き勝手に決めるからね!」
「分かったわよ!」
アリスは腹立ち紛れに手袋を外しながら叫び、急いで『夕凪邸』に戻ると、バーサを探した。居場所を聞こうにも、使用人の誰一人にも会わない。
実家のはずの『夕凪邸』が、どこか彼女を拒絶している感じがする。
うろうろしていると、例の”魔女の部屋”に行きつく。扉がうっすらと開いていて、彼女を呼んでいるようだ。
迷っていると、中に誰かいる気配を感じる。
男だったら、アリスもそんなことをしなかっただろうが、その人影は間違いなく女だった。
黒い長い髪の毛の女性。
『夕凪邸』のメイドたちは皆、きちんと髪の毛を結い上げて、キャップをしているはずだ。
では、映画スタッフの一人だろうか。
アリスは”魔女の部屋”入った。
オーガスタの大きな肖像画が、咎めるような視線を送る。
怒っている。
なぜだろうか。自分は何かいけないことをしたのか。
戸惑っているアリスの前に、人影が現れた。
それは男だった。
「フォルクナーさん!?」
男はフォルクナーだった。あの黒い髪の毛の女性はいない。
でも今は、それどころではなかった。
フォルクナーの様子が尋常ではなかったからだ。目が爛々としている。そして、アリスを見ると、一層、狂気に輝いた。
人殺しの目だ。
もしも自分が生きてこの部屋を出ることがあれば、きっとこの瞳を演技に活かそう。
アリスはそう思った。
その前に、逃げなければいけなかった。踵を返して、走りだそうとしたら、紐が切れたままの靴が邪魔をした。
派手に転んでしまう。
立ち上がろうとした彼女に、フォルクナーが覆いかぶさる。
「やめて」
「ここで会えるとは、なんという幸運だろう。
私の美しい”右手”」
フォルクナーはアリスの手袋を外していた右手を掴むと、頬に押し付け、キスをした。
アリスは恐怖と嫌悪に震えた。
「離して!」
振りほどこうとしたが、強い力にそれは叶わない。おまけにフォルクナーの片方の手はナイフを握り、アリスの頬にその刃を当てた。死にはしないだろうが、少しでも動けば、若い未婚の、女優の顔に傷がつくことを意味していた。
「声を出したら、その顔が台無しになるよ」
フォルクナーはアリスの顔よりも、右手の方が好きなようだ。よって、アリスの顔を傷つけるのに、躊躇しないだろう。アリスは唇を噛む。声を出すなと言われても、気持ち悪さに悲鳴が出そうだ。
「なんて華奢で柔らかく美しい手なのだろう。
指は細く、肌は滑らかで。
まさに私の理想の手だ」
男はアリスの右手を舐めはじめた。
なんとかしようと、あたりを見ると、フォルクナーが持っていたであろう、瓶が転がっている。
その中に入っている物を、アリスは最初、ネイルチップだと思った。それから、その正体に気づき、ぞっとした。
ネイルチップではない。本物の人間の爪だ。
フォルクナーがあの、若い女性を殺し、右手の親指の爪を剥ぐという”悪魔の指”の正体なのだ。
言われてみれば、五本の指の中、特に執拗に舐めて、なんならしゃぶっているのは親指だ。
このまま命に害がないと思って狼藉を許していると、その内、殺されてしまうのだ。
男の身体越しに、オーガスタの肖像画が見える。
やってしまいなさい――!
「もう、気持ち悪いのよ!」
思いっきり突飛ばし、蹴りを入れる。
反撃されるとは思ってもいなかったのと、あまりに手に夢中すぎたせい。それから護身術を習っていたアリスの的確な急所蹴りで、フォルクナーは不意を突かれ、よろよろと飾ってあった甲冑にぶつかった。
「この……何をする……!」
「それはこっちの言うセリフよ!」
またも襲いかかろうとするフォルクナーに身構えたアリスだったが、男の手は彼女に届かなかった。
その前に、オーガスタの両脇を固める甲冑の一つが、フォルクナーがぶつかった衝撃で倒れ込んだからだ。正確に言えば、まるで後ろから誰かが押したように倒れてきた。持っていた戦斧が、フォルクナーの背に突き刺さった。
それを見下す肖像画のオーガスタの顔は、満足そうな笑みを浮かべていた。
同時に、その絵の額の下から、何か固そうな包が落ちてきた。
アリスは流れる血を踏まないように歩き、左手でその包を取り上げ、ちょうどパンを入れるために持っていた大きなカゴの中に隠した。
それから渾身の力を込め、演劇学校で習った通りの完璧な腹式呼吸で発声する。
「きゃーー!!!!」
悲鳴は『夕凪邸』に響き渡った。
一番に駆け込んできたのはシュミットだった。
「アリス!? なぜここに!」
「シュミットさん!?」
シュミットは部屋の様子を一瞥すると、全てを悟った。アリスを抱きしめる。
「あの男に、何かされましたか?」
「右手を舐められた」
すごく気持ち悪いわ。
アリスは男の唾液にまみれた自分の手を見て、一刻も早く手を洗って、アルコールで消毒したい気持ちでいっぱいになった。
「なんてこと……」
とはいえ、慰めでも、他の男の唾液がついている手に、キスするつもりはなさそうだ。
ならば早く離して欲しい。
「助けに来るのが遅くなってすみません」
「あの男が、”悪魔の指”なの?」
「ええ……そうです」
見慣れぬ男たちがどやどやと部屋に入ってきた。
シュミットはアリスを部屋から出るように誘導する。
「あの人たち、誰?」
「エンブレアとベルトカーンの警察です。
証拠集めやら、両国間での交渉に時間が掛かってしまい、あなたを巻き込んでしまいました。
エンブレア王国はベルトカーン国をはじめ、大陸間の国々で結んでいる刑事事件における協定に参加すべきだ――いえ、今、そんなことを言っても仕方がありませんね」
「あなた誰? 刑事さん?」
最初から、シュミットはフォルクナーの動向を気にしていた。彼女の側にフォルクナーがいる時、彼がいた。その逆も然り。つまり、アリスを巡っての対抗心ではなく、単に、彼を監視する為に、側にいたと考えられる。
じゃあ、やっぱり騙されていたんだ。
アリスを守るためには、アリスの近くにいないといけない。それには彼女に気に入られた方がやりやすいのだ。
「いいえ、刑事ではありません」
「……じゃあ、誰?」
シュミットは隠すつもりはないようだ。あっさりと「私は……」と言い掛けたが、そこにチェレグド公爵とエドワードが来てしまった。
「アリス! コレットと村に行ったのではないのか?」
「なぜこの部屋に!?」
どうやら、今日が犯人逮捕のXデーだったらしい。
そこで危険がないように、『夕凪邸』の使用人たちや、映画関係者を遠ざけたのだ。
アリスとコレットが村に行く予定だったのも、見越してあったのだろう。
それがどういうことかアリスが戻って来てしまった。おまけに、フォルクナーは自身に逮捕の手が伸びているのを察し、広い『夕凪邸』の中に隠れてしまっていた。そこが、あの”魔女の部屋”だったのだ。
アリスはチェレグド公爵とエドワードに囲まれ連れて行かれそうになるし、シュミットは同じベルトカーンの刑事に呼び止められていた。当たり前だが、母国語の流暢なベルトカーン語で会話している。
コレットの言う所の、肉体的接触どころか、精神的な繋がりも絶たれてしまった気がする。
未練がましく振り返ると、開いた扉からオーガスタがこちらを見ていた。
「ねぇ、私のカゴ、持ってきて。お財布とか、いろいろ入っているの」
特に証拠物件でもないアリスの持ち物は、すぐに手元に戻ってきた。しかし、彼女自身は留まるように要請された。「ウォーナー嬢のお話を聞かせていただくことになります」
チェレグド公爵とエドワードはまずはアリスを落ち着かせてからだ、と主張したが、女性警官によって「気持ち悪いでしょうが、その手も証拠になりますので、写真撮影とサンプル回収にご協力を」と、引き離された。
アリスが手を洗うことが出来たのは、それからだった。
取り乱したバーサが駆けつけ、断固たる態度で、「うちのアリスお嬢さまに対して無礼な真似はさせません」と申し渡したので、警察の面々は、出来るだけアリスの気持ちに配慮することを誓った。
いつもはそんな扱いを好まないアリスだったが、今回ばかりは、それを利用した。
「シュミットさんを呼んで。二人っきりにして。彼にしか話さない」
かくして、アリスとシュミットは再び二人きりになった。
ただし、バーサの監視付なので、純然たる二人っきりではない。しかし、バーサは「アリスお嬢さま、私ども使用人は屋敷に付属する家具です。一人とは数えません」という前時代的な考え方でアリスの反論を封じた。
シュミットも「そうして下さるとありがたいです。わが国でも、この国でも、取り調べ……いえ、この場合は事情聴取ですが、する時は、対象の人物と二人っきりは、法に触れるのです」とバーサに賛同した。
「で、あなた、一体、どなたなの? シュミットさんではないの?」
応接室には茶が用意され、あたかも伝統的なアフタヌーンティーの時間のような有り様だ。
ティースタンド越しに、シュミットを問い質す。
「シュミットには違いありません」
「ハンス?」
「いいえ、イザークです。イザーク・シュミットと申します」
いい名前だわ。バーサが淹れてくれた紅茶を飲みながら、アリスは思った。
もともと偽名で、”ハンス・シュミット”ではないと分かっていたし、こちらから騙して欲しいと言っておいて、ここで怒るのはおかしい。だが、こうなれば、彼が何者で、どういう目的でここに来たのかは知っておかないといけないだろう。
「ベルトカーンの警察ではなければ、なぜ、フォルクナーの身辺を探っていたの?」
「私は実は、エンブレア王国にあるベルトカーン国大使館の職員なんです」
「あらまぁ」とアリスが言った。ベルトカーン大使であったカール・ブルクハルトの子孫も、大使館員とは。これまた皮肉な話だ。
「やっぱりスパイだったんですね」
自分の第一印象は間違っていなかったようだ。バーサはスパイという単語に反応し、シュミットを胡散臭そうに見た。
「情報収集活動と言って下さい。どこの大使館だって、それくらいはやっていますよ。
それに二国間の友好を深めるのも仕事です」
「それで『夕凪邸』へ?」
「ええ……弟が書いた『”王家の妙薬”の使い手』が映画化されることになりました。
撮影中、何か問題があってはいけない。これ以上、両国の関係を悪化させるような映画になってはいけない。
兄ということもあり、大使の命令で、様子を見に行こうという話になったのですが、ちょうどその頃、本国より、”悪魔の指”がティム・フォルクナーという線が濃厚になったとの連絡がありました。
そこで、大使館員ではなく、弟に成りすまして様子を見つつ、警戒することになりました。
フォルクナーの犠牲となった若い娘の……」
「ちょっと待った!」
アリスはシュミットの言葉を遮った。「弟さん?」
「はい。
ハンス・シュミットは弟です。
……あなたの兄の同級生というのも……ハンスです」
「あらまぁ」とアリスはもう一度、呟いた。彼が演じていた”ハンス・シュミット”は自分の弟だったのだ。
「では、兄はあなたの正体を知っていたのね」
「はい。あなたのお兄さんとは、弟とは別口で、知り合いでもありました。大使館のパーティーなどでよく会っていましたから。フォルクナーの目的を話すと、妹が心配だと、全ての仕事をうっちゃってやってきてくれましまた」
アリスは兄の愛情に、感謝した。
「あの夜、私の部屋に来たのも偶然ではなかった……と」
夜、アリスの部屋、という二つの単語にバーサの眉が吊り上る。
「その夜のフォルクナーは尋常ではありませんでしたからね」
「コレットに振られて、腹が立っていたのよ」
「あなたの手が、とても美しかったからでしょう」
シュミットがアリスの綺麗になった右手に視線をやると、アリスは咄嗟に、それを後ろ手に隠してしまった。
バーサの腰が浮く。彼女の髪の毛をまとめる為に、たくさん刺さっているヘアピンの中から、一本、抜き取る。
「かと言って、あのような犯罪は許せません」
シュミットは自分がアリスを怯えさせたことに気付いた。
視線を逸らし、事務的な質問に切り替えた。
その態度は、彼は普段はとても切れる官吏なのだろうということが窺えた。
アリスは聞かれるままに、答えた。
「それで、フォルクナーが甲冑にぶつかったせいで、それが倒れてきちゃったの」
オーガスタが自分を助けてくれたようだ、とは言わなかった。シュミットに憚ったのではなく、バーサに聞かせないためだ。
それに言わなくてもシュミットには分かると思った。
その通り、シュミットは「オーガスタさまが守って下さったのでしょう」と言った。
バーサは当然ですよ、とばかりに胸を張る。「弟さんに言っておいてくださいよ。あなたの書いた本は、とんでもない思い違いだって」
「今回はそれが功を奏しましたが、危ないので、古美術品の固定はしっかりとしておいた方が良いでしょう」
「そうね。気を付けるわ。
そう言えば、フォルクナーはどうなったの? まさか死んじゃった……とか?」
直接的に手を下した訳ではないが、そうだったら後味が悪い。
「フォルクナーは病院に運ばれました。命に別状はなさそうです。
退院次第、そのままベルトカーンに引き渡され、裁判を受けるでしょう」
「そう……」
それで聴取は終わった。
もう一度か二度は、警察が話を聞きにくるかもしれない。また、裁判で証言を求められるかもしれない。
バーサは「アリスお嬢さまをこれ以上、煩わせないで下さい!」と怒ったが、アリスは「いいわ。協力する」と請け負った。
シュミットは「ありがとうございます」と事務的に礼を言った。




