02:これまでの研究とその問題点
翌日から、撮影は順調に進んだ。
ベルトカーン国から来た二人の客人は、興味深そうに映画の撮影を見学したり、近くの村に遊びに行ったり、『暁城』を訪問したりと、それぞれの時を過ごしているようだ。
もっとも、『夕凪邸』の周辺では、特にニミル公爵夫人への敬愛が強く、シュミットは「あまり出歩かない方がいいですね」と、そうそうに図書室に籠った。
「何か面白い史料が見つかるかもしれません」
アリスは自分の出番待ちの時に、図書室に顔を出した。
「オーガスタさまのことを知りたいの」
「あなたの方がよくご存知ではないですか?」
「表向きのオーガスタさまはね」
シュミットは顔を上げた。彼は本を読んでいた訳ではないようだ。では、何を読んでいるのかと見れば、巧みに隠されてしまった。黒革の書類ホルダーをそのまま脇に抱えて、アリスに聞く。
「あなたはニミル公爵夫人オーガスタのことを、何か知っているのではないですか?
だからこの映画の主役をやろうと思ったのではないですか?」
「そうねぇ」
映画の衣装をつけたアリスが、口元に手をやり、小首を傾げた。
「とてもつまらないことよ。
学者さまに言ったら、きっと馬鹿されちゃうわ」
「そんなこと……しませんよ」
悪戯っぽく煌めくアリスの紫色の瞳に、シュミットは魅入られたようになった。アリスも同じだった。
周囲には誰もいない。
コルセットで締め上げられた細い腰に手が回り、ごく自然に二人の唇が合わさった。
「――いいわ、教えてあげる」
頬を染めたアリスは、シュミットを『夕凪邸』のある一室に誘った。
そこは北向きの部屋で薄暗かった。人が暮らすには不向きであるが、光に弱い美術品には悪くはなく、何枚もの風景画や肖像画が掛けられていた。いずれも名画ばかりである。その中でも、一際大きな肖像画があった。両脇には戦斧を持った甲冑が、その絵守るように置かれている。
美しい装いをし、慈愛溢れる微笑みをした貴婦人が描かれていた。
ほぼ等身大で、その視線は、ちょうど大人のそれと合うか、身長によってはやや上下どちらかに外れる。それくらいの高さに飾られている。
「ニミル公爵夫人オーガスタですね」
彼女の肖像として、最も知られた絵画の実物であった。
美術館に飾られるべきものだったが、これをこの部屋から持ち出してはいけないという不文律が、『夕凪邸』にはあった。そのため、ウォーナー侯爵家では、年に一度、この部屋を一般公開して、人々の"拝謁"を許している。
「そうよ。
”花麗国”のアランが描いた肖像画」
「……さすがに素晴らしいですね」
”花麗国”のアランとは、エンブレア王国で活躍した画家である。若い頃は肖像画を得意としていた。彼の描く肖像画は、対象の人物の内面まで描き出すと讃えられた。
そのアランが描いたオーガスタは、伝承の通り、気高い姿だった。
しかし、アリスはそうは思わなかった。
「ここはね、昼間でも薄暗いでしょう?
だから、悪いことをすると、いつもここに押し込められたの。
反省しなさいって。
オーガスタさまに誓いなさい。きちんとした人間になりますって」
「幼い子どもには、恐ろしい体験だったでしょう」
「悪いことをしたお仕置きだもの。
うちはとても厳しかった。冗談でも人をからかったり、囃し立てたりしたら、すごく叱られたわ」
シュミットはぐるりと部屋を見回した。明るい農村を描いたはずの絵も、この薄暗さの中では、どこかうら寂しさを感じる。
「……ねぇ、しゃがんでみて」
アリスがシュミットの腕に、自分の手を添えた。
なかなか言う事を聞かない男のジャケットの袖口を、焦れたようにひっぱる。
そのどこか子どもっぽい仕草に、シュミットは先ほどの図書室のように、彼女を抱き寄せたくなった。
言われた通り、しゃがむと、彼はそれをしなくて良かったと思い直す。
恐ろしかったのである。
しゃがんで、下から見上げたニミル公爵夫人オーガスタの顔は、真正面から見たときとは全く雰囲気が変わっていた。
微笑みはそのままだったが、そこには、不埒者に対して咎めるような視線で見下している、恐ろしい顔の貴婦人がいた。
「怖いでしょう?
私、この女の人はきっと、魔女か何かだと思っていたわ。
兄も、親戚の子たちも、この部屋のことを"魔女の部屋"と呼んで恐れていた。
でも、大人たちはそれを聞くと、とっても怒るの。
オーガスタさまに対して、不敬だと。この方は貴婦人の中の貴婦人。見習うべき人だと。
恐ろしく見えるのは、私たちが悪い子だからって言うのよ」
「でも、本当にそうなのかしら?」と、アリスは衣装の大きく膨らんだスカートに埋もれたまま、オーガスタの肖像画を見上げた。
「私は母によく言われたわ。
オーガスタさまのようになりなさい。自分がもし、オーガスタさまだったら、どんな風に振舞うか、考えなさいって」
その通り、アリスはオーガスタの気持ちになって考えてみたことがあった。
もしも、自分がオーガスタで、小さな娘を他国に嫁がせなければならなくなったら。それも、よくない噂しか聞かない年上の王にだ。
当時のチェレグド公爵が、それを押し進めた。彼の妹は王との婚約を破棄され、父親は不正が発覚して失脚するなど、一時は家勢が衰えていたものの、下級貴族出身の王妃を批判することで、旧来の貴族たちを集め、また新たな力を得て、夫人と共に、王妃と対立を繰り返した。
男爵令嬢から成り上がった王妃もまた、自分勝手な振る舞いをして宮廷を混乱させていた。
王妃は一人息子の地位を守り、自分の立場を守るために、他の王位継承者たちを謀殺し始めた。
オーガスタの甥であり、王甥でもあるストークナー公爵の息子を殺し、同じく彼女の息子の命も狙っている。ニミル公爵家は海軍士官であった嫡男を海に出したままにすることで、その身を守った。もっとも王妃の脅威からは避けられても、海の上では別な危険が数多あって、とても安心など出来ない。
王位継承権を持つ若者が少なくなったせいで、野心を抱く継承者が現れ始めた。
弟の王は、その座にありながら怠惰。すべてを投げ出すだけでなく、愛人とベルトカーンの大使に唆され、自国に損となる同盟を結ぼうとしている。
それはオーガスタの娘、ヴァイオレットの身をあやうくする同盟でもあった。
誰も彼も、自分の利益しか考えず、この国を、彼女が守らなければならないエンブレア王国を滅ぼそうとしている。
私が守る。私の国。私のエンブレア。
それを乱す人間は許さない。
「……殺してやる」
「アリス?」
両腕で自分を抱きしめた彼女を、シュミットが心配した。
彼女は生来の女優のようだ。所謂、憑依型というものだろう。演じる人間の思考を辿って、いつの間にか、自分がその役の人間そのものになってしまうのだ。
「とても怖いと思った。
そんな風に思った私は、おかしいのだと。ずっと誰にも言えなかった。
だから『”王家の妙薬”の使い手』を読んだとき、私と同じことを彼女の中に感じ取った人がいると知って、嬉しかったの。
だからあなたに会いたかった」
「――そうでしたか」
「あなたはオーガスタではありませんよ」
シュミットはアリスをオーガスタの影から引き離す。
「ありがとう。
ねぇ、なぜ、オーガスタさまを殺人鬼だと思ったの?」
「――恥ずかしいお話をしてもいいですか?」
「何?」
「お金がなかったんです」
生まれてからこの方、金の苦労などしたことのないお嬢さまは、「あらまぁ」と言った。
男は純粋な学問的興味ではなく、てっとり早く金を儲ける為の手段として、オーガスタに目を付けたと言う。
「何か耳目を集める刺激的な話を書かないか、という誘いを受けて、初めはカール・ブルクハルトに関する話を書こうと思ったのです。
それで彼の足跡を辿っていくと、エンブレア王国に辿り着きました。
私はエンブレア王国の歴史も精査することになって……気づいたんです。
都合のよい時期に、都合の良い人間が死んでいることに」
「その都合って、どなたの都合?」
「エンブレア王国です。
まるで何らかの意思をもったように、邪魔な人間が消えて行く……」
その裏に、ハンス・シュミットはオーガスタの影を見た。そう思って見て行くと、次々と事実が符合していくのだ。全て、ニミル公爵夫人オーガスタならば可能な犯行だった。
「それは面白いほどに……ただ、それらは全て、状況証拠です。
出版社の人に話すと、とても面白いとすぐに乗り気になりました。こういう聖女さまが実は悪女だったという話が、世の中の人間には受けるそうですね。
実際、その通りになりました」
「証拠を探しているの?」
「出来れば。金の為に、スキャンダラスな本を書きました。
彼女が生前、慈善活動に力を入れていたことは事実です。
不当に殺人鬼と呼ぶのは気が引けます。
様々な説を展開し、可能性を論じ合い、歴史の真実を明らかにするのが、学者の役目とは言え……」
「オーガスタさまは証拠を残したかしら?
罪を犯した苦しみに耐えかねて、今際の際にした告白を、誰かが聞いて書き残したとか……そういうの?」
アリスは絵の中のオーガスタに見られている気がした。
どこまでも慈しみ深いニミル公爵夫人オーガスタ。
肩をすくめる。
「そもそも罪だと思っていなければ、後ろめたいとも思ってないのだから、告白もなにもないわね」
「同感です」
アリスとシュミットの視線が絡む。アリスは先ほどの衝動的なキスを思い出し、俄かに緊張してきた。
会ってまだ数日の男の人と、あんなことするなんて、両親や兄、バーサが知ったらなんと思うだろう。
また罰として、この部屋に押し込められるかもしれない。
それでも、アリスの視線はシュミットから外すことが出来なかった。
「人は、いけないことをしているという自覚を持っているからこそ、他人の目が気になるのでしょう。
そうでない人間には、無意味です。
あなたが小さい頃、この絵を怖いと思ったのは、ちゃんと反省していたからです。
――私も今、まさに、彼女を恐ろしく感じています」
それはどういう意味だろうか。
アリスの心はときめいた。幼い頃、あれほど他人をからかってはいけないと教えられたのに、軽口を叩いた。それとこれとは違うわ。
「あら? あなたも後ろめたいことがあるの?」
現実的に言えば、オーガスタの肖像画は、下から見ると影の具合で恐ろしく見えるだけだ。大人になれば、それが分かる。大騒ぎしていた親戚たちも、成長してからは、偉大なるオーガスタさまにひれ伏すことになった。
その彼女の絵を、シュミットは恐ろしく見えると言う。それは彼の心の問題だ。
シュミットのわずかに緑がかった灰色の瞳には、彼を見つめるアリスの姿が映る。
ここにも、周りは誰もいない。
「ええ。高潔なるニミル公爵夫人の目の前で、あなたにキスしたいという欲望を抱いています」
「それはとてもいけないことね」
アリスはそう言いつつも、シュミットの首に手を回し、背伸びをした。彼がまだ大事に持っている黒革の書類ホルダーが腰に当たる。
が、大声で彼女の名を呼ぶ声が聞こえて、慌てて離れる。
「いけない! 出番かも」
とてもいい雰囲気だったのに、互いに苦笑したが、出番を無視するなんてことが出来るはずがない。
「もうしばらく、この部屋にいても?」
「ええ、構わないわよ。怖くない?」
シュミットの後ろのオーガスタの絵は、今は皮肉っぽい顔に見えた。
アリスは意外に思う。怒っていると言うよりも、呆れているんだわ。
「ちっとも」
残されたシュミットは、オーガスタと対峙した。背の高い彼が、しゃんと背筋を伸ばすと、オーガストを見下す形になった。
そうすると、今度は一転、不安気な表情にも見えてくる。
しばらくして、彼の通信端末が鳴った。
「はい、シュミットです。
ええ……こちらはまだ動きはありません。そちらは? そうですか。
ちょっと待ってください」
書類ホルダーから紙を一枚、取り出すと、何かを書きつける。
ジャケットの内ポケットから出されたペンは、プラスチックの安物ではなく、ベルトカーン国で最高峰と呼ばれる文房具メーカーの逸品で、数年前の限定デザインだった。ここ一年やそこらの稼ぎで買ったものではないと、分かる人間には分かるだろう。
そしてウォーナー侯爵家の令嬢は、分かる部類の人間だ。
メモを取りながら、シュミットは自分の迂闊さに苦笑する。アリスに見つかる前に、どこかで適当なペンを調達しておかないと。この書き心地は手放したくないから、亡き祖父あたりの形見にしてもいい。
「分かりました。
そちらも、急いでください」
通信端末をしまうと、彼はおもむろに歩き出し、扉を開けた。
「何か?」
足音もなく、いきなり扉が開いたので、相手はびっくりした。
「あ、あの……お嬢さまが、シュミットさまにヴァイオレット妃の肖像画もお見せするように、と」
アリスの”ばあや”であるバーサだった。
シュミットは「それはありがたい」と、穏やかに答えたが、バーサは扉が開いた時の、彼の表情が険しいものだったのが引っかかった。




