妹の研究
「あー、妹が欲しいー」
生徒が皆帰り閑散とした放課後の教室で、安藤雄二が椅子の背もたれに体を預けながら呟いた。
「あれ? 雄二に妹いないの?」
雄二の机の向かいにいた森本芳樹が、手にした文庫本を読みながら訊ねた。
「いないんだよ。いないから欲しいんだよ」
「なんで」
雄二は立ち上がると、文庫本のページをめくる芳樹に向かって、特に意味なく熱弁を振るう。
「いや、なんかいいじゃないか。朝起こしに来てくれる妹とか、お弁当を作ってくれる妹とか」
「ふむふむ」
雄二の言葉に頷いていた芳樹は、文庫本を机に置くと、手を叩いて雄二の方を見た。
「そうだ、妹が欲しいなら試しに僕が妹の役をやってみようか」
「は?」
「どんなもんか参考になるかもしれないよ」
「どんな参考だよ」
いぶかしげな表情をしていた雄二だったが、暇を持て余していたこともあって、とりあえず芳樹の提案にのってみる事にした。
「じゃあお兄ちゃんを迎えに来た妹って感じでやってみるね」
芳樹は立ち上がり教室の出入り口に向かって歩いていく。その様子を見ている雄二は、そわそわした感じで落ち着かない。
「意味がよく分からんが、なんか緊張するな」
「よーし、じゃはじめるよー」
そう言うと芳樹はいったん教室から出て行き、手を振りながら入ってきた。
「おー、兄貴ー」
「弟かよ」
教室は静寂に包まれた。
「素で来られても妹とは思いにくいんだが」
「ボーイッシュな妹ということで何とかならない?」
雄二と芳樹は先程の反省点を振り返りながら打ち合わせをしていた。
「実はお前も妹がどんなか分かってないだろ」
「うーん……まあ、ねえ。姉ちゃんならいるんだけどなあ」
雄二のテンションが見るみる下がりだした。
「なんか無意味な事やってる気がしてきたぞ」
「あ、そうだ。姉ちゃんを参考にやってみるよ。これなら妹に近いんじゃないかな」
「おー、それは近い……のか?」
いまいち納得いかない雄二だったが、芳樹が妙にやる気なので続行する事になった。
「よーし、それじゃ行くよ」
「はいはい」
気のない返事をする雄二。芳樹は椅子に座ったまま、頬づえをついてそっぽを向いた。
そのまま何事もなく時間が過ぎていく。雄二は沈黙に耐え切れず芳樹に話し掛けた。
「おい、何かいえよ」
雄二の言葉を聞くと芳樹はゆっくりと振り返り、冷たく見下すような目を向けながらけだるそうに言いはなった。
「はあ? ナニいってんの?」
いつもとはまるで違う芳樹に、雄二はうろたえた。
「え? あの、その、何かお気にさわる」
雄二の言葉をさえぎるように、芳樹は細く長いため息をついて口を開いた。
「あんた……ウザイ」
「……ごめんなさい」
教室から音が消えた。
「いやもうなんというか、申し訳ないとしか言いようがないな」
「何が?」
普段通りに戻った芳樹が不思議そうな顔をしている。
「というか、お前んちの姉弟関係を見せられて何で俺が謝るんだ」
今ひとつ納得行かない様子の雄二を尻目に、芳樹はまた何か思いついたような表情を見せた。
「あっ、そうだ、兄ちゃんが妹についていろいろ話してくれた事があるんだ。それを参考にやってみるよ」
雄二が驚いたように目を見開いた。
「お前妹がいるのか?」
「いや、いないよ。女は一番上の姉ちゃんだけ」
「という事は兄貴にも妹がいないって事だよな……その兄貴が妹について語ったのか?」
「うん」
雄二は額に人差し指を当てて目を閉じてみた。
「なんか遠ざかっているのか近づいているのかよく分からなくなってきたな」
「それじゃいくよ」
芳樹はそう言うと、雄二の隣に椅子を持ってきて座り、雄二を潤んだ目で見上げた。
「……お兄ちゃん」
「な、なに?」
芳樹は手を伸ばすと戸惑う雄二の手をとって自分のおなかにあてた。
「お兄ちゃんの子だよ」
「……」
教室が凍りついた。
「いやもうなんというか、勘弁してくれって感じだな」
「何が?」
いつも通りに戻った芳樹が不思議そうな顔をしている。
「というか、俺は別にお前の兄貴の闇なんて知りたくなかったんだが」
「闇って大げさな。パソコンのゲームの話だって言ってたよ」
「ああ……そう」
「なんかものすごく熱心に語ってて」
「いやもういいから」
疲れたような様子の雄二を尻目に、芳樹は記憶を探るような表情で腕組みして考え込んだ。
「うーん、あとは親戚の人くらいかなあ、妹の参考になるの」
「なんか心の底からどうでもよくなってきたぞ」
雄二は一つため息をついた。芳樹の方は気にする様子はない。
「じゃあやってみるね」
「そうね」
芳樹は雄二のそばにやってくると、雄二の頭に手を置いた。
「本当に雄二はいい子だね。私の若い頃はB-29が」
「戦中かよ」
教室は静まりかえった。
「いやもうなんというか、妹に対する固定概念が覆されてしまったな」
「何が?」
芳樹が不思議そうな顔をしている。
「そもそも誰なの」
「ウメ婆ちゃんは確か、曾爺ちゃんの妹だよ」
「それは確かに妹かもしれんが、年上の妹は想定外だ」
疲れたように雄二が机に突っ伏した。その顔に窓から夕日が差し込む。
「ん、今何時だ?」
「5時だね」
「もう5時? なんて無駄な時間を」
机に突っ伏していた雄二は、立ち上がって鞄を手に取るとさっさと歩き出した。
「帰るぞ!」
「そうだね」
芳樹は机に置いてあった文庫本を鞄になおすと、雄二の後を追って教室から出て行った。
次の日の朝、雄二があくびをしながら教室に入ると、すでに登校して席に座っていた芳樹が手を上げた。
「あ、お兄ちゃんおはよー」
「ああ、おは……は?」
眠気が吹っ飛んだ目で周りを見ると、ざわめいていたクラスはいつの間にか静まり返り、視線が雄二に集中していた。芳樹は立ち上がって雄二のほうに歩いてくる。
「どうしたのお兄ちゃん」
「いや、その、あれだ、それやめろ」
しどろもどろの雄二は、自分を奇異の目でみつめるクラスメイトに気付いた。
「いやっ、これは昨日ふざけて……」
「えー、お兄ちゃんの子まで言って協力したのに」
雄二は固まる、教室の温度が5度くらい下がったような気がした。
そしてその余計な誤解を解くのに、一週間くらいかかるのであった。