不完全な人間
彼はうつむいて,スカートの膝にのせていた,ぶちまけられた黒いミミズをスケッチしたようなスケッチブックを閉じた。「普通さぁ」と女が白い背中に流れ落ちる甘ったるい茶色の髪を骨の形が浮き上がる両手ですくい上げながら鏡の中の客に話しかける。
「あんた美大生なんでしょ?娼婦に金払わなくたって裸のモデルなんかいるんじゃないの?あんた女なんだし自分か」
そこまで言って女は客の丸みのない首から肩,ふくらみのない胸を鏡に見て「友達の女の子に頼めば脱いでくれんじゃない?」と付け足した。
彼は返事をしなかった。深緑色のタイツで包んでも無愛想さを隠せない肉のない自分の両脚を見,鏡に写る女の体を見た。丸く,触らずとも柔らかいのが両手に伝わってき,マシュマロのように弾力を持ってちぎれそうだ。
華奢な両手に再び汗がにじむ。
ごくりと唾を飲む。
履きなれた赤いハイヒールのかかとに力を込める。
深呼吸する。
スケッチブックを横に置いてベッドから立ち上がり,安いホテルの絨毯にかかとを沈ませながら鏡の前で化粧を直す女の背中に近寄る。近寄る自分を鏡の中に見る。まるで,後ろからこの女の首を絞めようとしている,そんな殺人鬼のような顔をした,幸の薄い女によく似た,自分を鏡の中に見る。異様な気迫に女は「あんたもしかしてレズ?」と化粧の手を止め赤い唇を歪めて笑った。
彼にはそう聞こえていなかった。ただ遠くで猫がバイクに轢かれて嫌な悲鳴をあげた気がしただけだった。女は両腕を持ち上げて右手で左のまぶたを持ち上げ,利き手の左手でアイラインを引き直している。彼は女の座る椅子のすぐ後ろに崩れるように膝をつき,女が崩れ落ちた客に声をかけるよりはやく,長い腕で背もたれごと女の体を抱きしめた。「ぎゃっ」と女が短い悲鳴をあげる。「やっぱり猫は死んだ」と彼は思う。「なんなのよ急に,アイライン変なとこにひいちゃったじゃない」そう文句を言いながら,客としてやって来た,美大生だという,レズビアンと思われる女に急に抱きしめられ,その両手がまるで目の見えない人間がものの形を確かめるかのように,皮膚を敏感にして自分の体をくまなく撫でまわしていることにも,撫でまわされる自分の体を鏡で眺めることにも,女はなんとも思わない様子で化粧直しを続けた。
袖のない服を着ていた彼は,両手だけでなく両腕にしっかりと女の体を刷り込ませていた。目を閉じ,わずかな凹凸を敏感に感じ取り,頬に触れる背もたれとはまるで違う生きものの魔力に全身を浸し自ら進んで溺れ死のうとしていた。彼は女を求めていたのではない。女になることを求めていた。貴婦人の薬指に控えめ輝く指輪のような品のある顔をした彼を隣に置きたがる女は腐るほど存在した。声は高いが耳触りではなく,蒸気のようにあたたかい。そして彼は女が,その体が震えて涙するほど好きだった。しかしそれは一つの彫刻に魅せられて身を滅ぼした名の上がらない画家がその彫刻に抱き続けた愛情そのもので,恋人に迫られその形に感動することはあっても体が反応することは一度もなかった。
「この体がほしい」彼は海の中で何度も何度もそう呟いた。その海の表面を覆う波は女の体の凹凸を作り,思考が停止してしまうような匂いをまき散らしていた。
どうして自分はこの体に生れてしまったのだろう。
女に生れ,女に愛される人生だったとしたら,自分も幸せというものを感じることが出来ただろう。
包まれる者に無限の安心感と赦しを与える肉体に生れていたら,生まれてから何度迷い込んだかわからない闇の中に,彼は懲りることなく目隠しで入り込んでいった。ひたすら「ほしい,ほしい」と唾液があふれ出す口の中でつぶやきながら。やがてそれは声に出た。女はその声に下唇に口紅を塗り直したところで手を止め,体に巻きついた手を取り,その手を握ったまま椅子から降りると,彼の熱くなった小さな頭を胸に抱えるようにして抱きしめた。「あげる,あげるわ」と,色の薄い上唇を動かして囁きながら,長い間女は彼の背中をさすり続けた。熱い涙が女の胸に落ち,涙さえも,その体の凹凸をなぞって女の腹に,何も宿すことが出来なくなった腹の上に冷えた。
男としてはとても美しくて女性からも愛される主人公の男子学生は女の肉体が欲しかった,一方女は完璧な肉体を持ってはいるものの,子供を産むという母の役割は果たせない女。どちらも男として,あるいは女として,不完全,だからこそ互いに何かを感じ取って惹かれあうところが書きたかったです。