第五話 廊下にとおされて……
ふと意識した時には、違った景色に立っていた。
ホテルといえば、ホテルなのだろうが、先程とは格が違う。空間移動前の廊下は、まるで迷路のような造りのせせこましい通路であったが、空間移動後の現在地は、まるでアルハンブラ宮殿やベルサイユ宮殿のような――高校の世界史の資料に載っていそうな内装であった。
両端に立てばキャッチボールができそうなほど横幅が広く、天井には幻想的な風景画が描かれており、そこから巨大なシャンデレラがいくつも垂れ下がっている。
僕らが立っていたのは、そんな廊下の上だった。
「ここ、お前の土地?」
「うん。家の入り口はあっちね」
ヨセフが指差した場所に振り向くと、また過剰なまでに装飾されたドアがある。豪壮な廊下にしてはこじんまりとしたドアだが、おそらくその向こう側には更に常識を超越した空間が広がっているのだろうと思われる。
それを見てみようと、僕は引き寄せられるようにフラフラとドアへ向かった。
向かったのだが。
「ちょっと! そこは開けちゃだめ!」
両手を広げて通せんぼをするヨセフが横から割り込んできた。その汗に滲む決死の表情からは、切実なものがある。しかし、「駄目」と言われれば僕の知的好奇心の炎は逆に燃え盛るばかりである。歩を緩めずに、無理やりヨセフを押しのけてドアへ進む。
「駄目なんだってば! いや、本当に!」
後ろから縋るように着いてくるヨセフを無視する。まるで小学生を虐めているみたいで、僕としては躊躇の念が出てくるのだが、冷静沈着で子どもらしからぬ子どもであるヨセフのかくのごとき慌てっぷりの裏には、やはり何か衝撃の事実が隠れているようにも思えた。
僕は、ドアの前に立つと、純金でできたようなノブを包み込むように握った。
――いざ。
ノブをひねり、前へ押すように力を込める。
木材が軋む音が微かに鼓膜を震わせ、ドアが抵抗なく開いていく。
「だめえええ!」というヨセフの断末魔のごとき叫びが、羞恥心によるものだと知ったのは、手遅れ甚だしくも、既にその光景を眼球に焼き付けたあとだった。
ぬいぐるみ。
――ぬいぐるみだった。
冷静沈着で子どもらしからぬ子ども。そのヨセフが妙に慌てる原因の先には、ぬいぐるみがあった。地球では見たこともないような異形の動物たち(されど可愛い)が数をこなして山を作っている。もう本当に大きな山である。僕なんかがダイビングすれば一生ぬいぐるみに埋もれたまま出て来れなくなるだろう程の巨大な山。それを、ぬいぐるみが成していたのだ。
部屋は1Rで寝室やダイニングへの扉は見当たらない。つまり全てがこの一部屋に収まっているというわけだが、その一部屋がデカい。デカすぎる。色々と説明のしがいがある部屋ではあるけれど、容易に一言でイメージを掴んでもらうのであれば、体育館だ。この小学生は、小さな身体してこんな馬鹿みたいに広い部屋に住んでいるのだ。といっても、その馬鹿みたいに広い面積の大半をぬいぐるみの山が占めているのだから、これが贅沢なのかは言いかねてしまう。
「……みたな」
筋肉まで凍り付いて収縮してしまいそうなほど、怨念じみた暗い声が背後から聞こえる。振り向くと、顔の表情すら分からないほど俯いたヨセフが、両の拳をプルプルと震わせながら立っていた。
「駄目って言ったの、聞こえなかったの?」
「いや、聞こえたけどさ。ついつい好奇心が」
「ふうん。それで? 見てどうだった? 面白い? 笑えるかな」
本当に見てもらいたくなかったらしい。だったら部屋まで連れてこなければいいのに、と思うが非があるとすれば僕なので、とりあえず謝っておく。
「ごめん。でも、別におかしいとは思わなかったよ」
ヨセフも子どもなのだから、どちらかというなら、これも正しいかもしれない。高い地位に立つと、やっぱり理想の部屋に住みたいだろうし、ヘンゼルとグレーテルがお菓子の家に目を輝かせたのと同様、ヨセフだってぬいぐるみに囲まれて暮らしてみたいと願っても何ら不思議ではないのだ。どちらにしても、モダンインテリアが周囲を埋め尽くし、きっちり整理整頓がなされている現代社会人のマンション風になっているよりは、幾分かマシだ。何せ、そんな家宅内でコーヒー片手に高級ソファに身をゆだねる傲慢な小学生など可愛げの欠片もないからだ。
「嘘をついてる。だって地球にはこんな部屋の前例がないもの。少なからず私を珍奇な目で見てる」
もう恥ずかしいという線を越えて、開き直っている態度であった。
いや、頬を桃色に染めていたり、唇を小さく噛み締めていたりする所を見ると、開き直ったようにみせかけて恥ずかしさを隠しているという対応なのだろうか。
「いや、驚いたけどさ。子どもらしい部屋だとは思うよ」
僕は、素直にそう言った。
言ったけれど、それが素直であるだけに、予知のしようがなかった。
「今、君なんて言った?」
ヨセフの顔が、また俯く。ギリッと歯が軋む音まで聞こえてくる。
「え? いや、なにが?」
僕が何を言ったというのか。
考えていると、その答えが出る前に、ヨセフは怒鳴る。
「私は子どもじゃない!」
その瞬間、ヨセフはその小さな体躯を最大限に躍動させて、僕に飛びついてきた。何のひねりも策もなく、ただ怒りに身を任せて――僕の顔面に、ひざを向かわせる。
しかし昔の僕であったら、いくら小学生であろうと鼻血の噴出ぐらい伴ったであろうそのキレのある膝蹴りを、僕はストレッチでもするような手軽さで、かわしてしまう。僕に当たるはずだった膝は、彼女ごと背面の壁へ直撃する。そして、くるりと身を翻した僕は、壁と向き合っている彼女へ手を伸ばす。
――無意識に。手を伸ばす。
ティガとラオスの死に様が脳裏に浮かぶ。この身体は、またもや無意識に、誰かを襲おうとしているのか。一国を滅ぼせる力をもった、この身体は――。
「……っく!」
僕は、彼女へ伸びる手を無理やり止めた。無意識に誰かを襲おうとしているなら、その身体の持ち主である僕が意識してそれを止めれば良いだけのことだ。
まあ、時間の経過で次第に定着していくそうだから、先程よりは自分の身体として機能するようになってきているということであろう。擦れて痛かった新品の靴が、履きなれることで自分の足の形に合うように、この身体もしだいに僕の物へとなっていくのだ。
「ハルト、君さ、何歳?」
僕に背中を見せたまま、先程の暗い声で言うヨセフ。
「え? ええと、この身体が何歳のものなのかは知らないけど、僕自身の年齢は十七歳だ」
「そうか、そうだよね」
ヨセフはそう言ってから、クルッとこちらに向き直り、ゾンビのような足取りで近づいてくる。そして、俯いた頭が僕の鳩尾にぶつかりそうなほど距離が詰められて、そこでヨセフは顔を勢いよく僕に向けた。その顔には、涙ぐんだ目が映えていた。
「私は二十歳なんだ! なのに、いつも若く見られてしまう。私はそんなに若く見えるか?」
「若いというより、幼いぞ」
僕が言うと、ヨセフは雷にでも打たれたような顔をして、その場にへたり込んだ。
いや、しかし二十歳とは驚いたものだ。どうみても小学生にしか見えない。しわを知らないマシュマロのような肌だとか、僕の片手で包み込んでしまえる小さな手だとか、そういうものからして完全なる小学生だった。
冷静沈着で、研究所でもトップ(?)に位置するという点は、まあ二十歳だと言われたほうが納得がいくのだが、やはり第一印象というのは見た目からくるのであるし、僕のなかでの彼女のプロフィールは、小学生というフレーズを残したままだ。
「でも、二十歳であるとしたら、何でまたぬいぐるみを……」
「好きだから」
そこは、即答であった。
お爺ちゃんが骨董品を収集するように、お母さんがダイエット商品を買いあさるように、その他諸々、切手収集や外貨収集、コレクション収集に没頭する者たちがいるように、ヨセフもまたぬいぐるみを集めているというわけだ。そこに、有難くもない偶然にも、彼女の外観が少女であるという事実により、まるで彼女が小学生であるという客観的な思想を促進してしまうような結果になってしまっているが、彼女はがたとえ美脚で色気を放ち続ける魅惑のお姉さんだったとしても、変わらずぬいぐるみ収集に興じていただろうということである。
「悪かった、ごめん」
「いいよ。もっとカルシウムを摂ることにする」
「言っておくけど、カルシウムは身長を伸ばす栄養素のひとつでしかないぞ。身長を伸ばすには、たんぱく質とかも摂らないといけないし、何より大事なのが睡眠だ。身体は寝ているときに成長するからな」
「何で、はなっから気を削ぐようなことを言うのさ」
「僕だって、前の世界で苦労したんだぜ? ニキビだらけの冴えない顔で、運動音痴で勉強もそこそこ。だからせめて身長ぐらいはって、一生懸命に背を伸ばしたんだからな――それでも、百七十センチが限界だったけれど」
「ふうん、でも今は……けっこう」
今?
ああ、そういえば、これは僕の身体じゃなかったんだな。
「そう言われてみれば、視点が高くなった気がするな」
「鏡見てみる?」
ヨセフは、そう言って僕の顔をじろじろと見回す。何か意味ありげな笑みまで浮かべているから、少し怖い。まさか、妖怪みたいな顔になっているんじゃないだろうな。そうしたら、研究所で白衣の人たちが恐れるようにして逃げ去ったというのもうなずける。
え? まてよ? 本当に手の施しようのない顔だったらどうするんだ。ニキビはなくなってたけれど、それじゃあ意味がない。
「ああ、見せてくれ。心の準備はできている」
内心、震えながらも、ヨセフに鏡を要求した。すると、ヨセフは丈の短いジャケットのうちポケットから、小さな丸鏡を取り出して、僕に手渡す。
「な、なんだよこれ」
すぐさま自らの顔を鏡に映してみて、思わずそんな声がでる。
イケメンじゃねえか。
どこぞの貴公子かと自分で突っ込みたくなるぐらいの、非の付けようがないイケメン。男が男に惚れる(というか自分だけど)という感覚、これまでの生涯で何ら理解しえなかったナルシストという存在を、納得してしまう瞬間。
「イケメンじゃん」
思わず、口に出してしまった。
「イエメン?」
「だれが共和国だ! イケメンな!?」
「イケメン? 何なのそれ」
「イケメンってのは……だな、うん」
言葉に詰まる。自分で自分をカッコイイと称したことがバレていない今、わざわざそれを公開する必要もない。別に、本来の自分の身体ではないわけであるし、他人の容姿を褒める形でなら問題ないような気もするが、やはり今からは自分の身体になるわけだし、できればナルシストなやつだとは思われたくない。
「……イケメンはな、『納得』っていう意味だ。だから、僕は今、自分の顔をみて納得したんだよ、ああこういう感じかって」
「なるほど、イケメン、イケメン」
「いきなり活用やがった!?」
「まあね」
「さすが、研究所のリーダー。応用力がある」
「嬉しいけど、リーダーは私じゃないよ」
「そうなのか?」
「うん。また今度、会わせてあげるよ」
「おう」
そこで、ヨセフは一度、呼吸を整えてから続けた。
「それじゃあ、私はこれから用事があるから、君はここで待っているように!」
「え? 用事?」
「うん、カーネル様に報告に行くんだ――君をこっちに転送する実験の成功をね」
「ああ、なるほど」
「たぶん、あとで王様に会ってもらうことになるから、ちゃんとここで待ってるようにね。じっとしててよ」
釘を刺すように、僕を指差すヨセフ。
というか、『ここ』で待つってことは、部屋の中には入れてくれないんだな。まあ、僕の見解からすれば廊下ですら最高級のおもてなしを受けている気分だし、いいか。
「あそこに、椅子があるから、座ってて」
ヨセフは僕に向けていた指を逸らして、廊下の隅を指す。そこには、確かに貴族が紅茶を飲む時に使いそうな、ゴージャス極まりない円卓がある。そこには二つ同じデザインの椅子もあり、それに座っておけというのだろう。
「わかった。けど、見知らぬ土地で孤独を味わうなんて程々にしたいから、できるだけ早く帰ってきてくれよ」
僕はたいへん我侭なお願いをしてみたが、ヨセフは表情を崩さずにうなずいた。そして、きびすを返して長い廊下をツカツカと歩いていく。残された僕は、素直に言うことを聞くことにして、椅子に座る。この椅子の脚ときたら、植物のツタのように歪曲しているのだが、総じて見るとそれが上手く芸術になっている。座り心地のほうも最高で、果たしてこれば実用的に座るものなのだろうかと疑問になる。美術館とかに展示されていそうな雰囲気があるのだが、やはりここでも『世界の規則』の違いが出てくるのだろう。
そうして、この世界のことを思考しながら、僕はぼんやりと過ごした。