未知の溶解兵器と、旧正規兵との予期せぬ衝突
※本作には残酷な描写や虫の生態に関する描写が含まれます。
ナメクジの肉塊を持ち帰ってから、数日が経過した。
極上の水分とアミノ酸によって、コロニーは最悪の全滅危機を脱した。だが、眼前の光景は、思い描いていた軍拡とは程遠い。
育児室の中心。『生体工場』と化した女王の足元に転がっている新たな卵は、たったの十二個だ。
ナメクジはその質量の八割以上が水分。純粋なタンパク質への変換効率を計算すれば、十二個の卵を捻り出しただけでも、この限界の生産システムは十分な出力結果を出したと言える。
生き残っていた十数匹の幼虫たちのうち、半分は無事に糸を吐き、白いサナギへと移行した。だが、残りの半分は未成熟のままだ。
群れの胃袋である幼虫がすべてサナギになれば、俺たちは固形の肉を消化できずに終わる。新しい卵が孵化する数週間後まで、この未成熟な幼虫たちには限界まで消化管として稼働してもらわなければならない。
絶望的なリソースの枯渇状態。備蓄カロリーは常にゼロを行き来し、一日の収支エラーが即座に群れの死に直結する。
視線を巡らせ、女王や幼虫の世話をしている十四匹の働きアリたちを観察する。
彼女たちの動きは力強さを取り戻した。だが、栄養失調のまま羽化してしまった彼女たちの外殻はどこまでも薄く、ひどく歪な形をしている。
昆虫は成虫になれば脱皮しない。いくら体力を回復しようとも、刃こぼれした大顎が物理的に修復されることはない。
このままではジリ貧だ。サナギたちが羽化するまでの間に、より効率的で安全なタンパク質(建材)を確保し、生産ラインを回さなければならない。
女王と幼虫の防衛に限界の近い六匹を残し、比較的マシな動きができる八匹の働きアリを引き連れて、再び暗く湿った夜の森の探索へと這い出した。
こいつらは夜間は視覚を完全に喪失する夜盲症だが、前回の出撃で確立した通り、俺の透明な器官と高濃度のナビゲートフェロモンによる絶対誘導があれば、夜の迷宮でもシステム的に完璧な行軍が可能だ。
狙うのは、前と同じく抵抗できない死肉や残飯だ。
だが、その日の夜の森は、どこか様子がおかしかった。
いつもなら頭上や地中から絶え間なく響く捕食者たちの微振動が、不自然なほど完全に沈黙している。
触角が、これまで嗅いだことのない、金属が焼け焦げたような異質な化学物質の匂いを捉えた。
咄嗟に働きアリたちに絶対待機のコマンドを出し、巨大なシダの葉の陰に身を潜める。
直後。前方の腐葉土が、音もなく隆起した。
地中から姿を現したのは、前世の地球上のどの昆虫図鑑にも存在しない、完全な理外の怪物だった。
全長は俺の数十倍。ムカデのような多足のシルエットだが、その外殻は玉虫色に鈍く発光し、硬質なガラスのような透明感を帯びている。
怪物の足元には、虫の次元では獰猛な強者である巨大なオオカマキリが転がっていた。
いや、違う。カマキリは生きたまま、怪物の口吻から分泌される未知の溶解液によって、甲殻ごとドロドロのゼリー状に溶かされていたのだ。
抵抗する間もなく、ただの液体の餌へと還元されていく強者。
生態系の基本OSを完全に無視した『チートツール』そのものだ。
俺の強化複眼が、圧倒的な暴力のプロセスを網膜に焼き付けてくる。強固なはずのカマキリのキチン質外殻が、泡を立ててわずか数秒で液状に崩壊していく。
見つかれば俺たちも一秒後にはただの液体の染みに変わる。
だが、恐怖でフリーズする人間の自我を、システム管理者としての冷徹な理性が強引に上書きした。
(凄まじいな。あの強固なキチン質を瞬時に液化させる化学反応のプロセス……。いつかあいつの死骸から遺伝子を読み込み、自軍の武装としてあの完璧な溶解兵器を実装してやる)
背後に控える働きアリたちが、未知の脅威に対して大顎腺から強烈な警報フェロモンを放出し始める。
彼女たちのハードウェアは「全力で逃亡する」か「群れを守るために特攻する」かの二択の行動シーケンスに入ろうとしていた。
動いた瞬間にあのバケモノに捕捉されて全滅する。
正常に稼働しようとする働きアリたちのシグナルを、管理者権限での強烈な絶対待機のコマンドで強引に上書きし、その場にただの土塊として完全擬態させた。
あの理外の怪物の気配と、大気を歪ませていた高熱が完全に消え去るまで、俺たちは擬態し続けた。
ただ震えて帰るわけにはいかない。巣では幼虫と壊れた部下たちがタンパク質を待ちわびている。
怪物が通り過ぎた後の惨状へと慎重に這い寄った。
無残なゼリー状の液体となって地面に染み込んだオオカマキリ。
怪物がすすり残した部位も、未知の溶解液に侵されてドロドロに溶け、危険な化学反応の匂いを放っている箇所がほとんどだ。
リスクを計算している猶予はない。指示を受けた働きアリたちは、汚染を免れたわずかなカマキリの腹部の破片や無事な内臓の肉片だけを慎重に選別し、残飯を巨大な大顎でしっかりと咥え上げる。
部下たちが限界までリソースを抱え込んだのを確認し、帰還のフェロモンを放った。
だが、その帰路の途中で不測のバグは起こった。
腐葉土の山を越えようとした瞬間、風向きが変わる。
触角が、前方から漂ってくる化学物質の痕跡を捉えた。このスラムの匂いではない。脳髄を直接焼き焦がすような、あの前のコロニーの匂いだ。
警告を出すよりも早く、尾根の向こう側から一つの影が姿を現す。
俺を見捨てたあの巨大システムの正規兵。基礎サイズが通常兵とは根本から違う、俺と同じ巨体だ。
異常な湿気と暗闇でフェロモンの道を完全に見失い、パニックに陥って無軌道に暴走するエラー個体。
奴は即座に凶悪な大顎を開き、肉を抱えて鈍重に動く俺の部下たちへ襲いかかってきた。
逃げる選択肢はない。部下たちを庇うように、正面から飛び出す。
相手はパニック状態とはいえ、本能に従って最短距離にある俺の頭部を正確に狙ってくる。
極太の腰では、腹部を曲げて前方にギ酸を撃つ機動は物理的に不可能だ。奴の攻撃ベクトルは突進一択しかない。
軌道は完全に読める。
迫り来る凶悪な大顎。その間近に迫った敵の胸部から、シューッ、シューッという、『フイゴ』で空気を吸い込むような異音が聞こえた。気管呼吸の虫からは絶対に鳴るはずのない音。
だが、今はそのバグの解析をしている余裕はない。
衝突のコンマ一秒前、六本の脚を弾いて自らの頭部と胸部を右へと逸らした。
ギシィッ。
完全に躱しきることはできなかった。閉じられた敵の左右の大顎の間に、逃げ遅れた俺の左の胸部がガッチリと挟み込まれる。
分厚い装甲がミシミシと悲鳴を上げ、神経を焼くような激痛と共に致命的な亀裂が走った。
浅くない。完全にロックされた。密着したこの状態で下方向に首を曲げ、敵に噛みつき返すことは物理的に不可能だ。
背後にいた最弱の働きアリの一匹が、俺の危機を察知し、戦力差を無視した防衛本能に従って敵の右前脚へと決死の噛み付きを行った。
パニック状態の敵のプログラムが、自らに攻撃を加えている新たなバグの排除を優先する。
敵が俺の左胸から大顎を抜き、足元の部下を真っ二つに噛み砕こうと頭部の向きを斜め下へと変えた。
部下が命と引き換えに作り出したコンマ数秒の処理ラグ。
絶対に守られるべき無防備な首の関節が、俺の大顎の真正面に完全に晒された。
自らの大顎を容赦なく叩き込み、その強固な連結を物理的に断ち切る。
硬質な破砕音。
大型種のアリの首が容易くへし折られ、体液を撒き散らして活動を停止した。
胸部から走る激痛が、これ以上の戦闘は致命傷に繋がるとシステムアラートを鳴らしている。
絶命した前コロニー兵の重い頭部と胸部を大顎で咥え上げ、残った部下たちに全速離脱のフェロモンを浴びせて暗闇へと逃走した。
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