エラー個体の覚醒と、底辺コロニーの再起動
※本作には残酷な描写や虫の生態に関する描写が含まれます。
音の壁を破る速度で、丸太よりも太い大蛇の頭部が、黒褐色の行軍の列の中央に突き刺さった。
数十匹が押し潰され、猛毒の緑色の液がシダ植物を溶かしていく。
だが、空気を支配するフェロモンの命令はただ一つだ。
『被害区画を放棄し、行軍を続行せよ』
圧倒的な暴力すら単なる損耗率として処理する冷徹なシステムの中、毒液を浴びて脚を溶かされた『あいつ』が列から転げ落ちた。
かつて一度だけ、仲間の死に怯えるというシステムのエラー(感情)を見せた働きアリだ。
システムの判断は無慈悲だ。歩けない個体は、不要なゴミである。
無表情で踏み越えていく同族たち。このままでは確実に死ぬ。
フェロモンの絶対命令と、かつて持っていた人間としての自我。
脳髄でショートを起こしながら、俺は支配を強引に引きちぎり、列を逆走してあいつを庇った。
ピタリ、と。
周囲を行軍していた数百匹のアリの動きが完全に停止した。全員の触角が、一斉に俺たちを向く。
『群れの生存に寄与しない異常行動を検知。当該個体を排除・解体し、再利用せよ』
殺意すらない、純粋なシステムによる処理の宣告。
四方八方から、分厚い装甲に身を包んだ無数の巨大なアリたち(執行者)が押し寄せる。
生きたまま身体を解体される激痛が、俺の脳髄を白く焼き焦がしていた。
「ガァァァァァッ……!!」
当然、虫に声帯などない。
それは苦痛に狂った俺の大顎が激しく擦れ合い、空気を震わせて撒き散らした、不快な摩擦音の翻訳だ。
言語にならない絶叫と共に、右の中脚と後脚が、圧倒的な暴力によって根元から引きちぎられる。
あいつを庇うために伸ばした俺の前脚も、容易く噛み砕かれた。
脚を引きちぎった一匹が、無表情のまま凶悪な大顎を俺の胸部へと突き立ててくる。
その大顎には、斜めに深くえぐれた古い傷跡があった。
傷のある執行者は、俺の痛みに一切の感情を向けない。
ただ命令に従い、俺たちというただの肉塊を機械のように処理しているだけだ。
理不尽だ。
薄れゆく意識の中で、俺の脳裏に前世の記憶が泥のようにフラッシュバックする。
かつて人間だった頃。昆虫の群知能を数理モデルやプログラムで解析する情報生物学の研究者だった俺は、社会という巨大なシステムに無惨にすり潰されて死んだ。
嘘をつかない、裏切らない、合理的な虫の群れに憧れて転生したというのに。
いざ自分がその完璧なシステムの一番下の歯車になってみれば、少しのエラーも許されない無間地獄だった。
俺はどこに行ってもシステムに組み込まれず、ただ理不尽に殺されるだけの欠陥品なのか。
「……ふざけるな」
声にならない絶望の底で、俺は怒りに震える大顎をカチカチと小刻みに打ち鳴らす。
首の骨が完全に砕け、肉片へと変わっていく中で、魂からドス黒い呪詛が溢れ出した。
首をへし折った斜め傷の大顎と、その奥にある冷徹な複眼を、死にゆく俺の網膜に強烈に焼き付ける。
誰のルールにも従わない。誰のシステムにも組み込まれない。
もし万が一、次があるなら。
「俺が……お前らをすべて喰らい尽くし、世界を支配する王になってやる……ッ!」
頭部だけになってもなお、俺は虚空に向かって鋭く大顎を打ち鳴らす。
叶うはずもない狂気と憎悪の破砕音を最期に、俺の二度目の生は無惨に暗闇へと落ちた。
* * *
全身を噛み砕かれる幻肢痛に弾かれたように、俺は泥のような粘膜を破り、無我夢中で身体を跳ね起こした。
また、殺される。
極度のパニックと焦燥感。
激しく息をつく俺の網膜には、首を断ち切る直前に見たあの斜めにえぐれた傷のある大顎が、悪夢のように焼き付いて離れない。
俺は背後を警戒し、見えない傷の執行者から逃れるように壁際へと後ずさった。
だが、俺の身体をすり潰そうとする黒褐色の波は、どこにも存在しなかった。
真っ先に俺の触角を殴りつけたのは、むせ返るような死臭と、酸っぱい腐敗臭。
俺が解体されたあの無機質な土の匂いとは違う。ひどく淀んだ掃き溜めのような場所だ。
生きているのか。
動悸を抑え込みながら、自分の身体を確認する。
俺の視界に入るのは、俺を理不尽に殺しにきたあの黒褐色の重装甲の兵士と全く同じ、無骨で巨大な前脚だった。
光の届かない土の中の暗闇だというのに、足元の土の粒の質感から微細な空気の揺らぎまでが、ノイズのないクリアな映像として俺の脳髄に焼き付けられてくる。
俺の顔面には虫の複眼とは別に、前世の象徴とも言える透明な『眼鏡』のような奇妙な器官が張り付いていた。
この異常な解像度を誇る俺の視界が、薄暗い穴の奥の惨状を映し出す。
干からびた土の壁に背を預けるようにして、一匹の巨大な女王アリが横たわっていた。
外殻はツヤを失い、あちこちから体液が滲み出ている。文字通りの餓死寸前だ。
そして、その周囲を這い回る数匹の働きアリ。
俺の半分のサイズもなく、外殻は色素が抜け落ちたように白茶けており、歩くたびに脚が震えている。
まさに最底辺のスラムだった。
彼女たちは巨大な異形である俺を見ても、警戒するどころか無表情で通り過ぎていく。
匂いで同族だと判断している。
女王の触角からは、餌を、群れを維持しろという生存本能の垂れ流しのような微弱なフェロモンが漂っていた。
それを嗅いだ瞬間、俺の脳裏に、前のコロニーで目覚めた直後の記憶が蘇る。
人間の理性をバイパスし、運動野を直接ハッキングしていく絶対的な命令。
個を殺し、群れを一つの生き物として稼働させる『超個体』の恐ろしさ。
だが、目の前の女王から漂うシグナルは、ひどくノイズだらけで不完全だった。
もはや、俺の自我を縛る絶対的な支配の力はどこにもない。
ここはどこだ。
状況を把握するため、俺は巣穴の奥から微かに外気が流れ込んでくる入り口の隙間へと這い寄り、触角を伸ばして外の匂いをスキャンした。
その瞬間、俺の脳髄を強烈な絶望と焦燥感が焼き焦がした。
入り口の隙間から流れ込んでくるのは、むせ返るようなシダ植物の胞子と、強烈な酸の匂い。
そして、地中から絶え間なく伝わってくる何万という巨大な異形たちの微振動。
外気に触れた瞬間、アリとして発達した感覚器官が、異常な情報量に悲鳴を上げた。
空気中に滞留した何千種類もの有機化合物の匂い、腐敗した体液、植物の毒素。
それらが複雑な化学的ノイズとなって、人間の自我が残る脳髄を暴力的に殴りつけてくる。
未対応のハードウェアに致死量のデータを強制受信させられたような、強烈なオーバーフローだ。
間違いない。ここは、俺を殺したあの巨大なコロニーが支配する、同じ狂った森の生態系の中だ。
こんな限界寸前のひ弱な連中が、あの正規兵たちに見つかれば数秒で全滅する。そうなれば、俺もまた殺される。
理不尽な死の恐怖が、俺の身体をガタガタと震わせる。
パニックは死に直結する。落ち着け。感情を殺し、客観的な現状だけを見ろ。
空間に備蓄の匂いは皆無。女王は餓死寸前で、戦力となる働きアリも栄養失調の数匹のみ。
生き残るためには、人間としての脆い感性を今この瞬間に切り捨てるしかない。
俺は震える自我を極寒の理性で強引に押さえ込み、思考を強制起動した。
まずは見つかるまでの時間を稼ぐ。入り口を塞ぎ、ただのゴミ溜めに偽装するんだ。
俺は傷の痛みも構わず、体内で生成される化学物質の感覚を探った。
人間の意思で虫の器官をマニュアル操作する、ひどく歪な感覚。
俺は強烈な待機フェロモンを生成し、淀んだ空間へと強引に叩きつけた。
ピタリ、とふらついていた働きアリたちが一斉に動きを止め、俺の方を向いた。
手伝え。入り口を塞ぐぞ。
俺は言葉ではなく、ひどくノイズの混じった不格好なフェロモンでタスクを割り振る。
巨大な大顎で巣の隅に落ちていた強烈な悪臭を放つ腐葉土の塊や、他種の虫の死骸を拾い上げ、入り口の穴へと向かった。
外の捕食者からこの脆弱な巣を隠すため、俺は入り口の隙間に泥と悪臭を塗りたくり、ただのゴミ溜めに見えるように徹底的な偽装工作を施していく。
俺のぎこちない指示に従う働きアリたちの動きも鈍いが、今はこれで十分だ。
作業を終え、外気との繋がりを完全に断った薄暗い巣穴の中。
絶対的な安全圏を強引に作り出し、俺はようやく荒い呼吸を落ち着かせることができた。
情報生物学者としての俺の視点が、ここで初めて、眼前に広がる光景の決定的な矛盾を弾き出した。
俺は自分の分厚い黒褐色の装甲と、背後に控えるひ弱な働きアリたちを交互に見比べる。
働きアリは皆、色素の抜けた脆弱な初期設定の姿をしている。
生物学的な熱力学の法則に従えば、この餓死寸前の女王に、俺のような巨大で強固な兵隊をゼロから構築する余力などあるはずがない。
出力結果が、入力されたカロリーと明らかに釣り合っていない。
俺が視線を巡らせると、女王の足元に転がる残飯の山に目がいった。
俺の異常な視界は、そこに緑色の猛毒で溶けた、見覚えのある分厚い黒褐色の装甲の一部を捉えた。
俺が殺された時の、前の身体の残骸だ。
この飢えたひ弱なアリたちが、大蛇の毒で汚染された俺の肉団子を拾い集め、幼虫に消化させ、女王に食わせて、俺を産み落とした。
同時に、一つの残酷な事実が導き出される。
あの時、猛毒に汚染された俺の肉を無理やり処理(消化)した代償として、他の幼虫たちは壊滅し、女王の脳神経とフェロモン生成器官も不可逆的な壊死を起こしたのだ。
このコロニーを崩壊寸前のスラムへと追いやった原因は、他でもない『俺の肉』だった。
だが、肉はただのタンパク質であり、カロリーでしかない。
ただの肉を食って、元の肉の持ち主と全く同じ骨格構造、同じ分厚い装甲のフォルムで出力されるなど、単なる突然変異や栄養状態の良し悪しでは絶対に説明がつかない。
俺は暗闇の中、得体の知れない自分の分厚い装甲を見下ろしながら、ただ静かに息を呑む。
ただのタンパク質を食って、元の持ち主の骨格までコピーされる。そんな物理法則を無視したシステムが、自然界に存在するはずがない。
この底辺の掃き溜めは、いったい何のバグを隠し持っているんだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作が初めての投稿となります。至らぬ点もあるかと思いますが、完結に向けたシステム運用(執筆)に努めてまいります。
今回のプロセスでは、エラー個体の覚醒とコロニーの再起動を完了しました。次回は、生存のための最初のリソース確保に向けたシークエンスへ移行します。
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