月光陽光
夜は、いつも冷たかった。
空には欠けることのない月が浮かび、世界をあまねく照らしている。だがその光に、温もりはなかった。人々は火を囲み、獣は互いの体に身を寄せ合い、ただ夜が過ぎ去るのを待つほかない。月はそんな彼らを、分け隔てなく見下ろしていた。けれど、その月を統べる神の名を口にする者は、もういなかった。いつからか名は忘れられ、後にはただ「月」という言葉だけが残されていた。
昼になれば、世界は違う顔を見せる。大地は緩み、草は伸び、全ての命が動き出す。誰もがそれを、当たり前のこととして受け入れていた。
ある時、光が岩の内に退いた。それがいつのことだったか、正確に語り継ぐ者はいない。ただ、その日を境に昼と夜の区別は失われた。太陽は昇らなくなり、月もまた、その意味を失った。
世界は冷えた。
地は固く凍り、風は止むことなく吹き荒れ、声を発するものが次第に減っていった。夜のものが増えたのか、昼のものが失われたのか——それを見極められる者は、誰一人としていなかった。
天安之河原に、名を持つ者も名を持たぬ者も集まり、揃って空を見上げた。そこにあるべきはずのものが、なかった。あるものが静かに問うた。
「なぜ月は世を照らさぬのか」
誰も答えなかった。月を統べるその方の名を、もう誰も思い出せなかったからである。
岩戸は固く閉ざされていた。その内に何があるのか。誰がいるのか。確かめた者は、ただの一人もいない。
神々は考え、音を鳴らし、声を上げ、笑い。そして踊った。それが祈りであったのか、それとも単なる騒ぎであったのか、今となっては知る術はない。
やがて、岩がわずかに動いた。隙間から光が漏れ、世界の冷えが一段、和らいだ。
岩は開かれると、ひとつの影が外へ滑り出た。その姿を正しく見届けた者はいない。近づけば眩しく、離れれば影が濃く、輪郭を結ばなかったからだ。ある者はこう囁いた。
「影が、ふたつ重なって見えた」
別の者は、首を振ってそれを否定した。
「いや、ひとつであった」
ただ、確かなことがひとつだけあった。その足もとだけは、地が凍りついていなかったのだ。
神々はその存在を迎え、頭を垂れた。そして、こう呼んだ。
「大御神が戻られた」
それ以上の名を、誰も口にしなかったし、改めて問う者も、答える者もいなかった。
世界は再び動き始めた。昼は戻り、夜は夜として残った。だが、その夜は以前よりも、わずかに冷たくなっていた。月は変わらず空にあり、照らし、見下ろし、満ちては欠けていく。ただ、その巡りを告げる者は、二度と現れなかった。月を統べる神の名は神々の記憶からも消え、ただ「月」という言葉だけが、後に残された。
この後、嵐の神は地上に背を向け、根の国へと向かったと伝えられている。なぜそうしたのか、その理由は語り継がれていない。
ただ、人は今も、寒い夜には火を求める。かつて昼を照らしていた太陽が、誰の光であったのかを知らぬままに。




