第97話・芽姫の送受信
グラードライン辺境伯領――城館の談話室は、石造りの壁に囲まれているのに不思議と暖かかった。
帝国との国境を睨む土地。
剣と槍、弓と盾、そして祈りと誓い――それらが日常に溶け込む土地。
なのに今、この小さな空間だけは戦争の匂いが遠い。
時刻は夜。夕餉を終えた、一時の平和な時間。
中心にいるのは、子猫サイズの小さなゴーレム――クロエ。
アウローラの膝の上で、こっくり、こっくり。まぶたを落としては、また持ち上げる。その仕草があまりに可愛らしくて、見ているだけで頬がゆるむ。
そして当然のように、その周りに人が集まる。
「クロエちゃん……っ! 今日もおつかれさまだねぇ……ほら、ここ、耳のところ。ここ撫でると気持ちよさそうにするの……っ!」
「セシリア、あなたは本当に……。その情熱を内政に回したら、辺境伯領がもうひとつ増えるわよ」
「回してますっ! 回した上で、優先すべきはクロエちゃんですっ!」
セシリア――辺境伯の娘は、両手でクロエを包むように撫で、頬を蕩けさせている。母である辺境伯夫人も、孫を可愛がるような目で微笑みながら、クロエの頭をそっと撫でた。
「ふふ……この子、触り心地が不思議ね。いつもふわふわしている」
「頬っぺたなんて、ぷにぷにですよ母様! ああ、もう本当に……可愛い」
辺境伯夫人とその娘セシリアの、とても穏やかで緩んだ顔。
国境を護る一族だが、この小さなゴーレムを前にした時は愛でるだけの女性に変わる。
クロエは「芽姫」と呼ばれ、可愛がられている。
だが可愛いだけの存在ではない事は、周知の事実だ。
試運転――という名の実務投入は、もはや「試し」ではなくなっていた。
巡回の前に芽姫に聞く。誰が言い出したのか、今では当然の作法。
芽姫が示した場所には必ず何かがいる。野盗。魔物。あるいは危険な単独個体。
数も種類も、武装も、潜伏の仕方も――外れない。
辺境伯領の兵が恐れなくなった理由は、勇敢になったからではない。
恐れる必要がなくなったからだ。
敵の数と位置が分かっているなら、戦場はもはや偶然ではなく計画になる。罠も奇襲も、計画に落とし込めばただの段取り。危険な筈の討伐が、掃除じみた業務に変わっている。
(……恐ろしいほどの戦力。しかも、こんな小さな姿で)
アウローラは膝の上の重みを感じながら、心の中で呟く。
クロエは「戦う」ための存在ではない。少なくとも、表向きは。
だが、戦場で最も価値があるのは剣ではなく視界――つまり情報だ。
敵の目を塞ぎ、自分だけ見通す。見える者が勝つ。
クロエはそれを、領地規模でやってのけている。
そんなクロエは――今ではこの領地のマスコット。
今夜も同じだ。
夕食を終え、寝る前のわずかな談話の時間。
セシリアが離れない。辺境伯夫人も笑っている。
女だけの空間。護衛として同席している者がいるが、それは影のように静かだ。
「……セシリア嬢。心配しなくても、明日また会える。クロエは居なくならない」
「でも……でも……! クロエちゃん、今日もたくさん働いたから……ちゃんと温かくして……! それに、殿下の傍を離れちゃ駄目だからね? それからそれから……!」
それから、が尽きない。
クロエはうとうとしながら、セシリアの声に反応するように、小さく首を傾ける。声はない。けれど、仕草が返事になっている。
アウローラは、その光景を穏やかに見つめながら、同時に別の思考をしていた。
窓の外。
月光の下に伸びる国境線。
そしてその向こう――帝国。
(クロエの探査は、今のところ国境付近に限定している。十回以上探らせたけど……帝国側の動きは、まだ見えない)
見えない。
それは「平穏」の証。
同時に「沈黙」の証。
沈黙は恐ろしい。帝都の奥底で、何が準備されているか解らない。
帝国の準備は危険だ。彼らは武器を磨いて発展してきた。
銃。火薬。魔法に代わる、新たな兵器。
矛が生まれれば盾が生まれる。盾が生まれれば矛が磨かれる。
技術とは、戦争の言い換えでもある。
クロエには帝国兵装の絵姿も見せた。
王国兵との違い。甲冑の形。銃の構造。旗印の色。
クロエの目が「それ」と判別できるよう、知識を与えた。
だから「見えない」は、本当に「いない」か、あるいは「見せない」かのどちらかだ。
(今こうしている時も……帝都で何かが動いている可能性は、ある)
アウローラは、唇の裏を噛む。
昼間は笑える。談話もできる。クロエを撫でて癒されもする。
だが夜になると、王女としての思考が戻ってくる。
どれだけ可愛いものを抱えていても、帝国は消えない。
(クロエのレベルは八十五。有羽は言った。クロエは「蛇の分身と戦うことも想定されている」と)
つまり、帝国の内部にその規模の存在がいる可能性。
剣聖ハガネが七十を超えてなお「人の到達点」と言われる世界。
そこから逸脱した八十台。
(レベル五十九の私ですら、戦況をひっくり返せる。なら八十台は……人の理を軽く踏み潰す)
だから、選択肢は二つに絞られる。
攻めるか。
待つか。
(クロエに頼めば、帝都まで探査できる。本人が地図の帝都をぺしぺし叩いた。できる。確実にできる)
攻める――クロエの探査を帝都まで伸ばす。
リターンは大きい。帝国の動き、兵器の準備、軍の配置、異常存在の所在。少しでも掴めれば、王国の防衛は一段上がる。
だがリスクも大きい。探査は目だ。目は向ければ、向け返される。
帝国が迎撃の術を持っているなら――クロエの視線に気づくなら――その瞬間、こちらの切り札を晒すことになる。
銃を作った強国だ。新たな技術が開発されている可能性はある。
クロエの探査ですら察知するような技術が。
絶対に無いとは言い切れない。三年前に夫を亡くしたあの時から、アウローラは戦争において楽観的な考えを辞めている。
(待ちの一手なら、こちらの強みが生きる。補給線。物資。港。魔国との交易。長期戦では帝国が苦しくなる。鉄の消耗だって、帝国は桁違い。矛ばかり増やせば、いつか骨が折れる)
待つ――国境線の防御を固め続ける。
王国の得意な戦い方だ。補給線。港。交易。物資。兵糧攻めに強い。
長期戦なら、帝国は鉄と火薬で消耗する。
三年前の戦で、アウローラは帝国の「潤沢」を見た。潤沢すぎる武具が、逆に異常だった。戦争に最適化しすぎている国。つまり戦争を止めると、歯車が軋む国だ。戦果によって発展した国は、立ち止まることを想定していない。
(だが、レベル八十台は……物資の論理を無視できる)
ここが、思考の壁だ。
帝国がどれだけ消耗しようと、八十台の存在は単独で戦局を破壊できる。
鉄の消費も、火薬の供給も、補給の優位も、全部「踏み潰せる」。
そしてもし、その存在が帝国に「全面協力」するなら――王国の守りは、盾ではなく紙になる。
アウローラは、呼吸を整えた。
感情を鞘に。
戦う者の顔に。
(決断しなくては。どっちつかずが最悪。守るなら守り切る準備。攻めるなら攻め切る覚悟)
重い。
決断の重さが、肩ではなく心臓にのしかかる。
王女は宝石のように煌びやかな椅子に座るが、背負っているものは石や鉄のように武骨で重い。
国境の一歩が、領民の明日を変える。
そこへ、ふと、温かいものが触れた。
クロエが、眠気で揺れる体を起こし、背伸びをして、アウローラの頬に小さな手を当てた。
手のひらは柔らかく、温かい。
そして何より――心配そうだった。
【……~~?】
声はない。
だが、確かに「大丈夫?」と聞こえた。
不思議なことに、胸に直に届く。
あまりに優しい問いかけに、アウローラは一瞬言葉を失う。
(……この子は、私の顔色を読んでいる)
戦場の道具ではない。
ただの探査装置でもない。
クロエは、誰かの心配をする。
アウローラは、そっとクロエの手に自分の指を重ねた。
頬に当てられた小さな手を、包み込むように。
「……ごめんな、クロエ。心配させた」
【~~!】
クロエは小さく嬉しそうに身を揺らす。
眠気でふらつきながらも、安心したように目を細める。
その仕草に、セシリアが即座に悶絶した。
「今の見ました!? 今の! 殿下の頬に! クロエちゃんが! ああああ可愛い!!」
「落ち着きなさいセシリア。あなたが興奮するとクロエが驚いてしまうでしょ」
辺境伯夫人が笑いながら、セシリアの肩を軽く叩く。
そのやり取りは、平和だ。
だがアウローラの内側は、平和ではない。
むしろ、クロエの手の温かさが、決断の冷たさを際立たせる。
(私は……この温かさを守るために、冷たくならねばならない)
守るとは、優しいだけでは足りない。
守るとは、知ることでもある。
知って、備えて、必要なら先に動く。
王女は、可愛いものに目を細めても、甘やかしてはいけない。
(……クロエの探査を、帝都まで伸ばすか否か)
その問いが、頭から離れない。
攻めれば、見えるものが増える。
だが同時に、相手からも見られる危険性。
アウローラは、クロエの小さな頭を撫でた。
眠りに落ちかけている芽姫の、ふわふわとした感触を確かめるように。
その一撫でに、クロエは安心したように力を抜く。
――次の瞬間、クロエが止まった。
膝の上にある重みは変わらない。ふわふわで、ぷにぷにで、ぬいぐるみみたいな触感だけがそこに残り――葉のような緑髪の揺れも、硝子玉みたいな澄んだ眼の瞬きも、すべてが「固定」されたように動かない。
ほんの一拍の間。
呼吸の間。
静寂が、逆に大きく聞こえるほど。
「……クロエ?」
アウローラが呼びかけても返事はない。
セシリアも異変に気付いたのか、息を殺して覗き込んでいる。辺境伯夫人も、侍女たちも、同じく言葉を飲み込む。夜の談話室に、氷の膜が張ったような静けさが落ちた。
そして――突然。
【~~!?】
クロエが弾かれたように動き出した。小さな両手がわたわたと動き、胸の前で揺れて、何かを訴えるようにぶるぶる震える。目は大きく見開かれ、硝子玉の奥に淡い光が走った。
声は出ない。言葉もない。
けれど、必死さだけは痛いほど伝わってくる。
「クロエ、落ち着くんだ。落ち着いて……そうだ、ゆっくりでいい」
アウローラはあえて優しい声音を選んだ。
焦りは波のように伝染する。子供をなだめる時と同じだ。最初に落ち着くのは大人でなくてはならない。
クロエの動きは、徐々に、少しずつ、収束していく。
まるで息を整えるように、胸のあたりが小さく上下した。眠りかけていたときの柔らかさとは違う。
クロエが両手を伸ばす。
背伸びをするように、両掌をアウローラへ突き出す。
――まるで、触れて欲しいのではなく、受け取って欲しいと言うように。
(……そうだ。有羽は言っていた)
アウローラの記憶が、冷静に引き出される。
――クロエは送受信用ゴーレム。
探査だけではない。受信だけでもない。
得た情報を、相手に「送信」できるゴーレムなのだと。
今、まさにそれが起きている。
クロエの掌から、言葉ではない「塊」が流れ込んでくる。
熱でも光でもない。
理解だ。映像でも音でもない知識が、そのまま脳に落ちる。
それは川のように、しかし乱雑ではなく、整理された束として流入した。
帝国に潜む蛇の分身の名称。
レベル。
能力の大枠。
容姿の印象。
嗜好。
そして――目的。
全て有羽からの情報だった。
どうやって得た?
なぜこの情報を?
情報源は何処から?
その理屈は分からない。
ここは魔境ではない。目の前に賢者はいない。
彼が今、あの森で何をしているか、アウローラは知り得ない。
だが――本能が告げる。
これは「嘘」ではない。
クロエの送信は、噂話ではない。伝聞の形をしていない。
肌に触れる温度のように、確かなものとして伝わってくる。
(星髪のアギト……)
頭の中に、名前が刻まれる。
同時に、像が浮かぶ。
若い少女の姿。
星空のように揺れる髪。
冗談を好み、酒を好み――人と交流できるように調整された「手」。
本体から伸ばされた分身体。
レベル八十五。
その数字が、脳裏で冷たく鳴った。
人の理の上に立つ領域。
剣聖ハガネの七十を超える。
そしてクロエと同格。
さらに情報が流れる。
魔力圧による制圧。
局地の時間・地形の固定。
境界系の干渉――閉じる、縫う、噛む、切る。
全てを理解できたとは言いがたい。
だが「恐ろしい」という本質は、理解できる。
それらは戦術ではない。現象だ。
兵の数でどうこうする領域ではない。
城壁は紙になる。
魔力障壁は膜になる。
人の備えは、容易く裂ける。
そして最後に――目的。
文字ではなく、刺さるような意志として届いた。
神聖国の滅亡。
光輝神の殺害。
アウローラの喉が、ひくりと鳴った。
息が止まりそうになる。だが止めない。
止めることを、王族の誇りが許さなかった。
「…………」
だが、声が出なかった。
談話室の全員が、アウローラの変化に気づく。
セシリアの背が正される。
辺境伯夫人の笑みが消える。
侍女が無意識に唇を噛み、喉が鳴る音すら、はっきり聞こえた。
クロエは、送信を終えたのか、両手をゆっくり下ろした。
その目は不安げで、同時に「伝えた」という安堵が混じっている。
(……有羽は、これを知った上で私に送った)
経緯は分からない。
なぜ分身が神聖国に敵意を抱くのか、その感情の発火点も分からない。
だが、結果は重い。
帝国に、レベル八十五がいる。
しかも、その意志は「国家の滅亡」を目的として定まっている。
それは、隣国に「国を滅ぼしかねない竜」がいるようなものだ。
そしてその竜が、いつでも牙を振るえる位置にいる。
しかも――帝国の帝王の隣にいる可能性が極めて高い。
目的の矛先が北へ向いているのは僥倖であり、同時に災厄の兆しでもある。
災厄の牙が、王国に向けられないなどと誰が決めた。
神聖国を滅ぼした後は、目標は南王国になるかも知れないのだ。
アウローラは最悪を考える。
相手の考えが分からなくても、備える義務がある。
アウローラは一度、目を閉じた。
冷たい闇が瞼の裏に落ちる。
胸の奥に沈む恐怖を、鞘に押し込める。
そして――目を開いた。
そこにあるのは、王族の顔だった。
柔らかな談話の空気を切り裂き、場を「会議」に変える顔。
この辺境の女たちは、それを見て理解する。理解してしまう。
平和な夜は、終わったのだと。
「セシリア嬢。夫人」
短い呼びかけ。
二人が、同時に背筋を正す。
「――はっ」
返答も短い。
恐怖を飲み込み、責任を引き受ける声。
アウローラは、クロエを抱えたまま立ち上がった。
膝の上の温もりを失わぬように。けれど、その手は揺らがない。
「すぐに会議を開く。辺境伯を呼んでくれ」
「直ちに」
セシリアは立ち上がり、早足で侍女に合図する。普段のふわふわした熱狂が嘘のように消え、辺境伯家の令嬢としての顔が前に出た。
「国境軍にも伝令を。帝国の奥で、神聖国に対する何らかの大規模作戦が練られている可能性が高い」
「……承知しました、殿下」
辺境伯夫人が、声を低くする。
彼女も戦場の家の女だ。危機の匂いに慣れている。
慣れているからこそ、恐ろしさも分かっている。
「クロエを通して情報が届いた。魔境の森の賢者――有羽からのものだ」
侍女の一人が小さく息を呑んだ。魔境、賢者――その単語の重さに反応したのだろう。
だが誰も口を挟まない。挟めるはずがない。
「帝国に潜む超常存在――名称は『星髪のアギト』。レベルは八十五。能力の詳細は会議で共有する」
アウローラはそこで一瞬、言葉を選んだ。
この情報は、強すぎる。危うすぎる。
けれど、国境は猶予をくれない。
だからこそ、要点だけを刃のように渡す。
「今は目的だけを伝えて回れ。一言一句、間違えるな」
談話室の空気が、凍る。
冷気など無い筈なのに、寒い。
アウローラは言葉を選び抜いてから告げた。
「名称『星髪のアギト』の目的は――『神聖国の滅亡』及び『光輝神の殺害』だ」
誰かが、喉を鳴らした。
悲鳴を飲み込む音。
けれど辺境伯家の女たちは、顔を崩さない。
セシリアが、強く頷いた。
「承りました。直ちに、準備に取り掛かります――殿下」
「頼んだ」
アウローラはクロエを胸に抱え直す。
小さな芽姫は、まだ不安げだ。だから指先で背を撫でる。
大丈夫だ、と言葉にしなくても伝えるように。
(……「待ち」の選択は、意味を持たない)
さっきまで迷っていた二択が、今、片方から崩れ落ちた。
敵が人間なら、物資と補給で勝てる。
敵が超常なら、備えの形が変わる。
王国の選択は「攻め」になる。ならざるを得ない。
今夜、ここで決まった。
グラードラインの石の廊下に、足音が走り出す。
伝令が飛ぶ。
兵が起きる。
灯りが増える。
夜はまだ深い。
だが国境にとって、夜は「休み」ではない。
クロエが、アウローラの胸元で小さく身を震わせた。
それは寒さではない。不安の震えだ。
アウローラはその震えを受け止めるように、抱く腕に力を込める。
(……有羽。お前は、必要な時に必要な物を投げてくれる。ありがたいが――少しは手加減してくれ)
僅かに苦笑。
そして、心の中でだけ短く誓う。
(この情報を無駄にはしない。無駄にできるほど、私は甘くない)
暖かな談話室は消えた。
そこに残ったのは、国境の夜と王女の決断だけ。
グラードライン辺境伯領の大地が、静かに戦場の色へと染まり始めていた。




