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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第六章

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第96話・夜空の誓い


 帝国北部要塞の夜。

 戦の気配はとうに薄れ、硝煙の匂いも冷えた風に削られていく。

 だが、空気の中にはまだ残っていた。金属の焼けた匂いと、血の匂いと――戦場が終わったあとの、言い訳の効かない死の匂いが。


 壁の上では見張りが交代し、兵が走り、書類が運ばれ、会議室の灯りが消えない。

 帝王ウィルトスは、対策会議で忙しい。

 昼の戦いの報告、神聖国の加護持ち運用、砲撃の効き、山道封鎖案、雪崩誘発の段取り。話すべきことは山ほどある。今は紙上の戦争中。


 その紙上の戦争から一歩外れたところで。

 星髪の少女――アギトは、にこにこしながら要塞の通路を歩いていた。

 片手には蜂蜜酒の瓶。もう片手には、袋に包まれた夕餉。


 中身は簡素だ。

 硬めのパンに焼いた肉と芋を挟んだもの。脂と塩が効いていて、噛むほどに味が出る。

 戦場の食事は、贅沢よりも確実性だ。胃に満ちれば勝ち、満ちなければ負ける。

 そして蜂蜜酒。甘く、香りが高く、喉に落ちると身体の芯がゆるむ。


「ふんふんふーん♪ さってと、どこで食べよっかなー♪」


 歌うように鼻歌を鳴らしながら、アギトは歩調を軽くする。

 最初に帝国へ来た時、ウィルトスから言われた。

 目立つな。勝手に動くな。兵を怖がらせるなと。

 けれど、時は流れた。

 兵は慣れる生き物だ。恐怖の正体が「未知」である限り、怯える。

 だが、毎日見て、毎日話し、毎日笑うようになると、未知は「変なやつ」へ格下げされる。


 そしてなにより、アギトは居丈高に振る舞わない。

 むしろ人懐っこい。おまけに見た目は極上の美少女。目に優しい。

 だから兵も、必要以上に距離を取らない。

 最近では酒宴に混ざって、妙に盛り上がって、最後に蜂蜜酒を抱えてご機嫌で帰るのが、ちょっとした風物詩になりかけていた。


 もちろん、知らない者はまだいる。

 星髪の嬢ちゃんが何者なのか、本当に理解している兵など一握り。

 だが現場で大事なのは理解ではない。

 ルールが分かるか、分からないか。友好的か敵対的か。

 極論、大事なのはそこだけだ。


 今夜、アギトは自由だ。

 ウィルトスは会議で忙しく「先に食っていいぞ」と放り投げるように言った。

 投げられた夕飯を抱えて、アギトは静かな場所を探している。


 広い要塞で静かな場所を探す――それはアギトなら難しくない。

 彼女の知覚は、人間のそれとは桁が違う。

 歩哨の足音。紙の擦れる音。鍋が鳴る音。遠い会議室の声。

 そういう雑音の密度が薄い方へ、ただ歩くだけ。


 会議の熱気から離れ。

 倉庫の忙しさから離れ。

 兵舎の笑い声から離れ。

 静かな方へ、静かな方へ。


(……ん? お酒の匂い……?)


 鼻がひくりと動いた。

 蜂蜜酒とは違う、鋭い香り。

 木樽で寝かせた、上等な酒の匂い。

 しかも、つい今しがた栓を抜いたばかりの生きた香り。


(あれ? 同じこと考える人、いたのかな?)


 人間の鼻では、要塞の匂いに紛れて分からない。

 だがアギトには分かる。分かってしまう。

 そして分かった瞬間、口角が意地悪く上がった。


(あー。いっけないんだー。こんな場所でこそこそと)


 ただし、罪だとは思っていない。

 軍用酒を盗んでいるなら話は別だが、匂いは違う。これは個人が持ち込んだ酒だ。

 自費で買った上物。勝手に飲んで何が悪い。

 悪くない。悪くないけど――。


(美味しい酒は、分けるもの。分けない人は……嫌われる。酒飲みの世界の常識)


 アギトは、忍び足で匂いの先へ向かった。

 階段を上り、風の通り道を抜け、重い扉の隙間をすり抜ける。

 屋上。

 夜空が近い。

 雪雲が薄く流れ、月が見えたり隠れたりする。


「あれ? おっちゃん達はたしか――」


 そこに、数名の兵がいた。

 古参の兵。

 帝都で帝王の傍にいた者たち。一緒に北部まで来た、アギトの酒飲み仲間。

 戦装束のまま、だが兜は外し、肩の力を抜いて座っている。

 木製のコップが並び、酒瓶が一本、静かに置かれている。

 アギトが顔を出すと、兵のひとりが目だけで笑った。


「……ああ、星髪の嬢ちゃんか。どうした、こんな場所に来て」

「おっちゃん達こそ、こんな場所で何してんの? 酒なんて空けちゃって……」


 アギトの視線は、コップに向かった。

 そこにあるコップは、人数分よりひとつ多い。

 その余分な一つに、酒が注がれていた。


 そして、その隣。

 焼け焦げた短剣が一本。

 刃も柄も、黒く煤けて、ところどころが溶けたようになっている。

 アギトは、その配置を見て、ふっと鼻歌を止めた。


「……なにそれ。誰の分?」


 兵たちは、頷いた。

 誰もふざけていない。冗談も言わない。

 屋上の風だけが、遠慮なく吹く。



「これはな――鎮魂酒だ。迷わないで天に昇れるように注ぐ、送り酒さ」



 古参兵の声は低かった。

 怒りでも悲しみでもない。もっと乾いたもの――長年、戦の中で磨かれた、別れ方の声。


「この要塞に務めてた奴に、俺達の同期がいてな。今回の戦いでやられちまったよ」


 同期。

 戦友。

 同じ帝王の旗の下で、生きてきた者。


 戦乱は長い。戦友が全員同じ場所に集まることはない。

 帝都で帝王の背を守る者もいれば、辺境で国境を睨む者もいる。

 そしてこの北部要塞には、神聖国の動きを見張り続ける者がいる。


「……そうなんだ」


 アギトの声が、自然と小さくなる。

 兵は、焦げた短剣を指で軽く弾いた。

 金属が、かすかに鳴る。


「神聖国の奴らが使う光の魔法でな。身体の大半が炭になってた。ひでぇもんさ。こいつがなきゃ、誰の死体か判別つかなかった」


 古参兵は、置かれた短剣に視線をやった。

 鎧の下にでも忍ばせていたのだろう。だから完全に燃え尽きずに残った。

 見てもいないのに情景が目に浮かぶ。

 炭。黒。崩れる肉。残る骨。匂い。煙。


「娘に貰った『護り刀』だって、よく自慢してたんだぜ」

「その度に「うるせぇ親バカだ!」って笑ったもんだ」

「そうそう。言う度に皆で笑った。……笑ったから、今も笑う」


 兵たちは、確かに笑った。

 けれど、誰も腹の底から笑っていない。

 目尻に光るものが見えたとしても、誰も指摘しない。

 男の別れに涙は不要――というより、泣いたら崩れてしまう。

 崩れたら明日から戦えない。

 だから泣かない――それだけだ。


 木のコップに酒が注がれる。

 余分な一つにも注がれる。

 そして、その余分な一つは、誰も手を付けない。

 死者のための席。


 アギトはしばらく黙っていた。

 蜂蜜酒の瓶が、手の中で軽い。

 そして、ぽつりと。


「……そっか」


 たった一言。

 その一言の中に、彼女の「分からない」と「分かる」が同居していた。

 人の戦の死は、天蛇の尺度で見れば小さい。けれど人にとっては世界だ。

 その世界が燃やされて、炭になって、名前が消えかけた。


 アギトは、袋の夕飯を脇に置いた。

 蜂蜜酒の瓶を持ち直す。


「ねえ。コップ、もう一個ある?」

「ん? そりゃまああるが……どうした」

「貸して」


 兵たちは一瞬目を瞬かせて、すぐに頷いた。

 木のコップが差し出される。


 アギトは受け取ると、蜂蜜酒の瓶の栓を外す。

 甘い香りが、冷たい屋上にふわりと広がる。

 兵たちが持ってきた酒とは匂いが違う。幼い甘さ。陽だまりのような匂い。


 彼女は、ゆっくりと注いだ。

 こぼさない。急がない。

 瓶の口から落ちる金色の液体が、夜の屋上でやけに綺麗に見える。

 そして、焦げた短剣の隣に置く。

 死者のための席に、甘い酒を添える。

 兵のひとりが、困ったように笑った。


「おい、蜂蜜酒って嬢ちゃんの好物だろ? いいのか?」

「いいの。おっちゃん達の友達なんでしょ? なら、いいよ」


 その返事が、軽いのに重かった。

 理屈ではなく、体温のある返事だった。


 兵たちは、少しだけ目を伏せた。

 誰も「ありがとう」とは言わない。

 言った瞬間、喉の奥が壊れるのを知っていた。

 代わりに、いつもの調子で兵が荒っぽく笑う。


「おう、味わって飲めよ! こんな別嬪に注いで貰ったんだ! さ迷って亡霊にでもなったらタダじゃおかねぇぞ!」


 屋上に笑い声が弾ける。

 古参兵たちの笑いは、腹から出る。

 けれど、その笑いの端が少しだけ震えていた。





 ◇◇◇





 夜の屋上は寒かった。

 屋上の石は昼の熱なんて欠片も残していない。腰を下ろした瞬間からじわじわと体温を吸っていく。雪が薄く張り付いた床は、見た目よりずっと冷たい。頬を撫でる風は細くて、刺すような痛みを与えてくる。


 そんな寒さの中で飲む酒は、やけに甘く感じた。

 蜂蜜酒の瓶を膝の上で転がしながら、アギトは小さく息を吐く。白い吐息が星に向かってのぼっていって、途中でほどける。星は綺麗で、綺麗すぎて、どこか腹立たしい。綺麗なものは、いつも何も知らない顔をする。


 少し離れたところに、あのコップがある。

 焦げた短剣の隣に置かれた、黄金色の液体。アギトの蜂蜜酒。

 人の作法を真似た、アギトなりの鎮魂酒。


(……不思議な事を、人はよく考える)


 死んだ人間が迷わないように、酒を注ぐ。迷わないように。天に昇れるように。

 送り酒。彼女には、よく分からない理屈だ。

 そもそも、死んだら終わりじゃないの? とアギトは思う。終わりじゃないにしても、どうせ行く場所なんて決まってる。迷う迷わないなんて、本人の問題じゃなくて、生きてる側が納得したいだけなんじゃないの?


 ……そう、アギトは思っていた。

 昔の彼女は、そう思っていた。

 けれど今、彼女は、そのコップから目が離せない。


 甘い匂いがする。蜂蜜と発酵の匂い。

 その匂いは、記憶の扉を雑に蹴破る。



 だから彼女は、思い出してしまう。



 それは今よりもずっと昔。

 帝国が今のような大きな国になる前。

 帝王ウィルトスなんて名前が、この世界のどこにも存在しなかった頃。

 東部で国が生まれては潰れて、また生まれて、剣と飢えと疫病が交互に人を削っていた頃。


(アタシは――『アタシ』として、まだ今みたいに整っていなかった)


 彼女の本質は「手」だ。

 本体から伸びる、外界に触れるための「手」。

 本体が世界の縁を噛み、世界を固定し続けるなら、アギトはその噛み跡から漏れた興味が形になったもの。



 初めて「手」が外に伸びたのは、国が生まれるより前。

 酒が生まれた頃である。


 それは一万年以上前の話。

 農耕が始まる前。文字がない。暦がない。だから正確な年なんて解らない。

 星の並びで「寒い時期が来た」と知って、獣の群れの移動を追って、人が寄り集まって火を囲んでいた時代。


 蜂蜜と水が混ざり、偶然発酵し、泡が立ち、甘い匂いがして。

 誰かがそれを舐めて、笑って、喉を焼くような熱に驚いて――それでももう一口飲んで。


 その瞬間を、本体が感じたのだ。

 飲んでみたいという、興味。

 世界の縁を噛み続ける退屈の中で、ほんの一瞬だけ生じた小さな欲。


 だから伸びた。

 最初の「手」。最初の分身。外界への手。


 その時の「手」の姿は、今の世界にいるリザードマンに酷似していた。

 鱗の肌。爬虫の目。湿った川辺の匂いをまとった、獣のような姿。


 当たり前に、魔物扱いされた。

 槍が飛んだ。石が飛んだ。火が投げられた。

 相手が分からないなら、先に壊す。先に殺す。

 それが当初の人の動き。


 最初の手は、理解しなかった。

 理解する必要がないと思っていた。

 ただ、目の前の酒が欲しかった。


 結果、「最初の手」は返り討ちにした。


 軽く振った腕で、何人も倒れた。

 爪で裂き、牙で噛み、骨を折った。

 悲鳴が上がり、血が溢れ、土が濡れた。

 蜂蜜酒の壺を掴んで、奪った。


 初めて味わった蜂蜜酒は――。


(……甘露だった)


 舌に乗った瞬間、世界が色を変えた。

 喉を通った瞬間、身体の中に火が灯った。

 頭がふわふわして、世界が少しだけ面白く見えた。


(――ああ、これ。これのためなら、外に出る価値があるって「最初の手」は思った)


 そしてその時。

 酔った勢いで、笑った勢いで「最初の手」から魔力が零れた。

 零れた魔力は、世界に染みた。

 染みた魔力は、偶然にも媒介となり――世界に「新しい命の型」を作った。


 気付いた時には、そこにいた。

 鱗を持つ人型の群れ。

 リザードマン。


 天蛇が生んだ……なんて大層な自覚は、その時は無い。

 ただ、周りに似たのが増えたな、くらいの感覚で。

 眷属だとか種族だとか、そういう言葉はもっと後の時代の言葉。


 しかし、彼らは「最初の手」を見上げた。

 怖がるのではなく、敬うでもなく、ただ当然のように近くにいた。


 それが、妙に居心地がよかったから。

 だから「最初の手」は、しばらく外にいた。


 千年近くの時を生きた。

 人間の尺度なら、永遠に近い。

 けれど、天蛇の尺度なら「ちょっとした外出」。


 本体と微かに繋がりはあった。遠い遠い水底の鼓動みたいな感覚。

 けれど、本体は基本的に何も言わない。噛んでいる。固定している。それだけの存在。


 本体と手は記憶を共有する。

 だが自我は別だった。

 外界に長く居れば居るほど、手は「手」ではなくなる。

 触れるものが増える。言葉が増える。酒が増える。

 笑いが増える。喧嘩が増える。死が増える。

 そしていつの日か、「最初の手」は選んだ。


(……森に帰らなかった)


 本体は今でもよく解っていない。「最初の手」の選択の意味を。

 あれほど簡単に森に戻れたはずなのに、戻らなかった。

 リザードマンたちに囲まれて、外界で死ぬことを選んだ。


 その理由は――本体には解らない。きっと永遠に解らない。

 分かるのは、最初の手が「手」であることをやめた、という事実だけ。



 そして、しばらく経って。

 気が付いた時には、アギトがいた。

 二代目の手。

 今度は、最初から「人と交流できるように」調整された手。


 人間を象った姿。

 星空のようになびく髪。


 服装は、その時々で変えた。

 旅人のような服。踊り子のような衣。貴族の真似をしてドレスを着たこともある。

 異国の布の縫い方を真似して、袖を長くしたり、裾を短くしたりと。


 別世界から流れ込んだ「情報」に、時々妙に惹かれることもあった。

 噛み留める継ぎ目の向こうから、少しだけこぼれてくる色。

 その色を、アギトは服にして遊ぶ。


 その頃のアギトは、今よりもっと雑だった。

 人の街に降りれば、目が寄ってくる。

 整いすぎていたらしい。アギトは自分の顔がそんなに価値があると思ってなかったけど。


 酒場で蜂蜜酒を飲んでいると、男が寄ってきた。

 奢る。笑う。距離を詰める。褒める。求愛する。


 意味が分からなかった。

 何をそんなに必死になるの? と。

 酒を飲みたいなら飲めばいい。話したいなら話せばいい。

 なのに、人間達はいつも「何か」を取ろうとした。


 そしてアギトは、何度も「返り討ち」にした。


 返り討ちにした、というより――触れただけで壊れた。

 腕を払ったら首が折れた。突き飛ばしたら壁に頭を打って動かなくなった。

 強くするつもりはなかったのに。人間が脆いせいで、結果がいつも惨劇になる。


(……でも、酒場の人には丁寧にした)


 酒場は好きだった。

 酒が美味しいから。

 酒を作る人間は、面白いから。

 蜂蜜酒は、特に好きだから。


 古くからある蜂蜜酒は、時代を経て洗練されていった。

 発酵の管理。樽の違い。蜂蜜の種類。

 味が変わる。香りが変わる。喉ごしが変わる。

 それを試すのは、楽しかった。


 けれどやはり、付き纏う人間や、危険視する者も多く居て。

 そのたびに、アギトは少し面倒になって森に帰る。


 森の中は静かだ。

 蛇の本体は動かない。動かないからこそ、世界は保たれている。

 アギトは「手」として、時々仕事をした。


 森の奥まで入り込んでくる者を追い払う。

 多くは本体を見て発狂する。

 成層圏に届く蛇を見て、頭が壊れて、暴れて、叫んで、森を荒らす。

 そういう者を「大人しく」させる。


 この場合の「大人しく」は、土に還すことだ。

 命を絶って、大地の養分に。

 その手順にも慣れた。

 躊躇いは最初から無い。彼女の精神は人は違う場所に座している。

 彼女はいつも、そうやって生きてきた。


 またほとぼりが冷めたら外へ。

 酒を飲む。飽きたら帰る。

 それがアギトの今までだった。


 それなのに――今回だけは違う。


 帝国の軍団が来た。

 本体を見た。恐怖した。普通なら発狂する。逃げる。矛先を向ける。叫ぶ。

 そうなるはずだった。


(でもおじさんは……ウィルトスは違った)


 帝国の帝王。

 戦斧を携えた豪胆な王。

 あの男は、本体を見た。


 恐怖した。

 あからさまに恐怖した。

 それを、押し殺した。

 押し殺して、頭を下げた。

 そして――酒に誘った。


 ――酒。

 その単語で、私の世界は一瞬止まった。

 面倒で、うるさくて、脆くて、理解できない生き物が、酒で『道』を作った。


(……意味わかんない。普通、発狂するか、逃げるか、死ぬか。なのに、酒?)


 本体も、少しだけ興味を示した。

 本体が興味を示すなんてことは滅多にない。

 アギトはそれが面白かったのだ。


 だから、彼女は今ここにいる。

 明確な目的なんてなかった。

 興味が湧いたから。

 面白そうだから。

 酒が飲めそうだから。


 ただ、それだけ。

 それだけだったのに。


 アギトは今、屋上で。

 蜂蜜酒を飲みながら。

 古参兵たちの笑い声を聞きながら。

 焦げた短剣と、空席と、鎮魂酒を見ながら。


(胸の奥が、ざらざらする)


 それは不思議な感覚だった。

 長い時を生きたアギトが、初めて味わう感覚。


(――すごく、むしゃくしゃする)


 人間の死に様――そんなもの、アギトは何度も見てきた。

 何百年も見た。

 飢えで死ぬ。

 病で死ぬ。

 喧嘩で死ぬ。

 戦争で死ぬ。

 魔物に食われて死ぬ。

 そのたびに思った。

 飽きないのかなぁ、と。

 なんでそんなに必死なのかなぁ、と。

 でも今は違う。


(おっちゃんの友達が死んだ……神聖国の連中に殺された)


 その事実を頭の中で転がすだけで、舌の奥が苦くなる。

 蜂蜜酒が甘いのに、後味がきしむ。

 噛み砕きたくなる。壊したくなる。潰したくなる。

 それは、初めて実感した感情。


(……これが、怒りってやつ?)


 感情の名前を、ようやく言葉にする。

 知識としては知っていた。

 記録としては読んだ。

 けれど、実感としては知らなかった。


 身近な者が笑い飛ばす――それなのに目尻が光ってる。

 泣きたいのに泣かない。

 叫びたいのに笑う。


 それを見てると、腹が立つ。


 誰に?

 神聖国にだ。


 勝手に来て、勝手に殺して、勝手に燃やして、勝手に正義を名乗る。

 この帝国で――今、アギトが酒を飲んで笑っているこの場所で、勝手に暴れて、勝手に席を汚し、勝手に人を壊していく連中。


 許したくない。

 存在すること自体が癪に障る。


 アギトは、膝の上のパンを齧った。

 焼いた肉。芋。塩気。脂。

 簡素な夕食。けれど美味しい。人間の飯は単純で、でもしっかり腹を満たす。


 ……それでも。

 死んだ人間は、これをもう食べられない。

 その当たり前が、アギトにはやけに刺さる。


 アギトは瓶を軽く持ち上げて、ひと口飲む。

 甘い。喉に落ちる。

 その甘さが、なぜか悔しく思える。


 無意識の内に、アギトは静かに牙を研いでいた。

 牙というのは、なにも歯のことだけを指す訳ではない。

 心の奥にある、「噛む」という衝動。

 壊す。裂く。境界ごと断つ。

 そういうアギトの奥の核が澄んでいく。

 殺意が、冷たい水のように透明になる。

 そしてアギトは――理解した。






 ……ああ、そうか。

 これがそうか。

 人が抱えてるものって、これか。






 知識ではなく。記録ではなく。言葉ではなく。

 実感としての怒り。実感としての喪失。実感としての憎悪。


(こんなのを胸に飼ってたら、そりゃ戦争なくならないよね)


 理解した瞬間、少しだけ笑いそうになる。

 けど笑わない。もしも笑ったら、あの空席に失礼になると――そう思ったから。


 アギトは視線を北の山脈に向ける。

 見えない。神聖国は見えない。

 だが、いる。確実にいる。


 加護を安売りして、玩具で遊ばせて、陶酔させて、燃やして、殺して、正義だと叫ぶ連中。

 その上にいる主神。

 光輝神ソル・サンクトゥス。



 ――潰したくてたまらない。



 アギトは、蜂蜜酒の瓶を握り直す。

 指が冷えているのに、瓶の中の酒は温かく見える。


 明確な目的なんてなかったはずなのに。

 今、この瞬間。

 彼女は、目的を持ってしまった。


 天蛇の本体の目的ではない。

 本体は世界の縁を噛む。それだけ。

 世界を固定する。それだけ。


 だからこれは――彼女の目的。

 星髪のアギトの、個人的な目的。


 神聖国は潰す。

 絶対に叩き潰す。

 理由は単純。

 たったひとつだ。




(おっちゃん達を悲しませたお前達を、アタシは絶対に許さない)




 鎮魂酒のコップの横で、蜂蜜酒の甘い匂いが漂っている。

 笑い声が風に飛ばされる。

 焦げた短剣が、黒く冷えている。


 星髪の少女は、そこに座ったまま――静かに、牙を研ぐ。


 声には出さない。

 涙も出さない。

 ただ、目だけが澄んでいく。


 天蛇の分身、星髪のアギトは。

 初めて、自分の意志で憎悪を抱き。

 初めて、自分の意志で『敵』を定めた。





 ◇◇◇





 偶然と言えば偶然だ。

 それは星髪の少女が目的を抱いた経緯。

 その流れは意識して造られたものではなく、偶然の産物。


 だが、偶然であろうと――結果としてそれは、世界に刻まれる。


 星髪の力は、人からは逸脱した超越者だ。

 超域の存在。従属神と同じ位階に座する、天蛇の分身体。


 だから彼女が明確に『目的』を持ったのなら。

 天蛇とは別の目的で動くと、心の底から誓ったのなら。


 それは――世界の記録に刻まれる。





 ◇◇◇





 夜の森。魔境の森の南部。

 夕飯を取った後、有羽とスキエンティアは再び万魔図書館で検索していた。


 有羽は椅子に深く腰を沈め、指先で机を軽く叩く。

 目の前の本は、星髪のアギトについての索引結果。

 昼に見た「役割」と「出来ること/出来ないこと」は、すでに頭に焼き付いている。だからこそ、今夜はもう一歩先――天蛇そのものに届かないまでも、分身の外側から輪郭を削り出そうとしていた。


「……で、結局また恋愛ゴシップとか出るんだろ。もういいぞ、港町の百年物の告白エピソードは」

「有羽君、有羽君。そんな不貞腐れないで。他の情報が出るかもしれないんだから」

「他って何だ? 飲酒エピソードか? ますますいらんぞ」


 有羽がジト目を向けると、スキエンティアはまぁまぁと宥める。

 昼間に得た無数の無駄知識の所為で、有羽の心が荒んでしまっている。

 けれど――その荒みが維持されることはなかった。


 図書館の空気が、変わる。

 索引札の光が、脈打ち方を変える。まるで心臓のリズムが変わったみたいに。

 そして、目の前の本のページが――勝手に、めくれた。


 ぱらり、ぱらりと。

 風もないのに。

 手も触れていないのに。


「……ん?」


 有羽は反射で身を乗り出す。

 スキエンティアも同時に、椅子から半分立ち上がりかけた。

 紙が震えているわけではない。

 震えているのは、文字だ。

 インクが滲むように。

 古い文章の隙間に黒い線が走り、そこから新しい文が浮き上がってくる。

 まるで誰かが、今この瞬間に書き足しているように。

 有羽の背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。


「……おいおい。やめろやめろ。なんだこのホラー演出は」

「ホラーじゃないよ。これ……記録の更新だ」


 スキエンティアの声が、珍しく乾いていた。

 軽さがない。冗談が入り込む隙がない。

 有羽は言葉を飲み込む。

 飲み込んだ瞬間、ページの端に「索引の補助線」が走り、見出しが自動で整列した。



 星髪のアギト

 世界天蛇の分身体

 レベル85



 その下に、新しい項目が追加される。



 ――目的。



 文字が、鈍く光る。

 紙の上なのに、刃物のように。

 その文字を見た有羽は――息を呑んだ。


「……っ!? おいおい、マジか!? それが目的で外に出たのか!?」

「待って有羽君、違う。昼間の索引には無かった。だからこれ――つい今しがた、分身ちゃんが『定めた』んだよ」


 スキエンティアの指が宙で止まる。

 触れようとして触れられない距離で、彼女はページを見つめた。

 有羽の喉が鳴る。

 乾いた音が、自分の耳にやけに大きい。


 そして――ページに、刻まれた答えは。





 ――神聖国の滅亡。

 ――光輝神の殺害。





 無邪気な星髪の少女が今夜――廃絶の色を持つ。

 それがどれだけ世界を揺るがすのか。

 それを有羽と女神が知った事で、何が起きるのか。

 知り得る者は、この世界のどこにも、まだ存在していなかった。



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