第92話・求道の剣と星髪の牙
帝国北部。山脈の手前に築かれた要塞は、ただそこに「壁」として立っていた。
石と鉄。積み上げた層の厚みが、そのまま帝国の意地でもある。此処より先へは通さないという鉄の意地。
砲座は壁面から突き出し、砲身は獣の牙のように外界へ睨みを利かせる。ここは最前線ではない。最前線の「さらに手前」で、侵攻を成立させないための機械仕掛けの牙。敵を進ませないための場所だ。
その喉元が、今、火を噴いている。
轟音。
地鳴り。
腹の底まで震える振動。
砲撃が大地を薙ぎ、煙と炎を巻き上げる。
竜の鱗すら砕くと言われる、帝国の砲弾。
砲兵が角度を微修正し、装填手が汗だくで次弾を押し込む。
火花。硝煙。油と鉄の匂い。合図の旗が翻り、号令が重なる。
だが――その全てが「決定打」になっていない。
砲撃の先で、白い光が立っていた。
太陽光が凝り固まって板になったような、眩しい壁。砲弾が当たるたびに、壁が波打つ。衝撃が光の表面を走り、円形に歪みが広がる。だが裂けない。破れない。
威力の勝負ではなかった。
ただの鉄塊では――神の「加護」を抜けない。
光の壁の内側で、神官戦士たちが不敵に笑っている。白い法衣に鎧を重ね、手には槍と剣。顔は血と煤で汚れているのに、目だけが妙に輝いている。
あの輝きは、勝利の熱ではない。信仰に酔った者の光。
「帝国の奴らめ……我等が神の威光に震えておるわ!」
先頭の神官が、砲弾の衝撃に揺れる壁へ掌を押し当てて陶酔した声を上げる。壁の向こうで、帝国の砲兵が必死に働いているのを見ていながら、まるでそれが小者の足掻きにしか思っていない顔。
「ただ威力が高いだけの砲撃など、神の防壁の前では恐れるに足らず! 何人もこの壁を破壊する事は出来ん!!」
別の者が笑い、別の者が頷く。誰も恐れていない。砲弾が死を運ぶことを理解しているはずなのに。恐怖を信仰で塗り潰し、万能感で上書きしている。
しかし――その中にも、現実を見てしまう者はいた。
「しかし……このままではこちらも攻勢に出れんぞ。どうする?」
少し若い神官が、壁越しの振動を肌で感じながら眉をしかめる。
砲撃は止まらない。壁が保っているのは、今は護りに全力を振っているからだ。障壁を解除した瞬間、身体は肉片になり、骨は砂になる。理解できてしまう者もいた。
だが血気盛んな神官が鼻で嗤った。
「案ずるな。奴らとて無限に大砲は撃てぬ。こちらはただ待つだけでいい。いずれ弾が尽きよう……我等の目的は、帝国の資源を減らすこと。いずれくる『聖戦』に向けての準備よ」
聖戦という言葉が出た瞬間、空気が一段緩くなる。言葉そのものが、彼らにとっては麻薬だ。自分たちが何か巨大な「正義」の部品になっている錯覚。錯覚ではなく、実際に部品なのだろうが――問題は、その歯車が誰の掌で回されているかを彼らは理解していない。
「光輝神様の加護のおかげで、我等は不眠不休でも死にはしない。日が暮れれば山に戻り、日が昇れば要塞を攻める。これを繰り返すだけで、小隊でも帝国の要塞を疲弊させることが可能だ」
神官は障壁の外へ視線を向ける。要塞の壁上を走る帝国兵。慌ただしく動く砲兵班。弾薬を運ぶ兵。命令を飛ばす将校。彼らの「疲れ」が、神官には甘い果実のように見えている。
「我等はひたすら奴らを消耗させる――それだけで神に喜ばれることだろう」
その場にいる全員が、同じ笑みを浮かべた。
陶酔。祝福。刃を血で染める口実。
すでに幾人もの帝国兵を殺したあと。だが彼らにとってそれは殺戮ではない。神の教えに従う正しい作業だ。
そんな酔った状態だから――気付けなかった。
壁の外側。砲撃の雨の「脇」を、音もなく抜ける影があることに。
砲弾が落ちる瞬間を読み、煙が視界を覆う瞬間を選び、陰の隙間を縫って、距離を詰める者。
誰も視線を割かない。誰も注視しない。神の壁が絶対だと信じているから。絶対の護りがあるなら、警戒する必要はない――そう思っている。
だがそこに――全てを断絶する求道の剣が在る。
「――見るに堪えん」
低い声が落ちた。
まるで降り積もる雪のような静かな声。
だが、その一言で空気が変わる。壁の内側の神官が、反射的に視線を向ける。
そこにいたのは老人だった。
黒い鞘を腰に差し、納刀したまま柄に手を置く老人。
あまりに地味な、その容姿。
だが、目が違う。
地を這う害虫を見るかのような眼。
「な、何者だ貴様!? いつの間に――」
「――ゴミが喋るな」
神官の叫びを遮る――居合。
黒い線が走った。その剣閃は、世界に線を引くような一閃。光の壁が、薄紙のように裂ける。切り捨てられる。切断面が滑らかに落ちる。
次の瞬間、神官の身体も上下に分断された。
血が噴き出すのはさらに遅れて。
声は、喉から出る前に失われた。
神官たちが硬直する。砲撃の轟音が遠くなり、心臓の鼓動が耳を塞ぐ。
加護による万能感が、ひび割れていく。
老人――剣聖ハガネは、吐き捨てるように言った。
「変わらんなお前達神聖国は――いや、むしろ昔より更に堕落した。儂が若い頃に見た神官共も相当に狂っていたが、今のお前達ほどではなかったぞ」
神官たちは息を呑む。
侮辱だ。冒涜だ。怒りが遅れて沸き上がる。恐怖さえ燃料にして。
「貴様! 我等が神に歯向かう異教徒め! 神の力の前に散るがいい!」
詠唱が重なる。光が集まる。矢の形を取る。
何十、何百。壁の内側に太陽が生まれたかのように眩しい。
そして――放たれる。
光の矢が雨となって降る。逃げ場を潰す角度。数。速度。加護持ちが集まっているからこそ可能な飽和攻撃。人間の魔術師が数人いてもここまでの密度は出ない。
だが。
「阿呆。儂はどの神も信じておらぬわ」
ハガネは歩いた。
避ける。斬る。避ける。斬る。避ける。
足が止まらない。矢の間を抜ける動きは、怖いくらいに「最短」だ。一本一本を見ていない。全体を見ている。いや、矢よりももっと先――矢を放つ行動の「起こり」を見て避けている。
夜叉の刃が黒い残光を引く。妖刀の力は確かにある。だが、それだけではない。矢が砕ける前に、術が切れる。魔力の流れが断たれ、光が失速し、ただの眩しい塵になる。
「馬鹿な――そんな馬鹿な! 光輝神様のご加護が通用しないなど、そんなことが――」
「あるんだよねぇ、それが。まあ、あのお爺ちゃんは別格だからお気の毒ー、って感じでもあるんだけど」
耳元で鈴の鳴るような声がした。
声が近い――近すぎる距離。
振り向いた神官の視界いっぱいに、絶世の美少女が存在していた。星空のような髪。虹のように定まらない瞳。薄着なのにまったく寒そうにしていない。むしろ、寒さという概念を知らない顔。
星髪の少女――アギト。
神官は思考が止まる。
状況が理解できない。戦場に立つ者の気配ではない。子供が遊び場に来たような軽さ。
だが、その軽やかさは、死地に誘う足取り。
少女はにこっと笑った。
「ぎゃおー。咬んじゃうぞー」
「――は?」
問いが口を出た瞬間、手が動いた。
――咬む。
それは比喩ではない。獣の顎など無いのに、確かに「咬まれた」と肉体が理解する。
指が顎のように食い込み、加護の膜を裂き、鎧を裂き、肉を裂く。まるで硬い果実の皮を剥くみたいに。抵抗があるはずなのに――抵抗の意味ごと噛み砕く。
神官は声にならない音を漏らし、崩れた。血が飛び、雪を汚す。
同時に、悲鳴が連鎖する。
神の加護を得た精鋭。大砲すら無効化する神の戦士。それが、少女と老人の前では塵芥。
神官たちは後ずさりながら喚いた。
「な、なんだ……何なんだ貴様らは!? 神の力を無効化しているのか!? よもや貴様ら悪魔の眷属――」
「世迷言言う暇があるのなら反撃せんか、戯け」
言いかけた神官を、ハガネが斬る。
斬首は滑らかだった。首が落ちた後に血が流れる。斬られた本人は、自分が死んだことを理解できず――理解した頃には終わっている。
神の加護を無効化しているのではない。
神の加護ごと斬り伏せているだけ。
ハガネの剣が沈んでいる地点は、与えられた祝福より深い場所だ。
剣の理。積み上げた時間。研鑽。無数の死線を潜り抜けた眼。与えられただけの印で、防げる類のものではない。
アギトの力も同じだ。彼女の笑顔の奥にあるのは、上位存在の重量。世界天蛇の分身。人の尺度では計れない格。
投げ売りのように配られた加護など、牙の先で砕ける。
神官たちの隊形が崩れる。攻勢どころではない。撤退の思考が芽生える。
「ひ、退けっ! 化け物だ! 帝国に化け物がいる! この情報を国に持ち帰らねば――」
使命より、生存本能が勝つ。だが、撤退が可能だと考えた時点で――手遅れだ。
叫びながら走り出した神官達の背を、アギトがすっと見据える。
追いかける必要はない。距離など意味を失う。天蛇の「手」は短くない。
アギトは首を傾げながら、ケラケラと笑う。
「させると思うのそんなこと? おばかだなぁ」
右腕を上げて、左腕を下げて……指を並べる。
それはまるで巨大な顎の歯列のように。
その動作は――世界にとっては、一種の宣告。
「噛み砕く咎人の牙」
次の瞬間、空間が噛まれた。
噛み砕かれたのは肉体だけではない。加護も、鎧も、術式も、意思も魂も。
そこにあった全てが、ひとつの顎の動きで断ち切られた。
音が遅れて消え、風が遅れて戻る。あらゆる事象が遅れて動く。
残ったのは、物言わぬ躯の山。
そして静けさ。
ハガネは刃を一振りして血を落とし、夜叉を納める。鞘鳴りは短い。余韻を残さない動作。戦いを「作業」として閉じる。
アギトは血の飛んだ頬を指で拭って、にっこり笑った。
「びくとりー」
「……遊ぶな蛇娘」
「えー? 遊んでないよ、真面目だよ? 超真面目なんだから」
腰に手を当てて、プンプンと怒るアギト。
そんなアギトを見て、やれやれと嘆息するハガネ。
どちらも緊張感が薄い。それだけ二人が強いのか。
あるいは――相手にするだけの価値も無い敵だったのか。
そこへ、駆ける足音があった。
雪を蹴散らし、兵の制止を置き去りにして、一人の男が豪快に突っ込んでくる。戦斧を肩に担いだ戦装束。毛皮の外套が翻り、息は白く弾け、目は獣のように前だけを見ている。
帝王ウィルトスだ。
「陛下! お待ちを! 護衛が――!」
「陛下! 危険です! まだ敵が潜んでいる可能性も――!」
後ろで兵が叫ぶ。焦りの色が濃い。国の王が、軍の総大将が、護衛も付けず最前線へ走る――そんな状況を見て慌てない兵などいない。
だが、ウィルトスは耳も貸さない。
彼は死体の山を前にしてようやく足を止めた。
そして「あちゃあ」と額に手を当てた。
「全滅させちまったのか。ひとりくらい残して置いてもらえると有難かったんだがなぁ」
捕虜。情報。相手の編成。何が目的か。誰の命令か。装備の種類。
帝王としては、欲しいものが山ほどあったが……躯の山ではもう喋れない。
アギトは両手を背中に回し、悪びれもせずに言った。
「ごめーん。全部咬んじゃった。てへり」
「可愛い子ぶるな……まったく」
ウィルトスは思わず苦笑した。見目が良いぶりっ子は、それだけで許してしまいそうになる威力を持っている。
だが、実際に許せるかと言えば別の話。
正確には――許せないのは、彼女ではない。状況である。
ウィルトスは腰を落とし、最も近い死体に手を伸ばす。鎧の切断面を指先でなぞり、刀痕の滑らかさを確かめる。指に冷たい血がつく。生々しい現実が、指から脳へ流れ込む。
「鎧ごと一刀両断か。かー、やはりハガネは恐ろしいものよ。神聖国の加護持ちですら敵にならんか」
そこに、老人の声が被さった。
低く硬く、余計な熱を一切含まない声。
「帝王。そのゴミ共を『普通』の加護持ちと同列に並べるな」
剣聖ハガネは立っていた。戦いの後で息が乱れている様子はない。老いた身体のどこにも「疲れ」の兆候が見えない。夜叉は鞘に納まったまま――けれど、その声に刃のような鋭さがある。
「そいつらは与えられた玩具で遊んでいるだけのゴミだ。本来、そんなゴミに加護は与えられん……儂が過去に見た加護持ちは、そいつらのような腰の抜けた腑抜けではなかった」
ハガネの言葉には混ざっているのは、怒りというよりも、もっと厄介なもの。
軽蔑と、失望と、ほんの少しの痛み。
ウィルトスは、ふっと目を細めた。
剣聖が語る「過去に見た加護持ち」。帝王にも心当たりはある。帝国の国内にも、王国にも、魔国にも、確かに「加護を受けた者」はいる。
だがそれは稀だ。僅かな恩恵でも千人に一人の割合。
実戦に影響を及ぼす規模となれば、本当に数えられる程しか存在しない。
加護は「与えられるもの」ではない。
神が見て、気に入り、そして印を残す――そういう性質のもの。人格と行為と価値観が一致した者にだけ、奇跡の端が引っかかる。だから欲望に溺れた者は、そもそも視界に入らない。神にとって価値がない。
今までは、それが常識だった。
「端的に言って、そいつらは神の力に酔っている」
ハガネはさらに断じる。
「元来そんな愚か者に、神は加護を与えん。過去に出会った者の中には、気難しく潔癖で、儂と相性のよくない者もいたが……それでも愚物ではなかった。こんなゴミでは決してなかった」
ウィルトスは、死体から手を離した。
指先の血を軽く払う。雪に落ちた血が、黒ずむように広がった。
「ふむ……」
帝王は、笑い声を飲み込んだ。笑う状況ではない。
だが、この不自然さは笑うしかないほどの非常識でもある。
アギトが、しゃがみ込んだまま死体を指でつついた。
子供が石ころをつつくみたいに。
「神聖国の神――ソルの奴が適当に配ってるんだろうね。何でそんなことしてるのかは知らないけど」
アギトの言葉に、ウィルトスの口元が引き攣った。
彼は豪胆だが、現実の歪みには敏感である。
「加護を配る……そんなことが可能なのか?」
加護が「安売り」されている。
それは、帝王が今まで見てきた世界の常識を、根元から折る現象。
アギトは首を傾げた。
「可能でしょ。神に制限がある訳じゃないんだし。神が『気に入った者』に与えられるのが加護なんだから、極端な話だけど――国の兵全員に加護配るのも、可能か不可能かで言えば一応可能だと思うよ」
周囲の兵が、文字通り息を止めた。
もし本当に「配れる」なら、こちらの戦争の常識が崩れる。兵の質を上げるのに十年かかる世界で、相手は一夜で兵の質を変え得る。
「……厄介な話だな」
ウィルトスは頭の中で兵站を計算していた。もし相手が加護持ちを量産してくるなら、こちらの損耗は増える。砲弾は有限だ。鉄も火薬も、作れば作るほど国力を削る。
戦は数字の勝負。そこに神の無法が混ざるなら、数字が壊れる。
アギトが続けた。
「問題は、こんな適当に力ばら撒いて、北で何やらかすつもりなのか――そっちが本題だと思うよ。無暗矢鱈に力を与えない、っていうのは神達では暗黙の了解だったし。その暗黙を破ってまで、何を考えてるんだか」
ウィルトスの眉がわずかに動く。
暗黙の了解。神にもある「縛り」。
彼は神の理屈は知らないが、戦場で何度も「神の介入が一定以上は起きない」ことを経験している。歴史上でも確認されている。加護保有者の数が少ないのが、一番分かりやすい証明。
ウィルトスが、アギトに問う。
帝王の声音は変わらないが、言葉の端にわずかな緊張が混ざった。
「アギト。お主は――お主の本体は遥か太古より世界を見てきたのだよな? ならば今回のようなことは発生しなかったのか?」
「ないよ。こんなの一度もない。それにここまで派手に動けば、他の上位神だって黙って――」
そこで言葉が止まった。
アギトの瞳が、一瞬だけ焦点を失う。
彩色が揺らぎ、まるで視線が揺れるように。
彼女は考えている。普段なら「どうでもいいー」で済ませるものを、今は全力で考えている。
そして、何かに気付いた。
顔色が変わる。汗が一筋、頬を伝う。
「……いや、そうか……」
小さな声。自分に言い聞かせるように。
「加護の保有者は、所詮は『神に気に入られた印』に過ぎない……だからもしかして、これって、まさか、神が動いた事にはならないの……?」
ウィルトスは、その言葉の意味を理解できない。理解できるはずがない。人間は神の帳簿を知らない。神々がどんな規定で互いを縛っているのか、知りようがない。
故に帝王は、アギトから一度視線を切る。そして、山脈へ目を向ける。
あの山道。神聖国へ繋がる唯一の道。細い峠。狭い通路。そこに兵を流し込めば、戦になる。戦にされる。
この場合、帝国が取るべき手は。
「……止むを得ん。道を潰すか」
口から出た言葉は短い。だがその中身は極めて重い。
ウィルトスは好戦的な王だが、無意味な戦争は好まない。勝つ戦いは好むが、勝った後に国が痩せる戦いは嫌う。だからこそ「道」を潰す。敵が来る道そのものを、戦場にしない。
ハガネが眉をひそめる。
「……崩落でもさせる気か帝王?」
「ああ。神聖国へと繋がる道は限られている。山の麓に砲を設置。目に見える山道を、全て砲撃で潰してしまうのもひとつの手だ」
帝王の声には迷いがなかった。
「……豪快な手だな。無茶が過ぎるぞ、それは」
「仕方あるまい。向こうが加護保有者を量産するという無法をやっているのだ。こちらも無法でいかねば対抗できん」
無法の応酬。
ただし帝王は、その無法に「目的」を与えている。
無意味な破壊ではない。
「雪崩も発生するだろうしな。最低でも時間稼ぎにはなるだろう。そして出来た時間を使い――神聖国への本格的な対抗策を練る。ただ黙ってやられるばかりが帝国ではないわ」
その笑みは凶暴だった。戦斧を担ぐ姿が似合う笑み。
だがそれは歓喜ではない。報復の決意が形になった笑み。
この戦いで、帝国兵が死んでいる。
一方的に奪われて、笑って許す王などいない。
「要塞の守りも高める。人員も増やす。連絡は密にする。そして余は帝都で、策を練る」
矢継ぎ早の命令。帝国という巨大な機械が、帝王の言葉で歯車を回す音がした。
兵は動く。将校が走る。伝令が駆ける。
砲兵の配置が変わり、工兵が呼ばれ、測量の段取りが始まる。
山を潰すには、砲だけでは足りない。杭、縄、滑車、火薬。戦は、戦場の外で決まる。
帝王は、最後にアギトを見る。彼女はまだぶつぶつと独り言を呟いている。目は深い場所を見たまま、人間には聞き取れない言葉で。
「そういう訳だアギトよ。ぶつくさ呟くのは後でも出来る。準備に取り掛かるぞ」
「――え? あ、うん。わかったー」
きょとんとした顔。
次の瞬間には、足取り軽く、兵の邪魔にならない場所へ移る。
ハガネは、もう一度だけ山脈を見た。
神聖国の方角。
神の箱庭へ繋がる山。
(――儂は斬るだけよ。生憎、貴様らは敵としてすら見れんのでな)
老人の眼差しは冷たい。
だがそれは怒りというよりも、価値の判断だ。
剣の理に沈んだハガネは、神聖国の神官に何の価値も見出していない。
価値がなければ「斬る」だけが残る。
ハガネは視線を切り、帝王の背へ歩みを合わせた。アギトもその隣をふわふわと付いていく。
求道者。
星髪の分身。
進撃の帝王。
三者三様の思考は交わらないまま、それでも同じ方向へ揃っていく。
山道を潰す。
時間を稼ぐ。
――北の箱庭が、何を目的に動いているのか掴めぬまま。
戦は、もう始まっていた。




