第91話・ニクス
――白い世界が浮かんでいた。
薄絹のような、白く淡い膜。霧に似ているのに霧ではない。見えないのに見える境界。視線は通るのに距離感が狂う。先が見えない。後ろが見えない。音が吸われ、匂いが薄まり、空気そのものが外と――世界から切り離されている。
過激派の神官戦士集団は、その白い膜を見回した。
先が見えない。後ろが見えない。音が変だ。声が反響しない。吐いた息が流れず、すぐ足元に落ちる。風が、存在しない。まるで世界から切り離され、白い箱に閉じ込められたような感覚。
「……結界術か」
槍持ちの一人が低く言う――それは正解だった。
この白い膜は外界と内界を仕切る壁。外へ出られない。
今この瞬間、彼らは白い世界に閉じ込められている。
だが彼らは神の加護を得た戦士だ。この程度の結界なら破れる。
破れないはずがない。破れない――そんなことは神が許さない。
後列の術者が歩を進め、両手を掲げる。すると掌の間に光が集まった。
太陽のような光。熱と眩しさと、信仰の匂い。光輝神ソルの恵み。神聖国の首都を暖め、作物を育てる恵みの残滓。その一端を、人の肉体が耐えられる範囲に押し込めたもの。
「日輪焔!」
光が燃える。
炎というより、直視してはいけない昼そのもの。熱というより、光そのものが肌を刺す。魔術構成にとっては毒だ。普通の術式なら照らされただけで編み目が乱れ、構造が崩れる。解除魔法に近い。神の光で書き換える術。
白い世界へ光がぶつかる。
膜が揺らぐ。薄絹が風に震えるように、わずかに波打つ。
だが――破れない。
晴れない。
光が白に飲まれ、白は白のまま残る。
眩しさすらも飲み込まれて、日の光が消える。
「……何?」
術者の声が、小さく漏れた。困惑が過激派の間に広がる。
彼らは「神が負ける」場面に慣れていない。負けるはずがない。神の意志は絶対だ。だから、今起きていることが理解できない。
白髪の男――ニクスはため息を吐いた。
雪と同じ色の外套。白い髪。気だるげな目。
立ち姿は軽いのに、山の地面に根でも生やしているように動かない。
「神の加護――大層な肩書だけどな。別にそれ、本質はそんな大したもんじゃねぇ。神にとっての、お気に入りの印。書類の端っこの走り書き。そんな程度のもんだろうが」
ニクスは、まるで覚えの悪い子供に説明するような口調で続けた。
同時に白い膜を指先で軽く叩く。布を弾くような軽い音。
見た目通りの薄い結界……それなのに、神の加護すら通さない。
「そもそも、お前らの加護ってあれだろ? 今、神聖国で安売りみてぇにばら撒かれてるやつ。粗悪品だ粗悪品。んなモンで俺の結界が破れるわけがねぇよ」
過激派たちの眉が一斉に跳ねた。
侮辱。神への侮辱。自分たちへの侮辱。信仰への侮辱。
「貴様……我等の加護を、神の力を侮辱するか!」
剣先が向けられ、石突きが雪を踏む。怒りの熱が立ち上がる。
彼らの信仰は燃料だ。燃やせば燃やすほど「正しい」と感じる。
正しいから踏み込む。踏み込む先から正しくなる。
それ以外の答えが用意されていない、一直線の道。
ニクスは、疲れた顔をさらに疲れさせた。
「……ガキだろうが何だろうが見境無しで殺して。自分らがどんな扱いされてるかも理解せず。ただ神の言うがままに動く」
軽く首を傾げ、吐き捨てる。
「光輝神もクソだが、お前らもよっぽどだな。クソにクソが従ってるって、どんな肥溜めだよそれ」
その言葉で、神官たちの殺意が爆発した。
「光輝武装!」
術者が叫ぶと同時に、剣と槍が光を纏う。
刃が白い炎になり、槍先が太陽の針になる。
前列の槍が、踏み込みの勢いごと突き出された。
障壁ごと貫く光の槍。
攻撃のためではない。誅伐のための釘。
そこに情はなく、あるのは執行だけ。
ニクスは迫るそれを――
「――だからさ。貰った玩具ではしゃぐなよ、お前ら」
――片手で掴んだ。
握った瞬間、白い火花が散る。
普通なら皮膚が焼け、骨まで炙られる。
だがニクスの手は、掴んだまま動かない。顔色すら変わらない。
「な……っ」
神官騎士が息を呑む。
だが何かの間違いだと思い、槍を押し込む。全身の筋力を込める。加護を流し込む。
太陽の神の聖気を宿した槍。ならば並みの人間は、その熱だけで悶え苦しむはず。
けれど槍は僅かたりとも進まない。雪を蹴る足が滑り、踏ん張り直した瞬間――ニクスが槍を軽く捻る。
――光の槍が、へし折れた。
まるで、木の枝を折るような音。
瞬間、槍先の光が霧散して白い火が消えていく。
持ち手の槍はただの武器に戻る――否。もう頼りない棒にしか見えない。
槍持ちは目を見開いた。理解が追いつかず、口が開いたまま閉じない。
ニクスは折れた槍先を投げ捨て、肩を竦めた。
「ほらな。神の加護を貰ったからって、お前らの力が格段に大きくなった訳じゃねぇ。力の質が変わっただけ……いや、色が付け足された程度か? どっちにしろ、言う程強くなった訳じゃねぇんだよ」
次の瞬間、槍持ちの背後から剣が飛び込む。
「滅びるがよい!」
強襲。奇襲。
殺意を隠す気すらない、純粋な斬撃。
刃は光を纏い、白い弧を描いてニクスの首を狙う。
ニクスは、半歩だけ体をずらす。
それは避けたというより――そこに動いただけ。
剣が通るべき空間を、ほんの僅かに変える。
そして腕を一閃。
「白傷裂」
白い線が走った。
空気が裂ける音。雪が細かく舞い上がる音。
――神官騎士の身体が、甲冑ごと両断された。
見えたのは結果だけだ。光刃が途中で途切れ、金属の甲冑が紙のように裂ける。
神官騎士の体が崩れ落ち、雪の大地を朱に染める。
その光景を見て、過激派の呼吸が止まった。
死。今まで与える側だった死が、自分たちに向く。その瞬間、彼らの中の「正義」が一瞬だけ言葉を失う。絶対的だ神の力に、僅かな陰りを生ませる光景。
だから――過激派の誰かが、理屈をつけるために掠れた声で叫ぶ。
「貴様よもや……他の神の加護を持つ神官か!?」
理解できないものに、理解できる書式を貼ろうとする声。
自分たちを超えるのなら、他の神の加護があるはず。
あるいは英雄級のレベルか。いずれにせよ特別な理由があるはずだと。
実際、ニクスの振るう力には「聖なる力」が宿っている。神官騎士達も、その力の片鱗には気づいている。故に、ニクスが神の加護持ちだと判断するのは、思考の方向性としては間違っていない。
ニクスが纏う白い外套も、神官達が着る物に酷似している。過激派達の目には他の神へ信仰する異教徒にしか見えない。
だがニクスは、溜息を吐くばかり。
「……いや、なんだっていいだろ。俺が何なのかとか。こうして向かい合ってる時点で、お前らが退かねぇ時点で、やること一つなんだし」
過激派の隊長格が、怒りを鎧にして前へ出る。
死体を見ても退かない。退けない。退けば、信仰が折れる。
信仰が折れた瞬間、存在の中身が空になってしまう。
「確かにな。貴様が異教徒ならば、我等が退く選択はない。ここで滅殺あるのみよ!」
「……はいはい。それでいいから、はやくかかってこいよ」
彼は手招きした。気怠そうに、億劫そうに。敵としてすら見ていない顔。
過激派が吠え、術者が光を集める。残りの槍持ちが距離を詰め、剣持ちが左右に開く。連携は上手い。彼らは弱くない。人間同士の戦いなら、間違いなく精鋭の部類。
だが相手が悪い。
いかに苛烈に始まろうと――これは刹那で終わる戦い。
戦いと呼ぶには、あまりに一方的なものなのだから。
◇◇◇
全てが終わったあとに残るのは、静けさだけだった。
雪の大地に伸びる赤は、戦いの熱が消えた途端にやけに生々しく見えた。
血は白い表面で派手に目立つ。風がひと吹きすれば血の匂いが薄く広がり、ひどく嫌な鉄の香りになる。
ニクスは雪に刺さったままの折れた槍を見下ろし、小さく舌打ちした。
「……あーあ。掃除の手間まで残していきやがって」
誰も答えない愚痴。
白い膜は、まだ張られたままだった。薄絹のような結界が、死体と血と武器を包み、世界の音を遠ざけている。外の音は何も入ってこない。ここだけが、真っ白な箱の中。
ニクスは結界の縁に指先を当て、まるで布の糸をほどくように力を抜いた。
すると薄膜が、抵抗もなくほどけていく。
白が白へ溶ける。境界が境界であることをやめる。
空気が元の流れを取り戻し、遅れて音が戻ってきた。
風が鳴る。枝が擦れる。遠くで雪が落ちる。
そのときだった。
「いやぁ、お見事お見事。大したものですね」
乾いた拍手が、場違いなくらい明るく響いた。
ぱち、ぱち、ぱち、と。
ニクスが視線を向けると、樹々の影から男が出てきた。
旅商人の格好。毛皮の襟の外套に、よくある革袋。
さっきまでここで戦闘があったのに、その男は「祭りを見物していました」みたいな顔でにこやかに笑っている。
恐れはない。反省もない。
罪悪感に至っては、どこかに忘れてきたらしい。
ニクスは、じとっとした目だけで刺した。
「……おい。それが、俺ひとりに任せて高みの見物してた奴の台詞か?」
商人は肩をすくめ、両手を広げる。
「ええそうですよ。私はただの平凡な旅商人ですからね。商人は商人らしく、生き残るために隠れる。合理的でしょう?」
「……俺だけに戦わせるのが合理的だと?」
「そう思ってますよ――それが何か?」
その商人の顔を見て、ニクスは悟る。
恥という概念が、彼の辞書にはない。
あるいは最初から抜けている。入っていない。
「……はぁ」
ニクスは溜息を吐いて、視線を山の麓へ移した。
穏健派の神官たちが転がるように逃げていった方向。雪の斜面はここから下で緩み、木々の密度が増して、山の麓が見えてくる。
「逃げ遅れたやつはいねぇよな?」
「大丈夫でしょう。魔国の砦はすぐ近くですし……ほら」
商人が顎で示す。ニクスが耳を澄ますと、かすかに音がした。甲冑が擦れる音。雪を踏む足音。遠くで短い笛。合図の連鎖。
複数の人員が動いている音だ。
「魔国側の監視員が気付いたんでしょうね。近くの見張り台から伝令も飛んだみたいです。もうすぐ魔国の猛者たちが大勢でここに来ますよ」
「げ。じゃあさっさとズラからねぇとな……ここで見つかったら面倒だ」
「ええ。私もあなたも、ここで砦の兵達の事情聴取なんて受けてられませんからねぇ。はやく退散しましょう」
商人が朗らかに言い切り、ニクスがそれに賛同する。
二人は真正面の下山路を捨てた。
わざわざ人の通る道を使う必要はない。使えば見つかる確率が跳ね上がる。
だから、横へ。
樹々の密度が増した場所へ。枝が視線を遮り、葉の影が輪郭を隠す場所へ。
二人とも気配の消し方が妙に上手い。枝を踏まない。雪を鳴らさない。
ニクスが歩きながら、普通の声で言った。
「あの逃げ込んだ奴等から、魔国側は神聖国の現状を把握するよな?」
「当然でしょう。あの方々は命がけで山脈を越えてきた。話さない選択肢は皆無です」
商人は平然と言う。
その言葉を聞いて、ニクスの脳裏に穏健派の顔が浮かんだ。子どもを抱えた手の震えも。置いてきた仲間を想う眼も。あれは演技ではない。怒りと悔しさの混ざった、本物の顔。
商人もそんな彼等の情緒は理解しているのか、小さく頷きながら続ける。
「迅速に手早く、情報は伝達されるでしょう。魔国の女王は中々の名君ですからね……神聖国の動きに対応しない筈がない」
「なら……この国はすっとばして王国に向かって問題ないよな?」
「ありませんね。というか、あなたがさっさと南部に向かわないと、色々と拙いんですよ」
商人の声が少しだけ低くなる。笑っているのに、言葉が軽くない。
「最終的に世界がハッピーな結果で終わるのだとしても、過程が変わる。過程が変わると、最終地点もズレる。そのズレが全体的には問題無くても――私達にとって笑える結果になるとは限りません」
「……その辺の機微を、東の蛇女は捉えてねぇんだよな。ったく。もうちっと「途中」のことも考慮して動いてくれないもんかね」
「はははは。ご愁傷さまです、ニクスさん」
商人はケラケラ笑う。笑い方だけは陽気で、まるで酒場の与太話の合いの手だ。
だが内容がおかしい。耳に入った瞬間に背筋を冷やす類の単語が混ざっている。
東の蛇――その単語を当たり前のように会話に混ぜ込む二人の素性は、未だ掴めない。
木々の間をすり抜けながら歩くと、雪の斜面が緩んできた。
地面が固くなり、山の鋭さが薄れる。麓が近い証拠。
遠くからまた笛の音が聞こえた。今度は低い。合図の種類が違う。
兵が現場に近づいたのか。それとも周囲の警戒と調査を始めたのか。
ここからでは解らないが……兵の動きが迅速なことだけは解る。
「……来るの早ぇな」
「魔国の北部は仕事が早いんです。怠け者では国を守れませんからね」
商人の言い方は冗談めいているのに説得力がある。
北部山脈帯は冗談で済まない土地だ。商人の言うように、怠け者はそもそも生き残れない。
ニクスは歩きながら、白い自分の髪を指先で摘んだ。
目立つ白。どこへ行っても目立つ白尽くめ。
商人がそれを見て、楽しそうに言った。
「とりあえず、魔国の首都に向かいましょう。まずはニクスさんの身分証を作りませんと」
「あー……やっぱ必要か?」
「当然ですよ。今のあなたは、正体不明の謎の白髪不審者ですからねぇ」
「おい。言い方」
「事実です」
事実だから反論しづらかった。
けれどもニクスは、自らの髪の色を隠す気がない。
あるいは――隠せないのか。
「とりあえず冒険者ギルドにでも登録しておくのが丸い選択でしょうか。『身元不明だけど腕は立つ人』って枠は、どの国でも一定数いるものですからね」
ニクスは渋い顔をする。
「冒険者かー……こんな状況じゃなかったら興味もあるんだがな」
「わくわくドキドキの冒険者生活! 未知の迷宮! 強大な魔物! 可愛い受付嬢! いやぁいいですね! 楽しそうで何よりです! 私も暇があれば冒険者してみましょうか!!」
「アンタが楽しそうに冒険者やってたら、それこそ世も末だ」
「心外ですね。面白おかしく生きているだけだというのに」
会話の間にも、彼らは確実に南へ向かっていた。木々の密度がさらに増し、地面を覆う雪の白が減ってくる。ここまで来れば、視界で追うのは難しい。追跡者が勘と経験で追うしかない地点。
商人は歩調を変えずに続けた。
「魔国の首都ラウルスリムは、多種族が混ざってます。よそ者も多い。噂は流れますが、噂が多すぎて薄まる。あなたみたいに目立つ人でも、案外紛れますよ」
「まあ、他種族の坩堝だしな」
「ええ。そこで身分を作って、必要なら女王の周辺をちらっと見て、それから南へ。王国に入り、状況を整える。簡単でしょう?」
ニクスは渋々頷き、前を向いた。
二人は歩く。南下する。樹々に紛れ、気配を薄くし、北部の騒がしさを背中に置いて進む。
目的が不明の二人だが、解っていることがひとつだけある。
彼らもまた、激動を迎えようとする世界に対して動く歯車だということ。
そして歯車は、回り始めたら止まらないということ。
雪が枝から落ち、静かに肩へ積もる。
ニクスはそれを払い落とし、商人は楽しそうに鼻歌を歌う。
魔国の首都は――二人の足ならば、きっと遠くない。




