第90話・魔国北部山脈帯
魔国北部、山脈の麓。
空気が違う。冷たさに痛みが加わる空気。風に当てられるだけで、鼻と耳が少し痛む。湿地の生温い腐臭も、砂漠帯の焼けた砂の匂いもない。岩と雪の残り香だけが見える。
山は、そこに在るだけで「境界」だった。
魔国は大きく四つの地帯に分かれる。海沿いに乾いた風が吹き、日中は灼ける西岸砂漠帯。蚊と毒と沼が基本装備の西南湿地帯。首都ラウルスリムを抱く中央緑帯。
そして、この北部山脈帯。
山脈の向こうには神聖国がある。
その山の手前に、前線基地――砦がひとつ。
ここに赴任する者は、各部族の腕利きばかりだ。
屈強なドワーフの戦士。岩を割る腕、鉄を砕く膂力。鎧の重さと同じだけの責任を背負う者。
魔法の達人であるエルフの魔導師。術式の組み立てが早く、詠唱が短い。長命ゆえの冷静さと、長命ゆえに積み上がった怒りを持つ者。
俊敏な獣人の狩人。匂いと気配で敵を読む。雪の上を音なく走り、夜に目が利く者。
冷静かつ万能なリザードマンの剣士。湿地の民の代表でありながら、山にも順応した者。
各種族の精鋭が集まる砦。その数は百を優に越えている。
そして――ここに種族ごとの諍いはない。
諍いを考える暇がない、ではなく。諍いを考える程度の愚か者は、最初からここへ来られない。選抜の段階で落とされる。ここに必要なのは鉄の意志だけだ。矜持も偏見も、山に向ける刃に変換できる者だけが残る。
この砦に赴任する者は、志願でも左遷でもない。
――選抜である。
それでも、気風の違いは残る。
炉の前で鉄を叩くドワーフの癖。
焚き火の揺らぎを見て術式の整合を測るエルフの癖。
空気の乾き具合で天候を読む獣人の癖。
水の減りで行動計画を修正するリザードマンの癖。
それぞれ違う。だが違いは対立にならない。ここでは「違い」が強みになるからだ。
砦の中央。最も暖かい場所――食堂兼詰所。
日が傾くと、ここに人が集まる。外は冷える。夜に備えて体温を貯める時間だ。武器の手入れをし、甲冑の紐を締め直し、湯を飲む。熱が体に落ちた瞬間、ようやく「生きている」という実感が戻る場所。
その日も同じだった。
窓枠には薄い霜が張り、外の世界は沈んでいる。
山は白い。雪に埋もれて、輪郭だけが浮かび上がる。
暖かな茶を飲みながら、エルフの魔導師が窓の外を見つめていた。
窓の外。白き世界の先の――神聖国の方角を睨みながら。
「……最近は神聖国の動きは大人しいですね。過激派のクソ共がいないと、こんなにも平和で静かとは」
しみじみと語る声は、皮肉と安堵が半々だった。
あの険しい山を越えてくる神官たちの多くは過激派だ。言葉は通じる。だが会話は成立しない。こちらの存在を「異物」と断じ、断じた瞬間に正義の名のもとに斬る。彼らにとって異教徒や異種族との対話は存在しない。結論は最初から決まっている。
何度となく戦い、何度となく追い返してきた。
過激派は強い。加護を受けた剣は軽いのに重く、盾は硬い。傷の治りも早い。魔法に対する抵抗もある。だがそれ以上に厄介なのは、恐怖がないことだ。死を恐れず突っ込んでくる者は、戦術で崩しにくい。止めるには、より強い意志が必要になる。
ドワーフの戦士が、エルフのすぐ近くで茶を飲みながら言う。彼のカップは小さい。手が大きすぎて、玩具を持っているように見えた。
「奴らは来なくていい。永遠に北の奥地に引きこもってくれればそれでいい。あんな連中相手に鍛えた武器を振るう事すら馬鹿馬鹿しく思えるぞ」
吐き捨てるような言葉。怒鳴り声ではないが、低く燃える怒りが見える。
エルフが苦笑した。
「ドワーフが『武器を振るうのが勿体ない』と言うの、だいぶ末期ですね」
「敵にも敵の『格』がいる。あんな連中は敵ですらない。……話にならん」
二人のやり取りには、かつてなら棘が混じっただろう。ドワーフとエルフは馬が合わない者が多い。鉄を尊ぶ者と、術を尊ぶ者。価値観が根本から違う。
だがここでは険悪にならない。もっと話にならない連中が北にいるからだ。
神聖国の過激派に比べれば、ドワーフとエルフの諍いなど可愛い。そう本気で思えるほど、北の壁は強烈だった。
獣人の狩人が、黙々と短剣の手入れをしながら話に混ざる。刃を布で拭き、光にかざし、僅かな欠けを確認する。
「……穏健派の者の山越えも最近少ない……俺は少し、そのことが気にかかる」
その言葉で、場の空気が少しだけ変わった。
神聖国からやってくる者は過激派だけではない。少数だが、話の通じる穏健派もいる。祈りを捨てきれないが、殺し合いを望まない者。神聖国の中で居場所を失い、山を越えてくる者。彼らは情報の宝庫でもある。神聖国が今どう動いているか、何が流行り、何が禁忌になったか。
そして正確には――穏健派は逃げてくる。
彼らは山を越え、魔国へ来る。魔国は他種族国家だ。神聖国にとっては「異端の巣」だが、穏健派にとっては「息ができる場所」でもある。
その逃亡が減っている。
それは、単に「逃げる気がない」ではない。逃げる余裕がない可能性がある。逃げようとしている者が、途中で捕まっている可能性がある。あるいは――逃げる者がいないほど、神聖国の内側が荒れている可能性がある。
腕を組み、椅子に深く腰を沈めていたリザードマンの剣士が、静かに口を開いた。
「何か北で起こっているのかも知れぬ。穏健派が山越えしないのではなく、出来るような状況にいない可能性も考えるべきだ」
言葉は慎重で、結論は重い。
さらに彼は続けた。
「旅商人も少ない。元々、神聖国を行き来する商人は稀少だが……ここ最近は更に減った。『買う』『売る』は、国が平穏な時にしか成立せぬ。そこが止まるのは、内部の余裕が削れているか――あるいは流通を必要としていないかだ」
商いは情報だ。商人は流れる水だ。水が止まる場所には、何かが詰まっている。
それとも――そもそも水を流していないのか。
エルフの魔導師が茶を置き、指先で窓を軽く叩いた。
「穏健派の話を聞くだけでも、神聖国の過激派が強硬手段を常にしているのが解ります。光の神への信仰と忠誠が絶対で、他の神への信心は認めない。あまりに思想が偏りすぎです」
ドワーフの戦士が鼻を鳴らす。
「魔国の気風とは絶対に合わんな。いや、魔国だけではない。王国とも、帝国とだって合わぬだろう。……合わせる必要はないがな」
獣人が刃を鞘に戻し、低い声で言う。
「元々こちらも合わせる気はない。忘れた訳ではないだろう? 奴らは俺達の『友』を魔物扱いした。それだけで許す事など出来ぬ」
その言葉は、怒りではなく「記録」だ。
ここで生きる者は、怒りを叫ばないが――怒りを忘れない。
そして獣人は、気遣うような視線をリザードマンへ向ける。
過去の出来事。神聖国の過激派は、リザードマンを見た瞬間に武器を構えて襲い掛かってきた。
互いに距離があった。こちらは警告し、引き返すよう促した。
それなのに――神聖国の過激派は言った。
『魔物と友好を育む野蛮な国め』
魔物扱い。友を否定する言葉。そこに倫理の余地はない。
野蛮と言われて怒ったのではない。
友を「魔物」と呼ばれたことが、殺意を生んだ。
リザードマンの剣士は、表情を変えない。ただ、瞬きが一つ遅くなる。
「……忘れておらぬ。だからここにいる。だから山を見ている」
短い言葉。だが重い。
この砦に集まっている者達の意見はひとつだ。
過激派に、この魔国の土は踏ませない。必ずここで押しとめる。
だから警戒は常に高い。
砦の上では常に見張りが交代し、夜目の利く獣人が暗部を補い、エルフの結界術が風の流れを読む。ドワーフが足場を補強し、落石の罠を整える。リザードマンが水と食糧の配分を冷静に管理する。
この砦が恐ろしいのは、誰か一人が強いからではない。
皆が「自分の役割」を理解しているからだ。
そんな砦だからこそ――その日、情報は早かった。
扉が開き、冷気が一瞬で部屋に流れ込む。見張り役の若い獣人が入ってきた。肩に雪がついている。息が白い。目が冴えている。走ってきたのだろう。
彼は敬礼もそこそこに、言った。
「監視塔から報告! 峠の南斜面で動きあり!」
場の空気が、瞬時に「戦場」の匂いに変わる。茶の湯気がまだ残っているのに、背筋が冷える。慣れた反応だ。恐怖ではなく準備の反射。
獣人の狩人が立ち上がり、弓袋に手を伸ばす。
ドワーフの戦士が鎧の留め具を締める。
エルフの魔導師が指先で短い印を結び、術式の準備を始める。
リザードマンの剣士が、腰の剣を確かめる。鞘の口が少しだけ鳴る。
見張り役は報告を続ける。言葉は簡潔で短い。だが確信に満ちていた。
――逃げる少数の神官集団あり
――追撃する武装小隊あり
その瞬間、砦の者たちは同じ結論に辿り着く。
これは「侵入」ではない。
これは「狩り」だ。
穏健派の神官達を、過激派の武装小隊が殺すつもりで追いかけている。
そして――その狩場が、魔国の境界線上にある。
見張り役が付け加えた。
「逃げる神官集団は、数が少ない。だが動きが……必死です。転びそうになりながら、それでも走ってる。追う小隊は……整然としてる。隊列が崩れていない。殺すつもりで、急いでる」
必死に逃げる者と、整然と追う者。
その構図が、胸の奥に嫌なものを残す。
リザードマンの剣士が立ち上がる。椅子が静かに引かれる。彼は言った。
「迎撃ではない。遮断だ。まずは両者の間に入る。……エルフ、視界を確保。獣人、弓兵を先行。ドワーフ、退路の補強。俺達リザードマンが前に出る」
命令ではない。合意だ。皆が同じ速度で動く。
砦の扉が開かれる。夜の冷気が雪の刃のように流れ込む。だがそれは恐ろしくない。ここにいる者たちは、この冷気と共に生きている。
砦の者たちは、北の山へ向かった。
逃げる神官集団。
追う武装小隊。
これが何を意味するのか。
この時点では、まだ分からない。
だがひとつだけ確かなことがある。
嵐の前の静けさは終わったのだ。
そして今、北部山脈帯は、静かに牙を剥き始めている。
◇◇◇
北部山脈は、逃げる者に牙を剥く。
白い外套を羽織った少数の神官集団が、岩と雪の混じった道を、ひたすら下へ下へと駆けていた。走る、という言葉が軽く聞こえるほどの悪路。足元は凍った砂利で滑り、ところどころ露出した岩が牙のように尖っている。踏み外せば落ちる。落ちれば死ぬ。死ねば、追手が笑う――その確信が背中を押していた。
彼らは皆、手ぶらではなかった。
抱えられた子供。背負われた幼子。布に包まれた巻物。薬草。水袋。聖印を刻んだ小さな木箱。逃げるという行為が、ただ自分の命を助けるだけではないと全員が理解していた。持ち出すべきものを持ち出し、守るべきものを守っている。
数名は既に傷を負っている。脇腹を押さえて走る者の指の隙間から、赤黒い血が滲む。腿を裂かれた者は、片足を引きずりながら、それでも歯を食いしばって前へ出る。袖口は裂け、雪が肌に触れて痛みが増幅されるのに、止まれない。
――逃げきれず、既に殺された仲間もいる。
その事実が、全員の喉の奥に詰まっていた。
本音を言うならば、置き去りにしたことを悔やんでいる。
背後で殿を務めた夫婦。追手の刃を受け止め、子供たちのために時間を稼いだあの二人。勝ち目がないことは、最初から分かっていた。それでも彼らは残った。残って、祈って、戦って、そして――たぶん、もう。
悔やむ。後悔する。怒りがある。悲しみもある。
だが、それでも引き返せない。
何より、無力な子供たちがいる。この子供たちを護る事の方が優先だった。大人が守るべきものは、正義の言葉ではなく、腕の中で震える小さな体温だった。
「もう少しだ……もう少しで山の麓。そこまでいけば魔国の領地に入れる……!」
集団のリーダー格が、息を切らせながら声を掛けた。声は掠れているのに、なるべく強く聞こえるように絞り出す。彼の腕の中にも幼い子供がいる。子供は不安と恐怖で小刻みに震えていた。
リーダーは、そんな子供の不安を取り除くように、精一杯の笑顔を浮かべた。顔の筋肉が引きつる。口角を上げれば、頬が震える。だが笑う。笑わなければ、この子は泣く。
「大丈夫。大丈夫だからな。もう少しで安全なところに着くからな……!」
子供は顔を上げる。涙が溜まっている。鼻先が赤い。冷えた空気で、息を吸うたび小さく咳き込みそうになるのを必死に堪えていた。
「ねぇ、ママは? パパは? 居ないよ? 迷子になっちゃったんじゃないの?」
「……っ!」
胸の奥が、きしむ。
言えない。この子供の両親は追手を食い止める為に殿を務めた、などと。
言えない。勝ち目がある訳がなく、もう確実に殺されている、などと。
出ない言葉の代わりに、ぎゅっと力強く抱き締める。抱き締めた腕が震えていたのは、寒さのせいだけではない。子供の頭を守るように掌を添え、顔を寄せる。
「……大丈夫だ。大丈夫。必ず、会える。会えるから」
嘘だ。
だが今は、嘘が命を守る。真実は、子供を殺す刃になり得る。
周囲の仲間達も同じだった。手ぶらで走っている大人は一人もいない。誰かが子供を抱えている。誰かが荷物を背負っている。誰かが仲間の腕を引いている。誰かが後ろを振り向きながら走っている。
少しでも腕の立つ者が壁となって時間を稼ぎ、体力に自信のある者が子や荷物を抱えて走り続けている。体力や魔力の限界は近い――それでも、置き去りにした仲間の想いに報いる為にも、足を止める事など許されない。
そして彼らには、もう一つの理由があった。
(それだけではない。神聖国の現状を、魔国に伝えなければならない……でなければ、この大陸全土で大戦乱が起こってしまう……!)
彼らは神聖国の穏健派神官。
古くから光の神に仕える敬虔な信徒でありながら、他種族や他信仰に排斥の感情を持たない者達。神の光は人を温めるためにある――そう信じていた。異教を焼くための火ではなく、凍えた手を温める日差しのはずだと。
元々、彼らの数は少数だった。古くからの保守派に比べれば弱小勢力。それでも王家が掲げる他国との協調路線と手を取り合い、首都でどうにか息をしてきた。祈りの言葉の意味が、まだ完全に歪み切っていない場所を守ろうとした。
けれど近年、過激派が勢力を高めた。決定的な転機は、おそらく「四年前」。
四年前を境に、街の空気が変わった。祈りが「願い」ではなく「命令」になった。説教が「導き」ではなく「選別」になった。神官たちの瞳から、躊躇いが消えた。
そしてついに、王家の虐殺という非道にまで手を染めた。
同時に、穏健派の排斥や討伐まで開始した。今、神聖国の首都は大荒れだ。光の神への恭順を誓わぬのなら皆殺し。他国への侵攻に賛同しないのなら斬首。法は神の名の下の暴力になり、聖堂は裁きの場に変わった。
すでに多くの仲間が命を落としている。
怒りと悔しさで奥歯が砕けそうになる。だが、どれだけ憤っても穏健派に勝ち目は無い。人数差はもちろんだが、元々の地力が違う。過激派の多くは、光の神の加護を得ている。
本来、千人に一人の割合でしか与えられぬ筈の「神の加護」が、多くの過激派の戦士に与えられている。
それが意味するものは一つだ。
神が、意図的に配っている。
神自身が名を掲げて、神自身の力をばら撒いて、異端を刈り取る刃を増やしている。
穏健派に出来る事は、他国への亡命しかなかった。
あと少し。あと少しで魔国の領域に入る。
山の麓が見えてきた。樹木の密度が増え、風が少し柔らかくなる。遠くに、人工の煙――砦の焚き火の煙らしきものが細く立ち上っているのが見えた。
その瞬間、背後の空気が変わった。
冷たいのとは別の、刺すような気配。
温度ではなく質。祈りに似た形をした殺意。
リーダー格の神官は反射で振り向き、見えないものを「見た」。
光が槍の形をして飛んでくる。
「――っ!」
背中に氷水を垂らされたような戦慄。迷っている暇はない。
彼は子供をさらに抱え込みながら、声を張り上げた。
「風壁!」
短い詠唱。捻り出すような発声。
空気が歪み、前方に薄い障壁が展開される。
風の膜。術者を護る硬い壁。
次の瞬間――光の槍が風壁に衝突した。
激しい衝撃。
轟音。風が爆ぜ、雪が舞い、耳の奥が鳴る。
目の前が白くなる。身体が浮いた――いや、吹き飛ばされた。
「ぐ――っ!」
穏健派集団は勢いよく転がり、雪と地面に叩きつけられる。
直撃は避けた。だが完全には防げなかった。風壁は裂け、光の余波が身体を殴る。
肋骨が軋む。肩が痛い。腕が痺れる。
それでも――子供だけは護ろうと、必死に抱き抱えながら受け身を取る。背中で地面を滑り、肩で岩を避け、頭を打たないように丸くなる。
子供が泣きそうになっていた。
「だ、だいじょうぶだ……!」
リーダー格の神官は喉の奥から声を引きずり出し、笑顔の形を作る。痛みのせいで歯が鳴った。
体が痛む。痛むのだが倒れ伏す訳にはいかない。彼は膝を突き、歯を食いしばって立ち上がろうとする。
その時――背後から、無慈悲な声が響く。
「諦めよ異端者ども。お前達の生存はない。有り得ない」
白い法衣と甲冑。剣と槍。白き神官騎士達が、整然と姿を現す。
隊列が崩れていない。息も乱れていない。
まるで最初からここに待っていたかのように錯覚するほど。
見ただけで分かる、大きな魔力と「神の加護」。
あれは戦闘専門の武装神官。光の神の神罰代行者。幼子すら殺す異端審問官。
彼らの剣と槍は、既に血で濡れていた。
赤が白に滲む。その色は雪の上でやけに鮮やかで、目に焼き付く。
「お前達に与えられるのは、我が剣と槍による裁きだけ。それが唯一の慈悲である」
慈悲。
その言葉が、胸の奥を刺した。
リーダー格の神官の脳裏に、殿を務めた夫婦の顔が浮かぶ。
必死に笑った顔。子供の手を握っていた手。あの手が、今は――。
怒りが沸き上がる。喉が熱くなる。
「貴様ら……あの夫婦を……っ!」
武装神官の一人が首を傾げた。
理解できない、という仕草。
あるいは理解する気すらないのか。
「? ああ、あやつらか。既に神罰は執行した。我等が手ずから首を断ったのだ」
淡々と、日課の報告のように言った。
親を喪った子供の前で――自らの行いに一片の罪悪感すら抱かずに。
「むしろ喜ぶべきことだろう。異端の考えを浄化し、汚れた肉体から解放されたのだから」
「――貴様らぁああああああ!!」
叫びが山に反響する。喉が裂けるほどの叫び。祈りの場で、決して出してはいけない種類の声。
だが、もう祈りは崩れていた。崩されたのだ。神の名を宿す刃によって。
リーダー格の神官は、風を掻き集める。
周囲の冷風を手元に収束させ、一本の槍へと形作る。指先が震え、魔力が乱れる。それでも作る。術を撃つ。撃たねばこの怒りは決して消えない。
「風槍!」
風の槍が放たれる。トロル程度の魔物なら風穴を開ける威力。
だが――過激派の武装神官が、瞬時に展開した光の障壁によって弾かれる。
力の差……だけではない。神の加護の有無が、武装小隊に大きな力を宿している。
武装神官が、上から見下ろすように告げた。
「お前達は光輝神様への恭順を示さなかった。ならば異端者であり堕落者である。故にその罪に対して、我等は罰を与える。己が不敬と罪悪を噛み締めて死ぬが良い」
穏健派の神官が、歯を食いしばる。子供が震える。仲間が咳き込む。血が雪に落ちる。
彼は叫ぶ。叫ばずにはいられない。
「……子供まで、幼子まで殺す必要がどこにある!? そんな信仰に、一体何の意味がある!?」
武装神官は、真顔で返した。
「? おかしなことを。子であることが、神への反抗の理由になるのか? ならんだろう?」
淡々と、説明するように。
「ならばそれは異端者だ。異端は全て滅ぼす……滅ばさねばならない。それこそが正義である」
正義。正義。正義。
その単語が、重く突き刺さる。
神官の胸の中で何かが折れそうになる。
彼は光の神を信じていた。信仰は、民を守り、心を救うものだと思っていた。だがいま目の前にあるのは、救いではない。刃だ。刃が笑っている。
だから――彼は叫んだ。
「そこまで――そこまで光の神が偉いのかっ!?」
全力の絶叫。かつて信仰していた光の神への反逆。心の底からの反抗にして問い。
かつて同じ神を祈った者としての、最後の抗議。
だが過激派には届かない。武装神官たちは、薄汚いものを見るような視線を向けるだけだった。
「……最早手遅れよ。貴様たちは薄汚れた異端の堕落者。慈悲は与えられぬ。皆ここで死に絶えるがよい」
迫る剣。迫る槍。
穏健派の神官たちの中で、誰かが小さく泣いた。
声を殺す泣き方。悔しさの泣き方。
リーダー格は、決意する。
せめて子供達だけでも逃がす。
自分の命はどうでもいい。自分たちが勝てないのは分かっている。だが「負ける」ことと「守れない」ことは違う。守るためにできることはある。時間を稼ぐ。子供を逃がす。それだけでいい。
「走れ!」
喉が裂けるほどの声で、子供を抱えた仲間に叫ぶ。
命令ではない。最後の願いにして――祈り。
「麓へ! 魔国へ! 見張り線に飛び込め! 助けを求めろ!」
子供たちが泣きそうな顔をしている。だが仲間の大人たちが歯を食いしばる。泣いている暇はない。泣けば足が止まる。止まれば終わる。
神官は一歩前へ出た。自分が壁になる。肉壁になってでも時間を稼ぐ。殿を務めた夫婦のように――いや、彼らの代わりにはなれない。それでも、同じ方向を向くことはできる。
その刹那。
白い声が、世界を閉ざす。
「白環結界」
白い薄膜が出現する。
光ではない。薄い膜が、円を描くように広がり、過激派の武装小隊の姿をふっと隠した。見えなくなる、というより「世界から切り離された」。
突然出現した真っ白な膜に阻まれ、武装小隊の白が溶けたように消える。声だけが、膜の向こうでくぐもる。怒号なのか、困惑なのか、判別できない。
驚く穏健派たちに、別の声が届いた。
「――ここは俺が受け持ってやるよ。あんたらは早くガキ抱えて逃げな」
その声が、どこから届いているのか分からない。
背後でもない。前でもない。耳元でもない。
近くて遠いどこかから――声が届く。
一体誰が。そんな疑問が脳に浮かぶ。
だが悩んでいる時間はない。
穏健派達は即座に子供達を抱え直し、走り出した。
足は震えている。呼吸は痛い。それでも走る。麓は目前だ。魔国の前線基地に辿り着ける。あるいはその前に、監視員がいるだろう。どちらでもいい。解るのは――九死に一生を得たということ。
走りながら、リーダー格の神官は一度だけ振り返った。
白い膜の内側。
過激派の武装小隊の前に、一人の男が立っていた。
白い外套。白い髪。雪のように色を奪った姿。
白い薄膜で過激派を「閉じ込めた」男が、立ち塞がるように立っている。
穏健派の神官は、喉の奥で息を飲んだ。
助かった、という安堵より先に、別の感情が浮かび上がる。
――あの男は、何者だ?
「さて。聖なる剣だか槍だか知らねぇけど……ガキを殺すのは、流石に趣味悪いぞ?」
場違いなほど軽い声音が、白い膜に吸い込まれた。
穏健派の神官たちは二度と振り返らず、麓へ向けて走った。
背後では、白環結界の内側で――気怠そうなニクスが、武装小隊の前に立っていた。




