第88話・サンクトゥス神聖国
サンクトゥス神聖国――そこは北の山脈と氷原に囲われた盆地国家。
他国の地図で見れば、まるで白い壁に守られた小さな箱庭。交易路は限られ、国境線は細い峠道に集約される。閉ざされているがゆえに、守りやすい。そして守りやすいがゆえに、内側で何が起きていようと外からは見えない。
そして氷に閉ざされた土地で、本来畑は育たない。土は凍り、風は乾き、日照は短い。生きるだけで精一杯になるはずの北で――それでも神聖国は飢えない。
理由は一つ。
土地そのものに、光輝神の加護が与えられている。
太陽と光の神。その力により、首都周辺だけは別世界のように温い。昼は穏やかで、風も柔らかい。太陽の無い夜は流石に冷え込むが、氷原の刺すような寒さとは比べものにならない。
逆に、神の加護が薄い首都から遠い村落は――冷たく厳しい。それでも、人が暮らせる程度には「残照」が届く。どうにか生きられる、という水準がそもそも異常だ。上位神の一柱に相応しい力が、北には満ちている。
奇しくも、その構図は西の魔国が抱える恵みと似ていた。あちらが樹の主によって土を肥やされるなら、こちらは太陽の主によって温められる。
神聖国において、光輝神の信仰は「一強」である。
他の神に祈ろうものなら異教とされ、容赦なく迫害される。太陽の加護以外は認めない。信仰の名を借りた国家の骨格が、そのまま剣の形をしている。サンクトゥス神聖国とは、そういう国だった。
その頂点に立つのは、王ではない。
教皇である。
白銀の髪。銀の瞳。白磁のような肌。若いのに、触れれば冷たいと錯覚しそうな清冽さ。彼が立つだけで、その場所が聖域になる。白い法衣は汚れを拒み、彼の周りは常に静謐。
完璧すぎる慈悲と調和。穏やかな微笑。慈愛の顔を絶やさない若き教皇。
首都の中心、白い石で積まれた大聖堂。雪の下でも汚れを拒むような大理石の床。
その聖堂の床に膝を折っている騎士たちの前で――その微笑は、今日も一度も曇らない。
「皆、ご苦労様です。大変な任務を、よくぞこなしてくれました」
声は柔らかく、温度があった。
讃えるように、褒美を与えるような声。
騎士たちは顔を上げない。喜びに震え、呼吸さえ慎重になる。
教皇の顔を見上げることすら恐れ多い。
そんな感情が、膝を折る姿勢そのものから滲んでいた。
その中の一人が、喉を震わせるように答える。
「畏れ多い事です教皇猊下。私達は成すべきことを成しただけ。この国を統べるのは、貴方こそが相応しい」
「こらこら。違いますよ」
教皇は首を横に振る。その仕草は、子供の言い間違いを正す教師のように親密だった。
微笑が深くなる。叱責ではなく、諭すための微笑。
「真にこの国を統べているのは、尊き天上の神。私は、その代行者に過ぎません。言葉を間違えないように……いいですね?」
「はっ」
騎士たちの背が、さらに低くなる。忠誠の熱が床に染みそうなほど。
猛省はしている。言葉を謝ったことに対して、神の座を言葉の上で揺らしたことに対しては、心より反省している。
けれど――彼らの心の中に罪悪感は欠片もなかった。
この国の王族を「皆殺し」にしたことに対する痛みは、僅かたりとも。
使命を果たした者だけが持つ、清々しい昂ぶりだけがある。
教皇は、その空気を当然のものとして受け取り、穏やかな声のまま続ける。
「王家は考えを改めてくれませんでした。我が国で優先されるべきは、尊き光の神への信仰だけだというのに……長く国を支えてくれた王家を滅ぼすことになって、本当に残念です」
言葉は嘆きの形をしている。声の節には本音が混じっている。残念だ、と彼は本当に思っている。王家の血を断ちたいわけではなかった。変わってくれればよかった。首都の光の下で、同じ方向を向いてくれればよかった。
けれど、王家は変わらなかった。他国との協調路線を捨てなかった。信仰以外の価値を、国の骨に残そうとした。
ならば――滅ぼすしかない。
その結論に、教皇の中で迷いはない。
迷いがないからこそ、微笑は慈悲のまま維持できている。
「おそらく、長く国の玉座につきすぎて、思い上がってしまったのでしょう。我が国で最も尊ばれる方が誰なのかを勘違いして……愚かな事です」
「ええ。そして残念なことです。神への恭順を示してさえくれれば、根絶やしにすることもなかったのに」
騎士の声にも、怒りはない。あるのは、当然の帰結を確認する淡々とした調子。
教皇の微笑は変わらない。
慈悲と慈愛と信念が、同じ顔で同居している。決して道を曲げぬ意思。もしその道の先に泣く子がいたとしても、足を止めずに踏み潰す意思。悲しみを抱えたまま踏みしめるのではない。踏みしめること自体を、善として確信している。
教皇は、そのまま問いかけた。
「――侵攻の準備はどうですか?」
騎士たちの空気が、少しだけ引き締まる。
それは恐れではなく、儀式に入る前の緊張だ。
「滞りなく進んでおります。先遣隊は既に出発し、威力偵察に向かっております……皆、加護を与えられた強者ばかり。必ずや朗報を持って帰還することでしょう」
「それは良かった。帰還の際には、聖別された葡萄酒を贈りましょう」
騎士の一人が、思わず口元を緩める。
聖別された葡萄酒。それは褒美であり、神からの恩寵品に等しい。
「おお……何たる名誉。私が先遣隊に立候補するべきでしたかな」
聖堂に、小さな笑いが落ちる。冗談が許されるほど、場が温かい。
戦争の準備にしてはあまりにも穏やかで、あまりにも平和だった。
教皇は笑いを含ませて言う。
「王家が消えた事で、一時的に国は混乱するでしょう。本格的な侵攻は少し遅れると思います……今度は私達が、民の生活を護ってやらねばなりません」
「はっ。我等騎士団も、全力でお手伝いします。治安維持や氷原の魔物討伐……手抜かりなく務めを果たしてみせましょう」
「期待していますよ。我が国の聖なる剣たち」
その言葉を受けた瞬間、騎士たちは救われた顔をした。
褒められたからではない。許されたからだ。
許されるべき罪は存在しない。すべては正しい行い。
一礼。整然とした動きで、騎士団は聖堂を後にする。
重い扉が閉まり、外の足音が遠ざかっていく。残るのは天窓から落ちる光だけ。
若き教皇オプティムス――齢二十四。
彼は聖堂の奥、神の紋章の前に立ち、静かにその場を見守っていた。慈愛と慈悲の表情で、変わらぬ微笑のまま。
光が彼の白銀を照らす。その姿は、誰が見ても聖なる代行者だろう。
オプティムスは、その光の下でひとり、胸の前で指を組み、目を閉じていた。
祈り。あるいは確認。
彼にとってそれは同義だ。祈りとは神に頼る行為ではない。
神の意志を、地上に噛み合わせるための整列に他ならない。
だがそこに。
「――いいね。やっぱり僕の信徒は、ああいう素直な子じゃなきゃ」
背後から、少年の声がした。
ひやりとしたものが、オプティムスの背骨を撫でる。
音は軽い。気取らない。まるで、街角で遊ぶ子供のような口調。
それなのに、言葉が聖堂全体を支配する。
声の主を確かめる必要はなかった。
この国で最上の座に就く者が誰か。誰よりもそれを知っているのが教皇であるが故。
オプティムスは膝を折る。
頭を垂れる。
額が床の冷たさに触れる寸前まで、深く。王家が消えた今、国で頂点に立っているはずの教皇が――最下層の民のように顔を伏せ、恭順を示す。
それが正しい。
それだけが正しい。
声の主は、笑った。笑い声さえ光を帯びている。
聖堂の神像、その頭上。
先ほどまで誰もいなかった場所。誰かが近づけば、回廊の音がする。扉が軋む。空気が揺れる。だが今、そこには最初から居たかのように座っている。
透き通る金髪。白い肌。金色の瞳。薄い笑み。白地に金縁を象った儀礼服。年の頃なら十前後――いや、そう見える「永遠の少年」。
神像の上に腰を掛け、脚をぶらぶら揺らしながら、退屈な芝居を眺め終えた観客のように頷く。罰当たり極まりない所作。
だが罰を与えることはない。
当然だ。少年は、罰を与える側の存在なのだから。
「うんうん。君も相変わらず良いね。とても良い」
少年は唇の端を上げる。善良な子供が褒める笑顔と同じ形。よく躾けられた犬を撫でる前の顔を。嬉しさと所有欲が混ざった、無邪気な表情。
「僕の加護を授けるに相応しいよ、オプティムス――僕の御子」
「あ、ありがとうございます……!」
声が震える。感極まって、涙腺が熱くなる。あまねく民の上に立つ教皇が、ただ一言褒められただけで、これほどまでに乱れる。だがその乱れこそ、彼の正しさの証明だった。神を神として崇めるという一点において、彼は誰よりも純粋である。
少年の背後から光が差し込む。
いや、違う。太陽が少年を祝福するのではない。太陽は少年自身だ。少年が笑えば光が溢れ、少年が気まぐれに瞬きをすれば、聖堂の白が一斉に輝きを放つ。
五柱の上位神のひとつ。
成功と勝利を与える永遠の少年神。
天空に輝く太陽のように、その輝きと眩しさを好む光の神。
光輝神ソル・サンクトゥス。
「王家の奴等の始末は済んだみたいだね……うんうん。良い子だ、オプティムス」
少年は神像の上から身を乗り出し、覗き込むように言う。
悪戯っぽい声色。喜びを隠そうともしない。
「あいつらも、君みたいに素直だったら死なずに済んだのにね。僕も残念だよ。本当に」
残念――その言葉だけが、教皇の胸の奥をじんと温める。
神が悲しんでおられる。信徒のために、王家のために。
オプティムスには、そう聞こえる。
実際、光の神が悲しんで残念に思っているのは本当だ。嘘偽りはない。
だが、本当に「残念」なのは別の理由だった。
(本当に――便利な玩具だったんだけどなぁ)
その響きは、口に出されない。
神の言葉は、必要な形でしか人の耳に届かない。
教皇の耳には、死に絶えた王族に対する悲嘆としてしか届かない。
だからこそ、オプティムスは懸命に返す。
「ご安心ください、我等が神よ。王家に代わり、我等信徒が総力を挙げて御身に信仰を捧げます」
床に額を近づけたまま、声を絞り出す。
自分の命が、ただの燃料でしかないことを誇りとして語る。
「貴方様の声こそが正義。その正義を、必ず成し遂げてみせます」
少年は満足げに頷いた。頷き一つで、聖堂の空気の神聖さが高まる。
太陽の匂いが少し強く感じられる。オプティムスの肺はそれだけで満たされ、足の感覚が遠のく。尊さに酔うほどの神威。
ソルは神像の上から音もなく降りた。
跳び降りたのではない。落ちたのでもない。そこに居た場所から、次の瞬間には床の上に居る。距離という概念が、彼の前では意味を持たない。
白い靴が石の床に触れる。触れた瞬間、床が微かに温かくなった。
太陽の神の足は、それだけで冷たい石が熱を思い出す。
少年神は膝まづく教皇に近づき、その顎に指先を当てた。
触れるだけで、皮膚の上を光が走る。
オプティムスは息を呑み、僅かに顔を上げさせられる。
至近距離で、目と目が合う。
金色の瞳は、底まで透明。まるで晴天の日差しのよう。
曇りがない。曇りがないから――神の心中など、人には解らない。
オプティムスは、恍惚となった。
眩しさに眩暈がする。けれど、目を逸らすという発想が出てこない。
逸らすことが罪になると、身体が知っている。
「ああ……我等が神よ」
「ふふ……本当に良い子だね、君は。本当に愛しいよ」
少年は優しく笑う。子供が小鳥を撫でるような指先で、教皇の頬に触れる。
触れられた場所が、祝福の印として熱を帯びる。
「僕の代行者。僕の大事な大事な愛し子」
その本音は、光の奥に隠される。隠されているというより、隠す必要がない。
玩具は自身の存在価値を疑わない。疑わないように作られている。
神聖国は神の箱庭だ。
ソルを崇め、ソルに祈り、ソルの為に生きて死ぬ。外の価値観が入り込まないよう峠は細く、異教は排除され、民の人生は「正しさ」の型に流し込まれる。
箱庭が壊れない限り、太陽はずっと機嫌よく照ってくれる。
少年神は、ふと視線を祭壇の光へ向けた。
そこには何もないのに、何かを見ている顔。
「四年前の失敗。あれは僕も誤算だった」
言葉が、少しだけ重くなる。子供が玩具を壊してしまったときの、短い不機嫌。だが不機嫌であっても怒りではない。怒りは、相手が「対等」であるときにしか成立しないからだ。
「上手く行かず、君ら信徒を犠牲にしたこと、悪く思ってるんだよ」
オプティムスは、即座に首を横に振った。
否定は反射だ。神の行いが「悪く思われる」ことを、許してはならない。
「そんな……何を仰るのです、神よ」
声が涙で掠れる。神に罪悪感など抱かせてはならない。罪悪感は、人のための感情だ。神の肩に載せてはならない。
「我等の命は神のモノ。この身は全て神の贄。貴方が罪悪感を覚える必要なんてありません」
「いいや。覚えるさ」
そして、優しい声で言う。
「だって君達は僕の民だ。大切な大切な民だ。その死を悲しむのは当然さ」
オプティムスは、その言葉だけで救われる。救われてしまう。
「……なんと慈悲深い……その言葉を聞いて、旅立ってしまった信徒たちも報われていることでしょう」
涙が落ちそうになるのを必死に堪える。神の慈悲に打たれて涙する。
けれど信徒が、神前を涙で穢す訳にはいかない。だから堪えている。
……事実、ソルが民の死を悲しんでいるのは本当だ。
玩具が減ったのだ。それは悲しい出来事である。
ただ、それをそのまま言葉にしないだけ。玩具に理解させる必要がない。
必要性を感じていない。
少年神は、教皇の顎から指を離した。離しただけで、オプティムスの身体が少し冷える。太陽が雲に隠れたときのような喪失感。
その喪失感に恐れながら――教皇は宣言する。
「ご安心ください、神よ」
オプティムスは、今度は震えではなく、確信の響きを込める。自分が神の役に立つ。役に立つことで存在できる。存在の根拠を、彼は神にしか置かない。
「四年前のような失敗は起こしません。今度こそ必ず――『道』を作ります」
道。
それは峠道のことではない。信仰が外界へ延びるための、正義が進軍するための、光が境界を越えるための新しい道だ。四年前、どこかでその道は途切れた。途切れたなら、作り直す。神のために。民のために。何より、神の威光を保つために。
「そして、我が国の威光を、大陸全土に広めてみせましょう」
少年神は満足げに笑った。
「……頼んだよ、僕の御子。期待しているからね」
そう言って、二者は光が差し込む聖堂内で誓いを交わし合う。
神聖で、輝かしく、美しい神と信徒の語り合い。
外から見れば、そこにあるのは調和と慈悲だけだろう。白と金が溶け合い、太陽の祝福が国を包み、教皇は清廉な理想を語る。
だが、その裏に潜むものは別の形をしている。
無垢で無邪気な残酷。
玩具を愛でるように民を愛す。
玩具が壊れれば眉を下げる。
玩具を増やすために『道』を欲しがる。
そして、玩具である人間たちは誰も理解しない。
理解しないまま頭を垂れ、祈り、笑い、そして進む。
太陽がそこにある限り――神聖国の信仰が陰る事はないのだ。




