第9話・第一王女レジーナ①
王への報告を終え、アウローラは廊下を歩いていた。
夕刻の王宮の廊下は、赤い絨毯が落ち着いた色を帯び、壁に掛かった燭台が柔らかな光を投げている。戦場に立つ時とは違う、王城特有の静けさがある。
(ふぅ……終わった終わった。あとは二週間後の準備を――)
自室に戻って、装備の手入れと、持ち出し用の荷物リストを――などと考えていたところで。
「……あら」
鈴を転がしたような、柔らかな声が、廊下の先から響いた。
アウローラが顔を上げると、曲がり角の向こうから、ゆっくりと一人の女性が姿を現した。
淡い金髪をきっちりまとめ上げた髪型。
上品な刺繍が施されたドレス。
仕草の一つ一つに、淑女の教本みたいな優雅さが宿っている。
第一王女殿下、レジーナ・スィル・ステラ・アウストラリス。
「ちょっといらっしゃーい、アウローラちゃーん」
小悪魔じみた、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、白い指先でアウローラを手招きする。
「う……あ、姉上……」
アウローラは、思わず一歩だけ後ずさる。
別に、姉のことを嫌っているわけではない。
むしろ、幼い頃からずっと可愛がってもらってきた。
ただ――。
(力では勝てても、それ以外で勝ち目がないんだよなぁ……)
交渉。
礼儀作法。
人付き合い。
夜会での笑顔の振りまき方。
そういう「王族としての技量」では、レジーナはアウローラのはるか先を行く。
苦手意識があるというか、勝ち目がないというか。
魔境の大森林の竜よりも、姉の笑顔のほうがよほど怖い瞬間がある。
名家の侯爵――かつて「王国最優の聖騎士」と称された男と結婚した後も、その恐ろしさは変わらない。今も昔も、アウローラの逃げ道を塞ぐような手管で追い詰めてくる。
そんなレジーナが、唇の端だけをきゅっと上げる、小悪魔めいた笑みを浮かべていた。
「外交から帰って来たわたくしに挨拶しないなんて……悪い子ねぇ?」
「い、今これから行こうと思っていたところです! 本当にです!」
「はいはい、そういう言い訳ができるあたり、悪い子ねぇ?」
返す刀で否定され、アウローラは後ずさる。
が。
「さ、行きましょ?」
「ちょ、ま、姉上っ――」
有無を言わせぬ手の力で、そのままレジーナの部屋へと連行された。
引き摺られていく姿は、英雄級の戦士というより、完全に子羊である。「あうあう」と情けない声を漏らしながら、抵抗も虚しく引き込まれていった。
◇◇◇
第一王女の私室は、余計な贅沢を排した品の良い空間だった。
淡い色合いのカーテン。
整理整頓された書棚。
壁には、夫である聖騎士侯爵と並んで立つ肖像画が一枚。
アウローラは椅子に座らされるや否や、間髪入れずに質問を浴びせられた。
「で?」
レジーナは、椅子の背にもたれながら、指先で優雅に髪を弄びつつ、にこりと笑う。
「賢者様から何か、新しい化粧品の話、聞けたかしら?」
「あー……」
その一言で、アウローラの背筋を冷たいものが走った。
(あ、あー……あああ……)
そういえば。
アウローラが森に向かう前。レジーナが外交に赴く前。
この姉から、「新しい化粧水や乳液の話を聞いてきなさい」と、しっかり念押しされていた気がする。
そして森に着いたら、うどんだのかき揚げだの焼肉だのワインだので頭がいっぱいになり――。
「あ、あの、その……」
妹の口ごもる様子を見て、レジーナの額にすっと青筋が浮かぶ。
「あらあら、わたくしの妹は……」
椅子からすっと立ち上がり、アウローラのすぐ側へ。
両手を伸ばし――。
「自分ばっかり、森で綺麗になって……わたくしのお願いを忘れるなんて……悪い子ねぇ?」
「ひゃ、あうあうあう」
こめかみを、ぐりぐり、と指で押されるアウローラ。
英雄級の肉体とレベル59の耐久力のおかげか、正直そこまで痛くはない。
痛くはないのだが――精神的に逆らえない。
昔からそうだった。
戦場ではどんな武人にも怯まないくせに、姉にだけは弱い。
レジーナも、ぐりぐりしながら違和感に気付いたのか、押している指を止めた。
「……何かしら、この手応えのなさ。昔はもっと『いだだだだ!』って感じだったのに」
「そ、それは私も色々鍛えられたと言いますか……」
「んー?」
レジーナは、じとっとした目で妹を見下ろす。
そして、ふうっとため息をつき、頬をぷくりと膨らませた。
「もう! アウローラ、貴女ねぇ、自分ばっかり綺麗になっていたら、夜会で令嬢に嫌われるわよ?」
「え、えっ?」
「貴女は無頓着で気付いてないようだけどね?」
腰に手を当て、指でアウローラの髪先をつまみながら、レジーナは続ける。
「貴女も含めて、貴女の侍女隊は、とんでもなく美人になっているんだから」
「そ、そんなことは……」
「あるのよ」
きっぱりと言い切られた。
「髪はつやつや、肌はすべすべ、手の甲まできちんと保湿されてて――何より、均一に綺麗になっているの。あれはねぇ、見ている側からすると、もう『同じ何かを使っている』としか思えないの」
レジーナの声に、意地悪な響きはない。
むしろ、本気で心配しているのがありありと伝わってくる。
「夜会っていうのはね、ただドレスを着て踊るだけの場所じゃないのよ? 女同士の静かな戦場でもあるの。そこで一人だけ、あるいは一団だけ、明らかに格が違う綺麗さを見せつけたら――敵を増やすだけ」
「う、うう……」
「森に行くたびに綺麗になって帰ってくる妹を見て、わたくしがどれだけヒヤヒヤしていると思っているの?」
アウローラは、椅子の上で小さく縮こまった。
「うう、でもでも、伝えられる限りは伝えてますよぅ!? 私も、侍女達も、出来る限りの情報はお伝えしてますよぅ!」
「んー、まあ確かに?」
レジーナは腕を組み、少しだけ機嫌を和らげた。
「色々聞いているのはその通りよ? 化粧水とか乳液とか、クレンジングとか、意味の分からない言葉も含めて、ちゃんと報告は来ているわ」
そこで、ふっと肩をすくめる。
「でもねぇ、全然、形にならないんだもの……」
「むぅ……」
「最近、ようやく石鹸が良質になってきて、化粧水とやらの試作品ができたくらいかしらねぇ」
そう言いながら、レジーナは机の上に置かれていた小瓶をひとつ持ち上げた。
透明な液体が揺れる。
「これね。職人達が、貴女の侍女から聞いた話を元に、ああでもないこうでもないと試行錯誤した結果の一本」
「おお……」
アウローラは、興味深そうに覗き込む。
「悪くはないわ。悪くはないけれど――有羽様とやらの作る品には、まだまだ遠いんでしょう?」
「ええ、その……そうですね。やっぱり、あの人、配合の細かさとか、その……何というか、魔法の使い方がおかしいので……」
「でしょ?」
レジーナは小瓶をそっと置き、椅子に腰を下ろし直した。
「だからこそ、わたくしは情報が欲しいの。作り方そのものはともかくとして、どんな手順で、どんな原料を使っているのか。何となくふわっとではなく、順番に、細かく」
「そ、それは……次回、もう少し、詳しく聞いてきます……」
「本当に?」
「本当に!」
アウローラは、ぴしっと背筋を伸ばして答える。
レジーナは、じっと数秒見つめ――ふっと笑った。
「まあ、いいわ。貴女が『全ては王国の為に!』って言いながら楽しそうにしているのを見ると、あまりきつくも言えないしね」
「た、楽しそうにしてません!?」
「鏡を見る?」
「や、やめてください!」
わたわたするアウローラを見て、レジーナはくすくすと笑う。
国内最強の女戦士。
英雄級レベル59。
そんな肩書きも、この部屋の中では大した意味を持たない。
ここではただ、昔から変わらない――少し抜けていて、戦い以外は妙に不器用な、可愛い妹。
「ともかく、ね」
笑いを収めてから、レジーナは少し真面目な声に戻した。
「貴女も、賢者様も。森の中で何をしているのかは、ある程度分かっているつもり。でも――その成果を国全体に広げるには、まだまだ時間がかかる」
「……はい」
「だからこそ、貴女には、もう少しだけずるくなってほしいのよ。自分ばかり得をしないで、こっちにもきっちり持ち帰ってきなさい。化粧品の話もね?」
言葉尻に、少しだけ茶目っ気が混じる。
アウローラは、観念したようにうなだれた。
「……努力します」
「努力じゃなくて、結果をお願いしたいところだけど――まあ、期待してるわ。次の森行き」
にっこりと微笑む第一王女。
その笑顔が、本心からの期待と、姉らしい甘えと、少しの悪戯心で出来ていることを、アウローラはよく知っている。
「わたくしだってね」
レジーナは、どこか拗ねたような顔で続ける。
「旦那様の隣に立つ以上、年を取っても綺麗でいたいのよ。今はまだいいけれど、十年後、二十年後――」
「姉上は、今でも十二分に……」
「お世辞は要りません♪」
ぴしっと指を立てて制される。
「それにね? 貴女だけが綺麗になっていくと、周りが勝手に『第二王女殿下だけ特別扱いされている』って拗ねるの。いっそ、技術を共有してしまったほうが平和になることもあるのよ」
王家全体の印象。
貴族社会の均衡。
女性たちの嫉妬と羨望。
レジーナは、その辺りの機微を、アウローラよりはるかによく理解していた。
だからこそ、「賢者の美容技術」は、可能な限り広く、しかし慎重に共有したいのだ。
「……分かりました」
アウローラは、観念したように頷いた。
「次に森へ行ったとき、ちゃんと聞いてきます。配分とか、工程とか、できるだけ詳しく」
「ありがとう、アウローラ」
レジーナは、ふにゃりと柔らかな笑顔を浮かべる。
「それともう一つ」
「まだあるんですか……」
「あるわ」
レジーナは、少しだけ目を細めた。
「賢者様が、こちらに来る気がない理由。それも、貴女なりにもう一度聞いてみてちょうだい」
アウローラは、言葉に詰まる。
「それは……何度聞いても、『王都暮らしは窮屈だから嫌だ』の一点張りで」
「それでもいいの」
レジーナは、紅茶のカップをソーサーに戻した。
「どれだけ頑なで、どれだけ面倒くさがり屋で、どれだけ世捨て人を気取っていても――」
ふっと、いたずらっぽい笑み。
「貴女が森に通い続ける限り、賢者様はきっと、完全には人を拒めない人よ」
アウローラの顔が、ほんの少し赤くなる。
レジーナは、見逃さない。
「……あら、図星?」
「な、なにがですか!」
「さぁ? なんでしょうねぇ?」
昔からずっと見続けて来た、小悪魔のような笑顔。
それを見る度、アウローラは思ってしまう。
(……やっぱり、姉上には勝てないや)
剣でも、魔法でもなく。
言葉と視線と、ふとした仕草だけで翻弄してくる相手に。
国内最強の第二王女は、今日もまた、為す術もなく振り回されるのだった。




