第6話・王都までの帰り道
続きを投稿していきます。のんびり書いていきますので。
森の空気は、相変わらず重く澱んでいた。
瘴気混じりの風。
ねっとりとした魔素。
そして、あちこちから漂う「肉食獣の匂い」。
けれど――アウローラ一行の進軍は、驚くほど軽やかだった。
「来るぞ、右前方。三、いや四だな」
先頭を行く護衛の一人が、槍の穂先をわずかに向ける。
茂みの影から、牙を剥き出しにした獣型の魔物が飛び出した。
咆哮。飛び散るよだれ。
たちまち、森の空気が殺気で満ちる――が。
魔物の爪が、アウローラの肩口めがけて振り下ろされる。
次の瞬間、透明な何かに弾かれるように、爪が甲高い音を立てて跳ね返った。
火花とともに、魔物の腕が逆に折れ曲がる。
「……ほらな」
アウローラは、肩口を軽く払うようにしながら、ため息まじりに呟いた。
「守護力場があると、緊張感が薄れるな」
彼女の剣が、一閃。
護衛の槍が、続けざまに突き込まれる。
別方向から飛んできた魔物の吐息――鉄を溶かす強酸の霧も、彼らの身体に触れる前に、見えない膜にぶつかって霧散した。
ぱちぱちと、虚空で火花のような反応だけが走る。
さらに、木陰で赤く光った魔物の単眼。
石化の魔眼を放つ上位種だ。
しかしその視線も、淡く光る膜に遮られて、何の効果も及ぼさない。
守護魔法の外側の樹皮だけが、石化してひび割れる。
「豆鉄砲、ですわね……」
後方の侍女がぼそりと呟き、指先から魔法を放った。
火の矢が、木陰の魔物の眼を正確に撃ち抜く。
続けざまに風の刃が走り、首を断ち切った。
アウローラの剣。
護衛たちの槍と剣。
侍女たちの魔法。
その一つ一つが、魔物をあっさりと駆逐していく。
鎧袖一触――まさに、その言葉通りだった。
◇◇◇
やがて、視界がふっと開ける。
何度も通った、少しひらけた場所だ。
森の入口と有羽の家の、丁度中間地点。
木々がまばらになり、空が広い。
夕日が斜めから射し込んで、草むらを金色に照らしていた。
「……ここまで来れば、一息つけるな」
アウローラは、周囲を一通り見渡し、頷いた。
「よし、各々準備を始めろ」
きびきびとした声で指示を飛ばす。
「私と、いつもの面子で薪を集めに行く。残りはテント設営と夕飯の準備だ。あと――」
足元の大地に視線を落とし、小さな石を取り出す。
手のひらほどの、大して目立たない石。
だが、その内に込められた魔力は尋常ではない。
「この辺りでいいか」
アウローラは、地面に小さな穴を掘り、その石を埋める。
次の瞬間、目には見えない何かが、ふわりと周囲に広がった。
有羽から預かった、「魔力の籠った石」。
これを地面に埋めるだけで、約半日の間、彼お手製の結界が周囲を覆う。
即席の、安全地帯。
「……ホント、これだけで一財産だよな」
護衛の一人が、誰にも聞こえないような声でぼやく。
この魔石を大量に王都へ持ち帰り、売り出すだけで――死ぬまで遊んで暮らせるほどの金が動くだろう。
だが有羽には、そんな考えは欠片もない。
製法も教えないし、量産もしない。
行きと帰り――道中で一泊するために必要な「二つ」だけを、アウローラに渡す。
……ちゃんと「行きの分」と「帰りの分」を考慮して手渡すあたりが、有羽の人の良さを何よりも物語っていた。
「よし、結界は張られた。薪拾いの者はついてこい」
アウローラは、いつもの数名の護衛を連れて森の中へ消えていく。
残った護衛と侍女たちは、それぞれ手分けして動き出した。
慣れた手つきでテントが立ち上がり、荷物が運び出される。
鍋の準備、火おこし、食材の仕分け。
テキパキと野営が形になっていく中、自然と会話も弾み始める。
「やっぱり今回も駄目だったなぁ」
槍を地面に突き立てながら、護衛の一人が空を仰いだ。
「有羽殿の力が王都に知れ渡るのは、いつの日になることやら」
「あの様子では、な……」
別の護衛が、肩をすくめる。
「本当に惜しい。栄華が約束された力であろうに」
侍女たちも、似たような顔をしていた。
「私たちだって、有羽様には是非王都に居を移してもらいたいわ」
大鍋を洗いながら、一人の侍女が言う。
「……有羽様の作ったお風呂や化粧品を試すと、もう今までの品は使えなくなるもの」
「本当に罪な人よね……良い人なのは解ってるけど」
隣で野菜を刻んでいた侍女が、包丁を止めてため息をつく。
この野菜だって、帰る際に有羽が渡してくれたものだ。
王都までの帰り道に食べる分として。彼は頑なに森から出ないが、こういう優しさを平然と見せる。
「私たち、もう有羽様無しでは生きられないわ。正直、こんなに早く帰りたくないもの。もっと滞在したいわ。料理も絶品だし」
「わかる」
全員が、深く頷いた。
会話は弾んでいるが、手の動きは一切止まらない。
野営設営のスピードは、いつも通りのプロの仕事ぶりだ。
「有羽様の料理は、王都の高級レストランですら足元に及ばないわよ」
魔道具のランタンに火を入れながら、一人が言う。
「何より種類が豊富。味わい続けてもう一年以上になるけど……まだまだ引き出しがありそうなのよね」
「せめて、うどんだけでも再現してほしいわ」
別の侍女が、半ば本気で嘆いた。
「王都の料理人はしっかりして欲しいわ。覚えてる? 最初にうどんの製法を教えた時、『こんな単純なものの何が良いのか』とか言って、鼻で笑ってたのよアイツ等!」
「そうそう!」
他の侍女も、すぐさま食いつく。
「鼻で笑うのはこっちのほうよね! 何なのアイツ等の作るうどんは!? 酷いものだと固いだけで、コシも何もないからね!」
きゃあきゃあと、侍女たちが盛り上がる。
護衛の男たちも、それを横で聞きながら笑った。
「知っているか?」
一人がテントを手際よく立てながら言う。
「意外と、街の安食堂の女将さんとかのほうが、良いうどんを打つぞ?」
「それは流石に大袈裟だろう?」
「いや、マジだ。まあ、それでも有羽殿ほどじゃないがな」
彼は、樽から水を移しながら続けた。
「有羽殿も言っていたが、力の入れ具合と、生地の練り具合で出来栄えがかなり変わるらしい。町の食堂の女将なんて、毎日が力仕事だ。酔っ払い相手に拳を繰り出す女将さんも居るくらいだしな!」
「ああ、あの人か……納得した」
護衛たちの笑い声が、弾けるように咲く。
脳裏には、街の酒場の光景が映っているのだろう。
「しかし、本当に……有羽の言葉通り、『単純だからこそ奥が深い』料理なんだな、うどんってやつは」
「料理人にとっては意地がかかってますものね。『こんな単純なものが一番美味い』と言われると、複雑な料理を作る者ほど、心穏やかではないのでしょう」
侍女の一人がくすりと笑う。
「でも――現実は、有羽様のうどんが一番美味しいのですから、仕方ありませんわ」
わいわい。
きゃあきゃあ。
野営地には、明るい声が満ちていた。
しばらくして――。
ふと、手を止めた侍女が、一つ溜息をつく。
「でも……一番良かったのは、やっぱり殿下よね」
その一言に、周囲の空気が少しだけ静かになる。
「有羽様の家に行くようになって、随分笑顔が増えましたもの」
侍女の声は、少しだけ切なかった。
「……正直、二年前までの殿下は、見ていられませんでしたから」
護衛も、侍女も、言葉を失う。
二年前。
夫を亡くし、憎悪と虚無で自分を支えていた頃のアウローラ。
何に斬りかかっても足りないような、そんな目をしていた。
あの頃の姿を思い出すだけで、彼らの胸は軋む。
「……願わくば」
護衛の一人が、焚き火に枝をくべながらぽつりと言う。
「有羽殿には、王都に来てもらい……殿下を支えてもらいたい」
「俺もそう思う」
別の護衛が頷く。
「身分云々で煩い連中もいるだろうが……有羽殿ほどの知識と実力があれば、いくらでも黙らせることが可能だ。発明品の功績を並べ立てれば、爵位だって賜れるだろう」
準備の整った食材を見つめながら、侍女たちも口を開く。
「有羽様のことを話す殿下……とても嬉しそうに笑うの。昔の殿下みたいに、本当に屈託なく」
「ええ」
隣の侍女も、静かに続けた。
「なんとか出来ないかしらね……殿下の為にも、有羽様の為にも」
皆、思っていることは同じだった。
何故、有羽がこの危険な大森林で暮らしているのかは知らない。
けれど、いかなる理由があるにせよ――。
世捨て人になるには、有羽は若すぎる。
この森の中で、一人で生きていく。
それで、本当に幸せな未来が掴めるのかと問われれば……どうしても首を縦には振れなかった。
忠誠を誓う王女殿下と。
命と心を救ってくれた恩人、有羽。
二人の未来が、どうか少しでも明るいものでありますように――。
護衛も、侍女も、それぞれの胸の中で密やかに祈りながら、黙々と手を動かし続けた。
やがてアウローラ達が戻り、夕暮れの森に小さな焚き火の灯りがともる。
その炎は、ただ一夜の野営を照らすだけの小さな火。
けれど、そこに集う者たちの願いだけは、静かに、熱く燃えていた。
◇◇◇
鍋が、ぐつぐつと音を立てる。
夕暮れの森の中、小さな野営地。
薪を組んだ焚き火の上に据えられた大鍋の中で、水が沸騰し、白い湯気がもうもうと立ち上っている。
アウローラは、火加減を確かめながら鍋の縁を覗き込んだ。
「いい具合だな」
沸き立つ湯面を見て、腰のポーチに手を突っ込む。
指先に触れたのは、硬い感触の小さな立方体。
何個か取り出し、掌の上に並べた。
茶色い、小さなサイコロのような物体。
有羽が、ぶっきらぼうに言って渡してきたものだ。
『試作品。アンタらで食べて感想聞かせてくれ。まあ、俺的に美味かったけど、他の人の意見も聞きたいし』
あの、面倒くさそうな顔を思い出し、アウローラは思わず口元を緩める。
「さて、どう転ぶか」
ぽちゃん、ぽちゃん、と鍋の中へ落としていく。
それは、あっという間だった。
サイコロが、湯の中でふやける間もなく、じわりと溶け出していく。
茶色が広がり、透明な湯がみるみるうちに金色に染まった。
次の瞬間、ふわり、と香りが立ち上る。
「……っ!」
護衛の一人が、思わず身を乗り出した。
骨と肉をじっくり煮込んだような、濃厚な出汁の匂い。
野菜の甘みを思わせる柔らかい香りが、それに溶け合っている。
「な、何だこれは……?」
「ただの湯が……」
驚きに目を丸くする護衛と侍女たちを前に、アウローラは得意げに顎をしゃくった。
「有羽の新作だ。スープの素とかコンソメキューブとか言ってたな」
「こんそ……?」
聞き慣れない単語を復唱する侍女に、アウローラは肩をすくめる。
「名前はよく分からんが、効果は見ての通りだ。これ数個で、この香りと味だぞ。鍋の神だな」
鍋をかき混ぜると、底に沈んでいたサイコロは跡形もない。
ただの湯だったはずの液体は、もう立派なスープになっていた。
「有羽め……また、こんなもの開発して」
アウローラは、にやりと笑い、周囲を見渡す。
「なあ、お前達。これを見て、スカウトする私を間違っていると言える者はいるか?」
「いるわけがありません!」
一番近くにいた侍女が、即座に叫んだ。
「良い匂いです! 反則です! こんな物を作る人を逃がすなんて、国の損失です!」
「まったくだ」
護衛の一人も、真顔で頷く。
「これは軍用にも使える。行軍中の兵糧、前線の炊き出し、城下での配給にも……。正直、用途が多すぎて、どれほどの効果を生むか見当もつきません」
「災厄の時の避難民支援にも使えますわね」
別の侍女が、鍋の側で野菜を抱えながら続ける。
「水と火さえあれば、どこでも温かい食事が出せますわ。こんな森の中ですら、この香りですもの」
アウローラは満足そうに頷いた。
「だろう?」
彼女は、後ろの籠に準備された野菜を取り出す。
その中には、鮮やかな色の野菜がぎっしりと詰まっている。
有羽の畑から分けてもらい、先程侍女達が切り分けたものだ。
それを、一つ一つ取り出していく。
「殿下、そちらは私が」
「ああ、頼む」
侍女に籠を渡しながら、アウローラは空を見上げた。
森の上には、すでに夜の帳が下り始めている。
だが、結界のおかげで、冷え込みはほとんど感じない。
森の空気は重い。
瘴気混じりの風。ねっとりとした魔素。どこからともなく漂う肉食獣の匂い。
本来なら、心を削るような環境のはずなのに――。
今、この小さな野営地だけは、別世界のようだった。
焚き火の温もり。
鍋から立ち上る香り。
安全を保証する、目には見えない守りの膜。
全部が、有羽の魔法と発明の産物だ。
「……ありがたすぎるな、本当に」
今度はアウローラ自身が、小さく呟いた。
この森は、もはや普通の森ではない。
小さな山と谷が内包され、独自の生態系に満ちた、ひとつの「ダンジョン」と言っていい。
探そうと思えば、川も海もある――と、有羽は言っていた。
実際、有羽は何度も水辺を見つけ、その周囲に結界を張って遊んだりもしているらしい。
そんな余裕があるのは、あの男くらいのものだ。
他の誰かが同じ真似をしようとすれば、川を見つける前に魔物に喰われるだろう。
鍋の脇に置かれた樽の中。
そこには、冷たく澄んだ水がたっぷりと入っている。
有羽の居住区の井戸から汲んできた、信じられないほど美味い水。
『水は、持てるだけ持って行っていいぞ』
それだけは、驚くほどあっさり許可してくれた。
「殿下、野菜、入れ終わりました」
侍女の声に、アウローラは思考を戻す。
鍋の中へ、色とりどりの野菜が次々と投入されていた。
柔らかく火の通りやすい葉物。
煮込むほどに甘みを増す根菜。
「こっちも準備できたぞ!」
護衛が、布に包まれた包みを持って戻ってくる。
包みを開けば、今日の帰り道で仕留めた鳥型魔物の肉が現れた。
余分な脂と羽根の付け根は処理済み。
一口大に切りそろえられた肉からは、野性味ある香りが立ち上る。
「よし、全部放り込め」
アウローラの合図で、肉も鍋の中へ。
ぐつり、と音が変わった。
コンソメキューブの出汁。
野菜の甘み。
鳥型魔物の旨味。
三つが混ざり合い、鍋から立ち上る香りが一段と厚みを増す。
「……っ」
誰かが、ごくりと喉を鳴らした。
いや、誰かではない。
護衛も侍女も、アウローラ自身も、全員が同じように唾を飲み込んでいた。
「殿下、そろそろ……」
「ああ」
味見用の木杓子を鍋に差し込み、スープをすくう。
アウローラは、それをそっと唇に運んだ。
「…………」
しばしの沈黙。
護衛と侍女たちが、ごくりと息を呑む。
やがて、アウローラは目を閉じたまま、深く頷いた。
「有羽だな」
短い、しかし最大級の賛辞だった。
「間違いなく有羽の味だ。……よし、食うぞ!」
号令と同時に、木の椀と匙が次々と手に取られる。
鍋からよそわれたスープは、黄金色に輝いていた。
表面には、ほんの少しだけ脂の輪が浮かび、その下に色鮮やかな野菜と白い肉が沈んでいる。
「いただきます!」
誰かがそう言ったのを皮切りに、一斉に食事が始まった。
「……っ!」
一口目を飲み込んだ瞬間、護衛の一人が目を見開く。
「……何だこれ……」
「うわあ……」
隣の侍女が、子供のような声を漏らす。
舌に広がる、濃厚な旨味。
疲れ切った身体に、温かい汁がじんわりと染み込んでいく。
野菜は柔らかく、それでいて形を保っている。
鳥型魔物の肉は、驚くほど臭みがなく、噛むほどに肉汁が溢れた。
「野営……だよな、これ……?」
木椀を抱えたまま、護衛が呆然と呟く。
「なんで、森の真ん中でこんなもんが……」
「うまい……」
侍女の一人は、言葉を絞り出すようにそう漏らした。
「『美味しい』を通り越して、『申し訳ない』気分になってきますわ……」
笑いとも泣きともつかない顔でスープをすすり、野菜を頬張る。
身体の芯から、ぽかぽかと温まっていく感覚。
夏の季節だというのに、結界が外の暑気を遮り、野営地の空気はちょうどいい涼しさだ。
冷たすぎず、暑すぎず。
安全で、安心で、そのうえ腹の底から満たされていく。
護衛たちは、いつしか無言になっていた。
戦場で、彼らは散々、粗末な干し肉と固い黒パンを噛み続けてきた。
それでも、文句ひとつ言わずに食べてきた。
だが今は――。
「……もう、戻れねえな」
ふと護衛の一人が呟いた。
「今までの野営飯に」
「戻るつもりなんて、とうの昔に諦めていますわ」
侍女が、すかさず言い返した。
「だからこそ、有羽様を王都にお連れしたいんですもの」
「それはそうだ」
笑いがこぼれる。
やがて鍋の中身が少し減り、具材が底を見せ始めた頃。
「よし」
アウローラが、手の中の包みを掲げた。
「締めといこう」
布を解けば、中には白い麺がぎっしりと詰まっている。
柔らかそうな生地。
手で打ち、切られたばかりの「うどん」だ。
「殿下、それはまさか……!」
侍女たちの目が、一斉に輝いた。
有羽が「今日中に食えよ」と言って渡してきた、貴重な手打ち生麺。
しかもどうやら、すぐ鍋に入れて食べれるよう、いかなる手法か、粉が落としてある。
有羽曰く、魔法で粉落とし済みの特別生麺。ただし、日持ちしないから今日中に。
アウローラ達は、この生麺を知っている。だが、有羽の家にあるのは殆ど乾麺。彼は保存性を第一にしている為、滅多に手製の生麺は出てこない。
そんな生麺が、野営用の特別仕様で渡された。
乾麺のうどんですら、すでに王都の料理人では太刀打ちできない美味さ。
まして、生麺となれば――。
「なあ、殿下」
護衛の一人が、真剣な顔で手を上げた。
「公平な分配を、何卒……」
「任せろ」
アウローラは、自分の椀を鍋の横に置き、真顔になった。
「この一件、命がけの任務だ。私情を挟む者は許さん」
「うどんの分配を『任務』って……」
侍女が苦笑しつつも、やはり目は麺に釘付けだ。
アウローラは、慎重に麺をほぐし、沸き立つ鍋の中へ投入する。
太い白い線が、するり、と鍋の中に沈んでいく。
ぐつぐつ、と再び沸き立つスープ。
麺が踊る。
数分後――。
「よし、頃合いだな」
アウローラが鍋の中を確認し、うなずいた。
コンソメと野菜と肉の旨味を吸い込んだ麺が、柔らかく、しかししっかりとした弾力を湛えている。
「では――締めだ」
その一言と同時に、全員の背筋が伸びた。
「まず、殿下からどうぞ!」
「そうだ殿下は別枠だ! 殿下は!」
「お前ら落ち着け!」
口々に叫びながらも、手にした椀を差し出す速度は誰も落とさない。
「順番にいくぞ! まずは一杯目、全員に行き渡らせる!」
アウローラが指示を飛ばしながら、手際よく麺をよそっていく。
白い麺が、黄金色のスープと共に椀に注がれていくたびに、あちこちから小さな歓声が上がった。
「ありがとうございます!」
「感謝します!」
「神に感謝、有羽様に感謝!」
身分の差も、礼儀も、今だけはぐちゃぐちゃだ。
王女も侍女も護衛も、ほとんど一列になって鍋の前に集まり、順番を待っている。
やがて、アウローラ自身の椀にも麺がよそわれた。
「では、いただこうか」
麺をすする。
噛む。
その瞬間、アウローラの喉が、わずかに震えた。
「……ああ」
小さく漏れた声は、ため息に近かった。
もちもちとした食感。
噛むたびにスープの旨味が染み出し、口いっぱいに広がる。
乾麺とはまるで違う、しなやかな弾力。
それでいて、芯まで火が通った心地よさ。
アウローラは、しばらく無言で麺をすすり続けた。
周囲では、すでにちょっとした争奪戦が始まっている。
「おい、そっちは多くないか?」
「そっちこそ! ほら、見ろよ、麺の量!」
「公平に、とは言ったはずだぞ!」
「み、みなさん! 二杯目からは自重を……あ、殿下! 殿下も速いです!」
侍女が慌てた声を上げる。
アウローラは、すでに二口目の麺をすすり終え、三口目に取り掛かっていた。
「……黙って食えお前達」
笑いながら短く告げて、また麺を啜る。
その顔には、普段の王女の仮面も、未亡人の影もなかった。
ただ、心から美味い物を食べている人間の、無邪気な幸福だけがあった。
麺は、恐ろしい速度で減っていった。
王女とか侍女とか護衛とか――ふだんなら絶対に崩れない序列は、この瞬間だけ完全に意味を失う。
より多くの麺をすくおうとする匙。
それを牽制し合う視線。
それでも誰一人として、本気で取り合うことはないギリギリの線。
笑い声とすすり音が、野営地に満ちる。
そして――。
「……終わった」
鍋の底を見つめながら、誰かが呟いた。
一同の視線が、空になった鍋に注がれる。
ほんの少しだけ残ったスープを、最後の一滴まで分け合い、飲み干す。
腹の底から、満たされていた。
護衛も侍女も、背中から力が抜けたように、地面にどさりと座り込む。
「生きてて良かった……」
侍女の一人が、心底疲れた声で言った。
「何度でも言いますけど……殿下、有羽様のスカウト、絶対に諦めないでくださいましね」
「もちろんだ」
アウローラは、空になった椀を見つめながら答えた。
「この味を、王都でいつでも食べられる未来を……私が諦めると思うか?」
「食のためなんですか殿下!?」
護衛と侍女たちの突っ込みが、一斉に飛ぶ。
アウローラは少しだけ笑った。
「半分はな」
そして、焚き火の向こう――森の奥、見えない場所にあるログハウスの方向へ、ちらりと視線を向ける。
「もう半分は……まあ、秘密だ」
夜の森に、笑い声が溶けていく。
毒と瘴気に満ちた魔境の中で。
焚き火の小さな炎と、満腹の幸福感だけが、静かに温かく燃えている。
◇◇◇
食事が終わると、野営地にようやく静けさが戻ってきた。
空はすっかり夜の色だ。
結界に守られた一角だけが、焚き火の橙に照らされている。
鍋や椀を洗い終えた護衛と侍女たちは、それぞれのテントに入り始めていた。
見張りの順番を確認し、最初の当番が焚き火のそばに腰を下ろす。
森は、結界の外でも不自然なほど静かだった。
それは結界の効力で、近くの魔物が大きく迂回しているからだ。
だが、それでも――。
(絶対じゃない)
見張りの護衛は、脳裏に浮かんだ有羽の声を思い出す。
『いいか、俺の結界はそうそう破られねぇけどな。ゼロじゃないからな、ゼロじゃ』
以前、有羽が珍しく真面目な顔で言った時のことだ。
『森の西側な。あそこに居る奴は会話が成り立つ。こっちから攻撃しなきゃ襲ってこない。あれは、まだマシなほう』
護衛たちは、目を丸くした。
『会話……?』
『ああ。一応、言葉は通じる。話は長いけどな。面倒くせぇから、あんま近寄るな』
有羽は、心底うんざりしたような顔でそう言った。
『東に居る奴は……まあ、ちょっかいさえ出さなきゃ安全。でも、なるべく近づくな。あいつの縄張り、かなり広いからな』
『では、問題は北側……ですか?』
誰かがそう尋ねると、有羽は短く息を吐いた。
『森の北側には――「厄介」なのが居る。俺でも戦うのが億劫な奴がな。北には絶対に行くな』
その時の有羽の声音は、冗談でも誇張でもなかった。
森の西。
森の東。
森の北。
有羽が「手強い」と認める存在が、それぞれひとつずつ。
そして南側――すなわち、アウローラの国に近い樹海の南部は、有羽の縄張りだ。
基本的に、有羽に勝てる魔物はいない。
有羽の結界を破れる魔物など、ほとんど存在しない。
だが、有羽自身が「ゼロじゃない」と断言した。
長年この森に住み続けている本人ですら、森の魔物の種類を完全には把握しきれていないのだ。
つまり――この結界を破れる何かが、どこかに潜んでいる「かもしれない」。
だから見張りは必要だった。
順番を決めて、交代で夜を見守る。
それだけは、いつも通りの野営と同じように続ける。
一番楽なのは、最初の番と最後の番だ。
最初の番の者は、まだ身体が起きている。
最後の番の者は、夜明け前の澄んだ空気を味わった後、そのまま朝食の準備に入れる。
一番可哀想なのは、ちょうどど真ん中の時間帯だ。
眠りが深くなってきた頃に起こされ、起き切らない頭と身体を叩き起こし、静かな闇と向き合わなければならない。
再びテントに戻る頃には、夜明けまで残りわずかで、中途半端な睡眠しか取れない。
(……まあ、その分、給金はちょっとだけ良いけどな)
焚き火を見つめながら、護衛の一人が苦笑する。
王都に帰還すると、中間の番に入った者にはごくわずかな手当てが出る。
一晩、酒場で腹いっぱい飲み食いできる程度の金額だが、それでも全く違う。
そんなささやかな調整をしているあたりが、アウローラらしいところでもあった。
◇◇◇
その頃、アウローラは自分のテントの中で寝袋にくるまっていた。
三人用の小さなテント。
床には簡易の敷き布。
その上に並んだ、三つの寝袋。
アウローラ。
侍女のアニー。赤毛の働き者。
侍女のベラ。茶髪の知恵者。
三人とも、ミノムシのような格好で横一列になっている。
「……ぬくいなぁ」
アウローラは、寝袋の中で身じろぎしながら、満足げに呟いた。
ふかふか、とまではいかない。
だが、内側の布は柔らかく、体温を逃がさないよう工夫されている。
これは有羽の手作りではない。
王国が、有羽から「寝袋とはどういうものか」「どう作ればいいか」を聞き出し、試行錯誤の末にようやく形にした、王国製の寝袋だ。
それでも、アウローラたちにとっては革命的だった。
かつての野営は、薄い毛布や粗末な敷物でやり過ごすのが当たり前だった。
冷え込む夜には、鎧の上から毛布を被り、震えながら夜明けを待ったこともある。
それに比べれば、この寝袋は天国だ。
身体の周りを布が包み込み、外気の冷たさを遮断してくれる。
結界のおかげで、そもそも今が夏なのもあり、テントの中はそこまで寒くはない。
だが、「寒くない」と「暖かい」には、越えられない壁がある。
有羽の家のベッドには及ばない。
あのふかふかの布団と、やわらかな枕を知ってしまった今では、どうしても比べてしまう。
それでも――有羽と出会う前と比べたら、雲泥の差だった。
「……ふわぁ」
アウローラは、寝袋の口から顔だけ出して、大きなあくびをした。
侍女アニーと侍女ベラも、それぞれ背中を丸めながら、眠そうに目を擦っている。
だが、そのまま眠るには惜しい。
お腹はいっぱい。
身体はあたたかい。
外には信頼できる護衛が見張りに立っている。
そんな時には、少しだけ「女同士の時間」が生まれた。
「鍋……美味しかったなぁ……」
アウローラがぽつりと呟いた。
アニーとベラが、すぐに首を縦に振る。
「はい、とても……」
「本当に……」
アウローラは、寝袋の中で仰向けになり、天幕を見上げた。
「なあ、お前達。あれ、どういう製法だと思う?」
「……あれ、ですか?」
「有羽の『スープの素』だ」
先ほど鍋に放り込んだ、茶色いサイコロ。
お湯を一瞬で黄金色のスープに変えた、謎の立方体。
「多分乾麺とかと同じ要領だと思うけどな……。スープは麺みたいに乾燥させられないよなぁ?」
アウローラの素朴な疑問に、アニーが唸る。
「乾燥……というよりは、濃縮、でしょうか……? スープを固まらせている、と単純に考えればそうなのですけれど」
「でも、言ってて意味が分かりませんわ」
アニーは、自分で言いながら苦笑する。
「それ以前にですね、我が国は乾麺ですら、まだ完全に再現できていませんし」
「うっ」
アウローラは、寝袋の中で肩をすくめた。
ベラが、くすりと笑う。
「錬金術師たちも頑張ってはいるみたいですけどね……」
横向きになり、寝袋の口から顔を出して続ける。
「有羽様のうどんを食べた身から言わせてもらえば、精々四十点です。半分にも届きません」
「辛口だな」
「事実ですもの」
ベラは、少しだけ意地悪そうに笑った。
「まあ、最高峰を知らない方々は『美味しい美味しい』と絶賛してますけどね。知らないって、ある意味幸せですわ」
「それはそうかもしれないなぁ……」
アウローラは、もう一度あくびを噛み殺しながら言った。
「難しいものだなぁ……。正直、有羽の話を聞いても、全部は理解できない」
小麦の質。
水分量。
練り方。
寝かせる時間。
打ち方。
有羽は、こと細かに説明してくれた。
だが、正直、半分も頭に入っていない。
「食に関してのこだわりが凄すぎる。魔法の腕だけの問題じゃないぞ、あれは」
「本当に、繊細の極致ですわ」
アニーが、うっとりとした声で言った。
「食事だけでなく、化粧水や乳液を使えば、すぐに分かります……」
そこまで言うと、アニーは寝袋の中でごろりと転がり、むくれたように続けた。
「ああ、本当に持って帰りたい。帰ったら、また低品質な石鹸と香油生活なんて……」
ため息が、テントの中に長く伸びる。
「何で昔は、香油つけるだけで喜んでいたのか。もう忘れてしまいました」
「分かりますわ……」
ベラも、同じようにため息をついた。
そこで、ふと思い出したように、アウローラに顔を向ける。
「ねぇ殿下」
「うん?」
「有羽様は、やっぱり化粧品の持ち帰りは許可してくれないのですか?」
「あー……」
アウローラは、枕代わりにしている小さな荷物袋に頬を押しつけたまま、目を細めた。
「ああ。駄目だとさ」
「やっぱり……」
侍女二人が、同時にしょんぼりした声を漏らす。
「言ってたぞ。有羽」
アウローラは、先ほどの会話を思い出しながら、ゆっくりと口を開いた。
「『自分たちの技術で再現できるなら構わない。けど、俺のところから持ち出して使うのは駄目』……だそうだ」
「やっぱり……」
アニーが、もう一度繰り返す。
「『絶対に盗もうとする輩出てくるし、それが市場にでも乗ったら、国の経済壊れるよ? 王族、貴族側で起きる可能性がある。それはホント駄目』……とも言ってたな」
アウローラが続けると、テントの中に、今度は深い沈黙が落ちた。
ベラが、ぽつりと呟く。
「……正しいんですよね」
「そうなのだろうな」
「有羽様は、権力も名声も富も地位も、一切興味を示しませんが……」
アニーが、寝袋の中で指を折るような仕草をする。
「それらの『扱い方』は、しっかり理解していらっしゃる……」
「そうだな」
アウローラも、小さく頷いた。
「それだけじゃない。有羽は貴族制度を嫌っているが、無下にはしていない」
王都の論争好きな貴族たちの顔が、脳裏に浮かぶ。
裕福さと腐敗と責任と。
その全部が、貴族という階層に詰め込まれている。
有羽の家での何気ない会話を思い出す。
土地。
税。
軍。
それらの話になると、有羽の口は自然と動いた。
「特権階級が政治的・経済的・社会的な優位性を何故持つのか。貴族制度の上で運営している国家の成り立ちを……あいつは、正しく理解している」
有羽は、貴族になりたいとは欠片も思っていない。
けれど、貴族の「大事さ」は理解しているのだ。
何の為にあるのか。
何の為に権力は振るわれるのか。
土地所有権、税の管理、軍事指揮権――それらを扱うのが貴族。
同時に、有羽はこうも言っていた。
『貴族だから偉いんじゃない。優秀だからこそ貴族として称されて、偉くなる……って形じゃないと、持たないでしょ、国って』
理解した上で、拒否する。
特権なんて、いらない――と。だから、森にいるのだと。
どこの領地でもない、森の奥深くに。
「……ただの平民に、そんな選択はできませんわね」
アニーが、小さく笑う。
「だからこそ思うのです。有羽様は、何処か遠くの国の貴人なのではないかと」
「そういう噂、出てるのか?」
「ええ。王宮の一部では」
ベラがやや楽しそうに言った。
「『出奔した他国の王子では』『実は亡国の魔法貴族の末裔では』とか、色々と」
「好き勝手言うなぁ、あいつらも」
アウローラは、苦笑混じりに呟く。
自分も、ただの隠者だとは思っていなかった。
魔法の腕は、国随一と名高い自分を易々と凌駕し。
知識は底が知れない。
そして、物事の判断や考え方が、「ただの民草」ではありえない形をしている。
優れた教育を受けなければ、ああはならない――それは、アウローラにも分かった。
だが。
「……まあ、過去はどうでもいい」
ぽつり、とアウローラは言う。
侍女たちが、少し驚いたように目を瞬かせた気配がした。
「私はただ――」
言葉が、少しだけ途切れる。
瞼が重い。
温い寝袋。
満腹の幸福感。
焚き火の熱が、テント越しに柔らかく伝わってくる。
意識が、すこしずつ沈んでいく中で。
「どうすれば……有羽が……」
微睡の底から、言葉が浮かび上がる。
「私の傍に、居てくれるのか……それだけ、考えている」
侍女たちは、寝袋の中で、息を呑んだ。
アウローラは、自分で自分の言葉に気づいているのかいないのか。
「難儀なものだ……」
うつらうつらとした声。
「あれだけの力があれば……爵位だって渡せる……」
王女としての打算がないわけではない。
爵位を与えれば、宮廷に縛り付けることもできる。
法的な庇護も、政治的な地位も与えられる。
そうすれば――
「そうすれば……すぐにでも……私の近くで……」
そこまで言って。
アウローラの言葉は、すっと途絶えた。
寝息が。
規則正しい呼吸の音が、暗闇に溶けていく。
アニーとベラは、しばらく黙っていた。
さっき聞いた本音を、どう扱うべきか。
忠誠を誓う王女の弱さと願いを、どう胸に仕舞うべきか。
やがて、アニーが、小さく囁いた。
「……聞かなかったことに、しておきましょうか」
「そうですわね」
ベラも、同じように囁き返す。
「殿下が、自分で自覚なさるまでは」
「ええ」
そのやり取りも、すぐに静寂に飲み込まれた。
テントの外では、見張り番の小さな焚き火が揺れている。
遠くで、夜鳥の声。
森の奥の、得体の知れない気配。
それらすべては、結界の外側の出来事だ。
テントの中は、暖かい。
満腹と寝袋の温もりに包まれながら、侍女たちの意識も、やがてすとん、と落ちていった。
アウローラ達の番は最後。早朝の見張り番だ。
それまではぐっすりと眠れる。
だから、早朝の見張り番の時間まで――三人は穏やかな眠りについた。
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