第5話・アウローラの想い、有羽の想い
麻雀の熱戦が終わり、王女殿下が見事に焼き鳥を飾った夜。
外はすっかり闇に沈み、森のざわめきも遠くなっていたが、有羽が作った客間の中は、柔らかな灯りとふかふかの布団に満ちていた。
客間と言っても、最初の頃のそれとはまるで別物だ。
あの日、雪の中で凍えかけていた彼女たちのために、有羽が「とりあえず寝ろ」とばかりに一晩で建てた小屋は、本当に最低限のものだった。雨風を凌げて、火が焚けて、床に寝転がれば死なずに済む――それだけで、当時はどんな神の救いよりも有り難い温もりだった。
……それが今では。
「ふぅー……極楽」
アウローラは、ベッドの上で大の字になっていた。
目を閉じても分かる、布団の弾力。
ふわふわで、体重をゆっくり受け止めてくれる羽毛布団。
彼女だけではない。
侍女たちの分のベッドも並び、小さなクローゼット、鏡面台、果ては小さな浴室まで備えついている。
誰がどう見ても、「王女付き一行の別荘」と呼んで差し支えない充実ぶりだった。
「何と言うか……」
浴室から戻ってきた侍女の一人が、まだしっとり濡れた髪をタオルで拭きながら言う。
「私たち、森の生態調査と、有羽様のスカウトという大義名分で来ておりますけれど……」
言葉を区切り、客間をぐるりと見渡す。
「ここ一年ほどは完全に、仕事という名の休暇ですよね」
「分かる」
別の侍女が、ベッドに腰掛けながら、真剣な顔で頷いた。
「しかも優雅な休暇。この布団とか凄いわよ。有羽様は羽毛布団と言っていたけど……こんな眠りやすい布団、王都のどこにも売ってませんわ」
「鏡面台の鏡なんて、曇りひとつ無いわよ」
もう一人が、磨き上げられた鏡を指で撫でて、ため息を洩らす。
「こんなに美しい鏡、どれだけ金貨を積めば購入できることか……」
「『化粧水』や『乳液』も凄いわよね」
誰かが、棚に並べられた瓶を見て、夢見るように言った。
「ホント、出来る事なら王都に持ち帰りたい……戻った途端、石鹸と香油に戻るとか、もう耐えられませんわ」
侍女たちは全員、口を揃えてこう結論づけていた。
「有羽様、素敵……!」
そこに色恋めいた響きはない。
彼女たちにとって有羽は、「美容の神様」だった。
肌に優しい石鹸。
髪がきしまず、むしろ柔らかくなるシャンプーとリンス。
風呂上がりに肌がしっとりする化粧水と乳液。
一度でもそれを使えば、王都の粗い石鹸と油っぽい香油にはもう戻れない。
侍女たちは、いい具合に堕落していた。
主に、有羽の、余計に手の込んだ品々のおかげで。
「お前たち」
ベッドの上でごろりと転がりながら、アウローラが一応の王女らしさを取り戻そうと試みる。
「確かに、ここでは堅苦しい作法は必要ない。私も、必要以上にお前たちを縛るつもりはない」
立派な言葉だった。言葉は立派だった。
「だが、それでも栄えある王女付きの侍女隊だぞ。もっと節度を持ってだな――」
「殿下」
侍女たちから、冷ややかなジト目が一斉に向けられた。
「その態勢で言っても説得力がありませんわ」
「ええ、一番堕落しているのは王女殿下ですわ」
「ですわですわ」
「ぐ……」
ベッドの上でごろごろ転がりながら説教する王女に、威厳などあろうはずもない。
誰がどう見ても、そこにいるのは「王族の重荷を一時的に放り投げた、一人の女」だった。
アウローラ自身、それを否定できなかった。
ここは――有羽の結界の内側であり、森の中の小さな別世界だ。
王族としての顔も。
未亡人としての顔も。
将来の政略結婚の駒としての顔も。
そのどれもをいったん脇に置いて、ただの「アウローラ」としていられる場所。
世界で唯一、心から気を抜ける場所だ。
だからこそ、ついだらしなくなる。
ベッドの上で、仰向けになったまま天井を見つめていると、胸の奥の柔らかい場所から、ぽつりと言葉が零れた。
「……やはり、有羽は王都に来てくれぬよな」
弱さの混じった声。
侍女たちは、その響きにまったく驚かなかった。
もう、何度か聞いている。
だが、二年前の彼女を知る者たちからすれば、到底信じられないような「第二王女殿下の素顔」だった。
傍にいてほしい者が、傍にいてくれない。
常に側にいてほしい者が、森の奥に引きこもっている。
どんな名誉も。
どんな地位も。
どんな名声も。
有羽ほどの力があれば、容易に手に入れられるだろう。
アウローラ自身が、全力でその手伝いをすると約束しているのに。
――それでも、有羽は首を縦に振らない。
この森から出ていく気配は、欠片も見せない。
アウローラは、そのことを、誰よりもよく分かっていた。
だからこそ、こんな弱音が漏れる。
「……ある種の世捨て人ですからね、有羽様は」
侍女の一人が、苦笑混じりに言った。
「王都の頑固な職人に似たものを感じますわ。どれほどの金と地位を積まれても、決して工房を出ない職人たち」
「いますわね、そういう方々」
別の侍女も、頷きながら続ける。
「地位や権力に靡かない、鉄のような頑固者。けれど、そういう方々ほど、作り出す品は大抵『一流の本物』ですわ」
「有羽様は、まさにそれです」
誰かが、ふっと笑った。
「自分が信じた道だけを進み、それ以外の道は一切歩かない。厄介なほど愚直な人」
アウローラは、ベッドの上でごろりと横向きになり、壁に背を向けた。
「……この客間を作って貰えただけでも、十分すぎるくらいだ」
小さく呟く。
「それは、分かってるんだ」
あの日、雪の中で震えていた自分たちを見て、有羽は渋々ながらも小屋を建ててくれた。
あれは、彼にとって明らかな「譲歩」だった。
この森は、どの国の領地でもない。
ゆえに、そこで誰の力も借りず、自分の力だけで暮らしている有羽に対し、誰も命令する権利はない。
ましてや――彼の生まれがどこなのかを知らぬ彼女たちには想像もつかないが――この世界そのものが彼の故郷ではない。
有羽は、誰にも縛られない、ただ一人の人間だ。
そんな男が、自分たちのために客間を作ってくれた。
設備を増やし、布団を整え、鏡を置き、風呂まで用意してくれた。
それだけで、本来なら「奇跡」と呼んでいいほどの譲歩だった。
「それでも……」
静かな声が、客間の空間に落ちる。
侍女の一人が、そっと問いかける。
「それでも――殿下は、有羽様を諦めないと?」
アウローラは、少しだけ間を置いた。
そして、完全に無防備な口調で答えた。
「うん――私以外の近くに居るのは、いやだ」
その瞬間、空気がぴたりと止まった。
「…………」
侍女たちが、一斉に口元を押さえた。
(か、かわいい……!)
悲鳴に近い感情が、喉まで込み上げてくる。
言っている内容だけ聞けば、王女としてはかなりの我儘だ。
だが、その声色は、ただただ素直で。
まるで、本当に恋する乙女のような、無意識の独占欲。
あまりにも可愛らしすぎて、侍女たちのほうが顔を赤くして黙り込んでしまった。
「な、何だ、その顔は」
侍女たちの顔を見たアウローラが、むすっとした声を出す。
「何も言ってませんわ」
「ええ、何も。ただ……」
「ただ?」
「殿下が……」
ひとりの侍女が、そこで言葉を飲み込み、代わりに小さく笑った。
「いえ。殿下らしくて、安心しました」
「そうですわね。殿下が有羽様を諦めるようなら、それこそ世界の終わりですもの」
「お前たち、それはそれで失礼ではないか?」
アウローラは、枕をつかんで適当に投げた。
布団にぽふんと当たり、侍女がくすくす笑う。
客間の空気は、また少し柔らかくなる。
それでも――さっき自分で口にした言葉が、アウローラの胸の中でじんわりと広がっていた。
(私以外の近くに居るのは、いやだ、か……)
自分で言っておきながら、頬が熱くなる。
夫を亡くした自分が、他の誰かに対してこんな感情を抱くなど、二年前には想像もできなかった。
それは恋なのか。
執着なのか。
生きる理由を与えてくれた相手への、ただの感謝の延長なのか。
そのどれなのか、アウローラ自身にも分からない。
分からないが――。
「……やっぱり、諦めない」
小さく、誰にも向けない宣言をする。
「有羽がこの森に居たいなら、居ればいい。誰も命令できない。私も、無理矢理連れて行くつもりはない」
布団をぎゅっと握りしめる。
「でも、それでも――私以外の誰かのそばで笑っているのは、いやだ」
その言葉は、完全に少女のわがままだった。
侍女たちは、それを聞いてしまっているからこそ、何も言えない。
ただ、胸の内でひっそりと微笑むだけだ。
(本当に……かわいい方)
誰かが心の中でそう呟き、そっと灯りを落とした。
森の夜は、まだ長い。
結界の向こう、ログハウスの中では、きっと有羽が一人でぼんやりしているだろう。
この客間は――アウローラが世界で唯一、素の自分をさらけ出せる場所。
そして、彼女が決して諦めない「引きこもり魔法使い」の、すぐ近くでもあった。
◇◇◇
朝の森は、透き通るような空気に満ちていた。
結界のおかげで、外ほどの冷え込みはない。
けれど、頬をくすぐる風は確かにひんやりしていて、眠気をほどよく吹き飛ばしてくれる。
ログハウスの中には、別の意味で眠気を吹き飛ばす香りが満ちていた。
「……いい匂い」
客間から戻ってきたアウローラが、思わず呟く。
テーブルの上には、朝食が整然と並んでいた。
カリッと縁が焼かれたベーコンエッグ。
皿の端には、朝露をはじくような新鮮な葉野菜。
籠には、湯気を立てる焼きたてのパン。
そして、鍋から注がれたばかりの、白く濁った牛骨スープ。
視覚と嗅覚だけで、胃袋が完全に目を覚ますラインナップだった。
「本当に……何度見ても豪勢ね、これ」
侍女の一人が、席につきながら小さく溜息を洩らす。
ベーコンに使われているのは、森の魔物「アダマンボア」の猪肉だ。
鉄よりも硬い皮膚を持ち、鎧すら噛み砕く凶暴な魔物。
その肉を丁寧に処理し、塩漬けと燻製を重ねて作ったベーコン。
王都でこのベーコンの塊を求めたら、そこそこのドレスが何着も買えるほどの金額が飛ぶ。
貴族御用達の高級レストランでしか、まずお目にかかれない一品だ。
それが今。
皿の上で、じゅわりと脂を滲ませている。
目玉焼きに使われた卵は、森の魔物「レッドコカトリス」のものだ。
鉄をも溶かす強酸を吐く、上位コカトリス。
卵一個で、金貨が何枚動くか分からない。
その味わいは、濃厚で豊潤。香りだけでも、普通の卵とはまるで別物だと悟れる。
そんな卵を――ごくごく普通の目玉焼きにしている。
贅沢の極み、という言葉すら追いつかない使い方だった。
パンは、一見するとただの丸パンに見える。
だが、この魔境の大森林の中で、「焼きたてふわふわパン」が食べられるという事実が、すでに最高級の贅沢だ。
そもそも、パン窯がある時点でおかしい。
森のど真ん中の一軒家とは思えない設備である。
しかも、有羽のパン作りの腕は、アウローラが訪れるたびに確実に上がっていた。
(これ、王宮の晩餐会に出せるレベルのパン……)
内心でそう呟きながらも、深く考えないようにする。
考え出すと、王都中のパン屋が気の毒になってしまうからだ。
そして、牛骨スープ。
昨日の「デストロイホーン」の骨を丁寧に煮出し、香味野菜と魔素の流れを調整する独自の魔法で、旨味だけを抽出した白濁スープ。
一口飲めば――。
「……っ」
体の芯まで、熱が通る。
朝特有の身体の重さが、一瞬で吹き飛ぶようだった。
「これ……効きますわね……」
侍女の一人が、目をぱちぱち瞬かせる。
「さっきまで眠くて仕方なかったのに、今すぐ森を一周して来いと言われても行けそうですわ」
「それはやめとけ。途中で死ぬから」
有羽が、トーストしたパンをちぎりながら、ぼそっと突っ込む。
護衛たちも、外のテーブルで同じ朝食をかき込んでいた。
全員の顔が、見事にしゃっきりしている。
ベーコンの塩気と、卵の濃厚な黄身。
野菜の瑞々しさ。
焼きたてパンの優しい甘さ。
それを牛骨スープで流し込めば、誰だって眼がランランになる。
「……ごちそうさまでした」
全員が食べ終えた頃には、アウローラ御一行は、完全に「戦闘前」の顔つきになっていた。
◇◇◇
朝食を終え、片づけもひと段落したころ。
アウローラ一行の出立の時が来た。
王都へ戻らなければならない。
特に今回は、海の向こうから来た異国への対応を、有羽に聞きに来た。
得られた情報を、一刻も早く王都に持ち帰る必要がある。
いつもなら、最低でも数日は滞在する。
一応、名目上は「魔境の大森林の生態調査」と「有羽のスカウト」だ。
実際、その名目通り、森の植物や魔物を記録しながら、長期滞在するのが常だった。
有羽の居住空間を拠点に、あちこち歩き回るのが、ここ一年ほどの決まりパターン。
来た翌日に帰るなど、それこそ二年前――初めて出会ったあの日以来のことだ。
その事に思い至ったのか……有羽とアウローラの様子が、少しおかしい。
玄関前で向き合った二人は、何だか妙な顔をしていた。
照れくさい。
歯痒い。
少しだけ、恥ずかしい。
そんな感情が、ごちゃっと混ざったような表情。
あの頃とは違う。
最初に出会ったあの日のように、互いに険悪な態度を取ることはもうない。
例えば――。
「じゃ、並んで」
有羽が、いつものように片手を上げた。
アウローラも、侍女も、護衛たちも、素直に一列に並ぶ。
有羽は、彼らのほうへ手のひらを向けた。
「守護力場」
短い詠唱とともに、淡い光が一行を包む。
薄い膜のような光が、全員の身体にふわりと張り付いた。
数秒後には、目で見ても分からない透明に。
しかし、肌で分かる。
ひんやりとした空気の中で、自分たちの周囲だけ、見えない「壁」がある感覚。
「……やっぱり、すごいわね、これ」
アウローラが、腕を軽く振りながら呟く。
この「守護力場」は、最高級ミスリル製の防具を上回る防御力を持つ。
ミスリルはこの世界でも屈指の高級鉱石だ。
魔法に対しても強い耐性を持ち、硬度も鉄を凌ぐ。
それを越える防御力を、「魔法一つ」で与えてしまうのだから、やはり規格外である。
この防御魔法がある限り、帰り道に関しては、ほぼ安全だと言っていい。
むしろ、このバリアを打ち破れる存在のほうが稀だ。
……とはいえ、有羽はいつもの警告を欠かさない。
「もう何度も言うけどさ」
少しだけ真面目な声になった。
「王女さんらの国は南側だから、基本問題ないだろうけど……絶対、森の北側には近づかないように」
視線が、森の奥――北の方角をかすめる。
「俺でも『厄介』だと思う奴の縄張りがあるからさ」
その言葉に、一同は、自然と背筋を伸ばした。
何度も聞いた警告だ。
そのたびに、背中を冷たいものがなでていく。
有羽ですら厄介と称する魔物の縄張り。
頼まれたって、興味本位でも、絶対に近寄る気にはなれない。
だが同時に――。
(……心配、してくれている)
アウローラの胸に、じんわりと温かいものが広がる。
初めて出会ったあの日。
あのときの有羽は、こんなふうに自分たちを気遣うことはなかった。
竜を撃ち落としてくれて。
傷を治してくれて。
そのあと、容赦なく追い返した。
「出ていけ」とだけ告げて、扉を閉ざした。
それが今では、こうして帰り道の安全を気にしてくれる。
何度も何度も、同じ警告を繰り返し。
何度目か分からない「気を付けて」の言葉をくれる。
ただそれだけのことが――。
そんなことだけが、アウローラの心を確かに癒していた。
「では、な」
アウローラは、背筋を伸ばし、いつもの調子に戻る。
「また来るぞ、有羽」
それはもはや「約束」ではなく、「宣言」に近かった。
今日もスカウトは不発だ。
森から出て王都に来てくれ、という誘いに、有羽が頷く気配は相変わらずない。
それでも――。
「ああ、またな、王女さん」
有羽は、ごく自然に笑った。
その笑みは、最初に会った頃にはなかったものだ。
皮肉でも、諦めでもなく。
ただ、「次も来るだろ」と、当たり前のように受け止めた笑顔。
その笑顔を見た瞬間。
(また、来よう)
アウローラは、心の底からそう思ってしまう。
王都と森の奥。
南の大国の第二王女と、魔境に引きこもる異世界人。
交わらないはずの二人が、森の中心で、何度も何度も、「またな」と言葉を交わしている。
護衛たちも、侍女たちも、静かに頭を下げた。
「有羽様、またお邪魔いたします」
「次は、パンの新作を期待しても……?」
「……図々しいな、お前ら」
呆れたように言いながらも、有羽は追い返さない。
その背中を見送りながら、一同は森の南へ向かって歩き出した。
守護力場の膜が、陽の光をほのかに反射している。
振り返れば、ログハウスの煙突から、薄い煙が立ち上っていた。
魔境の大森林の中心にぽつんと建つ、丸太の家。
畑と井戸と、客間と。
そして――有羽一人だけになった、異世界人の住処。
「……さて」
一行の姿が見えなくなった頃。
有羽は、窓辺から視線を外し、ひとつ伸びをした。
「昼は何作るかな……」
呟きは、誰の耳にも届かない。
けれど、その声色は、昔のような虚無だけではなかった。
ほんの少しだけ、誰かの来訪を前提とした生活のリズムが、そこにあった。
南へ帰っていく王女一行と。
森の中心に残る引きこもりの魔法使い。
それぞれの背中越しに、まだ続いていく物語の予感が、静かに揺れている。
一応、これで完結です。最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
この話の続きは、書こうかどうか悩んでます。現在、色々短編を試作しているところなので……興味があれば是非、ブクマや評価、いいねで応援していただけたら幸いです。
追記・続きを連載していくことにしました。今後も、有羽とアウローラが主軸で進んでいくかと思います。
長い目で見てあげてください。




