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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第三章

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第41話・考察と交渉


 森の静寂を裂くのは、風の音でも、水のせせらぎでもなく――


「コメ……コメ……こめぇ……」


 机に額をくっつけたまま唸り続ける、謎の生命体の声だった。

 さっきまで、魔国女王の前で取引条件に頭を抱えていたはずの森の賢者は、今や完全に「米亡者」と化している。人の形をしているだけで、内面は何か別の生き物なのではないかと疑いたくなるほどだ。


『……隠者よ』


 女帝の木人形が、遠目にも分かるほどあからさまな「呆れ顔」を浮かべる。


『さっきから鳴き声がそれしかないぞ。新種の魔物か何かになったのか?』

「うっせぇ……俺は今デリケートな時期なんだよ……コメ……」

『デリケートの使い方を間違えておるわ』


 女帝の枝先が、ぺしぺしと有羽の頭上の空気を叩く。実際に当たっているわけではないが、風圧だけで充分うるさい。

 そのやりとりを横目に見ながら――メトゥスは、静かに思考を深めていた。


(……何故、そこまで悩むのか)


 目の前の男の詳細は、メトゥスにはほとんど分からない。

 知っているのは、名と呼び名。

 世渡有羽。

 森の賢者。

 僅かな魔法の片鱗。


 そして――垣間見てしまった、彼の本質。

 海の底で砕け散った残骸。

 ――それだけで、十分すぎた。


 魔力の密度。

 魔術式の発想。

 女帝と並んで当たり前のように言葉を交わし、その「創成」を受けて平然と手を加えられる存在。

 更に。異次元とも言える無数の知識を操る異常性。


 優れた魔導師であるメトゥスには分かる。

 彼は、人の枠に収まるものではない。


(森の賢者と名乗ったあの男は……人の形をしているだけ)


 その内側に渦巻くものは、怪物そのもの。

 深淵の縁でぎりぎり立ち止まっている「壊れた残骸」。

 何かが欠け、何かが歪み、なお立っている異形。


(……それでも、理性を保っている)


 そこが、メトゥスには理解できないところだった。

 あれほどの力を持ちながら、「力」を前面に出さない。

 怒りで全てを薙ぎ払うでもなく、世界を呪うでもなく、森の奥で黙々と生活の快適さだけを追求している。

 もしも有羽が「力」を交渉材料に使う気になれば――


(そもそも、取引など成立しない)


 メトゥスは冷静に結論を下す。

 彼が「米が欲しい」と力で迫れば、魔国は逆らえない。

 彼個人と魔国の軍事力を並べて天秤にかければ、その差は一目瞭然だ。

 たとえ魔国の軍勢、魔導師団、戦士、全てを総動員したところで――一夜として保たないだろう、と。


 意志を持った嵐。

 もしくは、軌道の読めない彗星。

 ぶつかった瞬間、国ごと軌跡から消えるような「威」を秘めている。

 それが、森の賢者。

 にもかかわらず、その当人は――


「コメ……」


 机に額をつけて唸っている。

 その姿のギャップに、頭が痛くなる。


(……それでも)


 メトゥスは、瞳の奥でわずかに光を揺らした。

 今、彼は「交渉」をしようとしている。

 圧力ではなく、等価交換を。

 深淵から伸びる手を「取引の手」に変えて差し出している。


(そこに、何かある)


 彼の生き方の、核のようなものが。

 その「理由」を知らずに、軽々しく手綱をつかむべきではないと、女王の本能が告げていた。


「――有羽様」


 意識的に、名で呼ぶ。

 賢者、でも隠者、でもなく。

 ひとりの男としての呼称を選ぶ。


「……んぁ? お、おう。な、なに?」


 のそり、と有羽が顔を上げた。

 額に木目模様を付けそうな勢いで机に擦り付けていたせいか、若干跡がついている。

 どこからどう見ても、さっきまで「米に人生を悩まされていた人」だ。

 だが、その瞳の奥に溜め込まれている「何か」は、やはり人外のものだった。


「つかぬ事を伺いますが……」


 メトゥスは声を整え、さりげない風を装う。


「有羽様のお住まいはどちらで?」

「あー……」


 有羽は椅子に座り直し、軽く顎に手をやった。


「この森の南の方。南に王国あるじゃん? あそこが一番近めかな?」


 さらり、と。

 何でもない事実を告げるように、有羽は口にした。

 それを聞いて――メトゥスは、ほぼ確信した。


(やはり)


 最近、魔国の情報網が掴んでいた「南王国の不自然な発展」。

 暑い季節でも室内を涼しく保つ装置――「エアコン」。

 まだ試験段階ではあるが、魔国から派遣された大使が、国書より先に「エアコン体験談」を延々と書き連ねてきたほどだ。

 曰く、


 ――心が穏やかになるほど快適だった。


 と。

 別の報告では、石鹸の品質が飛躍的に向上しているという。

 泡立ち、香り、肌への優しさ。

 従来品とは別物。


 それを使っている貴婦人たちは肌が整い、侍女にまで恩恵が及んでいる――と、魔国の商人が羨望混じりに書き送ってきた。

 本来王国の技術は、まず王族・貴族の周辺で生まれ、型が整えられてから「型落ち品」が平民へと流れていく。

 だが、スパイ網からの報告では――民草の中に突然現れた天才の噂もなければ、発明の功績を巡る貴族の小競り合いも見当たらない。

 にもかかわらず、王都近辺の生活水準だけがじわじわと押し上げられている。

 その背後に「王家に近い何者か」の存在があることは、メトゥスも感じ取っていた。


(……この男)


 森の南部に住む、名も無き賢者。

 南王国の王都までは、決して近くない。

 だが、「近い」と言い切った。

 森と王国、その二つの座標が容易く口から出てくる時点で、何らかの関わりがあるのは確かだ。


(彼こそが――最近、王国で発展している技術革新の要)


 メトゥスは心の中で結論付ける。

 魔国の魔導技術は、これまで王国の一歩先を歩いていた。


 魔石の扱い。

 魔道具の量産と品質管理。

 魔法陣の体系化。


 どれも、魔国の方が一日の長がある。

 だが、このまま王国が「森の賢者」の発明で栄え続ければ――


(優位が崩れる)


 王国は「守られる側」から「選ばれる側」に変わる。

 魔国が、森の均衡から見て「不要な枝」と見なされる可能性が生まれる。

 メトゥスは、ふと女帝を見やった。

 木人形の顔は、いつも通りのんびりしたものだ。

 だが、その奥底にあるものをメトゥスは知っている。

 女帝は、決して無慈悲ではない。

 森の生命を愛で、精霊と共に風雨を調整し、病にかかった大樹には手当もする。

 けれど――その慈悲は人の尺度とは隔絶している。


 「枝」が枯れかければ、躊躇なく切り落とす。


 それは、メトゥス自身の経験からも明らかだった。

 魔国前王――メトゥスの父が病に倒れたとき、女帝は一切手を貸さなかった。

 魔国の王が倒れれば、一時的に森全体の均衡が乱れる恐れがあるにもかかわらず。


 いや、だからこそかもしれない。

 弱った枝を無理に延命させれば、かえって幹全体が腐ることもある。

 女帝の理は、いつも森全体に向いている。

 個の情には、決して引きずられない。

 ――その結果、メトゥスは王冠を継ぐことになった。


(西に力を欠いた国がぶら下がっているより、南に強い国が伸びていた方が森の均衡が取れる――そう判断されれば)


 女帝が、魔国を「切る」ことは有り得る。

 魔国の女王としては、暗い笑い話にもならない想定だ。

 だから、メトゥスは諜報を強化しようとしていた。


 南王国。

 第一王女。

 第二王女。

 王都の魔導師団。

 王立工房。

 その周辺を洗い直し、「知恵者」の影を探す計画を立てていた。

 重臣たちを集め、会議まで開いた。


 その矢先に――

 目の前に答えがやってきた。

 カレーの匂いと共に。


(彼だ)


 目の前でぐだぐだと米に悩んでいる男こそが。

 王国の技術革新を裏から支えている「何者か」。


(だが……おそらく、深い繋がりではない)


 メトゥスは、さらに思考を進める。

 もし有羽が、王都に住んでいるのなら。

 あるいは、王宮のどこかに部屋を構えているのなら。

 魔国の「草」たちが、それに気づかないはずがない。

 王宮に住みながら、王族にのみ革新的な技術を提供している謎の賢者がいるなどという噂は、真っ先に諜報網に引っかかるだろう。

 だが、そんな報告はひとつもなかった。

 あるのは――


(森の中に居を構える、正体不明の賢者の噂)


 最近、王国の酒場の一部で囁かれている「森の奥の賢者」の伝承。

 王族の誰かが世話になっているのだとか。

 酒場の酔っ払いの口からこぼれたそれを「眉唾だ」と笑い飛ばしかけて――メトゥス自身の理性が今「待て」と押しとどめている。

 そして、その「噂」の中心人物が目の前にいる。


(彼は、森の中に居を構えている。そしてその技術の一部が王国に――)


 何故?

 どうやって?

 誰が仲介を?

 思考が、嵐のような速さで回る。

 南王国の王族たち。

 第一王女レジーナ。

 国王。

 そして――第二王女アウローラ。


(……第二王女アウローラ)


 脳内の報告書の束の中から、その名が浮かび上がる。

 ここ二年ほど、彼女は社交の場に顔を出すことが減っている。

 代わりに記録されているのは――


 魔境の大森林探検隊。


 第二王女を隊長とし、精鋭の護衛と「戦える侍女」たちを率いて、何度となく森に赴いている。

 往復のたびに、第二王女の力量は目に見えて向上している。

 護衛も侍女も、同様に。


 そして――

 社交界で囁かれている、もうひとつの噂

 第二王女と、その侍女隊の「美しさの変化」。

 肌艶が増し、髪が柔らかくなり、香り立つような気配をまとい始めた。

 石鹸の品質向上による変化だと、魔国の「耳」が小声で報告してきていた。


(――違う)


 メトゥスは、心の中で報告書を一枚一枚ひっくり返す。


(第二王女が「先」だ)


 エアコンも。

 石鹸も。

 まずは第二王女の周囲。


 そこから王家へ。

 そこから貴族へ。

 その順で流れ込んでいる。


(第二王女アウローラが、「源泉」に最も近い)


 そして――

 魔境の大森林に、頻繁に出入りしている。

 偶然、だろうか。

 メトゥスは、自分の中の「女王の勘」が首を横に振るのを感じた。


(彼女は森に通っている。彼は森の南部に住んでいる。技術が王家に渡る経路は――そこしかない)


 第二王女アウローラが、有羽の住まいを訪れる。

 そこで新たな知識や技術を授かる。

 帰還した彼女が、それを王家にもたらす。

 そこから、王国全体が変わり始めている。

 その図が、ぴたりと嵌まった。


(そして――彼は未だ王都に住まない)


 それはつまり。


(……王国に仕えている可能性は低い)


 王家と繋がりはある。

 礼や恩義もあるだろう。

 だが、立場としては「独立」。

 森の中に居を構え、自分の領域を守りながら、必要に応じて知恵を分け与える。

 王国にとっても、魔国にとっても、「誰のものでもない上位存在」。

 その可能性が、ぐっと高まった。


 メトゥスは、そっと息を吐く。

 その吐息には、ほんの少しだけ安堵が混ざっていた。

 もし有羽が、すでに王国の正式な客人、あるいは顧問として迎えられていたのなら――

 魔国がそこに割り込む余地は限りなく小さかっただろう。

 だが、今ならまだ間に合う。

 森という「中間地帯」で。

 女帝の加護の下で。

 魔国もまた、この「知恵者」と繋がりを持てる可能性がある。


 もちろん、賭けだ。

 下手を打てば、一瞬で嫌われる。

 米のために焦って強引な取引を迫れば、森から追い出されるのは魔国側だ。

 だが、魔国の命運は――そもそも女帝の気まぐれひとつで左右される。

 ならば。


(賭けない理由が、ない)


 メトゥスは、静かに決意を固めた。


 米。

 カレー。

 技術。

 森の賢者。

 第二王女アウローラ。

 南王国。

 魔国。

 女帝。


 その全てが、今この小さなオアシスに集い始めている。

 その中心で、まだ机に額を擦り付けて唸っている賢者を見ながら――


(……あの第二王女。とんでもないものと縁を結んだのね)


 銀色の睫毛の影で、メトゥスの瞳がふっと陰る。

 視線の先では有羽に向かって、女帝の伸ばした樹の枝が「ぺち、ぺち」と叩いていた。全て、有羽が展開している風の障壁で防がれているが……気にした様子もなく、米を渇望する妖怪が呻く。


「コメ……コメ……」

『隠者よ、いい加減喧しいぞ? 少しは静かにせい』

「うっせ……今こっちは人生の岐路なんだよ……コメ……」

『人生の岐路の音が「こめぇ……」で良いと思うな』


 女帝が、ため息混じりにもう一本枝を出して「ぺちぺち」回数を増やす。叩かれている有羽も、もはや慣れたようで、ろくな反応を返していない。


「そういやさ」


 だが急に、ぐでんと机に突っ伏していた有羽が、顔だけこちらに向ける。

 まだ目の奥は「米」だが、言葉そのものはまともだった。


「リザードマンが亡命したって言ったけど……なんでまた、離れた魔国まで? 東の帝国から、ここ、正直言ってめちゃくちゃ遠いだろ」


 問いは、何気ない雑談のように見えた。

 だが有羽の視線は、魔国女王としてのメトゥスを、確かに見据えている。


「大陸の真ん中に、このでっかいダンジョン――魔境の森があるじゃん。ここ突っ切って東から西は、自殺コースだし。北は山脈と神聖国だろ? 魔物っぽい見た目のリザードマンが踏み込んだら、一瞬で討伐案件だ」


 言いながら、有羽は指で大雑把な地図を空中に描く。

 中央に巨大な円。

 その上にぎざぎざの山脈。

 下に弧を描くような海岸線。

 東西に広がる大地。


「ってなると、まともに移動できるのは南しかない訳で。海沿いをぐるーっと回って西まで歩くとか、普通ならやらねぇだろ」


 メトゥスは一度頷き、少しだけ呼吸を整えた。

 リザードマンたちの話をする時は、どうしても声音が硬くなる。 


「十年ほど前まで、帝国は群雄割拠の戦乱の時代でした。大小の領主が割拠し、互いに争い、敗れた者たちは土地を追われる。リザードマンの部族も例外ではありませんでした」


 静かな説明の中に、遠い戦乱の匂いがかすかに滲む。


「彼らは湿地帯を拠点とする種族です。住み慣れた沼や川を追われ……さらに、戦の道具として使われるのを拒みました。帝国の一部の領主はリザードマンの武勇を見込んで、『飼いならされた魔物』として使いたがっていたようです」

「……あー、そういう連中は居るだろうな」


 有羽は眉をひそめた。

 想像するに難くない。

 強靭な肉体、高い水陸両用の適性、毒への耐性。

 戦に使うには、これ以上ない「素材」だ。


「彼らは、戦の道具にされる未来を嫌い……一縷の望みをかけて西へ。湿地を求めて。魔国の旗を目指して、南回りでここまで来たのです」


 メトゥスの言葉には、わずかな敬意が含まれていた。


「はー……」


 有羽は素直に感嘆の声を漏らす。


「とんでもない道程だな。それ、比喩抜きで『決死の逃避行』だぞ。途中で力尽きてもおかしくない」

「ええ。だからこそ魔国の民も、彼らの覚悟を理解しました」


 メトゥスの視線が、森のどこか、遠い湿地帯の方角に向く。


「リザードマン達は、魔国の要請に応じて今まで魔物の巣窟だった湿地帯を『住める場所』に変えてくれました。魔物の間引き、水路の整備、毒草の見分け……彼らの働きがあってこそ、あの一帯は今の形になっています」

「だから居住権か。ちゃんと筋通してるじゃん、魔国」


 有羽の口元に、少しだけ柔らかい笑みが浮かんだ。


「南の王国にっつー選択肢も、一応はあっただろうけど……あそこ人族ベースだしな。異種族も受け入れてない訳じゃないけど、本拠地にするには住みにくいか」

「そうでしょうね」


 メトゥスは淡々と肯定する。


「あの国も異種族を排斥はしていませんが……国の上層部も人族が大半を占めています。リザードマンが暮らしていくのは苦しい環境でしょう」


 そこで、有羽の視線がふと女帝へと移る。


「で、そんな苦労してるのに、東の『蛇』は無関心……って訳ね」

『うむ』


 女帝の木人形が、ややうんざりしたように肩を竦める仕草をする。


『あやつはおのが眷属相手でも態度を変えぬ。リザードマンが追われようと、生きようと死のうと、あやつにとっては「湿地の一部」が少し変わった程度のことよ』

「……性格悪ぃなぁ、ホント」


 有羽があからさまに顔をしかめる。


「まあ、気持ちは分からんでもないけどさ。あれ、動くだけで森に影響出るレベルだし。けど、眷属が遠くまで逃げて来てんのにノータッチかよってなると……」

『我が、奴の眷属を優遇してやる義理は無い。とはいえ、リザードマンを粗略に扱って、万が一にでも不興を買うことを考えるとな……』

「なるほど。だから不干渉でいたのね」

『うむ』


 女帝の枝先が、オアシスの水面をくすぐるように撫でる。

 東の「蛇」。

 その名も知らぬ巨大な何かは、動けば森の均衡を乱し、眠れば「存在」だけが重しとして働く。

 女帝も、有羽も、それをよく知っているが――


「めんどくせぇなぁ、アイツは……」


 有羽は心底うんざりした声音で吐き捨てた。


「もうずっと、とぐろ巻いて寝てろ。それが世のため人のためだって」

『同感じゃな』


 女帝の返答は早かった。


『東で永遠に丸まっておるのが、あれにとっても森にとっても最善よ』


 西と南、二つの「森の主」が、珍しく完全な意見一致を見せる。

 メトゥスは、そのやり取りを静かに見守る。

 話のスケールが、もはや「国」単位を飛び越えているのは明らかだった。


 森全体。

 枝と根。

 枝につく国々と、根の奥で眠るもの。


(……ここで口を挟むべきではありませんね)


 メトゥスは小さく息を吐き、視線を落とした。

 彼女も、東に「何か」がいることは知っている。

 だが、その詳細を知ろうとしたことは一度もない。

 触らぬ神に祟りなし――そんな諺が魔国にもあるが、今に至るまで「触れたい」衝動に駆られたことは一度もなかった。

 それよりも――今は、目の前の賢者との距離を詰める方が大事だ。


「有羽様」


 メトゥスは、ほんの少し姿勢を正し、口を開いた。

 カレーの香りがまだ残る空気の中で、銀の髪がさざ波のように揺れる。


「この残りのカレーなのですが」

「ん?」


 有羽が、寸胴鍋の方に視線を移す。

 鍋の中には、まだとろりとした茶色の海が残っていた。

 量にして、およそ半分。


「……ああ、そういや、まだかなり残ってるな。というかメトゥスさん、ひとりで半分近く食ったのね。お腹大丈夫そ? ちょっと食い過ぎじゃない?」

「だ、大丈夫です!」


 メトゥスの耳がピン、とわずかに跳ねる。

 エルフ特有の長い耳が、羞恥心を分かりやすく代弁してくれる。


「エルフのお腹は丈夫なんです。消化も良いんです。健啖なんです!」


 頬を赤く染め、ぷんすかと肩を怒らせる姿は――どう見ても「シャー!」と怒っている猫だ。

 上品なローブドレスを纏ったロシアンブルーが、毛並みを逆立てているような、そんな絵面。


(……やっぱりにゃんこだな、この人)


 有羽は、心の中でそんな失礼極まりない例えをしながらも、表情は素知らぬ顔だ。


「ごめんごめん。で、残りのカレーがどうしたの?」

「……こほん」


 メトゥスは咳払いで気持ちを切り替え、真剣な表情に戻る。

 紫水晶の瞳が、まっすぐに有羽を見つめた。


「出来ればでよろしいのですが――この残りを、我が国に持ち帰ることは可能でしょうか?」


 有羽が瞬きをする。


「持ち帰る?」

「はい。私ひとりの舌と判断だけでは、どうしても『思い込み』が入ってしまいます。ですが、この味を一度でも口にすれば、魔国の重鎮たちも、きっとカレーの重要性に気づくでしょう」


 メトゥスの声は落ち着いていたが、その奥には熱があった。


「私だけの独断ではなく、『国を挙げて米を用意する』という決定を下すには、彼らにも、実物を知ってもらう必要があります。そうでなければ、リザードマンから稲を『献上させるよう促す』ことは出来ません」

「……へぇ」


 有羽は、ふっと目を細める。

 強かだ、と即座に思った。

 言葉の表面だけを見れば、「説得材料に使いたい」という理由だ。

 だがその裏には、もう一つの意図がある。


(……料理人に食わせるつもりだな)


 魔国の宮廷料理人。

 あるいは、食に明るい魔導師、薬師。

 そういった者達の舌と知識を総動員して、カレーの構成を探らせる――その算段が透けて見える。


(まあ、そりゃそうだよな)


 自分一人では解き明かせないなら、他人の知恵を借りる。

 国という単位で。

 それは王として当然の動きだ。

 だからこそ、有羽もその行為を責める気にはなれなかった。


「勿論、タダでとは申しません」


 メトゥスは、有羽の視線を真正面から受け止める。


「何か、『米以外』で――有羽様の希望の品を用意いたします」

「例えば?」


 即座の問い返し。

 有羽の中で、「技術の切り売り」「情報の流出量」「王国への義理」といった天秤が、一斉に揺れ始めている。

 それを知ってか知らずか、メトゥスは一瞬だけ視線を宙にやり、それから率直に答えた。


「分かりません」

「……おう?」


 意外な答えに、有羽は思わず眉を上げる。


「私には、『有羽様が現在お持ちの知識』が何ひとつ分かりません」


 メトゥスの声は、むしろ透き通るように澄んでいた。


「何を知り、何を欲しておられるのか。何がすでに手元にあり、何がまだ足りないのか。私はそれを知らない。故に、条件をこちらから一方的に提示するのは不誠実でしょう」


 そこで、彼女は一歩前に出る。

 エルフらしい、しなやかな足取りで。


「有羽様の希望を伺わせてください。その上で――それに応えることができるかどうか、『魔国女王』である私が、今ここで、思案します」


 その言葉は、ある意味で「白紙の小切手」だ。

 だが、まったく無防備な白紙ではない。


(……この人、やっぱり王様だな)


 有羽は心の中で苦笑する。

 有羽の希望を聞く。

 その希望を叶えられるなら、引き換えに出す。

 叶えられないなら、別の条件を探る。


 同時に――「何を求めているか」を探られる。

 森の賢者の欲求と欠落を把握できれば、それ自体が魔国にとっての重要情報だ。

 目の前の「にゃんこ」は、思った以上に爪が鋭い。

 紫水晶の瞳が、有羽の内側を覗き込むように、真っ直ぐ見つめてくる。

 そこには媚びも、怯えもない。

 あるのは、王としての矜持。

 国を背負う者が持つ、絶対に譲れない芯の強さ。


(……わんこも、にゃんこも、根っこは一緒か)


 有羽は、ふとアウローラの顔を思い浮かべた。

 あの第二王女も、笑えば元気で人懐っこく、時に子犬のようだが――

 こと「国」と「民」の話になると、真っ直ぐな「王族の顔」になる。

 目の前のメトゥスも同じだ。

 普段は落ち着いたクール美女。

 カレーを前にすれば頬をリスのように膨らませた食いしん坊。


 だが一本、中に通っているものは硬い。

 国のためなら、リザードマンの努力の結晶を「徴収」する苦い役も引き受ける。

 賢者相手にも、一歩も引かずに条件を突きつける。

 その気高さは――有羽の嫌いなものではなかった。


「……はは」


 気づけば、有羽の口から笑みが漏れていた。

 重苦しくもなく、かといって軽薄でもない、小さな笑い。


「いや、なんか……王族って、やっぱすげーなって」

「……?」


 メトゥスは、きょとんと目を瞬かせる。

 その反応すら、やっぱり猫っぽい。

 有羽は、寸胴鍋を軽く叩いた。


「分かった。カレー持って帰っていいよ。ただし、条件は――」


 言いかけて、口をつぐむ。

 米。

 アウローラ。

 レジーナ。

 女帝。

 魔国。

 頭の中で、いろんな名前と顔がぐるぐる回る。

 軽々しく言えば、その場は楽になる。

 だが、後で必ず自分の首を絞める。


(……こういうの、マジで苦手なんだよなぁ)


 心の中でぼやきつつも、有羽は視線を上げた。

 真正面で、にゃんこ女王が待っている。

 譲らぬ気高さと、譲れる柔軟さを併せ持つ王。

 その期待と好奇の入り混じった眼差しを見て――


「……米抜きで、俺が今一番欲しいもの、ね」


 ぽつりと呟き。

 有羽は、ほんの少しだけ口角を上げた。

 交渉は、まだ始まったばかりだった。



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