第40話・米への道筋
カレーの入っていた木のボウルが、からん、と軽い音を立てて卓に置かれる。
メトゥスは、そこからしばらく動かなかった。
背もたれに体を預けて、長い睫毛をゆっくり伏せ、胸の前で指を組む。吐き出した息は、少しだけ熱を帯びている。
「……はぁ」
静かなため息。
それだけなのに、妙に場の温度が上がった気がした。
白い肌はうっすらと紅潮し、額やこめかみには汗が粒になって光っている。唇は、辛味と熱でほんのり色づき、呼吸に合わせてわずかに開いては閉じた。
本人は、ただ単に「辛いものを食べ終えた直後」の顔をしているだけなのだが――
(いやいやいやいや、色っぽすぎるだろアレ)
有羽は、条件反射で視線を逸らした。
カレーで火照ったクール系美女の「満足しました」顔。
二十二歳の健康な男子には刺激が強い。目の毒だ。
慌てて、卓の上の空になった鍋やボウルの方に意識を向ける。
火照った顔の美女を、まじまじと見つめるだけの度胸は、有羽には無い。
「あーあ、これで『米』があればな……」
だが思わず、口から零れた言葉は、誤魔化しではない本音。
女王の余韻たっぷりな姿から目を離したくて、無意識に話題を変えた――という事情も少しあるけれど。
だが、それ以上に。
カレーの香りと味が、脳内の「米欲」を容赦なく刺激していた。
「最高のカレー料理、『カレーライス』が作れるのに」
『隠者よ、お主余程『コメ』なるものが好きなようだな』
女帝の木人形が、じと目でこちらを見てくる。
有羽は即答した。
「うん。正直、米が食えるんなら、米くれた人の足舐めたっていい」
『……隠者よ』
女帝の木の顔が、ぐにっと歪む。
『もうすこし、自らの尊厳を大事にせい。見境無さすぎだぞ』
「尊厳と米だったら、米取るね。迷わないね」
『迷え』
ぴしゃりと即座にツッコミが飛んでくる。
とはいえ、有羽としては本心だ。
日本人的に、「米」は命の次くらいに大事。
ソウルフードだ。
魂が、白い湯気に包まれた炊きたての茶碗を求めている。
汁物。
漬物。
カレー。
焼き魚。
どれもこれも、隣には「米」がいて完成形になる。
(なのに、こっち来てから一粒も食ってねぇんだよな……)
魔境の大森林の中で八年。
肉はある。
魚もある。
野菜も果物も、山ほどある。
パン用の穀物も確保した。
蕎麦の代替になりうる実もあったので、蕎麦もどうにかなる。
それでも、「米」がない。
この海まで続くダンジョン地形みたいな魔境の森にも、何故か稲だけは存在しなかった。
以前、女帝とスパイス畑で話したときも、そこははっきり確認した。
『諦めよ』
女帝がどこか申し訳なさそうな、それでいて容赦のない声音で言う。
『我が把握した内に稲があるのは、森東部の湿地帯のみぞ……あの「蛇」の領域だ』
「わかってるよぉー……」
有羽は、卓に額をこつんと乗せる。
「ホントに、あの蛇。俺が米取ってくる間だけ寝ててくれねぇかな……」
『お主が行けば一発でバレる。自分の力を自覚せよ』
女帝の指摘は正しい。
有羽が本気で魔力を動かせば、その波は魔境全域に波紋のように広がる。
あの巨大な蛇――森東部の厄介者が、「気付かない」わけがない。
「ただのぐーたら賢者ですよ、ぼかぁー」
ぐだぐだと不貞腐れる有羽。
積み上がった実績から目を逸らし、全力で自分を「引きこもりニート魔法使い」カテゴリに押し込もうとする。
そんな中、メトゥスが首を傾げた。
「稲……湿地帯……」
さっきまでカレーの余韻に溺れていたはずの女王が、すっと真面目な声になる。
細い指が顎に添えられ、視線が宙に泳いだ。
メトゥスは、指先で空中に何かを描くような動きをしながら、つぶやきを続ける。
「もしかして、こう……茎の中が空洞で、節があって、葉は細長い……水の上でゆらゆら揺れる……」
「そうそう、それ――」
反射で相槌を打ちかけて――
有羽の思考が、途中でスパーンと白くなった。
ギギギ、と。
壊れたブリキのおもちゃのような動きで、ゆっくりとメトゥスに顔を向ける。
アメジストの瞳が、きょとん、と見返してきた。
そして、エルフの女王は、何でもないことのように言った。
「魔国にありますよ。少量ですが」
その瞬間。
オアシスの空気が、ぴたり、と止まった。
葉擦れも、泉のせせらぎも、一瞬音量を落としたように感じられる。
女帝の木人形が、こきり、と首を傾けた。
有羽の脳内では、ガガガガガッと何かが超高速で巻き戻されていた。
今の一言を再生。
もう一度再生。
もう十回くらい再生。
(――魔国に、ありますよ)
(――ありますよ)
(――ある)
理解が追いついた瞬間、有羽の目が、ぎゅっと見開かれる。
黒目が、ぎゅん、と女帝の方へ跳ねた。
血走った眼で、有羽は女帝に食って掛かる。
「……どうなってんだ女帝さん!」
声が、少し裏返った。
「アンタ前、「無い」って言ってたじゃねぇか!! 稲は東、蛇の縄張りにしかないって!!」
『知らぬわ!!』
女帝も、珍しく即座に怒鳴り返した。
木の顔が、わずかに強張る。
『我も知らぬ! 我の記憶に、我の領域に、あの稲が存在せぬ! おい女王! 嘘を言うでない!!』
樹木の根を通じて森の隅々まで知覚しているはずの存在が、「知らない」と言い切った。
それくらい、女帝にとっても寝耳に水の情報だったのだ。
有羽の気迫は、尋常ではない。
さっきまで「米くれたら足舐める」とか言っていた男が、本気で血涙を流しそうな顔で、女帝の首根っこ掴みかねない勢いで前のめりになっている。
その圧力は、「たばかったらただじゃ済まさねぇ」どころではない。
「もしこの期に及んで嘘だったら、文明の礎ごと一回壊すぞ」レベルの殺気を孕んでいた。
メトゥスは、一歩引いてその様子を見つつ、こほんと小さく咳払いをした。
「稲が魔国で形になったのは、最近の話です」
言葉を選びながら、静かに説明を始める。
慎重に話さないと、非常に不味い。森の「上位存在」二名が、凄まじい眼光で睨んでいる。
「魔国に亡命してきたリザードマンが、ようやく栽培に成功したのです……女帝陛下が把握していなかったのは、むしろ当然かと」
『あー……リザードマン達か』
女帝が、わずかに枝葉をしならせる。
納得と、微妙な苦々しさが混じった響きだった。
『成程の……』
「なんかあるの? リザードマンに?」
有羽が、まだ若干血走った目のままで問う。
『いや、奴等にというか……』
女帝は木の顔をそらしながら答えた。
『リザードマンは「蛇」めの眷属故な。あまり干渉しておらん。魔国の湿地帯に住んでいるのは把握していたが……』
蛇。
森東部を縄張りとする巨大な存在。
その配下にいるトカゲ人間たちが、魔国の湿地帯の一部に移り住み、女帝の目の届きにくい場所で暮らしている――そんな話を有羽も以前、断片的に耳にしたことがある。
女帝はその縄張りバランスを壊さないために、彼らに対しては意図的に干渉を控えているらしい。
だからこそ、彼らの畑事情までは把握していなかったのだろう。
女帝はしばし黙り込む。
オアシスの奥から、微かな風が吹いてきた。
木人形の頭上の枝葉が揺れ、その揺れがどこまでも伝播していく。
それは、女帝が「視ている」合図だった。
遠く離れた湿地帯。
魔国の、リザードマンたちの集落。
その足元に広がる水田の気配を、女帝はそのまま拾い上げている。
有羽とメトゥスは、それだけで女帝の行動を察した。
優れた魔導師と、超常の賢者。
それぞれの感覚が、今この場で「世界のどこか一画」が覗かれていることを理解させる。
数拍の沈黙のあと――
『あ』
女帝の木の口から、気の抜けた声が漏れた。
『本当にあるな。うむ』
「うむ……じゃねぇ!!」
卓が揺れるほどの勢いで、有羽が前のめりになる。
「俺が……俺がどれだけ米を求めていると……っ!!」
魂の叫び。
血涙が出てもおかしくない顔だった。
八年間の「米欠乏」が、一気に噴出した形だ。
故郷の白飯。
丼物。
おにぎり。
炒飯。
寿司。
雑炊。
すべてが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
そのどれもが、「手を伸ばせば届く距離」に突然現れたのだ。
地図的には遠い。だが、存在が確認されたという事実だけで、心の距離は一気に縮まる。
女帝は、慌てて木の手を振った。
『ど、どうどう。落ち着け、隠者。今知ったばかりなのじゃ。責めるなら蛇を責めよ。あやつの眷属どもが、こそこそと稲を育てておったのだ』
「責めても米は出てこない……!」
現実的なことを言いつつも、声には子供じみた悔しさが滲む。
八年分の米への渇望が、一気に暴れ出していた。
『いずれ、手立てを考えようではないか』
女帝は、なだめるように言う。
『リザードマンらは魔国に庇護を求めた客人であり、蛇の影をその身に宿す者らじゃ。だが、今や魔国の民でもある。女王よ――』
木人形の視線が、メトゥスへ向く。
『稲の扱いについては、そなたの裁量に任せよう。魔国と南の王国、そしてこの愚か者――いや、隠者との関係を考慮した上でな』
「愚か者って言ったなぁ!?」
有羽の抗議は、聞かなかったことにされた。
メトゥスは、なおも首を傾げたまま、二人――いや、一人と一本を見比べていた。
自分の国の湿地帯で、ひっそりと育まれていた新しい作物。
それが、目の前の異邦人にとって「足を舐めてもいい」と言わせるほどの価値を持つもの。
(……米)
女王としての思考と、ひとりの好奇心旺盛なエルフとしての思考が、同時に動き出す。
その様子に、有羽はまだ気づいていなかった。
ただひたすら――
「米……米……」
と小声で呟きながら、魔国の空の方角に向かって、心の中で土下座していたのだった。
◇◇◇
沈黙の時間が、少しだけ伸びた。
有羽が「米……コメ……こめぇ……」と机に額をこすり付けながら悶え続けている一方で――メトゥスは椅子にもたれ、静かに思考を巡らせていた。
魔国東部の湿地帯。
そこに、小さなリザードマンの集落がある。
故郷を追われ、あるいは自ら縁を切り、東から逃れてきた者たち。乾いた瞳に諦めを宿しながらも、魔国の片隅で細々と農を営む一団。
彼らが育てている、不思議な穀物。
水を張った田の中で、細く伸びる茎。
中空の節。
風に揺れる、針のような葉。
最初は、誰もそれを「主食」だとは思わなかった。
水気をたっぷり吸いこんだ弱そうな草。
麦のような頑丈さもなく、豆のような扱いやすさもない。
だが――亡命してきたリザードマンたちは、頑なにそれを「捨てなかった」。
何度も何度も失敗した。
水を張る時期を間違え、全て腐らせた年もある。
冷夏の年には、穂がつかず、生き残りの種を守るために自分達の口に入る分を削った。
それでも彼らは、栽培をやめなかった。
やっと今年、ほんの一角の田が、ようやく「形になる収穫」をもたらしたばかりだ。
(それを、魔国の女王である私が「献上せよ」と命じるのは――容易い)
やろうと思えば出来る。
王命ひとつ。
「これは魔国の将来を担う作物であるから、種籾を女王が預かる」と宣言すれば、誰も逆らえないだろう。
だが、それは。
(……あまりに、見苦しい)
メトゥスは自分自身に対する嫌悪を想像して、わずかに眉根を寄せた。
故郷を捨ててまで持ち込んだ「食の記憶」。
故郷から離れてもなお、彼らが守り続けた穀物。
その結晶を、「賢者への土産」として徴収する。
たとえ、理屈の上では「国の財」と言い張れたとしても。
女王としての筋は通っても、「一人のエルフ」としての筋が通らない気がした。
少なくとも、「無償」で差し出すわけにはいかない。
リザードマンたちが積み重ねた汗と失敗の価値を、賢者からの対価で埋めなければ――
その努力に顔向けできない。
メトゥスが胸の内でそんな計算と感情を行ったり来たりさせていたところに、女帝の声が落ちてくる。
『魔国の領地内で作られた作物だ』
木人形の瞳が、ゆっくりとメトゥスへ向けられた。
『我の管轄外よ……女王、お主が決めろ』
どこか突き放すような、しかしそれだけではない声音。
『どのような条件で隠者に「取引」を持ち掛けるのか。我は干渉せぬ』
それは、見放す宣言であり――同時に、明確な「信任」でもあった。
有羽は女帝の客人だ。
だが、だからといって魔国が必要以上に頭を下げる義理はない、と女帝は示した。
「食卓の客」として遇することはあっても「主従」ではない。
国の成果を、無料で差し出せとは言わぬ。
ただし――取引は「国」の仕事。
森を守る者ではなく、国を治める者の役目だ。
メトゥスは、静かに頷いた。
(……女帝陛下は、手を貸さない)
だからこそ、ありがたい。
女帝が「賢者の味方」につけば、魔国は最初から交渉の余地を失う。
逆に「魔国の味方」に偏れば、今度は賢者との関係が拗れかねない。
そのどちらも取らず「好きにしろ」と、樹神は言ってくれている。
それはつまり――
(この場で結べる均衡は、私が決めて良い、ということ)
メトゥスは、ゆっくりと有羽の方へ顔を向けた。
視線の先では、賢者がまだ机に突っ伏している。
額を木目に押し当て、ぽそぽそと何かを呟いていた。
「米……コメ……白いご飯……」
言葉の端々に、魂の叫びが滲んでいる。
ある意味で、既に正気ではない。
目の前の男が、もはや「森の賢者」でも「魔境の脅威」でもなく――
「八年間米を断たれた日本人」という、別の危険な種族になりかけている。
(……今なら、交渉材料としての価値は最高ね)
冷静な女王の部分が、淡々と告げる。
(しかし踏み間違えれば、一瞬で信頼を失う)
自分たちの利だけを優先すれば、賢者は二度と魔国に足を向けないだろう。
今日のカレーと、この縁が最初で最後になる。
(それでは――あまりにも惜しい)
メトゥスはそっと息を吸い、声を整えた。
「賢者様」
柔らかく、しかしよく通る声で呼びかける。
ぴくり、と有羽の肩が反応した。
机に貼り付いていた額を離し、ゆっくりと顔を上げる。
目は半分据わっていた。
だが、「米」という音だけは、確実に聞き分けている気配だ。
「米なるものがお求めなら」
メトゥスは言葉を区切りながら、慎重に続ける。
「私が用意することが可能です」
その瞬間、有羽の瞳に――妙な圧力が宿った。
わずかに座り直し、椅子に深く腰掛ける。
真正面からメトゥスを見る。
森で魔物を睨み据えた時とは違う。
だが、形容しがたい熱が、そこにはあった。
餓えた獣が、獲物を見つけた時の目に似ている。
ただ、その獲物が「米」という一点に集約されているだけで。
「ですが――」
メトゥスは、そこで一旦言葉を切る。
目を細め、女王としての顔を前面に出した。
「当然の事ながら、『無料』という訳にはいきません」
声は冷静だが、責める響きはない。
ただ、淡々と事実を述べる調子。
「リザードマン達がようやく栽培に成功した物を、『徴収』する形になりますから。相応の見返りがなければ、到底渡す事はできません」
リザードマンたちの汗と、女王としての責務。
それを一つの文にまとめて、有羽の前に置いた。
有羽は、一瞬だけ眉をひそめ――すぐに、ゆっくりと頷いた。
「……それは、そうだ」
心からの同意だった。
権力や地位で、相手の持ち物を奪うこと。
それは、有羽が心底嫌う行為だ。
かつての地球、日本での道徳が影響しているといっていい。
上から目線で何かを奪う行為を、心の根っこの部分で嫌悪している。
それ故に、超常の力を強奪の道具にするつもりは、これっぽっちもない。
だからこそメトゥスの「対価を求める」姿勢は、むしろ好ましいとさえ感じた。
「……何が欲しい?」
短く問う。
メトゥスは、少しだけ視線を鍋へ滑らせ――そこから漂う、カレーの残り香を吸い込んだ。
そして、迷いなく言う。
「カレーの知識を」
「……」
「この香辛料……いえ、スパイス? なるものの分量を詳しく。比率、種類……教えて頂ければと」
女帝の枝が、ぴくりと動く。
有羽の目が、すっと細まった。
取引条件としては、理にはかなっている。
稲は、リザードマンたちの努力の結晶。
カレーの調合は、有羽の努力と執念の結晶。
互いに自分だけが持つ「強み」を交換し合う。
実にフェアな話だ。
本来なら――有羽は、その場で飛びついてもおかしくない。
長年の悲願「米」が、手を伸ばせば届く距離に現れたのだ。
だが。
(……王女さんに、教えなかったんだよなぁ俺……)
胸の内に、ねっとりとした感覚が広がる。
アウローラ。
魔境南部まで何度も通っては、礼を言い、頼み込み、時に泣き言さえ漏らしてきた第二王女。
姉上連れてくるぞ! と息巻いていた、あの「わんこ王女」。
カレーのレシピだって、当然のように求めてきた。
『有羽! このスパイスの配合、全部教えてくれ!』
有羽の家に滞在中、何度かそう言われた。
そのたび、有羽は首を振った。
理由は、決して意地悪ではない。
「そこを自分達で試行錯誤するのが、国の発展だから」と、本心から思っていたからだ。
ヒントは出す。
どのスパイスを使っているかも朧げながら教える。
だが、比率と順番と火加減だけは伏せた。
それは、有羽なりの「ライン」だった。
それなのに。
今日ここで、初対面の魔国女王にだけ、カレーのレシピを丸ごと渡す。
その図を想像した瞬間――
(……裏切りだろ、どう考えても)
自分の中の何かが、そう呟いた。
法的には、何の問題もない。
そもそも、有羽はどこの国にも仕えていない。
南の王国の臣でもなければ、魔国の客将でもない。
魔境の森に勝手に住み着いている、引きこもりの賢者に過ぎない。
だから、どこの誰に何を教えようが、本来なら文句を言われる筋合いはない。
それは真実だ。
けれど、感情は別だ。
カレーを頬張って「おいしい!」と笑っていたアウローラたち。
汗を拭きながら、何度も「教えてくれ」と頼んできた王女の姿が、脳裏に浮かぶ。
その笑顔を横目に、別の国の女王にだけ情報を流す――
(あああああああああああ……)
有羽は、心の中で頭を抱えた。
(くっそ、別に教えても「法的な問題」は無い。無いけど! 俺が、俺の中で「嫌」なんだよ!! 他の誰が許しても、「俺」が許せねぇんだよ……!!)
料理のレシピひとつで、ここまでこじらせる男も珍しい。
だが有羽にとっては、「誰に何をどこまで渡すか」というラインは、生き方そのものに直結している。
だから、簡単には譲れない。
(でも、米……コメ……こめぇぇぇぇぇ……!)
胃袋が、別の魂の声をあげる。
八年ぶりの白米。
カツ丼。
牛丼。
卵かけご飯。
そしてカレーライス。
米を炊いて、そこにカレーをぶっかけて、ぐちゃぐちゃに混ぜる背徳の一皿。
欲望が、理性を揺さぶる。
理屈と感情。
義理と食欲。
ぐらぐらと揺れる天秤の上で、有羽は奥歯を食いしばった。
「……」
長い沈黙。
女帝が、木人形の腕を組んで見守る。
メトゥスは、賢者の葛藤を読み取ろうとするかのように、じっとその顔を見つめていた。
やがて。
有羽は、深く深く息を吸い込み――
「また……」
苦しげに、搾り出すように口を開いた。
「また、こっちに来る」
言葉の途中で、喉が詰まりかける。
それでも、続ける。
「その時に……改めて……」
机の下で、拳を固く握りしめた。
「改めてぇ……!」
断腸の思いで、「先延ばし」を選んだ。
逃げではある。
だが、今この場で無理に答えを出すよりは、まだマシだと感じた。
どうせ、カレーのスパイスのためにこれからも女帝の領域には来る。
南部の森では、女帝のスパイス畑ほどの品質は得られない。
最高のスパイスを求める限り、西部訪問は今後も続く。
ならば、その間に――
(王女さん達と話をしなきゃダメだろ)
アウローラ。
そして、近々森を訪れる予定の第一王女レジーナ。
米のために、どこまでの技術提供をするのか。
南の王国に何を渡し、魔国に何を渡すのか。
カレーのレシピに限らず、有羽が抱えている「現代知識」の線引きを、改めて考える必要がある。
想像しただけで、知恵熱が出そうだ。
その様子を――女帝とメトゥスは、並んで眺めていた。
魔国の王と、魔国の守護者。
この二名が同じ方向にわずかに汗を浮かべている図は、なかなかシュールだ。
『……米とやらは、ここまで思い悩むものなのか』
女帝が、小さく呟く。
森の命を見守ってきた樹神女帝の目から見ても、今の有羽の悩み方は「やり過ぎ」に見えるようだ。
「……魔国も、認識を改めなければならないかも知れません」
メトゥスも、真剣な顔で言った。
さっきまでただの「珍しい作物」程度にしか見ていなかった稲。
それが、南の賢者にとってはここまでの価値を持つ。
つまり――
(主食という概念の重さを、侮っていたかもしれない)
その瞬間、魔国女王の頭の中には、ごく自然にひとつの言葉が浮かんでいた。
米外交。
そんな単語を、この場の誰も口には出さなかったけれど――
この時点で、魔国と森の賢者との間に、新たな「交渉の軸」が生まれたことだけは、確かな事実になりつつあった。




