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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第三章

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第39話・カレーの謎


 沈黙が、落ちた。


 オアシスの奥、女帝の聖域。

 女帝の木人形の隣に立つ、寸胴鍋しょった森の賢者・世渡有羽と――

 木の根から成る椅子に腰かけた、西の魔国女王メトゥス・ラウルスリム。

 視線だけが、空中でかち合っている。

 どちらも、口を開かない。


(……いや、気まずっ)


 先に耐えきれなくなったのは、有羽の方だった。

 そもそも有羽は「女帝に呼ばれたから、カレーを持ってきた」だけだ。

 その先に、魔国女王との初対面イベントが用意されているなどとは、一ミリも聞かされていない。


(女帝さん、前置きゼロかよ……)


 対して、メトゥス側の事情は有羽は知らないが――

 三日前、突如として女帝に「来い」と呼びつけられた、というのが実情だ。

 西の魔国女王である彼女の立場からしても、女帝の突然の招集は拒否できない。無論、不平も不満も、彼女は口にしない。

 そんなことを口にできる相手ではない。

 表情に出すことすら控える。


 だから、彼女はただ、呆然と――しかし必死に平静を装いながら――森の賢者と呼ばれる男を見つめている。

 銀糸の髪が、ほんのわずかに揺れている。

 半眼気味のアメジストの瞳が、わずかに丸くなっている。

 その「僅かな差」を読み解ける者は少ないだろうが、それでも今のメトゥスは「混乱中」だった。

 沈黙が、もう一つ呼吸を重ねる。


(……もういい。限界)


 有羽は、女帝の木人形に視線を向けた。


「えーと……つまり、どういうこと? 話が見えないんだけど?」

『む?』


 木の仮面が、とぼけたような声を発しながらゆっくりとこちらを向く。

 そして、おもむろに手をポンと打つ。


『いやなに、そのカレーよ』

「は?」


 有羽は、反射的に寸胴鍋を叩いた。

 コン、と鈍い音。


『だから、そのカレーなるものを、そこの女王に食わせてみよという話だ』


 あっけらかんと女帝は言った。


「…………え?」


 有羽は、思考が一瞬真っ白になるのを感じた。

 今までの疑問――

 なぜ、食えもしない植物系存在である女帝が「カレーを持ってこい」と頼んだのか?

 てっきり、匂いだけ嗅いで満足するのかと思っていた。あるいは、完成品を見て、「成分を解析するからそこに置け」と言うのかと。

 人の身では推し量れない、何らかの事情があるのかと身構えていた。


 それがまさかの、

 魔国女王に食わせるため。

 あまりにもシンプルで、あまりにも直球な理由だった。


(発想が豪快すぎんだろこの木……)


 思わず、有羽は、右隣――メトゥスの方に顔を向けた。


「……えっと、知ってたの?」


 問いかけられた女王は――


「……」


 一瞬、固まった後。

 ブンブン、と勢いよく首を横に振った。

 銀の髪が、さらさらと揺れる。

 エルフ女王の高貴なイメージからは、著しくズレたリアクションだが、本人にそんな自覚はなさそうだった。

 呆けたまま、口をきゅっと結び、ただひたすら「知らなかった」と全身で訴える。


(……なんか小動物っぽいな)


 有羽は、内心でそう評した。

 アウローラが大型犬なら、この人は気高い猫。普段はソファの上で優雅に寝そべってるくせに、予想外のことが起きると「え、なに?」と目を丸くするあたりが、なんとなく。

 有羽の脳内では、アウローラ(ゴールデンレトリバー)メトゥス(ロシアンブルー)が並んで座ってた。

 ともあれ、状況を整理する必要がある。


「……どういう理由で? いやまあ、食べさせること自体は別にいいんだけどさ」


 せめてそこだけでも聞いておきたい。

 女帝の木人形は、枝を揺らすようにして小さく頷いた。


『? 単に、隠者がスパイスを組み合わせて新たな物を創り出したのを、魔国の代表に見て貰おうと思ってな』


 さらりと言う。実に堂々と続ける。


『何せ、今の今まで、魔国でこのようなもの発明されたことがなかった故』

「いや、まぁ、そりゃそうかもしれないけど」

『やはり、そこが気になるのよ』


 女帝は、言いながら、寸胴鍋へと枝を伸ばした。

 木人形の指先が、するりと鍋の縁に触れる。

 ぱかり、と蓋が持ち上がった。

 途端に、オアシスの澄んだ空気の中へ――

 濃厚で、複雑で、圧倒的に「腹の空く匂い」が広がった。


 炒めた玉ねぎの甘み。

 にんにくと生姜の刺激。

 トマトの酸味。

 スパイスの香りが幾重にも折り重なって、鼻腔を直撃する。


 女帝の分身は、嗅覚という概念からは遠い存在のはずだが、それでも「情報」として匂いを受け取っているらしく、木の顔に何とも言えない感想が浮かんだ。


『……ふむ。これよこれ。この「渾然」とした匂いよ。魔国の誰一人、ここまでやらんかったのが不思議でならぬ』


 と呟きながら、鍋の中を覗き込む。

 有羽とメトゥスの鼻にも、その香りは直撃した。

 さらりとしたルーが、とろりと鍋肌を伝っているのが見える。

 肉と野菜の気配。

 香りだけで、口の中に唾液が溜まる。

 そして――


 ぐぅ。


 と。

 静寂の中に、実に正直な音が鳴り響いた。

 有羽は、反射的に自分の腹に視線を落とす。


(……いや、俺じゃないな)


 冷静に自己分析した後、ゆっくりと顔を上げる。

 隣。メトゥスの耳が、ぴくりと震えていた。

 淡い紫の瞳が、カレー鍋の方へと吸い寄せられている。

 そして当の本人は――


「……っ!」


 ばっと顔を伏せた。

 白い頬が、一気に「ボッ」と赤く染まる。

 エルフ女王。

 森と魔物の国の頂点に立つ者。

 その腹の虫が、よりにもよって初対面の賢者と女帝の前で鳴ったのだ。

 羞恥心が爆発するのも仕方がない。

 耳まで赤くなり、細い肩がぴくぴくと震えている。


(……妙に可愛いな、この人)


 有羽は、冷静な自分と、どうしようもない感想を抱く自分が、脳内で殴り合うのを感じていた。


(王女さんとは違った可愛さが……あっちが「わんこ」なら、こっちは「にゃんこ」みたいな……)


 すり寄ってくるでもなく、距離を取るわけでもなく、ただそこに座って辺りを眺めていそうな猫。だが、意外なところでボロを出して、耳まで真っ赤になるタイプ。

 たぶん、側近たちからすると、とてもレアな姿だろう。


 まあ、それはともかく。

 有羽には、有羽として聞きたいことがある。

 特に、この唯我独尊木マネキンに対して。


「というか女帝さん」


 有羽は、ため息まじりに口を開いた。


「勝手に、国の代表者呼びつけるのやめてくれない? せめて事前に『今度会わせるから覚悟しとけ』くらい言っておいてほしいんだけど。心の準備とか、胃の準備とか、あるでしょ」

『細かい事を気にするでない。そなた、男子じゃろ?』

「関係あるか!!」


 思わず素で叫ぶ。男女差別よくない。

 有羽は、はぁ、と深々と溜息をついた。

 いくら文句を言っても、この唯我独尊マネキン人形は、基本的に自分の軸を曲げない。

 諦めて、現実的な問題に向き合う。


「つっても、食器の類なんて持ってきてないしなぁ……」


 アウローラ一行と過ごす時は、基本的に有羽の家。

 あそこは、もう人数分の食器がある。何だかんだで凄い量が。

 だが今回は、完全ソロ行動だ。

 皿もボウルもスプーンも、何も持ってきていない。

 女帝は、心底呆れたように肩をすくめた。


『段取りが悪いの、隠者』

「だから先に言えってんだよ!! 段取りするにも準備があるの!」

『ごちゃごちゃ煩いわ。ほれ、これで適当に創ってみせよ』


 女帝は、軽く視線だけで合図した。

 そのまなざしの先――有羽たちの足元の土が、ふくらむ。

 地面から、木の芽が一斉に生えたかと思うと、それが瞬く間に成長し、絡み合い、一本の丸太を形作る。

 次に、細い枝が無数に伸び、それが束になって板のような形になり――

 息をする間もなく、そこには「木材」としか言いようのない素材が、生み出されていた。


 無から有を。

 生命のサイクルを、数秒に圧縮して見せたかのような創成。

 人の身では絶対に到達できない境地だ。


 メトゥスはその光景に、さすがに目を細めた。

 女帝がその気になれば、この世界の森のあり方を一晩で書き換えることもできる――そんな噂話を、改めて現実のものとして突きつけられた気分だ。

 だが驚きは、そこで終わらない。


「ったく、いい加減なんだからもう」


 有羽は、肩を回しながら木材の山に近づくと、指を軽くぱちんと鳴らした。

 同時に、足元に薄い魔法陣が一瞬だけ展開される。

 幾何学的な線と、読み取れない文字列。

 それが光り、すぐに消える。

 木材の表面が、ざわり、と波打った。

 丸太だったはずの塊が、形を保ったまま一瞬だけ「粒子」に分解される。

 細かく砕けた木の粒が、渦を巻きながら漂い、そのまま別の形へと再構成されていく。

 削るでもなく、刻むでもなく「組み換える」。

 魔力が、木の組成そのものを書き換えている感覚。

 メトゥスの背筋が、ぞわりと粟立った。


(……これは)


 有羽が今、使ったのは――

 魔導師が長い研究と修練の末に辿りつく複雑な術式ではない。

 既存の魔法体系の延長線上にも見えない。

 もっと根源的な、どこか「世界法則に近い場所」に指を突っ込んでいるような感覚の魔法だ。

 女帝の創成魔法と、位相が似ている。


 同格。

 女帝の隣で、軽口を叩けるだけの存在――

 その理由の片鱗が、今の一瞬でよく分かった。


 やがて、木の粒が静止する。

 空中で、その形が固定される。

 ぽん、と軽い音を立てて産まれ落ちたのは――

 滑らかな木製のボウルが数個。

 握りやすい柄のついたスプーンが、その数だけ。

 更に、寸胴鍋の中身をすくうための、深めのお玉。

 そして木製のテーブル。有羽が、自分で座る用の椅子まで用意して。

 木目の流れが綺麗に揃えられていて、余計なささくれもない。指で撫でると、すべすべとしており、唇を当てても邪魔にならないだろう形状だ。


 作業工程というものが、存在しなかった。

 「木材」が「木製の食器と家具」に、一瞬で「変わった」。

 女帝の創成が「命を生み出す」方向なら、有羽の術は「形を与え直す」方向。

 二人の魔法は、別の意味で、どちらも人の領分を軽々と飛び越えている。


「――――」


 メトゥスは、言葉を失っていた。

 彼女は魔国の女王である前に、高位の魔導師でもある。

 魔界由来の呪法、古来からの森の精霊との契約、人族では扱えないエネルギーの流れ。

 政治の片手間に学ぶには重すぎるそれらを、彼女はあえて学び、女王としての武器にしてきた。

 だからこそ分かる。

 今目の前で行われたことが、自分たちが「技」と呼んできたものとは、まるで別の階層にあるのだと。


(……本当に、『森の賢者』などという言葉で片付けて良い存在なのかしら)


 女帝の隣で、軽口を叩く人間。

 「魔国の真の守護者」が、呼びつけ、頼み事をする相手。

 その男が、背中に寸胴鍋を背負ってやって来て、現在進行形で木のボウルに茶色い液体をよそう姿は――滑稽で、でもどこか不気味なほど自然だった。


「よし、と」


 有羽は、お玉で鍋の中身を掬い手際よくボウルに注いでいく。

 とろり、と粘度のあるカレーが木の器にたまる。

 表面には、さっきよりはっきりと湯気が立った。

 白い蒸気の筋が、香りを乗せて空中に溶けていく。

 肉の塊が、ころんと沈む。ほろほろに煮込んだ野菜が、その周囲に寄り添う。スパイスが油と共に表面に浮かび、複雑な模様を描いていた。

 有羽は、自分の分と女帝の木人形の前にも一応一皿置き――

 最後に、メトゥスの前にボウルをそっと差し出した。


「えっとそれじゃ……女王さん? 食べてみる?」


 声をかけると、メトゥスはわずかに瞬きをして有羽を見返した。

 さっきまでの呆けた表情を、ぐっと引き締める。


「……メトゥスで構いません、賢者様」


 森の奥深く。

 国境線でも街道でもなく、各国の正式な謁見の場でもない場所で。

 西魔国の女王は、自ら名乗った。

 女王ではなく、一人の個人として。


「お、おう?」


 有羽は、少したじろぎながらも頷いた。

 メトゥスの細い指が、木製スプーンの柄をそっと掴む。

 その様子を、女帝の木人形はどこか愉快そうに眺めていた。


『さあ、魔国の王よ。腹の虫の命ずるままに食うがよい』

「余計なことを言わないでください、女帝陛下」


 珍しく口調を崩して抗議するメトゥス。

 女帝は、カラカラと木琴のような笑い声を立てた。


 そんなこんなで。

 魔境の大森林・西部の聖域。

 女帝の庭にて。


 人間とエルフと樹霊とで囲むカレーの時間が――静かに、しかし確実に幕を開ける。





 ◇◇◇





 木製スプーンが、静かにすくい上げる。

 とろり、と粘度のある茶色の液体が、銀のように細い指先の動きに合わせて揺れた。表面に浮かぶ油の輪が、光を受けてきらりと光る。

 メトゥスは、ほんの少しだけ息を整えた。


(まずは、香りの層を把握して……)


 香辛料は、魔国の得意分野だ。

 鼻に抜ける刺激。舌に残る苦み。喉奥に沈む甘い残り香。彼女は、これまで数え切れないほどの香りを「薬」として、「儀式」として、「料理の補助」として扱ってきた。


 だが――

 スプーンを口元に近づけた瞬間、その経験値は軽々と裏切られた。


(ひとつじゃない……二つや三つでもない……)


 匂いの層が、幾重にも重なっている。

 先に顔を出すのは、炒めた玉ねぎの甘さを含んだ、柔らかな香り。すぐ後ろに、生姜とにんにくの鋭さが隠れている。そのさらに奥で、複数のスパイスが複雑に絡み合い、土、柑橘、花、樹皮……いくつもの印象を、どろりとひとつに溶かしている。

 嗅ぎ慣れた香辛料のはずなのに、「知っている」と断言できる香りがひとつもない。

 それはまるで――


(香炉に香を焚くのではなく、香炉ごと飲み込むような……)


 自嘲めいた比喩が、頭をよぎる。

 観察をそこで打ち切り、メトゥスはスプーンを口に運んだ。

 舌に乗せた途端――


(……っ!?)


 一瞬、思考が空白になった。

 辛さが、来る。

 じんわり、ではない。

 最初の瞬間は意外と大人しい。だが、噛んで舌の上で転がした刹那、遅れてスパイスの鋭さが追いかけてくる。


 舌の側面が、ぴりりと痺れる。

 喉を通る瞬間、火を飲み込んだような熱が走る。

 だが、その先に、もうひとつの波がいた。


 甘さ。

 玉ねぎを飴色になるまで炒めた独特のコクと、乳製品のまろやかさが、辛さの波の後ろから寄り添ってくる。辛さだけなら刃物のような味が、甘さと出会うことで、厚みのあるソースへと変わっていく。

 舌の奥に、旨味が長く残る。

 肉の出汁、骨の髄、野菜の甘み。魔国の滋養スープにも通じる要素が、ひとまとめになっている。


(……複雑……)


 思考が、その一語に収束する。

 複数の香りが混然一体となって、ひとつの味を生み出している。

 どのスパイスがどの役割を担っているのか、頭で解析しようとする。

 だが、スプーンは、勝手に二口目をすくっていた。

 口が、止まらない。


(辛い……のに……)


 額に汗が滲む。

 首筋に、じわりと熱が昇っていく。

 喉から胸にかけて、火照りが広がる。

 魔力の流れさえ、どこか活性化しているような感覚。血の巡りが良くなり、体温が一段階上がった錯覚。


 辛い。

 辛くて――美味い。

 辛いのに、スプーンを置くという選択肢が浮かばない。

 むしろ、食べれば食べるほど、腹が空いていく。

 胃袋が、「もっと」と訴えてくる。

 気づけば、メトゥスは無言でスプーンを動かし続けていた。

 女王としての矜持も、礼儀作法も、その時ばかりはどこかに追いやられている。


 熱さに軽く目を細めながら、またひと口。

 舌先が慣れてくると、今度は別の層が顔を出す。

 爽やかな香りが、後味をすっと引き締める。深い香りが、全体の輪郭を内側から支えている。

 食べれば食べるほど、解像度が上がっていく。

 それなのに、全体の印象は「ひとつ」のまま。

 魅了――という言葉が、危うく口から出かける。


「はい、お水」


 ふい、と横から声が届いた。

 メトゥスは瞬きし、スプーンを一瞬だけ止める。

 視線を横にやると、いつの間にか有羽が木製のコップを差し出していた。

 薄く削られた木の杯。その中には、透き通る水が満たされている。

 視界の隅で、女帝の木人形が、空中に水の塊をふよふよと浮かせて遊んでいるのが見えた。


(オアシスの水……この場で、これ以上清浄な水は無いわね)


 魔力の波長が、目で見えるようだ。

 喉が、カレーの熱とスパイスで心地よく焼けている。


「……感謝します」


 メトゥスは、短く礼を言い、コップを受け取った。

 口元に運び、一口含む。

 冷たすぎず、ぬるすぎず。

 オアシスの水は、ほどよい温度を保っている。

 舌に残った辛さと混ざり合い、一瞬だけ刺激が和らいだかと思うと――逆に、次のひと口を欲する衝動だけが強まっていく。


(……危険ね、この料理)


 内心で呟きながら――

 メトゥスの手は、やはりスプーンを止めなかった。

 カレーを食べれば食べるほど、身体の芯に力が漲っていく。

 魔力だけでは埋まらない、肉体の飢え。

 それが満たされていく感覚。

 やがて、メトゥスの中で、女帝の疑問がひとつ、輪郭を持つ。


(……確かに、これは不思議だわ)


 何故、今まで魔国がこれを生み出せなかったのか。

 食べれば分かる。

 このカレーなる料理の大元は――すべて、魔国で採取可能な素材から成り立っている。

 玉ねぎも、にんにくも、香辛料も、乳も。

 比率や調理法はともかく、材料そのものに未知のものはない。

 詳しい分量は、まだ朧げにしか判別できない。

 だが、魔国の厨房で再現し得るのは、直感で理解できた。


(なのに――誰も、ここまで届かなかった)


 納得できるようで、できない。

 そんな時だった。


「あー……」


 隣で、カレーを頬張るメトゥスの「良い食べっぷり」を眺めながら、有羽がぽつりと呟いた。


「もしかしたら、俺の『元いた場所』で諸説あったけど……魔国ではそれが理由なのかも」

『む? 隠者よ、何か原因が分かるのか?』


 すぐさま、女帝の木人形が問い返す。

 女帝こそ、この件の「当事者」だ。

 有羽のカレーに使われているスパイスは、その全てが女帝のスパイス畑の産だ。女帝自ら案内し、根株を分けてくれたものもある。有羽のいる南部での栽培は、まだ先だけれども。


 しかし遥か昔から、女帝と密接な関りがある魔国は話が違う。

 女帝の土地から株分けされた子らが、魔国の名産として長年受け継がれている。

 もちろん、品質は女帝直轄の畑で育ったものの方が段違いに上だが――品種自体には大きな差は無い。

 育っている素材に差がないのに、料理だけがここまで違う。

 その謎は、女帝にとっても引っかかっていた。


 メトゥスは、頬をリスのように膨らませたまま――もぐもぐと咀嚼しながら――耳だけをしっかりと有羽の方へ向ける。

 女王の姿でありながら、完全に「食事中の一般人」の態度である。

 カレーの魔力は恐ろしい。

 有羽は、木のコップを自分もひと口飲み、息を整えてから話し始めた。


「あのさ、女帝さん。女帝さんの守護があるから、この西部……『魔国含んだ大陸の西側』ってさ、野菜も一杯取れるでしょ?」

『うむ。当然であるな。我の加護の元だ。皆、すくすく育つ子ばかりだぞ』


 女帝は、枝葉を揺らしながら誇らしげに言う。

 実際、そうだ。

 砂漠の縁に、ありえないほど瑞々しい畑が広がる。

 乾燥地帯に、小さなオアシスが点在し、その周囲にだけ濃密な緑が生まれる。

 女帝の加護は、植物にとってこれ以上ない福音だ。


「うん。だから――それが『原因』だと思う」

『なぬ?』


 女帝の木の顔が、ぱきりと音を立てるように固まる。

 意味が分からない、という全身全霊の「?」マーク。

 メトゥスも、もぐもぐしながら視線だけを有羽に向ける。


「つまりさ」


 有羽はスプーンを置き、自分の太ももをとん、と指で叩いた。


「魔国の方では『特別、野菜に手を加える必要が無かった』んだよ。だって、素のままで美味しいんだから。カレーみたいな手の込んだことをして、わざわざ『食べられるようにする必要性』が無い」


 メトゥスの眉が、かすかに動く。

 女帝の木人形も、腕を組んだ。

 有羽は、少しだけ遠くを見る目になった。


「俺の元居た世界だとカレーっぽい料理って、昔は『野菜が美味しくないからどうにかして食えるようにしよう』とか、『保存中に変な臭いがついたから誤魔化そう』とか、そういう事情から発展したって説があってさ」


 もちろん、それだけが理由ではない。

 諸説は諸説。全ての理由という訳ではない。

 だが、「必要」があったのは確かだ。


「不出来な野菜とか、ちょっと痛みかけの肉とか――そういう『そのままだときついけど、捨てるのは惜しい』食材を、美味しく食べるためにスパイスが駆使されていった、みたいな」


 彼は、指を一本立てる。


「つまり、もともとカレーって『微妙な食べ物を、なんとか美味しく安全に食べるための工夫』から始まった可能性があるってこと」


 魔国の気候を思い浮かべる。

 砂漠。乾燥。熱帯に近い気候。

 地球でいえば「インド南部」に近い場所も多い。

 その条件だけ見れば、「カレー」が生まれてもおかしくない。

 だが――


「でも、ここには女帝さんの加護がある」


 有羽は、足元の苔を軽くつま先で擦った。


「本来なら干からびて終わる土地にも、小さな水脈を通して、根が張れるようにしてる。痩せた土にも、腐葉土と栄養を循環させてる。結果――『豊潤な野菜』が、普通じゃありえないくらい収穫できるようになってる」


 女帝の木人形が、無意識に胸を張る。

 メトゥスの脳裏に、自国の畑の光景が浮かんでいた。

 砂の海の中、緑の島のように広がる野菜畑。

 深い色をしたトマト。噛んだ瞬間に水がほとばしるキュウリ。香り高いハーブ。甘みの強い根菜。

 どれも、「そのまま齧っても美味しい」ものばかりだ。

 有羽は続ける。


「結果としてさ『不出来な野菜を、なんとか食べられるようにする』って発想が、生まれにくくなってたんじゃないかなって」


 技術とは、必要に応じて生まれて、発展していくものだ。

 必要に迫られない技術は、種だけの状態で眠り続ける。


「まあ、あくまで『諸説』だけどね。可能性としてはあるかなー、と」


 有羽は、肩をすくめた。

 女帝は、しばし沈黙した後――


『……つまり、我の加護が、魔国の発展を妨げたと?』


 木の声に、わずかな棘が混ざる。

 言葉自体は淡々としているが、オアシスの風が一瞬止まった気がした。

 メトゥスが、反射的に顔を上げる。

 女帝の加護は、魔国にとって絶対的な恩寵だ。民草はそれに感謝し、誇りに思っている。その根本を否定されるかのような響きに、女王としての本能がざわついた。

 だが――有羽は、首を横に振った。


「可能性の話だよ」


 声は静かだった。


「それに、カレーに限った部分だけの話。全体で見れば、女帝さんの力が魔国を発展させたのは間違いないと思う」


 彼は、木人形の目――その奥にいる本体を真っ直ぐ見る。


「干からびて終わってた土地に、農地と森ができて。飢えるはずだった人達が生き延びて。薬草も、果物も、木材も、何もかも増えたんでしょ? それは全部、女帝さんの功績だよ」


 少しだけ、口元を緩める。


「ただ、『全部は取れない』って話。こちらを取れば、あちらが立たず。あちらを取れば、こちらが立たず。それだけの話。植物はお手の物の女帝さんなら、意味は言うまでもないと思うけど?」


 女帝の木人形は、ふう、と小さく息を吐く。

 枝葉がくすぐられたように揺れていた。


『……そうよの。子ごとに、適応した気温や地質は違う。ある場所に合わせれば、別の場所に合わぬ。そういうことは、いくらでもある』


 彼女は、オアシスの水面に視線を落とした。

 水面に映るのは、空と森と、自分の巨大な樹冠。


『このカレーもそうか。我の見守る領域では、産まれ出る可能性そのものが無かったか』


 自嘲とも、納得ともつかない声。

 だが、その横で――


「……もぐ……」


 メトゥスは、相変わらず黙々とカレーを頬張っていた。

 女帝と有羽の「ちょっと哲学じみた会話」を、耳の端で聞きながら。

 夢中でスプーンを動かすうちに、頬がリスのようにふくらんでいた。

 上品な女王としては、あまり表に出したくない姿だが――今は、誰もそれを責めない。女帝も、有羽も、見て見ぬふりをしている。

 ……代わりに、有羽は、ちょっと視線を逸らしていた。


(口元、めっちゃカレーついてるな……)


 ローブドレスの深い緑と、カレーの茶色のコントラストが、なんとも言えない存在感を放っている。

 女王の唇の端から、ほんの少しだけソースがはみ出し、それがうっすらと頬に線を描いている。本人は気づいていないのか、気づいていて見なかったことにしているのか――どちらにせよ、今はスプーンを動かす方を優先しているようだ。


(……これは注意すべきか、見なかったことにするべきか)


 有羽の中で、どうでもいい葛藤が生まれる。

 そのとき。

 木人形の視線が、有羽の方を向いた。


『隠者よ』

「ん?」

『女王の口元が、カレー塗れだぞ』

「アンタが言うんかい!!」


 ついツッコミが出た。

 メトゥスの肩が、びくんと跳ねる。


「……っ!?」


 メトゥスは反射的に、手の甲で口を拭おうとして――途中で動きを止める。

 女王としての習慣が、ぎりぎりで「それは行儀が悪い」と警告を出したのだ。

 その様子を見て、女帝の木人形が、蔦で編んだ布切れをひらりと差し出す。


『ほれ、葉布だ。顔を拭くがよい』

「ありがとうございます……」


 メトゥスは、わずかに肩をすぼめながら、その「葉布」で丁寧に口元を拭った。

 エルフの女王らしからぬ、どこか人間臭い仕草。

 有羽は、それを横目で見ながら、ふっと笑う。


「……なんにせよ」


 彼は、木製コップをくるりと回した。


「女帝さんの加護があったから、こういう『豊潤な素材』が揃って――俺がそれを活かせる知識があったから、たまたまカレーになった。女帝さんが森を守ってきたからこそ、生まれた料理でもあるわけで」


 女帝は、木の顔を少し傾けた。


『ふむ?』

「失った可能性もあるかもしれないけど――今から取り返す分には、遅くないでしょ。魔国の連中にスパイス料理教えたら、どうせすごい勢いで発展させるよ」


 メトゥスが、思わず顔を上げる。

 その頬には、うっすらと笑みが浮かんでいた。

 女王としての冷静な視線と、ひとりの食いしん坊としての瞳が、同じ方向を向く。


(魔国の厨房に、これが並ぶ日……)


 想像しただけで胸が高鳴った。

 香辛料は、今まで薬と香りづけの道具としてでしか見られていない。

 それでも十分交易品として活躍していた。

 だが、もしそれが「主役」に格上げされたら――

 仮に、女帝の加護が、かつて幾つかの「可能性」を奪っていたのだとしても。

 今この瞬間、有羽の手によって、その「空白」は埋められ始めている。

 様々な未来が、メトゥスの脳内を駆け巡る。


 ただひとつ確かなのは――

 ボウルの底が見え始めても、スプーンを置きたくない、ということだけだった。



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遂に魔国にもカレーの魔の手が・・・!
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