第3話・夕飯と麻雀
アウローラが外の客間でぐっすり眠り、夕暮れが森を薄紫に染め始めた頃。
有羽は、ひとりログハウスの床下にある扉を開けていた。
ギギ、と木の階段を下りていくと、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
地下には、いくつもの小部屋が並んでいる。乾物の部屋、漬物の部屋、魔道具の素材部屋――そして、今回、彼が足を踏み入れるのは。
「肉の部屋、っと」
ぶ厚い扉を開けると、冷気がふわりと漏れ出した。
室内は、魔法で一定温度に保たれている。壁際には銀色の魔法陣が刻まれ、かすかに淡い光を放っていた。
天井からは、いくつもの肉塊が吊るされている。
骨付きのままぶら下がった巨大な塊もあれば、適当なサイズに切り分けられたブロックもあった。
「……いい感じ」
有羽は、その中の一つに近づいた。
表面が乾き、脂がうっすらと透き通ってきた、見事な肉の塊。
一週間ほど前に倒した「デストロイホーン」の肉だ。
魔境の大森林の内部に生息する、凶暴な牛の魔物。
体当たり一発で、強固な騎士の鎧が粉々に砕け、人間を易々と角で串刺しにする怪物。
倒すには、レベル30付近の強者が複数必要とされる上位モンスター。
……のはずなのだが。
「先週はあいつ三頭くらい出てきたんだよなぁ。牛肉祭りだったわ」
有羽は、紐をほどきながら、のんきに呟いた。
あ、いい牛肉見つけた程度のテンションで、デストロイホーンを仕留める男である。
相変わらず、常識の尺度がおかしい。
倒した肉は、魔法で素早く捌き、保存方法を使い分ける。
燻製にしたり、ビーフジャーキーにしたり、こうして低温熟成をかけたり。
一人では到底食べきれない。
だが、有羽には「色々な使い道」があった。
保存魔術の実験用。
魔物肉の性質調査。
それから、時々こうしてやってくる客人――客人? ……まあ、アウローラたちの胃袋を満たすため。
「さて、どれ出すかな……」
吊るされた肉を見比べながら、有羽は腕を組んだ。
「シャトーブリアン……カルビ……ロース……サーロイン……」
つぶやきながら、一つひとつに手を当て、状態を確かめていく。
「うーむ。あんまり贅沢させると、またスカウト激しくなる気がするんだよなぁ」
口ではそう言いながら、手はしっかり「高級部位」のほうへ伸びている。
有羽自身、自分の「甘さ」に薄々気づいていた。
初めて会った時のアウローラは、かなり酷かった。
心が擦り切れて、自棄になっていて、王族オーラを全開にしていて。
「私は王女だぞ!」を全身で主張していた。
森の奥に引きこもっていた有羽からすれば、正直「関わりたくないタイプ」の人間だった。
……それが、今では。
(なんだかんだで、もう二年か)
肉を台車に乗せながら、有羽は苦笑した。
最初の一ヶ月は、追い返すのに必死だった。
途中で、諦めの境地に達した。
そして雪が降り始めた冬の日に――客間を作っていた。
色々と思うところはある。
けれど――。
「……まあ、いいか。どうせなら美味いもん食って欲しいし」
自分にそう言い聞かせて、高級部位から順に切り出していく。
シャトーブリアン、サーロイン、ロース、カルビ。
スカウトに応じる気は、昔も今も、一切ない。
森から出るつもりも、王都で生きるつもりも、髪の毛ほどもない。
けれど――冷たく突き放す気持ちは、もうどこにも残っていなかった。
◇◇◇
夕闇が濃くなり、星がひとつふたつと空に灯る頃。
ログハウスの前では、大きな鉄板が据えられていた。
歪み一つ無く加工された、その鉄板は、どっしりとした重さと存在感を放っている。
森で採れた上質な鉄鉱石から、有羽が魔法で精錬したものだ。
実は、ただの鉄ではない。
「神鉄」。
鉱石の中でも最高峰とされる特級素材。
これに勝るのは、伝説の「オリハルコン」くらいのものだと言われている。
アウローラも、侍女も、護衛も――この鉄板が神鉄製であることを知っている。
初めて聞かされた時は、全員本気で卒倒しかけた。
(伝説級武具の材料で、焼肉鉄板を作るな……!)
王都の鍛冶師が聞いたら、間違いなく泡を吹くだろう。
だが、人は慣れる生き物だ。
今では、この鉄板を見ると――
「おお! 今日は焼肉か!?」
「やったぁぁぁぁ!」
と、大盛り上がりするだけである。
食い気は、全てに勝る。
鉄板の上で、白煙が立ち上り始めた。
魔導コンロで均一に加熱された神鉄製の鉄板は、まるで高級料理店の鉄板焼きのように、一定の温度を保っている。
そこに、有羽が薄く切られた肉を並べていく。
ジュウ、と音が弾ける。
脂が溶け出し、鉄板の上で踊る。
たちまち、香ばしい匂いが周囲を包んだ。
「おおおお……」
「すでに幸せ……」
護衛たちは、すでに箸を構えたまま固まっている。
アウローラは、涎を飲み込むのに必死だった。
「ソースは三種類。醤油ベースのやつと、塩ダレと、辛いの」
有羽は、テーブルの上に小さな器を並べる。
一つ目は、醤油をベースにした甘味のあるソース。
果実や香草を煮詰めて作ったらしく、湯気だけで食欲をそそる香りがする。
二つ目は、塩と柑橘と香草を混ぜた、さっぱりとした塩ダレ。
肉の脂を切り、旨味を引き立てるように調整されている。
三つ目は、赤い色をした辛味ソース。
森で採れた辛味草と香辛料を組み合わせた、後を引く辛さの一品だ。
「よし、じゃあ――焼けたやつから勝手に取って」
「待ちかねた!」
アウローラが、誰よりも早く箸を伸ばした。
鉄板の端に寄せられた、一番いい焼き加減の肉をつまみ上げる。
「ちょ、殿下、それ一番良い肉では――」
「早い者勝ちだ!」
醤油ベースのソースにくぐらせ、ひと口。
噛んだ瞬間、目の前が軽く白くなる。
柔らかい。
歯がいらないのでは、と思うほど柔らかいのに、噛めばしっかりとした弾力があり、肉の繊維がほどけながら、濃厚な旨味が舌の上に溢れてくる。
ソースは決して主張しすぎない。
肉の味を邪魔せず、むしろ奥行きを一段深くしてくる。
「……っは」
アウローラは、思わず息を吐いた。
「う、うま……」
言葉にならない。
ただ、美味いとしか言えない。
他の者たちも、続けざまに肉を口に運ぶ。
「これは……」
「ロースなのに、重くない……」
「カルビ……脂が甘い……」
特に、希少部位のシャトーブリアンは格別だった。
さすがに量が限られているため、一人一切れが限界だ。
護衛の分も、侍女の分も、公平に配れば、それ以上は出せない。
一切れを、皆が大事そうに口に運び、目を閉じた。
「幸せって、多分こういう瞬間のことを言うんだな……」
「殿下、あと十年は命を懸けてお守りする所存です……」
「有羽様、王都に来てくださいとは言いません。月一で通います……!」
「だから通うなって言ってるんだけどね?」
有羽は呆れたように言いながらも、鉄板の上に次々と肉を乗せていく。
そのうち、彼はふと思い出したように、台所へ引っ込んだ。
すぐに、琥珀色の液体が入った瓶と、小さなグラスを抱えて戻ってくる。
「そうそう。ちょっと試したいものがあるんだよね」
「……試したい?」
「ワイン。森で採れた果実で作った試作品」
アウローラの目がまた光る。
「ワイン……!」
「昨日、飲んでみたけど結構美味かった。まあ、王都暮らしの王女さんの口に合うかどうか知らんけど」
軽くそう言いつつ、グラスにワインを注いでいく。
毒見などという言葉を、誰も口にしない。
護衛も侍女も、もう二年の付き合いだ。
もし、有羽に害意があったなら――とうの昔に、自分たちはこの森の土になっていただろう。
それは、ここにいる全員が理解している事実だった。
だから、誰もためらわない。
「では――」
アウローラがグラスを取り、鼻先に近づける。
果実の香りと、ほのかな酸味、そして甘味を予感させる芳香が、ふわりと漂った。
一口、口に含む。
「…………」
全員が、固唾を飲んで見守る。
やがて。
「……なんだこれは」
アウローラの顔が、蕩けた。
「美味過ぎる……!」
舌の上で転がすたびに、果実の旨味が広がり、喉を通る時には、ほんのりとした熱と余韻が残る。
「肉との相性も……」
試しに、焼きたての肉を一切れ口に入れ、そのあとでワインを流し込む。
脂の甘さと、ワインの酸味が混ざり合い、香りと旨味が何倍にも膨れ上がる。
「最高の……かっぷりんぐ……」
思わず、王族らしからぬ言葉がこぼれた。
侍女たちも、護衛たちも、同じようにグラスを傾け、そして目を細める。
「これが試作品……?」
「王都の酒蔵、泣いていいと思います」
「殿下、これを国の専売品に――」
「ダメ」
アウローラは即座に切った。
「これは有羽の酒だ。勝手に国のものにはできん」
「殿下……」
護衛たちが、何とも言えない顔で笑う。
焼肉は、そこからもしばらく続いた。
肉が焼け、煙が夜空へと昇り、ワインがグラスの中で揺れる。
星が増え、森の闇が濃くなるにつれ、笑い声と話し声は、ますます賑やかになっていく。
ここから少し離れれば、相変わらず魔物たちが徘徊し、誰かが一歩踏み出し間違えれば命を落とす、危険な魔境の大森林。
けれど、この小さな広場だけは――
神鉄の鉄板と、熟成肉と、自家製ワインと。
世界一の引きこもり魔法使いと、その友人たちの笑い声で満ちた。
世界で一番、幸せで平和な場所である。
◇◇◇
夜の森は、昼とは違う静けさをまとっていた。
頭上には、枝葉の隙間から満天の星が覗き、森の奥からは、時折、遠くの咆哮が聞こえる。
だが、有羽のログハウスの周囲だけは、別の空間のように穏やかだった。
見えない壁が、世界を隔てている。
有羽が張り巡らせた結界は、空気の流れを整え、温度を一定に保つ。
この結界内には、有羽が許可した存在以外、足を踏み入れることができない。
王都の神官長ですら張れない、超級の結界魔術。
国のパワーバランスを崩しかねない、まさに「規格外」の防御。
護衛たちは、その結界の安心感を知り抜いている。
しかも、護衛達用の小屋も用意されてある。アウローラ達の、女性陣が寝泊まりする客間とは別に、男共の寝所として。
だがその上で、あえて護衛達は、外にテントを張る。
「せっかく野営の練習になるんですし」
「実戦の勘は、鈍らせたくありませんから」
そう言いながら寝床を整える彼らの頭上を、結界が静かに覆う。
星空の下、空気は涼しく、風は心地よい。
これだけで、十分だった。
◇◇◇
一方その頃、ログハウスの中では――。
「ロン」「リーチ」「ポン」「ドラ乗った……ふふ」
別の意味で、命のやり取りが繰り広げられていた。
テーブルの中央には、木製の卓。
四方には、すべすべとした白い牌が整然と並ぶ。
麻雀牌も卓も、有羽が魔法で作ったものだ。
硬度も重さも、ほぼ前世準拠――と本人は言っているが、この世界の職人が見たら間違いなく号泣する精度である。
そして、その卓を囲むのは。
「……何でトップが侍女二人なんだよ」
北家、有羽。
じとっとした目で、自分の手牌を見下ろしている。
東家と西家は侍女。
南家はアウローラ。
場は南二局。
トップ争いを繰り広げているのは、侍女二人だった。
アウローラ御一行は、この二年で麻雀のルールを完全に覚えた。
最初は「鳴く」「テンパイ」「フリテン」などの用語に頭を抱えていたが、今では立派な麻雀打ちである。
このゲームそのものを、王都に導入しようかどうか、アウローラは真剣に悩んでいる。
面白すぎるがゆえに、賭け事に利用されて問題が起きそうで――法整備案を考えながら寝落ちした夜も一度や二度ではない。
ともあれ、今は目の前の半荘が重要だった。
(不味い。不味すぎる)
有羽は、くわっと目を見開きかけて、ぐっとこらえた。
(まさか俺と王女さんがラス争いとは……しかし、この配牌、悪すぎる……!)
手の中には、ばらばらの数牌と、孤立した字牌たち。
形も悪ければ、ドラもない。どう考えても、逆転の未来が見えない。
一方、南家のアウローラも、眉間に深い皺を刻んでいた。
(ええい、何だこの配牌は。文字通りのクソ配牌! これでどうしろと……!?)
こちらも酷い配牌。何たるゴミ手。いっそもっと端牌が集まって国士狙い出来た方がマシ。
しかし、手を頑張って進めても、将来的に危険になる牌ばかりが手元に残る有様。
対照的に、侍女二人は冷静そのものだった。
東家の侍女が、静かな声で口を開く。
「ポン」
卓の上から白牌を掴み、卓隅に並べる。
早仕掛け。トップ目からの、逃げ切りを狙った速攻だ。
(鳴いた……! その点数からでも前に出てくるか……)
有羽が内心で唸る。
その後も東家は、チー、ポンと続けて三鳴き。
あっという間に漂う、聴牌気配。
すかさず、西家の侍女が、手牌をがしゃりと整える。
「リーチ」
ピシリ、と卓に一枚を叩きつける。
点棒が動き、場に一本棒が立つ。
その一言で、空気が変わった。
強い圧力。
トップの逃げ切りを許さない、追いかける者の鋭い目。
(その短くなった手牌で、逃げ切れるのか……?)
東家の侍女は、リーチに対しても表情を崩さない。動きが止まったのは一瞬だけ。すぐに手牌から一枚掴み、場に切り出していく。
怯えも恐れも無い。目の奥では「その程度で私を止められると思わないことね」とでも言いたげに光っていた。
そして、ラス争いの有羽とアウローラ。
なんと、どちらもまだ三シャンテン。話にならない。
しかも、明らかな安牌がない。
場に見えている牌は、どれも中途半端。
筋も通らなければ、壁も薄い。
(どうしろっちゅうんじゃ……)
有羽は、頭を抱えたくなる衝動を必死に抑えながら、自分の手牌を見つめる。
(オリるにも、オリきれない……。ここで無理に押せば、確実に誰かの餌。けど、このままじゃビリ確定……)
アウローラも、同じような葛藤に苛まれていた。
(この点差、この巡目……。ここで勝負を避ければ、ラスはほぼ確定。だったら――)
汗が一筋、こめかみをつたう。
(ここで、行くしかあるまい……!)
アウローラは、ぎゅっと手牌を握りしめた。
そして、ほんの少しだけ顔を上げる。
「……ええい、勝利の為には死地に赴く! 活路は前にこそあり!」
「やめろフラグを立てるな!」
有羽のツッコミが飛ぶが、アウローラの指は止まらない。
少し考え、場に一度も切れていない筒子をつまむ。
完全に「無筋」。
(通れ……!)
祈るような気持ちで、牌を卓に放った。
カタン。
「ロン」
静かな声。
東家の侍女が、ゆるく目を細める。
「ロン」
重なる、もう一つの声。
西家の侍女が、ニヤリと笑った。
「…………」
卓の時間が、一瞬止まった。
「ダブロン、ですね」
西家の侍女が、さらりと言う。
東家もまた、淡々と手牌を開いた。
どちらも、そこそこの打点。
東家は仕掛け混じりの手堅い和了。
西家はリーチドラと三色が付いた、高得点。
合計の支払いを計算し――。
「……王女殿下、飛びました」
有羽が、そっと告げた。
「南二局にて、ゲーム終了」
「今の一枚で終わるのか!?」
アウローラは、椅子からずり落ちかけた。
点棒はきれいに吹き飛び、アウローラの持ち点はマイナス領域へ。
南場の途中での終了――いわゆる「飛び」である。
結果は、東家の侍女がトップで逃げ切り。
西家の侍女は、悔しそうにしつつも、スコア的にはほぼ横並びの二着。
「くっ……最後の和了り、あそこで裏ドラが一枚でも乗っていれば逆転だったのに!」
「危ない所でした。紙一重の勝利とはまさにこのことですね」
侍女二人はどちらも白熱したトップ争いだった。
一枚でもズレていれば勝敗が変わった……そのレベルの熱い戦い。
だが、ラス争いしていた二人は違う。
有羽は、辛うじてラス回避。持ち点は見るも無残。
アウローラは、悲しき飛びラス。見る価値すら無い。
勝者と敗者のコントラストが、鮮やかすぎた。
「……」
有羽とアウローラは、しばし放心状態で牌を見つめていた。
沈黙を破ったのは、西家の侍女だった。
「しかし、殿下のあの牌、どう見ても危険牌だったのでは?」
「知っておった! 知っておったとも! だが行かねばならぬ時が、人にはあるのだ!」
「そういう大義名分で無筋を通そうとするの、やめてくれないかなぁ……」
有羽は、がっくりと肩を落とした。
「まあ俺も似たような状況だったから、完全に他人事じゃないけどね……。一歩間違えば、飛んでたの俺だし」
「ふふ……」
トップの侍女が、ささやかに笑う。
「本日の戦績。東家勝利、西家惜敗。北家かろうじて生存、南家……」
「その言い方やめろ」
「戦場で言えば、『死者一名、重傷者一名』というところでしょうか」
「もっとやめろ!」
アウローラは、やけになって牌をがらがらと集め始めた。
「もう一回だ! もう一半荘やる! 今度こそ、私がトップを取る!」
「殿下、明日も朝から出立ですよ?」
「殿下、さすがに夜更かしは……」
「うるさい! 負けたまま眠れるか!」
侍女たちは顔を見合わせ、ため息をつきながらも、牌を積み直し始める。
有羽も、苦笑しながらサイコロを手に取った。
「はいはい。じゃあ、これで最後ね。これ以上やるなら、明日の朝ごはん抜きにするから」
「それは死活問題だな……では、最後の一戦で決着をつけよう!」
「殿下が一番食に正直なんだよな……」
そんなやり取りが続く。
麻雀を王都に導入するかどうか。
賭け事対策の法整備をどうするか。
普段は頭を悩ませているアウローラも。
今この瞬間だけは、ただ一人の打ち手として、目の前の牌山だけを見つめていた。




